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本を読むだけでは、うまくいかない | 2026.07.14

長倉顕太さんの『本を読む人はうまくいく』を読んだ。
題名だけを見ると、「本をたくさん読めば、人生はうまくいく」と書かれているように感じる。
しかし、読みながら私が思ったのは、本を読んだ冊数と、人生がうまくいくことは、必ずしも比例しないということだった。
私自身、これまでかなり多くの本を読んできた。現在も月に十冊以上は読む。
それでも、本を読んだから立派な人間になれたかと聞かれれば、自信を持って「はい」とは言えない。
本を読んでも、すぐに性格が変わるわけではない。知識が増えたことで、自分は分かっていると思い込み、かえって人の話を聞けなくなることさえある。
だからこそ、本は「読んだ」という事実ではなく、読んだあとに何を考え、どう行動したかが大切なのだと思う。
本は、自分の外へ連れ出してくれる
人間は、自分の経験だけで物事を考えていると、どうしても視野が狭くなる。
同じ仕事を長く続けていれば、その業界の常識に縛られる。同じ地域、同じ人間関係、同じ考え方の中にいれば、それが世の中のすべてのように感じてしまう。
本は、そんな自分を別の場所へ連れ出してくれる。
歴史を読めば、何百年も前の人間の悩みや決断に触れられる。
科学の本を読めば、自分の目では見ることのできない生命や宇宙の仕組みを知ることができる。
若い人の書いた本を読めば、自分とは違う時代感覚や価値観に出会うことができる。
一人の人間が、自分の人生だけで経験できることには限界がある。
けれど本を通せば、著者が何年、時には何十年もかけて考え、経験してきたことに、短い時間で触れることができる。
本とは、他人の人生や思考を凝縮したものなのだろう。
だから本を読む人は、自分の経験だけで考える人よりも、多くの選択肢を持つことができる。
人生がうまくいくというのは、失敗しないことではない。
何かが起きたとき、一つの考え方に固執せず、別の見方や進み方を選べることではないだろうか。
読書は、すぐには役に立たない
私は、すぐに役立つことだけを求めて本を読んでいるわけではない。
仕事や経営、建築、IT、AIに関する本も読むが、それとは直接関係のない歴史、宗教、生命、宇宙、哲学の本も読む。
読んだ直後には、何の役に立つのか分からないことも多い。
それでも、何年かたってから、過去に読んだ本の一節と、目の前で起きている出来事が突然つながることがある。
点と点がつながり、自分なりの考えになる。
新しい発想は、同じ分野の知識だけから生まれるとは限らない。
植物の生き残り方から、人間の生き方を考えることもある。
歴史の失敗から、今の社会の動きを考えることもある。
宇宙や生命の本を読みながら、自分の悩みの小ささに気づくこともある。
一見すると関係のない知識が、頭の中で結びついたとき、そこに自分だけの考えが生まれる。
読書の面白さは、すぐに答えが出ることではなく、時間をかけて自分の中で熟成していくことにあるのだと思う。
読んだだけでは、知識は残らない
以前の私は、本を読んで「なるほど」と思ったところに付箋を貼り、そのまま本棚に戻してしまうことが多かった。
読んでいるときには理解したつもりでも、時間がたつと内容は曖昧になる。
誰かに説明しようとしても、うまく言葉にできない。
本を読んだという満足感は残っても、何を学んだのかは、はっきり残っていなかった。
知識は頭の中に入っていても、ぼんやりとした知識の寄せ集めのままだった。
これは、読書量の問題ではなかった。
読んだあとに、自分の言葉で考えていなかったからだと思う。
本を読むことは、著者の考えを受け取ることだ。
しかし、それだけではまだ、自分の考えにはなっていない。
「私はどう思うのか」
「自分の経験と、どこがつながるのか」
「納得できないところはどこか」
「これから何を変えたいのか」
そこまで考えて初めて、本の内容が自分の中に入ってくる。
AIによって、読書の形が変わった
私の読書は、AIを使うようになって大きく変わった。
本を読んで感じたことを、まず音声で話す。
うまくまとまっていなくても、そのまま言葉にしてみる。
そして、その音声をもとにAIと対話しながら、考えを整理していく。
本の要点をまとめるだけではない。
