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いつまで「働くこと」を正義にするのか! | 2026.10.14

いつまで「働くこと」を正義にするのか!
――池田清彦著『人はなぜ働かなくてもいいのか』を読んで
働いていないと、いけないのだろうか
何もせずに休んでいると、どこか後ろめたい。
忙しくしている人を見ると、立派だと思う。
私たちの中には、そんな感覚が根強くある。私自身、長く会社経営に携わってきたのだから、働くことの大切さは十分に感じてきた。
それでも、年齢を重ねた今、考える。
働くことは、それだけで正しいのだろうか。
池田清彦さんの『人はなぜ働かなくてもいいのか』は、そんな問いを私に投げかけてくれた。
池田さんは、テレビで見ていても話し方が柔らかい。昆虫好きというところにも、養老孟司さんに通じるものを感じる。
人間の常識を、ほかの生き物の側から眺めてみる。私は、そういう視点に共感するところが多い。
今回は、題名を知っただけで「よし、読んでみよう」と思った。
アリだって、いつも働いているわけではない
冒頭から、アリの話が面白い。
働きアリといえば、せっせと働く勤勉な生き物という印象がある。しかし、本には、巣の中であまり働いていないアリの話も出てくる。
一匹ずつの働きぶりを見るだけでは、コロニー全体の生き方は分からない。集団として長く存続するという視点で見ると、休んでいることにも意味がある。
さらに、野生の生き物にとって、エネルギーは貴重だ。
食料がいつでも手に入るわけではないのだから、必要のないときまで動き回れば、それだけ消耗してしまう。
休めるときには休む。
本で語られるその生存戦略に、私は妙に納得した。
人間は、働いていない時間まで問題にしてしまう。けれど、生きるために必要なものが足りているなら、休むことを責める理由はどこにあるのだろう。
「もっと働く」は、いつから始まったのか
池田さんは、農耕と蓄えの誕生から、人間の働き方を考えていく。
穀物は貯蔵できる。
今日の食料を確保するだけでなく、明日や来年のためにも働くようになる。蓄えが増えれば、安心も増える。
しかし、余剰が生まれれば、それを管理する人が現れ、配分する権限が生まれる。蓄えを守る仕組みや、社会の秩序を支えるための労働も必要になる。
生きるための営みが、次第に社会の義務へと変わっていく。
私は、その流れを読みながら、自分たちの暮らしを振り返った。
もっと稼ぐ。もっと蓄える。もっと先に備える。
その一つ一つには理由がある。けれど、どこまでいけば「これで十分」と言えるのだろう。
将来のために働き続けているうちに、今を生きる時間がなくなってはいないか。
この問いは、私にも向けられている。
AIが働く社会で、人間は何をするのか
私は、AIや自動化に大きな可能性を感じている。
ものづくりでも、設計でも、情報の整理でも、人間が時間をかけていた仕事を短くできる。これからは、機械が担う仕事がさらに増えていくだろう。
そこで池田さんが示すのが、作る力と買う力の問題だ。
AIやロボットで生産できるものが増えても、人が仕事と収入を失えば、その商品を買えなくなる。
労働者は、同時に消費者でもある。
企業にとって人件費の削減が利益になっても、それが社会全体で進めば、購買力まで弱くなる可能性がある。
作れるのに、買えない。
そんな社会になったら、何のための技術進歩なのだろう。
経営に携わってきた私には、この問題は身近に感じられる。商品は、作っただけでは商売にならない。必要とする人の手に届いてこそ、意味がある。
生きる安心を、働くことだけに結びつけない
この問題への仕組みとして、本ではベーシックインカムが論じられている。
働いて得る賃金だけに頼らず、最低限の生活を支える所得を保障するという考え方だ。
私は、これからの社会で真剣に考える必要があると思う。
制度を実現するには、財源や物価、必要な仕事を誰が担うかなど、検討すべきことはある。
それでも、生活の不安を抱え続ける人に、ただ「もっと働け」と言うだけでよいのだろうか。
仕事を失うことが、そのまま生きる安心を失うことにつながる。その状態を変えていくことには、大きな意味がある。
人口も消費も増え続ける社会を前提にした仕組みについても、考え直す時期なのだと思う。
人が安心して暮らせることを中心に置いたとき、経済のあり方も、働く意味も変わってくるはずだ。
給料にならなくても、人生には大事な営みがある
働く必要が小さくなったら、人は何もしなくなるのか。
私は、そうは思わない。
