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  • 何度も閉じて、また開いた『荘子の哲学』 | 2026.03.16

    この本を手に取ったきっかけは、帯の赤文字だった。
    「考えるな!感じろ!」
    その勢いのある言葉に背中を押され、「斉物論編を読み解く」という一文にも惹かれた。荘子は難しい、という先入観はあったが、理屈で構えすぎず、まずは感覚で入っていけばいいのかもしれない。そんな気持ちで読み始めた。

    けれど、実際はそう簡単ではなかった。
    感じる前に、まず**「???」**が立ちはだかった。
    数ページ読んでは止まり、また戻る。少しわかった気がしたかと思えば、次のページでまたわからなくなる。そんなことを何度も繰り返した。結局この本は、二カ月ほどかけて、数ページで投げ出し、また挑む、という読み方になった。

    でも今は、それでよかったと思っている。
    すらすら読める本ではないからこそ、こういう向き合い方になった。そして、その難解さそのものが、この本の面白さでもあったのだと思う。

    帯の言葉に惹かれて読み始めた

    「考えるな!感じろ!」という言葉は、いかにも荘子らしい自由さと軽やかさを感じさせた。難しい本でも、頭で理解しきろうとする前に、まず何かを感じてみればいい。そんなふうに背中を押された気がした。

    ところが、実際に読んでみると、感じるどころではない。
    世界の始まりはあるのかないのか、知るとは何か、言葉で表せる知と表せない知とは何なのか。問いが次々に現れ、そのたびに自分の頭がかき回される。わかったつもりになった直後に、またわからなくなる。まるで霧の中を歩いているような読書だった。

    それでも不思議と、本を閉じて終わりにはならなかった。
    難しいのに、気になる。わからないのに、また開きたくなる。そこに、この本の引力があったのだと思う。

    わからないのに、なぜか離れられなかった

    この本を読んでいて何度も思ったのは、人は言葉で世界を整理し、理解しようとするけれど、その言葉や理性だけでは届かないものがたしかにある、ということだった。

    知識として頭に入ることと、自分の中で腑に落ちることは違う。
    言葉で説明できることと、日々の感覚として知っていることも違う。
    本書は、その違いを何度も突きつけてくる。だから簡単に「わかった」と言えないし、逆にそこがこの本の深さでもあるのだろう。

    私たちは普段、説明できることだけで生きているわけではない。自然の中で、社会の中で、説明しきれないものを前提にしながら日々を過ごしている。そう考えると、「わからないこと」がただの不足や欠点ではなくなる。むしろ、わからないまま抱えておくことにも意味があるのだと思えてくる。

    今回の読書は、まさにそんな時間だった。
    理解しきれない。けれど、何も残らなかったわけではない。
    むしろ、すぐにわからなかったからこそ、心のどこかに引っかかり続けている。そういう本との出会いは、案外貴重なのかもしれない。

    たまには、こんな読書もいいと思った

    正直に言えば、私は『荘子の哲学』を「理解できた」と胸を張って言えるわけではない。まだ入口に立っただけなのだろう。けれど、この難しい本に二カ月かけて向き合い、何度も閉じてはまた開いた自分は、少しくらい褒めてもいいと思っている。

    すぐに答えをくれない本。
    簡単には理解した気にさせてくれない本。
    だからこそ、自分の読み方や考え方まで試される本。

    そういう本に出会うと、読書はただ情報を得るためのものではなくなる。わかったことを増やすだけでなく、わからないことに耐える力も少し育ててくれる。効率のよい読書ではなかったかもしれないが、こういう時間は決して無駄ではないと思う。

    たまには、こんな読書もいい。
    むしろ、こういう読書があるからこそ、本を読む面白さは深くなるのかもしれない。今はまだ霧の中にいるようでも、これから別の本を読み、別の経験を重ねたあとに、もう一度この本を開いたら、また違う景色が見える気がする。

    『荘子の哲学』は、私にとって、すっきり理解できた一冊ではなかった。
    けれど、何度も閉じて、また開いたという、その読書の時間そのものが、すでにこの本から受け取った大切なものだったように思う。

  • 本ばっかり読むと、バカになる。 | 2026.03.12

    本をたくさん読めば、それだけ賢くなれる。
    そんな思い込みを、やさしく、しかし鋭く崩してくれた一冊でした。
    読書好きほど耳が痛い。けれど同時に、読むことをもっと自由で軽やかなものにしてくれる本だったと思います。

    外山滋比古『乱読のセレンディピティ』を読んで

    また一人、すごい人に出会った

    外山滋比古さんの『乱読のセレンディピティ』を読んで、私はまた一人、すごい人に出会ったと思った。
    著者は私よりずっと上の世代の人だが、こんなにも今の時代に通じることを、こんなにも早い時期から考えていたのかと驚かされた。

    本を読むことは良いことだ。
    読書は人を賢くする。
    たくさん読めば、それだけ人間は深くなる。

    私たちはどこかで、そんなふうに信じてきた。
    私自身もまた、長いあいだそう思ってきた一人だと思う。
    けれどこの本は、その常識を軽やかに、しかし鋭くひっくり返してくる。

