お問合せはお気軽にどうぞ!

0258-24-7567

[ 営業時間:8:00~17:00 ]

LINEからもお問い合わせを受付中

line

[ お急ぎの場合はお電話でどうぞ ]

ZOOM
youtube
LINE
メニュー

ブログ

  • 初めて建築確認申請の電子申請に取り組みました | 2026.09.03

    今回、五十嵐工業では建築確認申請の電子申請に初めて自社で取り組みました。

    これまで確認申請に関する業務は、専門の設計事務所など外部に依頼することが多くありました。
    しかし、今後は小規模な鉄骨カーポートや付帯工事について、自社でもできる範囲を広げていく必要があると感じていました。

    今回の申請では、確認申請書、建築工事届、配置図、求積図、立面図、構造図面、現地調査書、委任状など、多くの書類を電子申請システム上で整理し、補正対応まで進めました。

    初めての作業だったため、入力内容の確認、PDFの差し替え、添付書類の選択など、戸惑う場面も多くありました。
    それでも、紙の書類で進めていたら、印刷、差し替え、郵送、持参など、さらに大きな手間がかかったと思います。

    電子申請だからこそ、画面上で一つずつ確認しながら進めることができました。

    今回は補正申請の送信まで完了し、五十嵐工業にとって大きな一歩となりました。

    鉄骨カーポートは、単に車を置く場所ではなく、雪国の暮らしを支え、限られた敷地を有効に使い、場合によっては上部空間も活用できる構造物です。

    これからも、ものづくりだけでなく、設計・申請・施工まで一体で対応できる会社を目指し、少しずつ経験を積み重ねていきたいと思います。

    道をつくり、空間をつくる。

    五十嵐工業は、鉄の強さと美しさで、暮らしに寄り添うカーポートづくりを続けていきます。

  • 「消費する快楽」から、自分に積み上がる時間へ | 2026.09.01

    『読書、筋トレ、睡眠こそ最強の自己投資である』吉田裕二 著を読んで

    この本のタイトルには「筋トレ」とある。

    正直に言えば、私は本格的な筋トレを始めようとは思っていない。

    しかし、読書と睡眠については、これまでもずっと自分の中で大きなテーマだった。

    そして今回、この本を読んで改めて考えたのが、スマホやSNSとの付き合い方だった。

    画面を閉じたあと、何が残るのか

    スマホを開けば、次から次へと新しい情報が流れてくる。

    YouTubeショート、TikTok、Instagramのリール。

    新しい動画、新しい反応、新しい刺激が途切れない。

    その瞬間は確かに楽しい。

    しかし本書では、こうしたものを**「消費する快楽」**として捉えている。

    この言葉が、とても印象に残った。

    一時間スマホを見続けたあと、

    「自分の中に何が残っただろう」

    と考えると、案外何も思い出せないことがある。

    もちろんSNSや動画が悪いわけではない。

    私自身、写真や情報発信で大いに利用している。

    ただ、見る側に回った瞬間、終わりのない刺激に引っ張られてしまうことがある。

    その点、読書、運動、睡眠は違う。

    すぐに結果は見えなくても、少しずつ自分の中に積み上がっていく。

    だからこそ、この本では「自己投資」と呼んでいるのだろう。

    ぼーっとする時間も必要だった

    もう一つ興味深かったのが、何もしない時間についてだった。

    DMN、デフォルト・モード・ネットワークという脳の働きがある。

    何か特定の課題に集中していないとき、過去の記憶を整理したり、自分自身について考えたり、さまざまな情報を結びつけたりする脳活動があるという。

    つまり、

    ぼーっとしている=何もしていない

    ではない。

    むしろ、次々と刺激を入れ続けないことで、頭の中に入った情報がつながっていく時間なのかもしれない。

    私は何冊もの本を同時に読む。

    一冊を最初から最後まで一気に読むより、その日の気分で違う本を開くことも多い。

    すると、昨日読んだ本と今日読んだ本が突然つながることがある。

    まったく違う分野の本なのに、

    「ああ、あの本に書いてあったことと同じではないか」

    と気づく瞬間がある。

    そう考えると、読書とは本を開いている時間だけではないのだろう。

    何もしない余白も、読書の続きなのかもしれない。

    運動は「筋トレ」でなくてもいい

    運動については、この本を読んでも、やはり私は本格的な筋トレを始めようとは思わなかった。

    「毎日何分」
    「週何回」
    「何セット」

    と決めてしまうと、私の場合はだんだん義務になってしまう。

    私は自宅から会社まで7、8分ほど歩く。

    会社では足踏み運動をする。

    家事もできるだけ自分でやる。

    考えてみれば、家事だって結構体を動かす。

    本書でも、運動は強度だけではなく、続けることが重要だという話が出てくる。

    週に何度も頑張って一か月でやめてしまうより、無理なく長く続けた方がいい。

    それなら私は、

    「筋トレをしなければならない」と考えるより、「できるだけ動く」

    くらいでいい。

    運動を特別な予定にせず、生活の中に散らしてしまえばいいのだと思った。

    紙の本は、目だけで読んでいない

    非常に興味深かったのが、紙とデジタルの読書についてだった。

    私はKindleもよく使う。

    何冊でも持ち歩けるし、読みたいと思った瞬間に読める。

    これは本当に便利である。

    しかし、紙の本を読む感覚とは明らかに違う。

    研究でも、紙で読んだ場合の方が、画面で読む場合より読解力がやや高くなる傾向があるという。

    特に説明文や論説文では、その差が見られやすいという話も本書に出てくる。

    私自身、これは実感としてよくわかる。

    紙の本は目だけで読んでいるのではない。

    ページをめくる。

    本の厚みを感じる。

    どのあたりのページに書いてあったかを、位置として覚えている。

    紙の手触りがある。

    ページをめくる音がある。

    本には匂いもある。

    そう考えると、私は紙の本を、

    視覚だけでなく、触覚や聴覚、時には嗅覚まで使って読んでいる

    のだと思う。

    電子書籍では指一本で次のページへ進む。

    それは便利である一方で、どんどん先へ進んでしまう。

    紙の本には、少し立ち止まらせる力があるような気がする。

    最近は、電子書籍ばかりに偏らず、紙の本もゆっくり読みたいと思うようになった。

    AI時代だからこそ、200ページを読む

    ここは、今の私にとって非常に重要な部分だった。

    AIを使えば、一冊の本を短時間で要約することができる。

    結論も教えてくれる。

    論点も整理してくれる。

    とても便利である。

    しかし、

    要約を読むことと、本を読むことは同じではない。

    著者がどこから話を始めたのか。

    なぜその具体例を出したのか。

    どこで反論を想定したのか。