写真を撮る。本を読む。文章を書く。家族と過ごす。地域の活動に参加する。誰かの相談に乗る。
私自身、やりたいことはいくらでもある。
写真を撮っている時間が、必ずしも収入になるわけではない。読んだ本について考え、こうして感想を書く時間にも、給料は出ない。
けれど、その時間があるから、私は人生を面白く感じている。
暮らしを支える家事も、誰かを気遣うことも、お金だけでは測れない。
稼いでいないからといって、その人の時間まで無価値になるわけではない。
立派な成果を出すことまで求めなくてもいい。本人が楽しく、心穏やかに過ごせることにも、十分な意味があると思う。
経営してきた私が、今考えること
私の会社では、長く残業のない働き方を続け、定年制も廃止してきた。
仕事以外の時間を持てること。年齢だけで、働く機会を区切られないこと。
どちらも、一人一人が自分の生き方を選ぶことにつながると思っている。
仕事には、喜びがある。
お客様の思いを形にできたとき。工夫がうまくいったとき。仲間と何かを成し遂げたとき。
私も、その充実感を何度も味わってきた。
だからこそ、仕事を失う恐怖や生活への不安だけで、人を働き続けさせる社会について考えたい。
安心して生きられる土台があれば、自分から関わりたい仕事を選べる人も増えるだろう。
経営する側も、人が時間を使いたいと思える仕事を、どう作るかが問われる。
この本は、私にそんな課題も残してくれた。
「いつか楽しもう」では、間に合わない
年齢を重ねると、人生の時間には限りがあることを実感する。
一生懸命に働いて蓄えを増やしても、それを使い、自分の時間を楽しむ前に人生を終えてしまうことがある。
その姿を見ると、何のために働いてきたのだろうと考えてしまう。
家族のために残すことにも意味はある。備えが安心につながることも、よく分かる。
それでも、自分が生きている今しか味わえないものがある。
妻と旅をすること。
心が動く風景を撮ること。
孫の成長を見て笑うこと。
一冊の本に出会い、考えが少し変わること。
そういう時間を、いつまでも後回しにしたくない。
「落ち着いたら」「もう少し蓄えたら」と言っている間にも、今日という日は過ぎていく。
働くことを、人生の物差しにしすぎない
この本を読んで強く残ったのは、人生は短いという実感だった。
お金を稼ぐことだけに、自分の時間を使い切ってしまってよいのか。
私は今、その問いを以前より深く受け止めている。
社会の仕組みは、すぐには変わらない。暮らすために働く必要も、現実にある。
それでも、働いている人は立派で、働いていない人はよくないという見方は、変えられる。
自分に対しても、ほかの人に対しても。
私はこれからも会社の未来を考え、新しい技術に触れ、写真を撮り、本を読んでいきたい。
自分が面白いと思うことに、時間を使いたい。
いつまで「働くこと」を正義にするのか。
この問いは、働いてきた人生を振り返りながら、これからの時間を自分の手に取り戻すための問いなのだと思う。
まずは今日、やりたかったことを一つやってみる。
これからの私の生き方は、そんなところから始めたい。
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「努力が足りない」と言う前に、私が知らなかったこと | 2026.10.14

『誤解だらけの発達障害』岩波明 著を読んで
知っているつもりで、知らなかった
「発達障害」という言葉を、いつから耳にするようになったのだろう。
少なくとも、私の子どもの頃には、今のように身近な言葉ではなかった。
最近は新聞やテレビで、ASDやADHDという言葉もよく目にする。でも、正直に言えば、私はその違いさえよくわかっていなかった。
知っているつもりで、何も知らない。
そんな私に、「誤解だらけの」という題名は、こちらを向いて語りかけているように思えた。
人にはそれぞれ、得意なことと苦手なことがある。
私自身にも、うまくできないことや、つい繰り返してしまう失敗がある。誰もが何かしらの生きづらさを抱えているのではないか。
そんな漠然とした思いから、この本を手に取った。
「これは私にもあるな」と立ち止まる
読み進めながら、何度も「これは私にもあるな」と立ち止まった。
余計なひと言を口にしてしまう。
やることが重なると、何から手をつければいいかわからなくなる。
相手に悪気はなくても、こちらが勝手に腹を立ててしまう。
もちろん、似た経験があるからといって、発達障害だということにはならない。対人関係が苦手というだけでも、判断はできない。