    その読み味がとても面白かった。
    説教くさくない。
    むしろ逆説的で、少し意地悪なくらいに本質を突いてくる。
    だから読んでいて何度も「耳が痛いなあ」と思った。
    でも同時に、「そうか、そういうことだったのか」と深く腑に落ちるところがたくさんあった。

    本は、力を入れて読むものではない

    この本の中で特に面白かったのは、本は力を入れて読むものではなく、「風のように読む」のがよい、という考え方だった。

    普通、読書というと、じっくり読むこと、丁寧に読むこと、ゆっくり味わうことが正しいように言われる。
    けれど外山さんは、そういう常識そのものを疑っている。
    むしろ、あまり力まず、風のようにさっと読む。
    そのほうが、言葉の流れを殺さずに、本来の面白さが入ってくるという。

    これは私にとって新鮮だった。
    確かに、難しい本や、ありがたい本ほど、「ちゃんと読まなければ」と力が入る。
    しかし、その力みがかえって読むことを窮屈にし、面白さを奪ってしまうことがある。
    遅く読むことが必ずしも丁寧ではない。
    ゆっくり読むことが、かえって意味の流れを止めてしまうこともある。
    この指摘は、本当にその通りだと思った。

    私自身、読んでいてわからないところに何度もぶつかる。
    だが、そのたびに立ち止まりすぎるより、まずは風のように通り過ぎてしまう。
    そうしているうちに、ふと一文が無意識の中に残ったり、あとから別の場面でつながったりする。
    そういう読み方も、立派な読書なのだと、この本は教えてくれた。

    読破したから偉いわけではない

    この本には、読書に対する世間の妙な“義理立て”への批判がある。
    本を読破した、難しい本を最後まで読んだ、何冊読んだ。
    そういうことを私たちはどこかで価値あることのように思ってしまう。
    けれど、それがそのまま知的個性につながるわけではない。
    むしろ、本に義理立てしすぎると、自分の知的個性はだんだん小さくなる、という。

    ここは本当に痛かった。
    なぜなら、私にも思い当たるところがあるからだ。

    本をたくさん読んだことは、もちろん無駄ではない。
    ただ、それがそのまま「自分の頭で考えた」ことになるわけではない。
    知識が増えることと、思考が深まることは違う。
    そこを混同すると、読んでいるつもりで、実は本に引っ張られているだけになる。

    私はかなり本を読んできた。
    けれど、たくさん読んだから自分が優れているとは思わない。
    むしろ、たくさん読んだからこそ、読書の限界も少しわかってきた気がする。
    たくさん読んだ効用をあえて言えば、活字に触れることへの抵抗が少なくなったことくらいだろう。
    文字を読み、考えることにストレスを感じにくくなった。
    それは確かに大きい。
    けれど、人間力そのものとはまた別の話だと、今は思う。

    自分で買った本には、重みがある

    外山さんは、本は買って読むべきだとも言う。
    借りてきた本や、もらった本より、自分のお金で選んで買った本のほうが重い意味を持つ。
    これも非常によくわかる。

    自分で選び、自分で買い、自分で読んでみる。
    その結果、「これは違ったな」と思うこともある。
    しかし、その失敗も含めて自分の読書になる。
    誰かに与えられた本ではなく、自分の目で見て、自分の手で選んだ本だからこそ、その一冊は自分にとって意味を持つのだと思う。

    私はあまり人に本を勧めない。
    それは、勧められた側が窮屈になることを、自分自身がよく知っているからだ。
    勧められると、かえって読みたくなくなる。
    逆に、禁じられると読みたくなる。
    この人間のへそ曲がりなところも含めて、読書とは自由であるべきなのだろう。

    だから「この本は良いから読みなさい」という善意は、ときに逆効果になる。
    本好きの側がそのことを自覚していないと、読書の喜びを伝えるつもりが、逆に本嫌いを増やしてしまう。
    この本には、そういう厳しい指摘もあって、そこもまた胸に刺さった。

    学校が本嫌いを育ててしまうこともある

    学校教育では、長いあいだ「本を読みなさい」が善意として語られてきた。
    だが、それが本当に読書好きな人を育ててきたのかというと、疑わしい面もある。

    宿題がある。
    感想文がある。
    読書記録がある。
    推薦図書がある。
    そこにはいつも「良いことだから読みなさい」がつきまとう。
    しかし、それは読むことを自由な楽しみから、義務や評価の対象に変えてしまう。

    私も、子どもの頃から、読書はどこか“良いこと”として押しつけられてきた感覚がある。
    だからこそ、今になってこの本を読み、なるほどそうだったのかと思った。
    読むことは本来、もっと自由で、もっと自発的なものだったはずなのだ。

    本のありがたみを教えようとするほど、本の窮屈さだけが残る。
    これはなかなか鋭い逆説だと思う。

    読書メタボという、耳の痛い言葉

    この本で一番ショックだったのは、「読書メタボリック症候群」というような考え方だった。
    つまり、知識を詰め込みすぎることで、頭が肥満状態になるというのである。