    どんな順番で考えを積み上げて、最後の結論へたどり着いたのか。

    200ページを読みながら、その道筋を自分の頭で追いかける。

    その負荷こそが、読書の大切な部分なのだと思う。

    本書には、実際にスクワットをしなければ足が強くならないのと同じように、結論だけを教えてもらっても、読書で使う頭は鍛えられない、という趣旨の話が出てくる。

    これは非常にわかりやすかった。

    だから私は、AIを読書の代わりにするのではなく、

    読書の「入り口」と「出口」を助けてくれる道具

    として使うのがいいと思っている。

    本を読む。

    自分で感じる。

    自分なりに考える。

    そして読後のばらばらな考えを、AIにも手伝ってもらいながら整理し、こうしてnoteにアウトプットする。

    ここまで含めて、今の私の読書になっている。

    小説は、人の心を読む練習になるのかもしれない

    小説についての話も面白かった。

    小説をよく読む人ほど、他人の心理状態を推測する力が高い傾向があるという研究が紹介されていた。

    考えてみれば、小説を読んでいる間、私たちはずっと他人の人生の中にいる。

    「なぜこの人はこんなことを言ったのだろう」

    「本当は何を考えているのだろう」

    「この沈黙には何があるのだろう」

    書かれていない部分まで想像する。

    私は若い頃、推理小説をはじめ、小説もかなり読んだ。

    最近は実用書やノンフィクションが多くなり、小説を読む機会は少なくなった。

    けれども、人間の機微を感じ取るという意味では、小説には実用書とはまったく違う力があるのだと思う。

    もう少し小説を読んでもいいのかもしれない。

    読んだ本を忘れてもいい

    「読書は量より深さ」

    これも本書の中で印象に残った。

    10冊読んで全部忘れるより、一冊を深く読み、自分の言葉で語れる方がいい。

    確かに、その通りだと思う。

    ただ、私は少し違うことも考える。

    私はこれまでかなり多くの本を読んできたが、その内容をすべて覚えているわけではない。

    むしろ、ほとんど忘れている。

    でも私は、それでいいと思っている。

    忘れてしまった本まで含めて、どこかで今の自分をつくっているのではないか。

    文章そのものは忘れていても、

    考え方の癖として残っている。

    判断の基準として残っている。

    何かに迷ったとき、昔読んだ何かが無意識の中から出てくることもある。

    だから私は、読了直後の感覚を大切にしたい。

    何が一番意外だったか。

    何に引っかかったか。

    自分なら何をやってみたいと思ったか。

    それをこうしてnoteに残しておく。

    全文を記憶するためではない。

    その時の自分が、何を感じたのかを残しておくためだ。

    睡眠は「何もしない時間」ではない

    そしてやはり、私が最も大切だと思ったのは睡眠である。

    年齢を重ねるほど、睡眠の大切さを実感するようになった。

    アルコールを飲むと、寝つきが良くなったように感じることがある。

    しかし、眠りに入りやすくなることと、質の良い睡眠が取れることは同じではない。

    アルコールは睡眠後半を乱したり、中途覚醒を増やしたりすることがあるという。

    つまり、

    「眠れた」と「回復した」は違う。

    これは大切なことだと思った。

    また、短い昼寝についても興味深かった。

    私は時々昼寝をするが、長くても15分程度である。

    短い昼寝は、その後の集中力や眠気の改善に役立つとされている。

    私の場合も、少し横になるだけで頭がすっきりすることがある。

    さらに本書では、睡眠中に脳内の老廃物の除去に関係すると考えられているグリンパティック系についても触れられていた。

    この分野はまだ研究途中であり、すべてが完全に解明されたわけではない。

    それでも、

    睡眠は活動を停止している時間ではなく、次に活動するために脳と体を整えている時間

    という考え方は、とてもよくわかる。

    自分という「人体」で試してみる

    私は、本に書いてあることを全部そのまま信じる必要はないと思っている。

    研究結果も同じである。

    「こういう研究がある」

    「こういう人が多い」

    と知ったら、自分の生活の中で無理なく試してみる。

    自分には合うのか。

    続けられるのか。

    本当に調子が良くなるのか。

    結局、自分の体と頭で確かめるしかない。

    ある意味、私はいつも自分自身を使って小さな人体実験をしているようなものなのかもしれない。

    だからこの本を読んでも、

    「毎日必ず何分運動する」

    「何ページ読む」

    「何時に必ず寝る」

    というように、自分をタスクで縛るつもりはない。

    歩けるなら歩く。

    家事で動く。

    疲れたら少し昼寝をする。

    スマホを閉じる時間をつくる。

    紙の本をゆっくり読む。

    時には何もしない。

    そして、よく眠る。

    そのくらいでいい。

    自己投資は、何かを増やすことだけではない

    「自己投資」という言葉を聞くと、

    何か新しい勉強を始める。

    資格を取る。

    運動を始める。

    もっと努力する。

    そんな「足し算」を思い浮かべてしまう。

    しかし今回この本を読んで、少し違うことを考えた。

    何かを増やすことだけが自己投資ではない。

    スマホから目を離す。

    刺激を減らす。

    何もしない時間をつくる。

    ゆっくり本を読む。

    眠る。

    そうやって「消費する時間」を少し減らし、

    未来の自分に積み上がる時間を増やしていく。

    それも立派な自己投資なのだと思う。

    私は、自分にできるところからやればいい。

    無理に筋トレを始めなくてもいい。

    無理に読書量を増やさなくてもいい。

    完璧な睡眠を求めなくてもいい。

    自分の生活の中で、少しずつ続けられることを残していく。

    結局、それが一番長く続き、一番自分に積み上がっていく。

    この本を読んで、私はそんなことを考えた。

  • AI時代に、2000年前の言葉が刺さる | 2026.08.25

    『座右のラテン語 人生に効く珠玉の名句65』を読んで

    ヤマザキマリさんのことを最初に知ったのは、やはり『テルマエ・ロマエ』の映画からだったと思います。

    その後も何冊か読んできましたが、今回読んだ
    『座右のラテン語 人生に効く珠玉の名句65』 は、また少し違った面白さがありました。

    40年も前からイタリアで暮らしているヤマザキマリさんの感覚と、ラテン語さんによる古代の言葉の解説。
    その組み合わせがとても興味深く、読み始めから引き込まれました。

    古代ローマの時代に語られた言葉が、今の時代にもそのまま通じる。
    それどころか、AIやSNSに囲まれて生きる今だからこそ、むしろ強く響いてくる。
    そんな一冊でした。