自分がなぜその部分に引っかかったのか。
過去の経験とどうつながったのか。
今の社会やこれからの生き方について、何を考えたのか。
AIとの対話を重ねることで、自分でも気づいていなかった考えが見えてくる。
私は、AIに感想文を書いてもらっているとは思っていない。
自分の中にある、まだ形になっていない考えを、AIと一緒に取り出しているのである。
読書が、読むだけで終わらなくなった。
読み、話し、考え、書き、発信する。
この流れができたことで、一冊の本と向き合う時間が、以前より深くなった。
AIは、答えを出してくれる道具というより、自分の考えを映す鏡に近い。
問いかければ、問いが返ってくる。
曖昧な言葉を投げれば、どこが曖昧なのかが見えてくる。
本を読んで終わるのではなく、本をきっかけに自分自身と対話する。
そのための相棒として、AIはとても面白い存在だと思っている。
本を読んだ人ではなく、本によって動いた人になる
この本を読んで、改めて思った。
本を読む人が、必ずうまくいくわけではない。
本を読むことによって、自分の考え方を少し変え、行動を一つ変えた人が、結果としてうまくいくのではないだろうか。
本の中に、人生の正解が書いてあるわけではない。
著者の正解が、そのまま自分の正解になるわけでもない。
大切なのは、著者の考えを鵜呑みにするのではなく、自分の頭で考え直すことだ。
一冊の本を読んで、たった一つでも行動が変われば、その読書には十分な価値がある。
誰かへの言葉が少し変わる。
今まで否定していたものを、一度受け入れてみる。
新しい技術に触れてみる。
知らない場所へ出かけてみる。
自分の考えを、短い文章でもいいから発信してみる。
そうした小さな変化の積み重ねが、数年後の自分を作っていく。
私は今も、本を読むことをやめようとは思わない。
むしろ、年齢を重ねた今だからこそ、読書は面白くなっている。
若い頃には分からなかった言葉が、今読むとよく分かることがある。
以前は通り過ぎていた一文が、自分の経験と結びつき、急に重みを持つこともある。
同じ本を読んでも、読む年齢や置かれた状況によって、受け取るものは変わる。
だから本は、一度読めば終わりではない。
自分が変われば、本の見え方も変わる。
本を読むだけでは、人生は変わらない。
けれど、本を読み、自分の頭で考え、言葉にし、小さく動き始めれば、人生は少しずつ違う方向へ進んでいく。
「本を読む人はうまくいく」とは、知識をたくさん持つ人が成功するという意味ではないのだろう。
本を通して、何度でも自分の考えを更新できる人。
自分の外にある世界を受け入れ、昨日とは少し違う行動を選べる人。
そういう人が、失敗さえも学びに変えながら、自分なりの「うまくいく人生」を作っていくのだと思う。
#読書
#読書感想文
#本を読む人はうまくいく
#長倉顕太
#読書習慣
#学び
#アウトプット
#AIと読書
#ChatGPT活用
#人生を考える長倉顕太さんの『本を読む人はうまくいく』を読んだ。
題名だけを見ると、「本をたくさん読めば、人生はうまくいく」と書かれているように感じる。
しかし、読みながら私が思ったのは、本を読んだ冊数と、人生がうまくいくことは、必ずしも比例しないということだった。
私自身、これまでかなり多くの本を読んできた。現在も月に十冊以上は読む。
それでも、本を読んだから立派な人間になれたかと聞かれれば、自信を持って「はい」とは言えない。
本を読んでも、すぐに性格が変わるわけではない。知識が増えたことで、自分は分かっていると思い込み、かえって人の話を聞けなくなることさえある。
だからこそ、本は「読んだ」という事実ではなく、読んだあとに何を考え、どう行動したかが大切なのだと思う。
本は、自分の外へ連れ出してくれる
人間は、自分の経験だけで物事を考えていると、どうしても視野が狭くなる。
同じ仕事を長く続けていれば、その業界の常識に縛られる。同じ地域、同じ人間関係、同じ考え方の中にいれば、それが世の中のすべてのように感じてしまう。
本は、そんな自分を別の場所へ連れ出してくれる。
歴史を読めば、何百年も前の人間の悩みや決断に触れられる。
科学の本を読めば、自分の目では見ることのできない生命や宇宙の仕組みを知ることができる。
若い人の書いた本を読めば、自分とは違う時代感覚や価値観に出会うことができる。