    知識は役に立つ。
    だが、消化しきれない知識は、思考を助けるどころか邪魔をする。
    頭の中が知識でいっぱいになると、かえって頭が働かなくなる。
    そのうちに、ものが見えなくなる。
    これは本当に鋭い言葉だと思った。

    知識は借り物である。
    それに対して思考は自力である。
    この対比には、私はとても納得した。

    本を読んで、何かを知った。
    何か賢くなった気がする。
    これは誰にでもあることだと思う。
    だが、それは借金が増えているだけかもしれない。
    しかも、知識の借金は返済しなくてよいから、気分だけはよくなる。
    そこに落とし穴がある。

    私自身も、きっとどこかでそういう錯覚に陥っていた。
    本を読んでいることに、少し安心し、少し満足し、少し自分を認めていた。
    けれど、本当に問われるのは、その知識が自分の生き方にどうつながっているかだ。
    そこにつながらなければ、ただ頭の中に情報が溜まっているだけかもしれない。

    忘れることは、衰えではない

    この本の大きな発見の一つは、「忘却」を肯定していることだった。
    私たちは、忘れることを悪いことのように考えがちである。
    歳をとって忘れやすくなると、不安にもなる。
    けれど外山さんは、忘れることこそ頭の働きを支える大切な作用だと言う。

    これには深くうなずいた。
    忘却は、頭の中の清掃であり、新陳代謝なのだ。
    忘れられないことのほうが、むしろ危うい。
    覚えておかなくてもいいことまで溜め込んでいたら、頭は重くなり、自由に動けなくなる。

    歳をとるほど、私は「いかに覚えるか」より「いかに手放すか」のほうが大事になる気がしている。
    全部覚えていようとしない。
    本当に心に残ったものだけを、そっと残す。
    そのために私は、感想をメモしたり、noteに書いたりするのだと思う。

    全部を保存するためではない。
    心に触れた火種だけを残すためである。
    それで十分なのだろう。

    忘れない人が優秀、とは限らない

    この本を読んで面白かったのは、忘れない人が必ずしも優秀ではない、という逆説だった。
    私たちは、よく覚えている人を優秀だと考えがちである。
    しかしそれは、裏返せば忘却が弱い人なのかもしれないという。

    これはなるほどと思った。
    記憶ばかりが強く、頭の中の整理ができないと、余計なものまで残り続ける。
    それでは苦しい。
    人間が自然に生きていくためには、ある程度、忘れる力が必要なのだ。

    しかも睡眠は、その忘却を助ける。
    夜のあいだに頭が整理され、朝には少しきれいになっている。
    この考え方は、今の私にはとても実感がある。
    若い頃よりも、朝の頭のすっきりした感じが大事に思える。
    夜いくら考えてもまとまらないことが、朝になると少し見えてくることがある。
    年を重ねるほど朝が大切になるというのも、よくわかる。

    おしゃべりは、知的な行為なのだ

    この本には、耳や会話の大切さについての話も出てくる。
    これもとても面白かった。

    私たちはどうしても、書かれた言葉のほうに価値を置きがちである。
    文字で残っているもの、文章として整っているもののほうが上だと考えがちだ。
    けれど、話すことはその人の頭の働きそのものを反映する。
    飾れない。
    その場で考えて、その場で言葉にしなければならない。
    だからこそ、話すことには独特の知性がある。

    この感覚は私にもある。
    趣味の会でも、例会のあとにみんなで話をしている時間がとても楽しい。
    その時間があるから気持ちが軽くなる。
    足取りまで軽くなる。
    ストレスが抜け、まだまだやれる気になる。
    そういう経験を私は何度もしてきた。

    ただの雑談ではないのだろう。
    会話の中で、頭の中が整理され、心も整っている。
    本だけでは得られないものが、おしゃべりにはある。
    これはとても大事なことだと思う。

    散歩や写真が、頭をきれいにしてくれる

    外山さんは散歩の効用も語っていた。
    私は散歩というより、写真を撮りながら自然の中を歩くことが好きである。
    野山を歩き、光を見て、風を感じ、草花や景色と向き合う。
    その時間は、本を読んで得た知識を思い出している時間ではない。
    むしろ頭が空っぽになっていく時間である。

    その空っぽの中に、思いがけない発見が入ってくる。
    これこそ、セレンディピティなのかもしれない。

    本ばかり読んでいると、頭の中に借り物の言葉が増えていく。
    けれど自然の中に立つと、自分の五感が戻ってくる。
    風の冷たさ、空の広さ、光の角度、土の匂い。
    そういうものに触れていると、頭の中の余分な知識が少しずつ落ちていく感じがする。
    私は写真が趣味で本当によかったと思う。
    読書とは別の場所で、頭をきれいにしてくれる時間があるからだ。