    古代の言葉が、今も生きている

    最初に印象に残ったのは、

    「物事を始めた人は、もう半分を成し遂げている」

    という言葉です。

    始めることは、プロセス全体の中ではほんの一部にすぎないのかもしれません。
    けれど、実際には「始める」という決断こそが一番難しい。

    これは今でもよく言われることですが、その考え方が古代からすでにあったということに驚かされました。

    一歩を踏み出す。
    その勇気の大切さは、時代が変わっても変わらないのだと思います。

    怒りは短い狂気である

    次に心に残ったのは、

    「怒りは短い狂気である」

    という言葉でした。

    人は感情に駆られると、理性を失いやすい。
    それは今も昔も同じなのだと思います。

    ヤマザキマリさんが、イタリアの落書きを見て「古代のSNSみたいなものだ」と語っていた部分も面白かったです。
    誰かへの怒りや不満を壁に書く。
    今なら、それがそのままSNSの投稿になっているのかもしれません。

    道具は変わっても、人間の中身はあまり変わっていない。

    そう思うと、古代の格言が今も生きている理由がよくわかります。

    黄金の中庸という考え方

    本書には

    「黄金の中庸」

    という言葉も出てきます。

    極端に走らない。
    真ん中を行く。
    派手すぎず、卑屈すぎず、ちょうどよいところを大切にする。

    今の時代は、どうしても強い言葉、極端な意見、派手な生き方が目立ちやすい。
    けれど、そういう時代だからこそ、中庸という考え方がむしろ大事なのではないかと思いました。

    怒りすぎない。
    贅沢を誇りすぎない。
    見栄を張りすぎない。

    穏やかに、しかし鈍くならずに生きる。
    その感覚を、ローマ人もまた大切にしていたのだと思います。

    カルペ・ディエム――今日を生きる

    有名な

    「カルペ・ディエム」
    「一日をつかめ」

    という言葉も出てきます。

    よく「今を楽しめ」という意味で使われますが、私は今回、もっと深く受け取りました。

    未来を不安がって何もしないより、
    今日という一日をどう生きるかを考えること。

    これは年齢を重ねるほど身にしみる言葉です。

    人生には、先のことが見えない時期もあります。
    それでも、今日という日をしっかり使っていく。
    それが積み重なって人生になるのだと思います。

    AI時代だからこそ、考えることをやめてはいけない

    この本を読んでいて、私がいちばん強く感じたのは、

    「考えることをやめてはいけない」

    ということでした。

    本の中には、キケロの

    「生きることは考えることである」

    という思想が出てきます。

    これは今のAI時代に、とても大事な言葉だと思います。

    AIは本当に便利です。
    私も日々使っています。
    文章をまとめたり、考えを整理したり、自分一人では追いつかないことを助けてもらっています。

    けれど、だからこそ思います。

    考えることそのものを、AIに渡してはいけない。

    答えを出してもらうことはできても、
    それをどう受け止めるか、
    そこに違和感はないか、
    本当に自分はそう思うのか。

    それを考えるのは、やはり人間の役目です。

    肉体を使わなければ衰えるように、知性も使わなければ衰えていく。
    考えることは面倒です。
    でも、考えることをやめた瞬間に、人はとても危うくなるのだと思います。