けれど、自分にも覚えのある困りごとを、日々もっと強く、繰り返し経験している人がいる。
そう考えると、遠い話だったものが、少しずつ自分の近くへ来た。
その「頑張れ」は、誰のためだろう
私の心に残ったのは、症状の名前よりも、周囲の人の言葉だった。
「努力が足りない」
「甘えている」
「頑張ればできる」
言う側は、励ましているつもりかもしれない。
私も長い人生の中で、似たような言葉を口にしてきたかもしれない。
でも、本人はすでに十分頑張っているとしたら。
できないことに悩み、何度も自分を責めているとしたら。
そこへ、もうひと押しするように「頑張れ」と言う。
その言葉を受け取った人の気持ちを、私はどれほど想像していただろう。
本を読みながら、相手のことを考えているようで、実は自分の物差しを当てていただけなのかもしれないと思った。
自分にはできる。だから相手にもできるはずだ。
その「はず」が、人を追い詰めることもあるのだろう。
百パーセント、わかり合えなくても
家事でも仕事でも、できないことを指摘し続けるより、どうしたらやりやすくなるかを一緒に考える。
予定を見えるところに置く。頼むことを一つずつ伝える。一人で落ち着ける時間をつくる。
大きなことをしなくても、関わり方を少し変える余地はある。
ただ、支える側にも限界はある。
本の中にあった、お互いを百パーセント理解したり、支えたりすることはできないという考えには、ほっとした。
できることはする。
難しいことは断る。
助けてほしいときは頼む。
断られても、相手を責めない。
これは発達障害のある人との関係に限らず、家族や友人との付き合いにも、そのまま重なる話だと思った。
わかり合いたいと思うことと、すべてわかり合えると思うことは、少し違う。
その余白があるほうが、一緒に生きていきやすいのかもしれない。
困難だけで、その人を見ない
著者が繰り返す「特性」という言葉にも、考えさせられた。
困難があることは、軽く扱えない。
けれど、その人を困難だけで見てしまえば、好きなことも、得意なことも、その人らしい面白さも見えなくなる。
本には、優れた記憶力や独特な感覚についての話も出てくる。人の感じ方というのは、私が思っているより、ずっと幅があるのだろう。
ただ、特別な才能があるから、その人に価値があるということでもない。
何ができるかを確かめる前に、一人の人として知りたい。
その当たり前のことを、私は時々忘れてしまう。
終盤で、人間の進化とこうした特性を結びつけて考える話に触れたとき、少し視界が広がるような気がした。
人間は、みんな同じ性質を持って生きてきたわけではない。
違う感じ方や考え方があるからこそ、開かれてきた道もあるのかもしれない。
そう思うと、「自分と違う」ということを、もう少しゆっくり受け止めてみたくなった。
次のひと言の前に
読み終えて、発達障害をわかったとは、まだ言えない。
自分の苦手なことを振り返るきっかけにもなったけれど、それだけで誰かの苦しさがわかるわけでもない。
ただ、誰かに「どうしてこんなことができないんだろう」と思ったとき、その言葉をすぐに口にする前に、立ち止まってみたい。
私の知らない難しさが、この人にはあるのかもしれない。
この本を読んで得たものは、誰かを見分けるための知識よりも、その小さな間だったように思う。
まずは、身近な人と交わす次のひと言から、少し変えてみたい。
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自分が写っていた! 風景を撮っていたつもりが。 | 2026.10.07

Bunbunさんの『写真がくれた小さなきっかけ――50代からのフォトライフ入門』を読みました。
著者のnoteは以前から時々読ませていただいていました。写真についての考え方に共感することがあり、本も出版されていると知って、Kindleで読んでみました。
私も写真を撮り始めて、もう半世紀ほどになります。読みながら何度も「ああ、そうなんだよな」と頷きました。長く感じてきたことを、うまく言葉にしてもらったような気持ちです。
本では、写真を、人とつながり、自分を再発見するきっかけとして捉えています。私自身の歩みを振り返っても、写真は確かに、そういう存在でした。
写真には、その人がにじみ出る。
写真クラブで皆さんの作品を見ていると、つくづくそう思います。同じような場所で撮っていても、惹かれるものも、切り取り方も違う。優しさや寂しさ、何かを大切に思う気持ちが、写真から伝わってくることがあります。