    本を読むだけでは、生きる力にならない

    この本が何度も教えてくれるのは、読書そのものが目的ではないということだ。
    本を読むことは大事だが、それが生きる力につながらなければ意味が薄い。
    読んだ知識が、自分の判断や行動や人との関わりに結びついてこそ、本は生きてくる。

    新しい文化を作る志につながらない教養は不毛だ。
    独立独歩を妨げるような教養は捨てなくてはならない。
    このあたりの言葉も、とても厳しいが、その通りだと思う。

    読書によって知識は得られる。
    でも、知識だけで人間は変わらない。
    本を読んでいるだけで、自分が前に進んでいるような気になるのは危ない。
    そこには快適な錯覚がある。
    私はそれを、この本によって改めて見せられた気がした。

    AI時代だからこそ、なおさら響く

    この本のすごさは、今の時代に読んでもまったく古く感じないどころか、むしろ今だからこそ強く響くところにある。
    本を読めば賢くなる、知識をたくさん持てば価値がある、という近代的な考え方を、外山さんはかなり早い時期から疑っていた。

    今はAIがある。
    検索すれば情報はすぐ出てくる。
    知識を蓄えるだけなら、人間より機械のほうが速い。
    そうなると、これまでのように「知っていること」そのものをありがたがる時代ではなくなっていく。

    では人間に何が残るのか。
    それは、知識をどう組み合わせるか。
    どう忘れるか。
    どう話すか。
    どう感じるか。
    どう生き方に変えるか。
    そこなのだろうと思う。

    この本は、そのことをAI以前の段階ですでに示していた。
    だから私はとても驚いたし、感心した。

    少しだけ、自分のことも書いておきたい

    こういうことを書くのは少し蛇足かもしれないが、私は時々、人からこんなふうに見られているのではないかと思うことがある。
    まさしく“論語読みの論語知らず”で、こんなに本を読んでいるのにデリカシーがないね、とか、読書してます感を出しすぎだとか、私は知っていますよという空気が鼻につくとか、そんなふうに受け取られているのではないか、と。
    実際、そういう危うさは自分の中にもあるのだと思う。だからこそ、この本の言葉が耳に痛かった。

    けれど一方で、私にとって読書は、ただ知識を増やすためのものではない。
    むしろ、ストレスを溜めないための、ほとんど唯一の方法でもある。
    本を読み、心に引っかかったことをこうして書き出し、発信する。そうすることで、抱え込みすぎたものを少し外に出し、忘却へと渡していく。
    私にとって発信は、覚えるためだけではなく、忘れるためでもあるのだ。

    そして、経営者のはしくれとして考えても、私はこれがとても大切な仕事だと思っている。
    ただ情報を集めるのではなく、それを自分の中で咀嚼し、少しでも言葉にして外に渡すこと。
    本を読み、考え、忘れ、また考える。
    その繰り返しの中でしか、自分の頭も、人との関わり方も、磨かれていかないのではないかと思っている。

    私自身への反省でもあった

    この本を読んでいて、結局いちばん考えさせられたのは自分のことである。
    私は本を読むことが好きだ。
    でも、その読書がどこかで“読んでいる自分”を支えるためのものになっていなかったか。
    知識を得ているつもりになり、思考している気になっていなかったか。
    そこを何度も問い直された。

    さらに、読めない人にとっては、本を読んでいる人を見ること自体がストレスになることもあるのだろうと思った。
    自分にとってワクワクする行為が、別の人には重たく見えることもある。
    そこにも気づかされた。

    だから本好きであることを、あまり自慢げに語るのは違うのだろう。
    読むことそのものではなく、そこから何を感じ、どう軽くなり、どう人にやさしくなれるか。
    本当に大事なのは、そこなのだと思う。

    それでも私は、本を読む

    ここまで読むと、まるで読書を否定しているように見えるかもしれない。
    けれど、そうではない。
    この本もまた、読書の中から出会った一冊である。
    しかも私に新しい発見を与えてくれた。
    だからやはり、読書には大きな意味がある。

    ただし、それは“たくさん読むこと”の価値ではない。
    “どう読むか”“どう忘れるか”“どう生きるか”を含めた読書の価値だと思う。

    本に支配されない。
    知識に溺れない。
    読み終えたあと、少し頭が軽くなり、少し生き方が柔らかくなる。
    そんな読書でありたい。

    風のように読む。
    面白いものを自由に読む。
    失敗も恐れず、自分で選ぶ。
    全部覚えようとせず、心に残るものだけを拾う。
    そして、読んだことを生きる力につなげていく。
    この本は、そんな読書のあり方を、私に改めて教えてくれた。

    そして今、私はもう一つ、少し皮肉なことも感じている。
    私はこの感想文に、自分なりの切実な思いを込めた。
    本を読まない人にこそ届けたいと思って書いている。
    本ばかり読んで賢くなったつもりになる危うさ。
    知識を詰め込むだけでは、人は自由にも深くもなれないこと。
    忘れること、話すこと、歩くこと、生きることのほうが、よほど大事だということ。
    そういうことを、本をあまり読まない人にも届けたいと思っている。