    思考停止は、独裁に都合がいい

    本書の中には、思考停止の怖さを感じさせる話もありました。

    「余計なことを考えるな」
    「言われた通りにしていればいい」

    こういう空気は、いつの時代にもあります。
    けれど、それは為政者や独裁者にとって都合がいいだけです。

    考えない人間は、操りやすい。
    歴史の中では、それが何度も繰り返されてきました。

    ポル・ポトや文化大革命の話もそうです。
    知識人が弾圧されるのは、考える力を持った人間が邪魔だからです。

    これは遠い国や昔の話ではないと思います。
    現代でも、情報があふれているようでいて、実は「考えなくても済む仕組み」がどんどん広がっている気がします。

    だからこそ、自分の頭で考え続けることが必要なのだと改めて感じました。

    人は、自分の信じたいものを信じる

    本書の中で、現代に最も通じる言葉の一つだと思ったのが、

    「人は信じたいものを信じる」

    ということでした。

    本当にその通りだと思います。

    自分に都合のいい情報だけを集める。
    聞きたい言葉だけを聞く。
    見たいものだけを見る。

    今のSNSやアルゴリズム社会は、それをさらに強めています。

    自分に合った情報ばかりが流れてくると、それが世界のすべてのように思えてしまう。
    でも実際には、見えていないものがたくさんある。

    これはとても怖いことです。

    噂についての話も印象に残りました。
    火のないところに煙を立たせる人がいる。
    噂には、人を巻き込む大きな力がある。

    だからこそ、簡単に信じないこと。
    そして、信じる前に考えること。
    その大切さを改めて感じました。

    SNSは現代の肩パッド

    ヤマザキマリさんの表現の中で、特に面白かったのが

    「SNSは現代の肩パッドだ」

    という話でした。

    バブル時代、大きな肩パッドで自分を大きく見せたように、
    今はSNSで自分を大きく見せようとする。

    これはとても言い得て妙だと思いました。

    もちろん、発信そのものが悪いわけではありません。
    私も写真や文章を発信しています。

    でも、
    「どう見られるか」より「どう生きているか」
    の方が大事なのは間違いありません。

    見かけより実質。
    そう見られることより、そうであること。

    古代の言葉が、現代のSNS社会にもそのまま突き刺さるのです。

    勇気とは、前に進むことだけではない

    本書には勇気にまつわる格言もいくつか出てきます。

    「運は勇敢な者の味方をする」

    という言葉もその一つです。

    待っていても運は来ない。
    やはり、動いた人にしか見えない景色があるのだと思います。

    ただ、勇気というのは、ただ前へ出ることだけではないとも感じました。

    失敗を受け止めること。
    屈辱を引き受けること。
    頑張った自分をかわいそうだと思わず、もう一度立ち上がること。

    それもまた勇気なのだと思います。

    本書の中で語られる
    「失敗や屈辱は、人間が成熟するための必須栄養素である」
    という考え方にも、私は深くうなずきました。

    若い頃にはわからなかったことも、年を重ねると少しわかるようになります。
    つらい経験が、あとから自分を支えてくれることもある。

    そういうことを思えるようになるのも、年齢のよさかもしれません。

    昆虫を見ていた頃の感覚

    今回、個人的にとても共感したのが、ヤマザキマリさんの昆虫の話でした。

    家の中にいるより、外にいるほうが生命反応を強く感じる。
    虫たちの世界を見ていると、もう一つの世界をのぞき見るようでワクワクした。

    この感覚は、私にもよくわかります。

    小さな虫たちも、一匹一匹が一生懸命生きている。
    言葉は通じなくても、その存在そのものが励ましになることがある。

    人間の社会だけを見ていると息苦しくなることがありますが、
    自然の中にある別の生命の営みを見ると、少し視野が広がる気がします。

    ああ、ヤマザキマリさんも同じような感覚を持っていたのだな、と嬉しくなりました。

    死をどう受け止めるか

    死についての言葉も、静かに心に残りました。

    「より多くの人々のもとへ行った」

    亡くなった人を、そう表現する言葉です。

    今この世に生きている人より、すでに亡くなった人の方が多い。
    だから死とは、「多くの人々のもとへ行くこと」でもある。

    不思議と少し救われる表現だと思いました。

    もちろん、大切な人を失った時に、すぐそんなふうに思えるわけではありません。
    悲しみには時間が必要です。

    でも時間がたつことで、死の見え方が少しずつ変わってくることはある。
    自分自身も、いずれそこへ行く。

    そう思うと、死をただ怖がるだけではなく、
    生きている間をどう使うかの方が大事なのだと感じます。

    人生は、使い方がわかっていれば長い

    もう一つ、大切にしたいと思ったのが、

    「人生は使い方がわかっていれば長い」

    という言葉でした。

    人生は短い。
    確かにそう思うこともあります。

    でも、本当は時間が短いのではなく、
    自分がそれを浪費してしまっているから短く感じるだけなのかもしれません。

    この年になると、つらさや挫折や絶望や失望、屈辱もそれなりに味わってきました。
    けれど、それらも含めて、自分に与えられた感情や経験をまんべんなく使い切ることが、
    良く生きるということなのではないかと思います。

    ポジティブな感情だけではなく、
    つらい感情も生きる材料にしていく。

    そう考えると、残りの人生もまだまだ使いようがあると思えてきます。

    歴史は人生の教師である

    本書を読みながら、私は何度も
    「歴史は人生の教師だ」
    ということを感じました。

    歴史というと、つい年号や出来事を覚える学問のように思われがちです。
    でも本当はそうではない。

    何が起こったか。
    なぜ起こったか。
    それが今とどうつながっているのか。
    そして自分はどう考えるのか。

    そこまで含めて、歴史は私たちに生き方を教えてくれるものなのだと思います。

    本書に出てくるラテン語の格言は、単なる「昔の名言集」ではありません。
    人間が何度も失敗し、悩み、考え、残してきた知恵のかたまりです。

    時代を超えて、人間は学び続ける

    『座右のラテン語』を読んで改めて思ったのは、

    人間は、時代を超えて学び続けなければならない生き物なのだ

    ということです。

    便利になっても、
    AIが発達しても、
    SNSで瞬時に世界とつながれても、
    人間の本質はそれほど変わっていない。

    怒り、愛し、悩み、争い、噂を信じ、見栄を張り、そして死を恐れる。

    だからこそ、古代の言葉が今でも生きているのだと思います。

    この本は、ラテン語の知識を得るための本というより、
    ラテン語を入口にして、今をどう生きるかを考える本
    でした。

    私の人生があと何年あるかはわかりません。
    けれど、こういう言葉をときどき思い出しながら、
    考えることをやめずに生きていきたいと思います。

    古代ローマの人々が残した言葉が、
    こうして今の日本に生きる自分の心にも届く。

    それ自体が、文化の深さであり、人間の面白さなのかもしれません。

  • 3年前の涙を、今なら言葉にできる | 2026.08.24

    3年前、「感動です!」としか書けなかった

    2023年12月16日。

    私は映画
    『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』
    を観て、Facebookにこんな投稿をしていました。