一人の人間が、自分の人生だけで経験できることには限界がある。
けれど本を通せば、著者が何年、時には何十年もかけて考え、経験してきたことに、短い時間で触れることができる。
本とは、他人の人生や思考を凝縮したものなのだろう。
だから本を読む人は、自分の経験だけで考える人よりも、多くの選択肢を持つことができる。
人生がうまくいくというのは、失敗しないことではない。
何かが起きたとき、一つの考え方に固執せず、別の見方や進み方を選べることではないだろうか。
読書は、すぐには役に立たない
私は、すぐに役立つことだけを求めて本を読んでいるわけではない。
仕事や経営、建築、IT、AIに関する本も読むが、それとは直接関係のない歴史、宗教、生命、宇宙、哲学の本も読む。
読んだ直後には、何の役に立つのか分からないことも多い。
それでも、何年かたってから、過去に読んだ本の一節と、目の前で起きている出来事が突然つながることがある。
点と点がつながり、自分なりの考えになる。
新しい発想は、同じ分野の知識だけから生まれるとは限らない。
植物の生き残り方から、人間の生き方を考えることもある。
歴史の失敗から、今の社会の動きを考えることもある。
宇宙や生命の本を読みながら、自分の悩みの小ささに気づくこともある。
一見すると関係のない知識が、頭の中で結びついたとき、そこに自分だけの考えが生まれる。
読書の面白さは、すぐに答えが出ることではなく、時間をかけて自分の中で熟成していくことにあるのだと思う。
読んだだけでは、知識は残らない
以前の私は、本を読んで「なるほど」と思ったところに付箋を貼り、そのまま本棚に戻してしまうことが多かった。
読んでいるときには理解したつもりでも、時間がたつと内容は曖昧になる。
誰かに説明しようとしても、うまく言葉にできない。
本を読んだという満足感は残っても、何を学んだのかは、はっきり残っていなかった。
知識は頭の中に入っていても、ぼんやりとした知識の寄せ集めのままだった。
これは、読書量の問題ではなかった。
読んだあとに、自分の言葉で考えていなかったからだと思う。
本を読むことは、著者の考えを受け取ることだ。
しかし、それだけではまだ、自分の考えにはなっていない。
「私はどう思うのか」
「自分の経験と、どこがつながるのか」
「納得できないところはどこか」
「これから何を変えたいのか」
そこまで考えて初めて、本の内容が自分の中に入ってくる。
AIによって、読書の形が変わった
私の読書は、AIを使うようになって大きく変わった。
本を読んで感じたことを、まず音声で話す。
うまくまとまっていなくても、そのまま言葉にしてみる。
そして、その音声をもとにAIと対話しながら、考えを整理していく。
本の要点をまとめるだけではない。
自分がなぜその部分に引っかかったのか。
過去の経験とどうつながったのか。
今の社会やこれからの生き方について、何を考えたのか。
AIとの対話を重ねることで、自分でも気づいていなかった考えが見えてくる。
私は、AIに感想文を書いてもらっているとは思っていない。
自分の中にある、まだ形になっていない考えを、AIと一緒に取り出しているのである。
読書が、読むだけで終わらなくなった。
読み、話し、考え、書き、発信する。
この流れができたことで、一冊の本と向き合う時間が、以前より深くなった。
AIは、答えを出してくれる道具というより、自分の考えを映す鏡に近い。
問いかければ、問いが返ってくる。
曖昧な言葉を投げれば、どこが曖昧なのかが見えてくる。
本を読んで終わるのではなく、本をきっかけに自分自身と対話する。
そのための相棒として、AIはとても面白い存在だと思っている。
本を読んだ人ではなく、本によって動いた人になる
この本を読んで、改めて思った。
本を読む人が、必ずうまくいくわけではない。
本を読むことによって、自分の考え方を少し変え、行動を一つ変えた人が、結果としてうまくいくのではないだろうか。
本の中に、人生の正解が書いてあるわけではない。
著者の正解が、そのまま自分の正解になるわけでもない。
大切なのは、著者の考えを鵜呑みにするのではなく、自分の頭で考え直すことだ。
一冊の本を読んで、たった一つでも行動が変われば、その読書には十分な価値がある。
誰かへの言葉が少し変わる。
今まで否定していたものを、一度受け入れてみる。
新しい技術に触れてみる。
知らない場所へ出かけてみる。