    けれど、その相手ほど、きっとこの文章を読まない。
    読む前からスルーする。
    文字の多さを見ただけで閉じてしまう。
    その現実を思うと、何とも言えない気持ちにもなる。
    届けたい相手にほど届かない。
    そのもどかしさもまた、読書や発信にまつわる現実なのだと思う。

    それでも、私は書く。
    読まれないかもしれない。
    届かないかもしれない。
    それでも、自分が本を読んで受け取ったものを、自分の言葉で社会に返していく。
    それは、読書家の見栄ではなく、経営者のはしくれとしての仕事でもあると思っている。
    人が読むか読まないかを先に決めつけるのではなく、まず差し出す。
    考えたことを、言葉にして外へ置く。
    その中から、たった一人でも、何かを受け取ってくれる人がいれば、それで意味がある。

    本を読みすぎて知識バカになるのではなく、
    本をきっかけにして、自分の頭で考え、自分の言葉で話し、自分の足で動ける人間でいたい。
    そして、読まない人にも届く言葉とは何かを、これからも考え続けたい。
    そんな宿題まで渡してくれた一冊だった。

    最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。
    感謝を込めて。

  • 古代史を読むと、日本の輪郭が揺らぎはじめる | 2026.03.11

    なぜこの二冊を同時に読んだのか

    『日朝古代史の謎』瀧音能之 著と、『新・古代史』NHKスペシャル取材班 著を、今回はほぼ同時に読んだ。きっかけはNHKのドキュメンタリーだった。もともと私は日本の古典や古代史に関心があり、『日本書紀』や卑弥呼、邪馬台国の話には以前から強く惹かれていた。

    室町、戦国、江戸、明治以降の歴史は比較的イメージしやすい。けれど、それ以前になると急に史料が少なくなり、分からないことが増える。そこにこそ、私にとっての面白さがある。特に古代史は、日本だけを見ていても見えてこない。朝鮮半島、さらに中国まで視野を広げてはじめて、少しずつ輪郭が見えてくる。そう思ったからこそ、この二冊を並べて読んでみたくなった。

    日本は日本だけでできたのではないという感覚

    読んでいて何より面白かったのは、日本という国の成り立ちが、最初から「日本だけ」の物語ではなかったと感じられることだった。倭国のことは中国の史書にも記されているが、その間には空白も多い。その空白を埋めるには、日本側の伝承だけでなく、朝鮮半島側の歴史や交流も見ていかなければならない。

    卑弥呼がなぜ女性の統治者だったのか。空白の四世紀とは何なのか。ヤマト王権はなぜ朝鮮半島と深く結びついていたのか。百済や新羅、高句麗との関係はどうだったのか。そうした問いを読んでいると、昔習った「日本の歴史」が、実はもっと大きなアジア全体の流れの中に置かれていたのだと感じる。

    私は、国というものは最初からきれいに分かれて存在していたのではなく、もっと複雑に、人も文化も技術も行き来しながら形づくられてきたのではないかと思った。文字も制度も技術も、交流の中で育ってきた。そう考えると、日本の文化をただ単純に「日本はすごい」と語るだけでは見えてこないものがたくさんある。むしろ深く知れば知るほど、日本の中に朝鮮半島や中国とのつながりが濃く息づいていることに気づかされる。

    新しい技術が、古代の見え方まで変えていく

    もう一つ強くワクワクしたのは、古代史が今も更新され続けているということだった。昔の歴史は、古い文献を読むだけの世界ではない。今はドローンやレーザー測量、地形解析などの技術によって、これまで見落とされていた古墳群や地形の痕跡が次々と見えてくる。掘り返さなくても内部の構造に迫れる時代になってきた。

    つまり古代史は、過去の話でありながら、今の技術によって新しく読み替えられていく世界でもある。これが実に面白い。誰かが文字を残してくれたからこそ分かることがあり、逆に残されなかった空白は、現代の技術によって少しずつ埋められていく。その営み自体に、私は大きなロマンを感じた。

    戦争や同盟、馬の導入、豪族たちの争い、国家のかたちの模索。そうしたものを見ていくと、人間は昔から愚かさも抱えながら、必死に生き延び、交わり、学び、次の時代をつくってきたのだと思う。国境もまた、後の時代に引かれた線にすぎないのかもしれない。そう思うと、歴史を学ぶことは、ただ過去を知ることではなく、今の世界をどう見るかを問い直すことでもあるのだと感じる。

    この二冊を読んで、私はますます古代史が好きになった。分からないことが多いからこそ面白い。断定できないからこそ想像が広がる。そして、日本という国をもっと深く知るためには、日本だけを見ていては足りないのだということを改めて感じた。こうした本を読むたびに、自分の歴史観が少しずつ揺さぶられ、広がっていく。その感覚が、今とても楽しい。