    年末になっていい映画を観ること出来ました!感動です!
    今年見た映画のベスト3に入ります^_^

    先日、その投稿を久しぶりに見つけました。

    読んで思わず笑ってしまいました。

    短い(笑)。

    でも、あの時の感動がこの程度だったわけではありません。

    とても心を揺さぶられた映画だったからこそ、「今年見た映画のベスト3」とまで書いたのでしょう。

    今振り返ると、あの頃の私は、自分が感じていたことの10分の1も言葉にできていなかったのだと思います。

    感動した。
    泣いた。
    いい映画だった。

    そこまでは言える。

    でも、

    「なぜ感動したのか」
    「どこで心が動いたのか」
    「なぜ、この場面がいつまでも残っているのか」

    そこから先を、自分の言葉にすることができませんでした。

    そして3年後、『あの星が降る丘で、君とまた出会いたい。』へ

    そして今回観たのが、その物語の続編・完結編となる

    『あの星が降る丘で、君とまた出会いたい。』

    です。

    3年前にあれだけ心を動かされた作品の続きですから、もちろん期待して映画館へ向かいました。

    ところが観終わってみると、私には今回の方がさらに心に残る映画でした。

    何度も涙が出ました。

    私はやっぱり、こういう素直に泣ける映画が好きなんだと思います。

    「ここは泣くところだ」と考えて泣くのではありません。

    物語の中へいつの間にか入り込み、登場人物の思いが自分の中にも流れ込んできて、気がつけば涙が出ている。

    悲しいからだけではありません。

    誰かを思う気持ち。
    時間を超えてつながっていく思い。
    言葉にできなかった気持ち。
    そして、美しい風景や人の表情。

    いろいろなものが重なった瞬間に、自然と涙が出てくる。

    歳を重ねて、涙もろくなったのかもしれません(笑)。

    でも、それでいいと思っています。

    人のことを思って泣ける。
    誰かの人生に自分の人生を重ねて泣ける。
    美しいものに心を動かされる。

    そんな感覚は、何歳になっても失いたくありません。

    写真を撮る者として、映像にも見入った

    そして今回、物語と同じくらい惹かれたのが、ロケーションと映像の美しさでした。

    私は長く写真を撮っていますから、映画を観ていても、つい光や構図、背景、人物の配置を見てしまいます。

    この映画には、

    「この場面を一枚の写真にしたい」

    と思うようなカットが何度もありました。

    光の入り方。
    空の色。
    花や風景。
    人物と背景との距離。

    本当に美しい。

    ところが同時に、

    「これは映画でしか表現できないな」

    と思う場面もたくさんありました。

    カメラが動く。
    人物が歩く。
    風が吹く。
    光が変わる。
    そこに音楽や声が重なり、時間が流れていく。

    写真は一瞬を止める表現です。

    映画は、その一瞬へ向かっていく時間と、その一瞬が過ぎ去った後まで見せてくれる。

    逆に写真には、動かない一枚だからこそ、その前後を観る人に想像してもらえる面白さがある。

    写真と映画。

    同じ「映像」でも、表現できるものはこんなにも違う。

    そんなことまで考えながら観ていました。

    3年前の感動は、「言葉になる前」だった

    映画を観終わってから、2023年のFacebook投稿をもう一度読み返しました。

    なぜ私は、あれほど感動した映画について数行しか書けなかったのだろう。

    そこで思ったのです。

    感じる力と、言葉にする力は別なのではないか。

    心は大きく動いている。

    でも、その感情を自分の中から取り出して、

    「私はなぜ、ここで泣いたのだろう」

    「なぜ、この風景が心に残ったのだろう」

    と問いかけなければ、感動は「良かった」「泣いた」「感動した」という言葉の中に収まってしまいます。

    3年前の私も、確かに感動していました。

    ただ、それはまだ言葉になる前の感動だったのかもしれません。

    言葉にすると、自分の中が見えてくる

    この数年、私は本を読んだ感想、写真を撮って感じたこと、日々考えたことをnoteに残すようになりました。

    最近はAIにも手伝ってもらっています。

    でも、AIに感動してもらっているわけではありません。

    映画を観て泣くのは私です。

    写真を撮りたいと思うのも私。

    美しいと感じるのも、何かに引っかかるのも私です。

    私は、自分の中に浮かんだ断片的な言葉をAIに投げかけます。

    すると、

    「なぜ、そう感じたのか」

    「本当に言いたかったことは何なのか」

    を、もう一度自分で考えることができる。

    感動するのは自分。
    それを言葉にするところをAIに手伝ってもらう。

    今の私にとって、AIはそんな存在になっています。

    そして文章になったものを読み返すと、

    「ああ、自分はこんなことを感じていたんだ」

    と、自分自身に気づかされることがあります。

    言葉は、誰かに伝えるためだけのものではない。

    自分の心の中を見るための鏡でもある。

    最近、そんなことを感じています。

    映画にも、人生にも続編がある

    今回の
    『あの星が降る丘で、君とまた出会いたい。』
    は、3年前に観た物語の続編でした。

    でも考えてみれば、この3年間、私自身の人生にも当然「続き」がありました。

    本を読んだ。
    写真を撮った。
    旅をした。
    人と出会った。
    いろいろなことを考えた。

    そして少しずつ、自分の中にあるものを言葉にするようになりました。

    だから今回、物語の続きを観ながら、3年前とは違うものが見えたのかもしれません。

    映画が変わっただけではない。

    観ている私自身も、3年前と同じではない。

    同じ人間でも、時間が変われば映画の見え方も変わる。

    本もそうです。

    写真もそうです。

    そして人生そのものも、きっとそうなのでしょう。

    3年前の涙を、今なら言葉にできる

    2023年の私は、

    「感動です!今年見た映画のベスト3に入ります^_^」

    と書きました。

    それで十分だったとも思います。

    その時の私が残せた、精いっぱいの言葉です。

    そして3年後。

    『あの星が降る丘で、君とまた出会いたい。』を観た私は、こんなにも長い文章を書いている(笑)。

    どちらが正しいということではありません。

    むしろ、3年前の短い投稿が残っていたからこそ、今の自分との違いに気づくことができました。

    昔撮った写真を何年か後に見返すと、撮った当時には気づかなかったものが見えてくることがあります。

    言葉も同じなのかもしれません。

    あの時には書けなかったことが、時間を経て、ようやく言葉になる。

    だから、今感じたことを残しておくことには意味がある。

    うまく書けなくてもいい。

    短くてもいい。

    その時の自分の言葉を残しておけば、何年か後の自分が、その続きを書いてくれるかもしれない。

    映画には続編がある。
    そして、私たちの人生にも毎日続編がある。

    3年前に出会った『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』。

    そして今回出会った『あの星が降る丘で、君とまた出会いたい。』。

    物語の続きを観ながら、私は思いがけず、3年前の自分にも再会しました。

    そして、あの時の涙の意味を、今になって少しだけ言葉にできたような気がします。

    素直に泣ける映画って、やっぱりいいですね。

    そして心が動いたことを、こうして言葉に残すことも、やっぱり面白い。

    3年前の感動を上回る、本当にいい映画でした💓