自分の考えを、短い文章でもいいから発信してみる。
そうした小さな変化の積み重ねが、数年後の自分を作っていく。
私は今も、本を読むことをやめようとは思わない。
むしろ、年齢を重ねた今だからこそ、読書は面白くなっている。
若い頃には分からなかった言葉が、今読むとよく分かることがある。
以前は通り過ぎていた一文が、自分の経験と結びつき、急に重みを持つこともある。
同じ本を読んでも、読む年齢や置かれた状況によって、受け取るものは変わる。
だから本は、一度読めば終わりではない。
自分が変われば、本の見え方も変わる。
本を読むだけでは、人生は変わらない。
けれど、本を読み、自分の頭で考え、言葉にし、小さく動き始めれば、人生は少しずつ違う方向へ進んでいく。
「本を読む人はうまくいく」とは、知識をたくさん持つ人が成功するという意味ではないのだろう。
本を通して、何度でも自分の考えを更新できる人。
自分の外にある世界を受け入れ、昨日とは少し違う行動を選べる人。
そういう人が、失敗さえも学びに変えながら、自分なりの「うまくいく人生」を作っていくのだと思う。
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4万年の旅に、私はいる | 2026.07.08

―『「新装版」アフリカで誕生した人類が日本人になる』溝口優司 著を読んで―
私たちは、みんなアフリカから来た
「日本人はどこから来たのか」
そんな問いに答えようとすると、私はこれまで縄文人や弥生人の話から考えていた。
学校で習った歴史も、だいたいそのあたりから始まる。
縄文時代があり、弥生時代があり、大陸から人が渡ってきて、少しずつ今の日本人がつくられていった。
私は、なんとなくそう理解していた。
しかし、この本を読んでいると、それでは時間の幅があまりにも短いことに気づかされた。
私たちの物語は、もっともっと遠い。
人類はアフリカで誕生した。
そこから何万年、何十万年という時間をかけ、世界中へ広がっていった。
山を越え、砂漠を越え、寒い土地へ入り、海を渡り、さまざまな環境に適応しながら、ようやく日本列島までたどり着いた。
日本で見つかっている最古のホモ・サピエンスの人骨は、約4万年前のものだという。
4万年。
数字で書けば、たった三文字である。
しかし、私にはその時間の長さがまったく想像できない。
私は70年生きてきた。
自分では、ずいぶん長く生きてきたつもりでいる。
会社の歴史も見てきた。
世の中の変化も見てきた。
コンピューターも、インターネットも、スマートフォンも、AIも、自分の人生の中で登場した。
それだけでも、ものすごい変化だったと思う。
しかし、4万年という時間の前では、70年などほんの一瞬でしかない。
その一瞬の中に、私は今いる。
そして、その遠い遠い旅の先に、今の私の身体がある。
この本を読んで、まずそのことに驚いた。
人間の身体は、環境に合わせて変わってきた
人間の身体は、最初から今の形だったわけではない。
直立二足歩行をするようになり、手が自由になった。
手が自由になると、道具を使えるようになった。
石器を使い、火を使い、食べ物を加工するようになった。
すると、それまで必要だった大きな顎や大きな歯が、少しずつ小さくなっていったという。
特に面白かったのは、犬歯の話だった。
動物にとって犬歯は、食べるためだけでなく、威嚇や攻撃のための武器でもある。
しかし、人間は手に道具を持つようになった。
口で相手を威嚇するより、手に武器を持った方が強い。
その結果、犬歯は小さくなっていったのではないかという。
人間は、身体そのものを強くするだけではなく、自分の外側に道具をつくることで生き延びてきた。
ここは、今の私たちにもつながっているように思う。
私は日頃からAIを使っている。
CADも使う。
3Dも使う。
点群スキャナーも使う。
自分の頭や手だけではできないことを、道具によって補っている。
考えてみれば、人間は何万年も前から、ずっと同じことをしてきたのではないだろうか。
自分に足りないものを、道具で補う。
弱いから工夫する。
できないから考える。
それが人間なのだと思う。
一重まぶたにも、祖先の旅の記憶がある
この本の中で、私が特に面白いと思い、何度も考えたのが、まぶたの話だった。
日本人を含む東アジアや北アジアの人々には、一重まぶたの人が多い。