  • 何を学ぶかより、どう学ぶか――私がこの本で強く頷いたこと | 2026.03.10

    斉藤淳著『アメリカの大学生が学んでいる本物の教養』を読んで

    「教養」という言葉には、私はどこか引っかかりを感じていました。
    日本では教養というと、物知りであることや、社会人として知っておくべき知識を身につけていることのように語られがちです。けれど本書を読んで、そのイメージはかなり変わりました。

    著者が語っていたのは、単なる知識の量ではありませんでした。
    教養とは、特定の目的のためだけに身につけるものではなく、もっと長い時間をかけて、自分の中に積み重なっていくもの。役に立つかどうかをすぐに問うのではなく、学び続ける態度そのものが、やがて自分の人生哲学や守りたい価値観を支える土台になる。私はこの考え方にとても共感しました。

    学ぶほど、世の中は単純ではないとわかってくる

    この本を読んでいて、何度も「そうなんだよな」と思ったのは、学べば学ぶほど正解が一つではないとわかってくる、という点でした。

    若い頃は、知れば知るほど世の中が整理されていくような気がしていました。
    けれど実際には逆で、深く考えれば考えるほど、新しい矛盾や別の立場が見えてきます。人と出会い、本を読み、仕事を続けてきた今の私は、むしろ「なぜ今までこんなことに気づかなかったのか」と思うことの方が多いです。

    だから私は、「これが正解です」と強く言い切る声に対して、以前よりずっと慎重になりました。
    その答えは“現時点では”正しいのかもしれない。けれど前提が変われば、評価も変わるかもしれない。学ぶほどに、大きい声で断定しにくくなる。けれどそれは弱さではなく、むしろ教養ある態度なのではないかと思います。

    知識より大事なのは、それを使って何を考えるか

    本書では、今の時代は「知っていること」自体の価値が下がっているとも語られていました。
    私はこの指摘に強くうなずきました。今は検索すれば多くの情報に触れられるし、ChatGPTのような存在もある。単に知識を持っているだけでは、それだけで大きな価値にはなりにくい時代です。

    だからこそ大事なのは、その知識を使って何を考えるか、どう判断するかだと思います。
    知識人と教養人は違う。たくさん知っている人が、そのまま教養人なのではない。知識を材料にして考え、他者と議論し、必要なら自分の意見も修正できる人。そういう人こそ、本当の意味で教養を持つ人なのだと感じました。

    特に印象に残ったのは、「わかったつもり」が教養の最大の敵だという話です。
    これは本当にそうだと思います。人のわかりやすい説明を聞いて、あたかも自分も理解したような気になってしまう。けれど本当は、他者のことを完全に理解することなど簡単にはできません。だからこそ、知的な謙虚さを持ちながら、想像し、考え続ける。その姿勢が大事なのだと感じました。

    学び続けることは、少し孤独でもある

    もう一つ、深く残ったのは、教養を深めることには孤独が伴うということでした。
    知らなければ考えずに済んだことを、知ってしまったがゆえに考えずにはいられなくなる。慣れ親しんだ価値観や共同体から、少し距離を置くことになる場合もある。私自身も最近、そういう感覚を持つことがあります。

    もちろん共同体には良さがあります。安心感もあるし、支えにもなります。
    けれど、そこで当たり前とされている価値観に、自分まで無自覚に引っ張られてしまうことには抵抗があります。誰かが言ったから正しい、みんながそうしているから正しい。そういう空気に対して、私はやはり「本当にそうなのか」と立ち止まりたくなるのです。

    その意味で、学び続けることは楽ではありません。
    けれど私は、その面倒くささも含めて面白いと思っています。考えることを放棄しないこと。正解らしきものに簡単に飛びつかないこと。その積み重ねが、自分の中心を少しずつ形づくっていくのだと思います。

    何を学ぶかより、どう学ぶか

    この本を読んで、最後に一番強く残ったのは、「何を学ぶかより、どう学ぶかが大事だ」ということでした。

    日本の教育は、どうしても正解を早く当てることや、知識を効率よく覚えることに偏りがちです。もちろん基礎として必要な部分はあるでしょう。けれど、それだけでは自分の頭で考える力は育ちにくい。意見を持つこと、表明すること、違う立場から考えること、批判を人格否定と切り離して受け止めること。そうした訓練がもっと必要なのだと思います。

    私は去年から、読んだことや考えたことをできるだけ言語化して残すようにしています。
    感じただけで終わらせず、言葉にして、自分で見直し、また考える。その繰り返しが、思考の痕跡になり、自分の中の教養になっていくのだと、本書を読んであらためて感じました。

    教養とは、人生を飾るための知識ではなく、複雑で不確かな世界を、自分の足で歩くための姿勢なのだと思います。
    そしてそれは、何を知っているかよりも、どう学び、どう考え続けるかによって育っていく。
    この本は、そのことをあらためて気づかせてくれた一冊でした。

  • 過去の読書は、未来の自分を待っているのかもしれない | 2026.03.09

    本は不思議なものだと思う。
    読んだその時にはうまく言葉にならなかったことが、何年も経ってから、まったく別の出来事をきっかけによみがえることがある。今回の私にとって、それが加藤陽子さんの『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』だった。