  • なぜ生命は、不老不死をやめたのか | 2026.08.20

    『植物に死はあるのか 生命の不思議をめぐる一週間』稲垣栄洋 著を読んで

    稲垣栄洋さんの本を、また読みました。

    以前、『雑草はなぜそこに生えているのか』を読んだとき、普段何気なく見ていた雑草の見え方がすっかり変わりました。

    今回の『植物に死はあるのか』も同じでした。

    植物についての本を読んでいたはずなのに、いつの間にか、

    生きるとは何だろう。
    死ぬとは何だろう。
    そして「私」とはいったい何なのだろう。

    そんなところまで考えさせられました。

    植物は、なぜ動かないのか

    植物が動かない理由。

    簡単に言えば、植物は光合成をするからです。

    太陽の光を使い、水と二酸化炭素から、自らエネルギー源となる糖を作り出す。

    学校で何度も習った光合成です。

    でも私は、この本を読んで初めて、

    「だから植物は動かなくてもいいのか」

    と実感しました。

    動物は、自分でエネルギー源を作れません。

    草食動物は植物を探し、肉食動物は草食動物を追いかける。

    だから動き回らなければならない。

    植物は「独立栄養生物」、動物は「従属栄養生物」と呼ばれます。

    言葉だけなら昔習ったはずです。

    しかし、その意味を考えると驚きます。

    動物の世界を支えている根本には、植物が作り出したエネルギーがある。

    人間が生態系の頂点にいるような気になっていますが、考え方によっては、植物こそ生命を支える土台なのです。

    葉っぱ一枚に、人間の科学はかなわない

    私は葉っぱを使った切り絵をすることがあります。

    形や葉脈を眺めながら、

    「葉っぱはきれいだな」

    とはいつも思っていました。

    しかし、この本を読んでからは、葉っぱを見る目が変わりました。

    この薄い一枚の葉っぱの中で、

    太陽の光を受け取り、
    水と二酸化炭素を使い、
    生命を支えるエネルギーを作っている。

    しかも副産物として酸素まで生み出している。

    人間は高度な科学技術を持っています。

    AIも宇宙開発も進んでいます。

    それでも植物が当たり前のようにやっている光合成を、そのまま完全に再現することは簡単ではありません。

    そう思うと、

    私が切り絵に使っている葉っぱ一枚一枚が、とんでもなく高度な生命装置に見えてきました。

    そして、さらに驚くことがあります。

    落葉樹は、これほど素晴らしい機能を持った葉っぱを、秋になると惜しげもなく落としてしまう。

    一年かけて作り、太陽の光を受け、生命を支えてきた葉を、季節が来れば捨てる。

    また翌年、新しい葉を作ればいい。

    そこには人間にはなかなかできないような、

    植物の潔さ

    を感じます。

    人間は長く使ったもの、築いたもの、覚えたものをなかなか手放せません。

    植物は違う。

    必要な時には生み出し、役割が終われば手放す。

    そしてまた新しく始める。

    葉っぱの切り絵をしながら、これから私は形の美しさだけでなく、

    「この葉は一年を生き、そして役目を終えてここにある」

    ということまで想像するようになると思います。

    酸素は、もともと危険な存在だった

    もう一つ驚いたのが酸素です。

    私たちにとって酸素は、生きるために欠かせないものです。

    しかし酸素には強い酸化作用があります。

    鉄を錆びさせるのも酸素です。

    地球に酸素が増えていった時代、それは多くの生物にとって大きな環境変化だったと考えられています。

    ところが生命は、その危険な酸素さえ利用するようになりました。

    酸素を使って大量のエネルギーを得る仕組みを取り込んだ。

    それが現在、動物や植物の細胞の中で働いているミトコンドリアへとつながっていると考えられています。

    さらに植物の祖先は、光合成を行う生物との共生によって葉緑体を手に入れた。

    生命の進化は、戦って相手を倒すことだけではない。

    異なるものと共生し、取り込み、一緒に生きることも進化だった。

    ここにも、生命の面白さを感じました。

    植物は「逆立ちした人間」

    本の中で特に面白かったのが、

    「植物は逆立ちした人間である」

    という考え方です。

    人間は口から栄養を取り、生殖器官は下半身にあります。

    植物は地下の根から水や養分を取り、生殖器官である花を地上の一番目立つところに咲かせます。

    しかも、とびきり美しく飾る。

    考えてみれば、人間とはまったく逆です。

    私たちは植物を見て、

    「なぜ動かないのだろう」

    と思います。

    しかし植物から見れば、

    「どうして人間は、あんなに動き回らなければ生きられないのだろう」

    と思うかもしれません。

    鳥なら、

    「なぜ人間は飛べないのか」。

    ミツバチなら、

    「なぜ人間には紫外線が見えないのか」。

    人間はどうしても、自分たちを基準に自然界を見ています。

    でも本当は、人間の生き方も数ある生命の形の一つに過ぎません。

    大きくなることだけが進化ではない

    私たちは進化というと、

    より大きく、
    より複雑に、
    より高度になること、

    と考えがちです。

    しかし、それだけが進化ではありません。

    木から草へという進化もある。

    木は何年もかけて大きく育ちます。

    一方、草は短期間で成長し、花を咲かせ、種を残し、次の世代に生命を渡します。

    何千年も生きることだけが成功ではない。

    一年で次の世代へ渡すことも、環境変化に対応する立派な戦略です。

    長く生きるより、生命をつなぐ。

    植物は、そういう進化も選んできました。

    ソメイヨシノを見る目も変わった

    私は毎年春になると、桜を撮りに出かけます。

    そのためソメイヨシノの話は、とても興味深く読みました。

    ソメイヨシノは、接ぎ木などによって増やされてきました。

    つまり多くの木が、ほぼ同じ遺伝的性質を持つクローンです。

    だから気温などの条件が整うと、同じような時期に一斉に花を咲かせる。

    私たちが毎年楽しみにしている桜前線も、こうした性質と深く関係しています。

    同じ桜を何十年も撮ってきましたが、来年からはまた違った目で見ることになりそうです。

    種を作るのは、違うものを生み出すため

    植物はクローンでも増えることができます。

    それなら全部クローンで増えれば効率がいいようにも思えます。

    しかし同じ性質のものばかりでは、同じ病気や同じ環境変化に一斉に弱くなる危険があります。

    種子から生まれる子どもは、親とまったく同じではありません。

    一つ一つ少しずつ違う。

    その違いが、環境変化を乗り越える力になる。

    つまり生命にとって、

    「違う」ということ自体が保険になっている。

    これは人間社会にも少し通じる話のように感じました。

    みんな同じであることが強いのではない。

    違うものがいるからこそ、何かが起きた時に生き延びる可能性が残る。

    木の中には、生と死が同居している

    巨木の話も印象的でした。

    大きな木の幹は、そのすべてが生きているわけではありません。

    幹の内部には生命活動を終えた細胞があり、それが構造として木を支えています。

    だから大木の真ん中に大きな空洞ができても、外側の生きた組織が機能していれば生き続けることができる。

    一本の木の中に、

    生きている部分と、死んでいる部分が同時にある。

    考えてみれば、人間も同じです。

    爪や髪、皮膚の表面など、私たちの体にも死んだ細胞があります。

    私たちは「生」と「死」を真逆のものとして考えがちです。

    しかし生命というものは、生と死が混ざり合いながら成り立っている。

