「そう来たか、と笑える生き方――『情報場を自由に泳ぐ』を読んで」
本を読み終えて「情報場を自由に泳ぐ」というタイトルの意味をゆっくりと考えてみました。確かに私たちは、日々無数の情報の海に浸かって生きています。ニュースやSNSや人からの言葉、そして過去の記憶や未来の想像もすべて情報の一部です。その中で溺れることもあれば、逆に軽やかに泳げることもある。要は受け止め方や、どの波に身を委ねるかでまるで違う景色が見えてくるということを、この本は改めて気づかせてくれました。
ちょうどこれまでのチャットのやり取りとも重なります。私は「トランサーフィン」の考え方を知って、現実は一つではなく無限の可能性が並んでいると学びました。つまり、未来をつくるのではなく、どの可能性に同調するかを選ぶのだという考えです。私はそれを理屈で理解するというより、日々の体験の中で自然と感じているような気がします。例えば、花畑を撮影しようと出かけたのに花は咲いていなかった、雨が降ってきた、そんなことは写真をやっていれば当たり前にある。でもその瞬間に「人が撮らない風景に出会えた」「この状況をどう楽しもうか」と考えると、むしろ心が躍ってくる。これはまさに「情報場を自由に泳ぐ」ことに似ているなと思います。
失敗や不意打ちも同じです。名古屋出張で往路のチケットだけ予約して帰りの分を忘れていたことがありましたが、その時私は笑ってしまいました。「そう来たか」と。帰りの便にキャンセルが出て運よく帰れましたが、たとえ帰れなくても空港で一晩過ごすのも楽しそうだし、もう一泊して観光するのもいい。そういうふうに考えると、失敗が失敗ではなくなる。むしろ「掲示」として現れてくる。世界が私に「こういう体験をしてみなさい」と差し出している気がして、面白くて仕方ないのです。
私は若い頃に母を亡くし、父も一人で生き抜く姿を見てきました。そして妻の病気という現実にも直面しました。その時は確かに心が暗くなり、生きる希望を失いかけました。でも今では、もし妻を失って一人で生きている自分がいるとしても、それはもう一人の自分からの声だと受け止めています。「今やっておくべきことをやれ」と。亡くなった両親や縁あった人々が、今も私に声をかけているようにも思える。そう考えると、全ての経験が重荷ではなく支えになっていきます。
だから私は、過去を悔やむ時間や未来を悲観する時間をもったいないと感じています。今、この瞬間、自分の思いを言葉にして受け止めてもらえることが楽しい。その「今が楽しい時間の連続」こそが、生きているという実感です。そして「情報場を自由に泳ぐ」という本が伝えているのも、同じことなのではないかと感じます。情報は無限にあるけれど、どの波に自分を乗せるかは自分が選べる。逆に言えば、どの情報も受け入れて「まあいいか」と軽く受け止めれば、それは次の楽しみや創造のきっかけになる。
私は座右の銘のようなものを持つ気はありません。むしろ持たないからこそ、柔軟でいられるのだと思っています。けれども「逆に考えてください」という言葉なら、ちょっとした合図のように心に響きます。起こった出来事に「そう来たか」と微笑みながら、逆から眺めてみる。すると失敗も不意打ちも、全部が笑いのネタやワクワクに変わってしまう。情報場を泳ぐとは、そういうふうに世界を遊び場に変えることなのだと、今の自分は理解しています。