    この本を私は7年前に読んでいた。ブクログには2017年12月15日読了の記録が残っていた。けれど感想は書いていなかった。本も捨ててはいないはずなのに、本棚のどこにあるのか思い出せない。読んだという事実だけが残り、その時の自分が何を思ったのかは空白のままだった。

    そんな一冊が、最近読んだ二つの記事によって、ふいに私の中で動き出した。
    ひとつは、高校生がこの本を読んで書いた読書感想文。
    もうひとつは、慰安婦問題の実態にあらためて向き合った新聞記事だった。

    高校生の感想文に、私は教えられた

    まず驚いたのは、高校生の感想文の深さだった。
    文章がうまい、というだけではない。歴史を「昔の出来事」として遠くへ置かず、自分の足元につながる問題として引き寄せて考えている。その姿勢に、私は本当に驚かされた。

    過去の人々を、ただ「間違った判断をした人たち」と切り捨てるのではなく、自分もその時代にいたら同じ空気に流されたかもしれない、と見つめている。その想像力と思慮深さに、私は脱帽した。

    正直に言えば、高校生の頃の私が同じ本を読んでも、ここまでの感想文はとても書けなかったと思う。環境も情報量も違うのだろう。けれど、それを差し引いても、若い世代の中にある感受性や思考の深さを軽く見てはいけないと痛感した。
    「今時の若い子は」などという言葉は、こういう文章を読んだ後では、とても口にできない。

    7年前の読書が、今になって戻ってきた

    私は20代の頃から本を読み続けてきた。気がつけば4000冊ほどになる。ジャンルも決めず、興味が湧けばすぐ読む。新聞も雑誌も好きだし、映画も芸術も好きだ。自然の中に身を置いて感じることも、私にとっては大切な学びの一つだ。

    だから一冊の本も、その本だけで終わることは少ない。別の本とつながり、社会の出来事と重なり、時間が経ってから思わぬ形で意味を持ち始めることがある。今回の出来事は、まさにそれだった。

    7年前の私は、この本を読んで何かを感じていたはずだ。けれど、それを言葉に残していなかった。今なら少し違う形で向き合える気がする。社会情勢も変わり、自分も年齢を重ね、さまざまな本や現実に触れてきたからこそ、あの時には受け止めきれなかったものが、今ようやく輪郭を持ち始めている。

    読書は、その場で感想を書いて終わるものではない。
    時間の中で熟し、別の経験と結びつき、ある日突然、自分の中で開き直されることがある。
    過去の読書は、案外、未来の自分を待っているのかもしれない。私は今回、そんなことを強く感じた。

    負の歴史から目を背けないために

    もうひとつの記事を読んで、私はその問題を今あえて記事にした新聞社にも敬意を抱いた。
    どの国でも、自分たちにとって不都合な過去には目を背けたくなるものだと思う。忘れたい、軽く済ませたい、都合の良い解釈で包みたい。そういう気持ちは、国にも社会にも、人間にもある。

    しかし、だからこそ、そこから目をそらし続けることの危険性を私たちは学ばなければならないのだと思う。負の歴史を見ないままでいることは、同じ過ちを別の形で繰り返すことにつながる。
    歴史に学ぶとは、誇らしい出来事だけを並べて安心することではない。目を背けたくなるような出来事も含めて、人はなぜそうしたのか、なぜ止められなかったのか、なぜ沈黙したのかを考え続けることなのだと思う。

    私は今回、日本人として考えた、というだけでは足りないとも感じた。
    これは日本という国の問題である前に、人間そのものの問題でもある。
    人はなぜ、都合の悪いことから目をそらすのか。
    なぜ、空気に流されるのか。
    なぜ、正しさよりも安心を選んでしまうのか。
    そこを見つめない限り、本当の意味での進化はないのではないか。そんな思いが、今回いっそう強くなった。

    私の中に流れていた思考の軸

    今回の二つの記事を読んで、自分の中の思考軸が少し固まった気がした。
    それは、「人間の愚かさを理解しないと、人間としての進化はないのではないか」ということだ。

    進化というと、技術の進歩や知識の蓄積を思い浮かべる。けれど、どれだけ便利な時代になっても、人間の弱さそのものが消えるわけではない。むしろ便利さや情報の多さが、新しい同調圧力や分断を生むことすらある。だからこそ、過去の歴史をただ知識として知るだけでは足りない。その中にある弱さ、恐れ、保身、沈黙、そして愚かさを、自分の問題として感じ取ることが大切なのだと思う。

    高校生の感想文には、歴史を自分事として引き受ける若さならではの鋭さがあった。
    一方で今の私には、長年の読書や新聞、映画や芸術、そして自然に触れながら積み重ねてきた時間の中で、人間とは何かを問い続けてきた感覚がある。若い感性には若い感性の力があり、年齢を重ねた視点にはまた別の重みがある。今回私は、その両方の価値を感じた。