ただ、年齢を重ねた人ほど心に届く写真が撮れるかというと、そこは少し違う気もします。若い人にも、子どもにも、こちらが驚くような感性があります。それでも、重ねてきた経験が、その人の眼差しに表れることはあるのでしょう。
私も写真を見返して、「自分はこういうものが好きだったんだ」と気づくことがあります。何を撮ったかだけでなく、なぜそこで立ち止まったのか。写真には、自分でも気づいていなかった心の動きが残っています。
著者が写真と心を重ねて語るところにも共感しました。写すのは風景ですが、そこには撮る人の心も入っている。私にとって写真は、そんなものです。
昔は、写真のあり方を断定的に語られることもありました。それでも、趣味なのだから、自分の好きな写真を撮っていたい。その気持ちは変わりませんでした。今になって思えば、やめずに続けてきたことが、何よりよかったのかもしれません。
続けるうちに、写真を取り巻く環境もずいぶん変わりました。
フィルムの頃は、シャッターを押すたびに現像代が頭をよぎりました。うまく撮れたかどうかも、その場ではわからない。今は撮ってすぐ確かめられ、思ったようでなければ撮り直せます。昔の不自由さを知っているからこそ、このありがたさを感じます。
スマホも、私の撮る楽しみを広げてくれました。花の高さまで視点を下げたり、自撮り棒で少し高いところから眺めたり。花や昆虫のそばに、自分の眼差しを置いてみる。以前は諦めていた位置から撮れることが、次はこうしてみようという意欲につながります。
機材が進化しても、変わらないことがあります。
その場に立たなければ、その写真は撮れない。
どれほど腕のよい写真家でも、その瞬間に居合わせなければ写せません。そして、そこに立った自分が何を感じ、一枚にどう写し込むか。手軽に撮れる時代になった今も、それは難しく、だからこそ面白いのだと思います。
旅と写真の関係も、私には切り離せません。
写真を見て行きたくなり、出かけた先でまた心が動く。帰ってから見返すと、そのときの気持ちまで戻ってきます。旅先の記録でありながら、自分が何に惹かれたのかを知る記録でもあるのです。
今はInstagramで、数千人の方とつながっています。昔は想像できなかったことです。誰かの写真から花の見頃を知り、知らなかった場所へ出かける。自分の写真にも反応をいただき、また撮りたくなる。写真を間に置くことで、楽しみが少しずつ行き来しています。
最近は、撮った写真をスライドショーにして、音楽や言葉を添えることも楽しんでいます。
以前から、説明を重ねすぎると写真そのものが薄まってしまう気がしていました。その思いは今もあります。だから、どんな音や言葉なら、この写真から感じたものをそっと醸し出せるだろうかと考えます。写真を撮った後にも、楽しみが続くようになりました。
この本を読んで、写真が私にくれたものを改めて考えました。
出かける理由。人との出会い。自分の好きなものに気づく時間。そして、次は何を撮ろうかと思える気持ち。
自分の人生がにじむ一枚を撮るには、一生かかるのかもしれません。それでも、その一枚を探しながら歩く日々は、なかなか楽しいものです。
次に心が動く場所で、またシャッターを押してみようと思います。
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答えより、問いが大きくなった――『人間らしさとは何か』を読んで | 2026.10.02

『人間らしさとは何か』
マイケル・S・ガザニガ著、柴田裕之訳。題名に惹かれて手に取った本だったが、読み終えるまで三か月ほどかかった。かなり厚い本で、脳、進化、感情、社会、道徳、芸術、記憶、意識と、話はあちらこちらへ広がっていく。
正直に言えば、私が理解できたのはこの本の一%くらいかもしれない。それでも読み終えて残ったものは多かった。
本の最初に出てくる問いは、「人間はなぜ特別なのか」である。
人間が行うことの多くには、他の動物にも前例がある。感情もある。社会性もある。道具も使う。記憶もある。
それでも、人間はやはり何かが違う。
脳が単に大きいからなのか。ニューロンが多いからなのか。それとも、いくつもの小さな違いが積み重なった結果、あるところで「相転移」のような変化が起こったのか。
私はこの「相転移」という考え方がとても面白かった。
人間の赤ん坊は驚くほど未熟な状態で生まれてくる。大きな脳を持ちながら二足歩行するという進化の中で、人間は生まれてから長い時間、誰かに育ててもらわなければ生きられない存在になった。
しかし、考えてみればその未熟さこそが、人間を人間にしたのかもしれない。
生まれてから家族に教わり、人に会い、言葉を覚え、社会を知り、本を読み、失敗し、経験を積む。