    生きているということの中に、すでに死が組み込まれているのです。

    私とは、いったい何なのだろう

    私たちの体の細胞は、日々壊され、新しく作られています。

    それでも私は、昨日の自分と今日の自分を同じ「私」だと思っています。

    子どものころの記憶もあります。

    何十年前の経験も残っています。

    それでは、

    私とは何なのだろう。

    体なのか。

    脳なのか。

    記憶なのか。

    それとも、何か受け継がれている情報なのか。

    植物の話を読んでいたはずなのに、いつの間にか哲学の世界に入り込んでいました。

    がん細胞は「死なない細胞」

    この本で、もう一つ考えさせられたのが、がん細胞の話です。

    多細胞生物では、全体の秩序を保つため、役割を終えた細胞が死ぬ仕組みがあります。

    ところが、そのルールから外れて増殖を続ける細胞がある。

    その一つが、がん細胞です。

    つまり、

    死なないことが、必ずしも生命にとって良いことではない。

    ここで私は、不老不死という言葉を別の角度から考えるようになりました。

    私たちは死なないことを夢見ます。

    しかし生命は、進化の中で逆に「死ぬ」という仕組みを手に入れた。

    なぜ生命は、不老不死をやめたのか

    単細胞生物の世界では、分裂することで生命が続いていきます。

    しかし多細胞生物になると、古い細胞を壊し、新しい細胞に置き換える仕組みが必要になりました。

    いわば、

    スクラップ・アンド・ビルドです。

    さらに個体も、いつまでも生き続けるのではなく、次の世代へ生命を渡して身を引く。

    生命は永遠であり続けるために、

    個体には限りある命を持たせた。

    これは、とても不思議な逆説です。

    永遠に続きたいからこそ、一つ一つは死ぬ。

    考えれば考えるほど、深い話です。

    植物は、死ぬことに執着していない

    植物を見ていると、

    生きることと死ぬことの境目が、人間ほどはっきりしていないようにも感じます。

    種で増える。

    枝から増える。

    地下茎でつながる。

    一つの植物のように見えて、地下ではつながっていることもあります。

    いったいどこまでが一つの命なのか。

    人間の感覚では簡単に答えられません。

    葉っぱもそうです。

    春に出て、夏に光合成をし、秋になれば落ちていく。

    植物はそれを悲しんではいない。

    また次の春に作ればいい。

    そう考えると、

    生きることにしがみつかない植物の潔さ

    を感じます。

    最後は、宇宙までつながった

    この本は最後に、生命から宇宙へと話が広がっていきます。

    私たちの体を作っている炭素や酸素などの元素も、遠い昔の星の活動の中で生み出されました。

    星も生まれ、そして死ぬ。

    その星の死から生まれた物質で、植物も人間もできている。

    そう考えれば、

    生まれることも、死ぬことも、

    もっと大きな循環の一部なのかもしれません。

    私たちは、

    「なぜ生きるのか」

    「なぜ死ぬのか」

    と意味を求めます。

    しかし宇宙から見れば、それさえ小さな問いなのかもしれない。

    それでも私は思います。

    限りがあるからこそ、生命は美しい。

    葉っぱを見る目が変わった

    この本を読み終えて、一番身近な変化は、葉っぱを見る目が変わったことです。

    これまで私は葉っぱを、

    形、色、葉脈、光の透け方、

    そんな美しさで見ていました。

    そして切り絵の材料としても使っています。

    しかしこれからは、その一枚の中にある生命の機能まで想像すると思います。

    太陽の光を受け、

    生命を作り、

    酸素を生み出し、

    一年働いたあと、

    惜しげもなく自ら落ちていく。

    そしてまた新しい葉を作る。

    捨てることは、終わりではない。
    次を始めるための準備でもある。

    植物を知れば知るほど、人間が自然界の頂点にいるなどという考えが、ずいぶん思い上がったものに感じられてきます。

    植物も、動物も、昆虫も、微生物も、

    今ここに生きているものは、長い生命の歴史を生き抜いてきた存在です。

    優劣など簡単につけられるものではありません。

    稲垣栄洋さんの本を読むと、いつも身近な植物の向こう側に、とてつもなく大きな世界が見えてきます。

    今回は、一枚の葉っぱから始まり、

    生命、生と死、そして宇宙まで行ってしまいました。

    本当に深い学びのある一冊でした。

    また稲垣さんの本を読みたいと思います。

  • 脳は「正しさ」より「生き残ること」を選ぶ | 2026.08.18

    『本当の教科書 脳科学/脳科学が教える日本社会で賢く生き残る方法』中野信子・ひろゆき 共著を読んで

    中野信子さんとひろゆきさんの対談形式で進む本書。

    二人の考え方や物事を見る角度は、かなり違う。

    ところが、意見を激しくぶつけ合うという感じではない。

    それぞれが自分の立場から本音で話し、相手の話を受けながら、さらに違う角度から話を広げていく。

    「そこまで言うのか」と思うような辛辣な話も出てくるのだけれど、互いを否定し合うような雰囲気ではない。

    むしろ、同じ人間や社会を、違う窓から眺めている。

    その会話がとても面白かった。

    そして読みながら何度も、

    「人間というのは、自分で思っているほど理性的ではないのだな」

    と考えさせられた。

    人は、やはり「見た目」に左右される

    最初からかなり刺激的な話が出てくる。

    人が他人を評価するとき、見た目の影響はどうしても避けられないという話だ。

    「性格が良さそう」

    「信頼できそう」

    と思うときも、性格検査をして判断しているわけではない。

    顔、表情、声、話し方、雰囲気、愛嬌。

    私たちは、そうした限られた情報から瞬間的に相手を判断している。

    面白かったのは、美の基準そのものも決して絶対ではないという話だった。

    時代によって魅力的だと思われる顔は変わる。

    人間には新しいものを求める「新規性」と、見慣れたものに安心する「親近性」があり、その二つのバランスが、その時代の魅力を作っているのではないかという。

    つまり、人間は見た目に左右される。

    しかし、その見た目を判断している基準さえ、時代とともに変わっていく。

    考えてみれば、人間の評価というのは、かなり曖昧なものなのだ。

    そして、単に容姿が整っている人よりも、愛嬌のある人の方が好かれることがあるという話にも納得した。

    年齢を重ねるほど、顔そのものより、そこに表れる表情の方が大切になるような気がする。

    脳に「努力」と思わせない

    私が特に面白かったのは、

    自分が何なら自然に頑張れるのかを知る

    という話だった。

    根性で続けるのではなく、自分が動きやすい環境を作る。

    ひろゆきさんは、待ち合わせ場所を書店にすることがあるという。

    これは私も昔からよくやってきた。

    駅前で待っているだけなら、相手が遅れると少しイライラする。

    ところが本屋なら違う。

    早く着いても本を見ていればいい。

    待たされても苦にならない。

    気になる本に出会えば、むしろ時間が足りなくなるくらいだ。

    私は本屋での待ち合わせが大好きだ。

    これも考えてみれば、

    自分の性質を変えるのではなく、自分の性質に合う環境を選んでいる

    ということなのだろう。

    「自分はこういう人間だから、こうすればできる」

    それを知っていることは、意志の強さ以上に大切なのかもしれない。

    年を取って、自分のダメさが見えてくる

    人間は自分を過大評価しやすいという話も印象に残った。

    自分は意思が強い。