    高校生の感想文に教えられ、新聞記事に背中を押され、7年前に読んだ一冊が、今の自分の中で静かによみがえった。
    それは単なる懐かしさではなかった。
    過去の読書が、今の自分の問いとつながった瞬間だった。

    本は、読むたびに同じではない。
    読む自分が変われば、本もまた違う顔を見せる。
    そして時には、一度読み終えたはずの本が、何年も経ってからもう一度、自分の生き方や考え方を照らしてくれることがある。

    今回よみがえったのは、本の内容だけではなかった。
    自分がこれからも大切にしたいと思う、ひとつの軸だった。
    負の歴史から目を背けないこと。
    人間の愚かさを忘れないこと。
    そして、それを「昔の誰かの話」で終わらせず、自分の中にも同じ危うさがあると認め続けること。

    その姿勢だけは、これからも失いたくないと思っている。

  • うまく言えない気持ちが、言葉になる喜び | 2026.03.06

    自分の変化を言葉で見つめ直す時間

    心野そらさんの『noteで始めるAIジャーナリング』を読んで、私はとても強く共感しました。
    というのも、私はこの2年ほどnoteに文章を書き続けてきて、その中で自分の心の動きや考え方の変化を、少しずつ残してきたからです。

    書いたその時には気づかなくても、あとから読み返してみると、「あの頃はこんなことを考えていたんだな」「この時期を越えて今の自分があるんだな」と、自分の歩いてきた道が見えてきます。noteはただ文章を投稿する場所ではなく、自分の物語を少しずつ紡いでいく場所なのだと、改めて感じました。

    特に印象に残ったのは、自分の文章を通して、自分の変化を振り返ることができるという点です。人は毎日少しずつ変わっていくのに、その変化は意外と自分では見えにくいものです。でも、言葉にして残しておくことで、その時々の迷いや喜びや気づきが、あとから確かな形になって立ち上がってきます。私はそれが、noteの大きな魅力だと思っています。

    「スキ」は評価ではなく、受け取ったよという優しいサイン

    この本を読んで、もうひとつ深くうなずいたのが、noteの「スキ」という機能についての考え方でした。
    初めて「スキ」をもらった時のことを、私もよく覚えています。誰かが読んでくれた、自分の書いたものが誰かに届いた。その実感が胸の中にじんわり広がって、とても嬉しかったのです。

    これは単純な承認欲求という言葉だけでは片づけられないものだと思います。もちろん、見てもらえることは嬉しい。でもそれ以上に、「あなたの気持ちを受け取ったよ」と静かに返してもらえたような感覚があるのです。著者が書いていたように、「スキ」は評価というより、読んだよという優しいサインなのだと思いました。

    私は写真をInstagramにも投稿していますが、写真に「いいね」がついたり、コメントをいただいたりすると、「ああ、届いたんだな」と感じます。それは大げさな評価ではなく、ほんの少し誰かの心に触れられたという喜びです。文章も同じで、noteの「スキ」は、小さなハートマークでありながら、書く人の心を支えてくれる小さな光なのだと思います。

    だからこそ、また書こうという気持ちになれる。発信を続ける力になる。そういう循環が、noteの中にはあるのだと感じました。

    ChatGPTは思考を整理してくれるパートナーだった

    この本を読んで特に「その通りだ」と思ったのは、ChatGPTの存在についてです。
    私自身、noteを書く時にChatGPTをよく使っていますが、まさに思考を整理するパートナーのような存在になっています。

    自分ひとりで文章を書こうとすると、「これでいいのかな」「もっと別の言い方があるのではないか」と手が止まってしまうことがあります。気持ちはあるのに、うまく言葉にならない。途中で自分の文章に自信が持てなくなってしまうこともあります。そんな時にChatGPTが整えた文章を返してくれると、「ああ、自分が言いたかったのはこういうことだったんだ」と、安心しながら受け取ることができます。

    本の中にあった、ぐちゃぐちゃだった部屋を誰かに片づけてもらったような感覚、という表現もとてもよく分かりました。頭の中や心の中では確かに感じていたことが、整理された文章になることで、初めて自分でも素直に理解できる。これはとても大きな助けです。

    しかも、ChatGPTが返してくれる文章には、自分では気づかなかった視点が入っていることがあります。自分の中にあったのに、まだ言葉になっていなかったものを、そっと拾い上げてくれるような感覚です。だから私は、noteとChatGPTはとても相性がいいと思います。

    この本を読んで、「AIジャーナリング」という言葉に出会えたことも嬉しかったです。自分が続けてきたことに、ちゃんと名前があった。そして同じような思いでnoteを使っている人がいる。そのことが、とても心強く感じられました。

    今の時代は、インプットだけで終わらず、受け取ったものを整理し、自分の言葉で外に出していくことがますます大切になっていくと思います。noteはそのための場所であり、ChatGPTはそのための心強い道具です。
    この本を読んで、自分のやってきたことは間違っていなかったのだと感じることができました。これからも、自分の気持ちや変化を言葉にしながら、noteという場所で自分の物語を紡いでいきたいと思います。

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