人間は完成して生まれてくるのではなく、生まれてから社会の中で作られていく。
以前、私は「世界には情報がばらまかれていて、それを拾い集めることが人間形成ではないか」と考えた。
この本を読んで、その思いがますます強くなった。
本を読む。人に会う。旅に出る。写真を撮る。
外から入ってきた情報は、そのまま私の中に保存されるわけではない。これまでの経験と混ざり、考え直され、意味づけされ、少し違ったものになって自分の中に残る。
記憶についての話も非常に興味深かった。
特に「エピソード記憶」である。
単なる事実を覚えているのとは違い、自分がいつ、どこで、何を経験したかを思い出す。しかも人間はその記憶を使って、過去だけではなく未来まで想像する。
いわば頭の中で「時間旅行」をする。
しかし、過去の出来事はいつ思い返しても同じ意味を持つわけではない。
二十歳の時の出来事を四十歳で思い返した時と、七十歳になってから思い返す時とでは、意味が違ってくる。
記憶そのものが変わったというより、その後の人生によって「解釈」が変わったのだと思う。
そう考えると、私たちは記憶を保存しているだけではない。
人生を通して、何度も自分の過去を書き直しているのかもしれない。
この本には、人間が理性的に生きていると思っていても、実際には多くの判断を無意識に行っているという話も出てくる。
ネガティブな情報に強く反応する「ネガティブ優先のバイアス」もその一つだ。
危険をいち早く見つけることは、生存に直結する。
草原で「綺麗な花だ」と気づくのが少し遅れても命には関わらないが、「蛇だ」と気づくのが遅れれば死ぬかもしれない。
だから悪いニュースや危険な情報に強く目が向く。
新聞やテレビが事件や事故を大きく扱うことにも、人間の脳の性質が関係しているのだろう。
一方で、人間は美しいものにも惹かれる。
私は写真を撮るので、芸術についての章は特に面白かった。
人は曲線を好み、自然を好み、水のある風景を好み、見やすいコントラストに惹かれる。
写真を現像するとき、なぜ少しコントラストを上げると対象が際立って見えるのか。
単なる好みではなく、人間の視覚系が「処理しやすいもの」を好むという話には納得するところがあった。
それでも、人間は単に見やすいものだけを芸術と呼ぶわけではない。
見えないものを想像し、実際には存在しない場面を頭の中に作り、音楽や絵や物語にして他人に伝えることができる。
ここにも人間らしさがある。
そして最後まで考え続けたのが「意識」である。
目を覚まし、今ここにいると感じている意識。
さらに、「私は今こう考えている」と自分の意識そのものを眺める意識。
考えれば考えるほど不思議である。
脳という物質の中から、なぜ「私」という感覚が生まれるのか。
結局、この本を読んでも答えは出なかった。
だが、答えが出ないからこそ面白い。
人間とは何か。
人間らしさとは何か。
もしかすると、人間らしさとは「答えを持っていること」ではなく、目に見えないものについて考え、理由を探し、意味を作り続けることなのかもしれない。
世界から情報を受け取る。
それを記憶と照らし合わせる。
考える。
意味を与える。
そして言葉や行動、写真や仕事として、再び世界へ返していく。
その情報をまた誰かが受け取る。
そうやって人間は一人ではなく、長い時間をかけてお互いを作り続けているのではないだろうか。
この本を数年後、もう一度読んでみたいと思う。
その時の私は、今とはまた違う経験を積んでいる。
同じ文章を読んでも、きっと違うところに線を引き、違うところで立ち止まるだろう。
それもまたエピソード記憶と同じように、「今の自分」が過去に新しい意味を与えることなのだと思う。
人間らしさとは何か。
読み終えて分かったのは、答えではなかった。
むしろ、以前より問いが大きくなった。
でも、それでいい。
問いを持ち続け、考え続ける。
それこそが、人間らしいことなのかもしれない。
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「まあいいか」が、挫折の始まりだった。 | 2026.09.30

「まあいいか」が、挫折の始まりだった。
戸田大介著
『200万人の「挫折」と「成功」のデータからわかった 継続する技術』を読んだ。この本は、ある意味「継続するための指南書」だと思う。
賢者は、地道な積み重ねが何より大切だと言う。
しかし普通の人間は、
「もっと早く結果が出る方法はないか」
「何か裏技はないか」と考えてしまう。
もちろん、私もその一人である。