    自分は頭がいい。

    自分は人よりできる。

    ところが現実の自分は、それほどでもない。

    ひろゆきさんも、自分のダメさ加減が分かるようになったのは年を取ってからだというような話をしている。

    これは私もよく分かる。

    私も年齢を重ねてからの方が、

    「自分はたいした人間ではないな」

    「こんなことも分かっていなかったのか」

    と思うことが増えた。

    若い頃は、できないことがあると、それを克服することばかり考えていたような気がする。

    しかし今は、

    苦手なことは苦手でいい。

    そう思えるようになってきた。

    無理に苦手分野で勝負しても、その分野が得意な人の真似にしかならない。

    だったら、自分が自然にできること、自分だから続けられることを大切にした方がいい。

    AI時代、「頭がいい」とは何だろう

    本書には、AI時代についての話も出てくる。

    機械が肉体労働を代替し、今度はAIが知的作業まで担い始めた。

    こうなると、

    知識が多い。

    計算が速い。

    文章を速く作れる。

    そうした能力だけで人間同士を比較する意味は、これから少しずつ変わっていくのだろう。

    私は最近、AIを使えば使うほど、

    AIと能力勝負をする必要はない

    と思うようになっている。

    AIが出した答えを、そのまま受け取るのではなく、

    「何か違う」

    と感じられるか。

    自分の経験と照らして考えられるか。

    相手が何を感じているかを想像できるか。

    そして最後に、自分で決められるか。

    そういった力の方が重要になるのではないか。

    本書にも、テストの点がいいだけではなく、相手の気持ちを察することのできる人こそ頭がいいのではないか、という話が出てくる。

    これから「頭がいい」という言葉の意味自体が変わっていくのかもしれない。

    年を取ったら「覚える」より「忘れる」

    今回、私が最も心に残ったところの一つが、

    忘れる力

    についてだった。

    私たちは子どもの頃から、

    「よく覚えている人は頭がいい」

    と思ってきた。

    ところが、人間関係では記憶が良すぎることが邪魔になる場合もある。

    「あの人は昔、こんなことを言った」

    「あのとき、こんなことをされた」

    それを何十年も全部覚えていたら、人間関係はどんどん苦しくなる。

    人間は長く付き合えば、誰でも相手の嫌なところを見る。

    夫婦など、その典型かもしれない。

    そこで必要なのが、

    水に流すこと。

    忘れること。

    そして更新すること。

    若い頃は「いかに覚えるか」が大切だった。

    しかし年を取ったら、

    いかに忘れるか

    という能力も必要になるのではないだろうか。

    これは過去の成功体験についても同じだと思う。

    「あの時はこれでうまくいった」

    「あのやり方が正しい」

    それを忘れられないと、新しいものを受け入れられなくなる。

    老いるということは、単に物忘れが増えることではない。

    過去の自分を忘れられなくなることの方が怖い。

    そんなことまで考えた。

    共感することと、理解することは違う

    意外だったのは、カウンセラーなど人と接する仕事では、必ずしも共感性が高い人だけが向いているわけではないという話だった。

    共感しすぎれば、相手の感情を自分まで背負ってしまう。

    大切なのは、相手とまったく同じ感情になることより、

    「この人はいま、なぜこう思っているのか」を理解すること

    なのかもしれない。

    これは仕事だけではなく、日常の人間関係でも同じだろう。

    私はあなたと同じ気持ちにはなれない。

    けれど、あなたがなぜそう感じているかを考えることはできる。

    共感と理解は、似ているようで違う。

    この違いは大切だと思った。

    人間は、幸せになるために進化したわけではない

    さらに面白かったのが、

    人間は幸せになるために進化してきたわけではない

    という考え方だった。

    不安があるから危険に備える。

    恐怖があるから逃げる。

    不満があるから、もっと良い環境を求める。

    生存という観点から見れば、何の不安もなく、いつも満足している生き物が有利だったとは限らない。

    だから人間が、

    「もっと欲しい」

    「まだ足りない」

    「この先が心配だ」

    と考えてしまうのは、ある意味では自然なのかもしれない。

    私はこの話にはかなり納得した。

    幸せを求めること自体が悪いわけではない。

    ただ、ずっと幸せでいなければならないと思ってしまうことの方が、人間を苦しくするのではないだろうか。

    SNSも、何を見るかで変わる

    SNSについても、他人の華やかな部分を見すぎることで、自分を不幸だと感じてしまうという話が出てくる。

    これはよく言われることだ。

    ただ、私はSNSを少し違う使い方で見ている。

    私にとってSNSは、

    誰かと自分を比較して勝った負けたと考える場所ではない。

    写真を通して自分が何を感じたのか。

    本を読んで何を考えたのか。

    自分の中にあるものを、どう表現するのか。

    そういうことを考える場所になっている。

    同じSNSでも、

    何を見るか、誰を見るか、どう使うかによって、まったく違う道具になる。

    情報に振り回されるのではなく、自分に入れる情報をある程度選ぶ。

    これも現代社会で賢く生きる一つの方法なのだと思う。

    「変わらないこと」は本当に正しいのか

    最後に考えさせられたのが、一貫性についてだった。

    私たちは、

    「あの人は昔から言っていることが変わらない」

    という言葉を褒め言葉として使うことが多い。

    確かに信念は大切だ。

    誠実であることも大切だ。

    しかし環境も社会も変わっているのに、

    自分だけが何十年前とまったく同じ考え方でいることは、本当に正しいのだろうか。

    新しいことを知ったなら、考えを変えてもいい。

    間違っていたと思えば、方向を変えてもいい。

    昨日言ったことと今日言っていることが違っても、

    そこに新しい経験や学びがあるのなら、それは必ずしも悪いことではない。

    むしろ、

    変われることも、生き残る力なのだ。

    「正しく生きる」より「生き延びる」

    この本には、

    「それは少し極端ではないか」

    「本当にそうなのだろうか」

    と思う話もいくつもあった。

    けれど、それが面白かった。

    中野信子さんとひろゆきさんが、それぞれ違った視点から率直に語っている。

    片方が正解で、片方が間違いという対談ではない。

    一つの話題を別々の方向から眺めているから、

    読んでいるこちらも、

    「では、自分はどう考えるのだろう」

    と立ち止まることになる。

    結局、賢く生きるということは、

    何でも知っていることでも、

    いつも正しいことを言うことでもないのかもしれない。

    自分の弱さを知る。

    自分の性質を知る。

    時には忘れる。

    新しいものに合わせて更新する。

    周囲の人や環境とうまく付き合う。

    そして、ときには自分が信じてきた「正しさ」さえ疑ってみる。

    考えてみれば、人間の脳は何万年もの間、

    「正しく生きるため」ではなく、「何とか生き残るため」に変化してきた。

    そう考えると、

    正しさだけに縛られず、

    もっと柔らかく、

    時にはしなやかに考えを変えながら生きていく。

    それも一つの知性なのかもしれない。

    そんなことを考えさせられた、

    本音の多い、なかなか面白い一冊だった。

PAGETOP