人間は、思っているほど続けられない
この本でまず驚いたのが、ランニングを始めた人の約94%が30日以内に挫折するという話だった。
筋トレなども、多くの人が途中でやめてしまうという。
始めたときには、みんなそれなりに「今度こそ続けよう」と思っているはずだ。
それでも続かない。
つまり、物事を続ける力というのは、自分で思っている以上に弱いらしい。
これは意思が弱いとか、根性がないという話ではない。
どうも人間という生き物自体が、そういう性質を持っているようなのだ。
そう考えると、少し面白い。
目標は、高くするより低くする
人は目標を具体的に決めないと、無意識に高い目標を設定してしまうという。
「毎日運動しよう」
「毎日勉強しよう」と思った瞬間、頭の中では知らないうちに立派な姿を想像してしまう。
そして、それができないと嫌になる。
だから最初から目標を下げてしまう。
5分だけ歩く。
本を1ページだけ読む。
机に向かうだけでもいい。面白いのは「5分だけ」と決めても、始めてしまえば20分続くこともあるということだ。
最初から20分を目標にすると苦しい。
しかし5分なら始められる。
継続とは、頑張ることよりも、始められる大きさまで小さくすることなのかもしれない。
「まあいいか」が「もういいや」になる
もう一つ、耳が痛かったのがこの部分だ。
忙しい日は誰にでもある。
「今日はまあいいか」
と一日休む。
ところが、その「まあいいか」が、
「もういいや」
に変わってしまうことがある。
だから忙しい日ほど、ゼロにしない。
いつもの運動ができなければ1分だけ。
10ページ読めなければ1ページだけ。大切なのは成果ではなく、習慣から心を離さないことなのだという。
これはなるほどと思った。
意志よりも「タイミング」と「環境」
同じことをするにも、楽にできる時間と、どうしてもできない時間がある。
しかも人間は、習慣にしようと決めたことさえ忘れてしまう。
だから、
「忘れないように頑張る」
のではなく、
忘れても思い出せる環境をつくる。
歯を磨いたあとにやる。
朝食のあとにやる。
パソコンを開いたらやる。時間そのものより、普段の行動と結びつける。
意志の力だけに頼らないということなのだろう。
知っているだけでは、自分のものにならない
本を読めば、たくさんの知識を得られる。
しかし人は、その大半を忘れてしまう。
覚えていたとしても、行動しなければ何も変わらない。
これは当たり前のことなのだが、この本を読んで改めて考えた。
実行を伴わない知識は、成果を生まない。
人間は頭で理解しただけでは、なかなか変わらない。
実際にやってみる。
失敗する。
少し方法を変える。
またやってみる。その繰り返しによって、初めて知識が自分の中に入っていくのかもしれない。
成功とは、理想に到達することではない
この本の中で、私が一番いいなと思ったのは、
誰かと比べる必要はないし、理想に到達することだけが重要なのではない、
という考え方だった。
少しずつでも、自分で決めた方向へ進んでいる。
その実感があればいい。
考えてみれば「成功」という言葉自体、人によって違う。
大きな結果を出すことだけが成功ではない。
昨日できなかったことが、今日は少しできた。
それだけでもいいのだろう。
習慣が行動になり、行動が人生をつくる
人間は、習慣によってずいぶん動かされている。
悪い習慣は、なぜか簡単に身につく。
ところが自分にとって大切なことほど、なかなか習慣にならない。
だからこそ、自分という人間の性質を知ることが大切なのだと思う。
高すぎる目標を立てない。
できない日もゼロにしない。
忘れることを前提に環境をつくる。
うまくいかなければ方法を変える。そして、小さくても続ける。
習慣が行動をつくり、
行動の積み重ねが、
やがてその人の人生をつくっていく。「もっと頑張らなければ」と思うより、
「もっと小さくできないだろうか」
と考える。
これなら私にもできるかもしれない。
少なくとも、この本を読んだ今日だけは、そう思っている。
あとは――実際に続けられるかどうかである。
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太ることは、人間が生き延びてきた証だった | 2026.09.29

『肥満の科学 ヒトはなぜ太るのか』リチャード・J・ジョンソン著/中里京子訳を読んで
私は、自分の中に疑問が生まれると、その仕組みを頭で理解したくなって本を読みます。
今回の疑問は、とても身近なものでした。
人間は、なぜ太るのだろう。
食べ過ぎれば太る。運動すれば痩せる。そんなことは誰でも知っています。
けれど、「なぜ人間の体は脂肪を蓄えようとするのか」と聞かれると、私は漠然としか理解していませんでした。
書店で『肥満の科学 ヒトはなぜ太るのか』を見つけ、これは読んでみようと思いました。
太ることは、もともと「生きるため」の仕組みだった
この本を読んで、最初に腑に落ちたのは、
脂肪を蓄えることは、人類が生き延びるために獲得してきた仕組みだった
ということです。
人類の歴史の大部分は、今のようにいつでも食べ物が手に入る時代ではありません。
食べられるときに食べる。
エネルギーを脂肪として蓄える。
そして食べ物がない時期を乗り越える。その仕組みを持っていたからこそ、私たちの祖先は生き残れた。
本書では、この反応を何度も**「サバイバルスイッチ」**という言葉で説明しています。
ところが現代は、食料不足どころか、いつでも食べ物が手に入る時代です。
昔なら命を救ったサバイバルスイッチが、今では肥満やメタボリック症候群につながってしまう。
私はここが、この本の一番面白いところだと思いました。
肥満は、ある意味では自然の成功であり、現代人にとっては失敗にもなってしまった。
なんとも皮肉な話です。
「糖」と一言で言っても単純ではない
本書を読みながら、もう一つ勉強になったのが糖についてです。
私は「糖」と聞くと、砂糖や甘いものをまず思い浮かべていました。
しかし本書では、果糖やブドウ糖、炭水化物から体内で作られる糖など、代謝の仕組みをかなり詳しく説明しています。
特に著者が注目しているのが果糖とサバイバルスイッチの関係です。
果糖を利用して脂肪を蓄える仕組みは、本来、食料不足に備えるためには非常に優れたものだった。
ところが現代の食生活では、甘い飲料や加工食品などから糖を非常に簡単に摂取できます。
人間の体は太古の昔からそれほど変わっていないのに、食べ物を取り巻く環境だけが急激に変わってしまった。
そう考えると、「意志が弱いから太る」と単純に片づけられる話でもないように思えてきます。
空腹を、少し違って見るようになった
私はもう10年ほど昼食を食べない生活をしています。
「昼食を抜くのは体によくない」と言われることもあります。
もちろん、これが誰にでも合う方法だとは思っていません。
ただ、自分では長年続けながら体調を観察してきました。
以前は、お腹が空いていなくても、
「昼になったから食べる」
という生活でした。
しかし今では、空腹を感じても、
「体は今、蓄えているエネルギーを使おうとしているのかもしれない」
と考えられるようになりました。
そう考えると、空腹も以前ほど嫌なものではありません。
食べ始めると、もう少し、もう少しと食べたくなる。
本書を読んで、それも単なる意志の問題ではなく、人間の体に備わった仕組みと関係しているのかもしれないと思いました。
「痩せる方法」より、「自分の体を知る」
世の中には、
「これを食べれば痩せる」
「これを飲めば体重が落ちる」
「この運動をすれば大丈夫」という情報が溢れています。
でも私は、この本を読んで逆に、簡単な答えを求めないほうがいいと思いました。
人間の体はそれほど単純ではありません。
年齢によって代謝も変わる。
食べ物も変わる。
生活習慣も変わる。私自身、運動のためだけに特別なことをするより、家事を積極的にして日常生活の中で体を動かすようにしています。
睡眠についても、何年もアプリで記録しながら、自分の眠り方や寝具を変えて状態を観察しています。
本を読み、自分の体で確かめ、また考える。
私はこの繰り返しが好きなのだと思います。
人間の体は、まだまだわからない
『肥満の科学』を読んだからといって、「これで痩せられる方法がわかった」というわけではありません。
むしろ逆です。
人間の体は、こんなにも複雑なのか。
そう思いました。
太ることも、脂肪を蓄えることも、もともとは私たちを生かすための仕組みだった。
その仕組みを悪者にするのではなく、まず理解する。
そして、自分が何を食べ、どう動き、どう眠るのかを、自分の頭で考えていく。
食べなければ人間は生きていけません。
だからこそ私は、
「何を食べないか」だけではなく、「なぜ食べるのか、体の中で何が起きているのか」を知りながら食べたい。
この本を読んで、食べることを見る目が少し変わりました。
痩せるための本というより、
人間が何万年もかけて生き延びてきた体の仕組みを知る本。
私には、そんな一冊でした。
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