私は最初、この話を聞いて少し不思議に思った。
一重と二重。
言葉だけで考えると、「二重」の方が何かが重なっているように見える。
だから私は、
「二重まぶたの方が、脂肪が多いのではないか」
と一瞬思った。
しかし、実際には逆だという。
一重まぶたは、まぶたの脂肪や組織に厚みがあるため、皮膚が折れ込みにくく、二重の線ができにくい。
二重まぶたは、目を開ける筋肉と皮膚のつながりによって、皮膚が折れ込んで線ができる。
だから、「二重」という言葉だから脂肪が二重についているわけではない。
むしろ、まぶたに厚みや脂肪があることで、折れ目ができにくくなり、一重に見えるという。
私は、ここでようやく納得した。
そして、この本では、その一重まぶたの特徴について、寒冷地への適応との関係が紹介されている。
遠い祖先が寒い地域を通り、厳しい寒さの中で暮らすうちに、眼球や目の周りを寒さから守るため、まぶたに脂肪や厚みが増えたのではないか。
その結果として、一重まぶたにつながる特徴が生まれたのではないかという。
もちろん、これは一つの仮説であり、すべてが完全に解明されたわけではない。
しかし、私はこの話にとても驚いた。
なぜなら、今の日本が特別に寒いから、日本人に一重まぶたの人が多い、という話ではないからだ。
もっと遠い祖先の話なのである。
アフリカを出た人類が、何万年もの時間をかけて移動する途中で、寒冷な地域を通った。
そこで身体が環境に適応し、その特徴を持つ人々の子孫が、さらに長い移動を続け、やがて日本列島へたどり着いた。
つまり、今の自分のまぶたに、何万年も前の祖先の旅の跡が残っているかもしれないのである。
これは、本当に不思議なことだと思う。
私たちは普段、一重か二重かを、美しさの基準として見てしまう。
二重にしたい。
目を大きく見せたい。
そんな話はよく聞く。
しかし、人類の長い時間で考えると、見え方がまったく変わる。
一重まぶたは、単なる見た目の違いではない。
そこには、遠い祖先が寒さを生き抜いた記憶があるのかもしれない。
自分の顔を鏡で見る。
そこに、何万年も前の人類の移動が残っている。
そう考えると、顔というものが急に不思議に思えてくる。
鼻の形。
肌の色。
髪の濃さ。
体格。
まぶた。
私たちは、自分の身体を「自分のもの」だと思っている。
しかし実際には、何千世代もの祖先から受け継いだものなのである。
私の顔は、私一人でつくられたものではない。
遠い昔の人々が、どこを歩き、どんな寒さに耐え、どんな食べ物を食べ、どんな環境を生き抜いてきたか。
その積み重ねの先に、今の私がいる。
そう思うと、自分の身体を見る目さえ変わってくる。
肌の色も、髪も、体格も、長い環境の中で生まれた
人間の身体の違いは、何か優れているとか、劣っているとか、そういう話ではない。
ただ、その土地で生き延びるために変化してきた。
寒い地域では、熱を逃がしにくい体格が有利になる。
暑い地域では、また別の身体の特徴が有利になる。
肌の色も、髪の特徴も、環境との関係の中で長い時間をかけて変化してきた。
考えてみれば、当たり前のことなのかもしれない。
人間だけが自然から切り離されて存在しているわけではない。
私たちも、生物である。
植物が環境によって姿を変えるように、動物も環境によって姿を変える。
人間も同じなのである。
しかし、私たちはつい、人間だけを特別に考えてしまう。
国籍で分ける。
人種で分ける。
文化で分ける。
肌の色で分ける。
顔の違いで分ける。
けれど、もっと長い時間で見れば、私たちはみんな同じホモ・サピエンスである。
もともとは、みんなアフリカから始まった。
そこから、違う道を歩いただけなのだ。
そう考えると、人間同士が小さな違いで争うことが、なんとも不思議に思えてくる。
強かったから生き残ったのではない
ネアンデルタール人の話も興味深かった。
彼らは寒冷地に適応した、頑丈な身体を持っていた。
身体そのものが寒さに強かった。
一方、ホモ・サピエンスは、身体だけでは寒さに十分対応できなかった。
だから、考えた。
服をつくった。
針を使った。
住居をつくった。
火を使った。
道具を発達させた。
私は、ここに人間という生き物の面白さを感じる。
強かったから生き残ったのではない。
弱かったから工夫した。
足りなかったから考えた。
不便だったから、つくった。
もしかしたら、人間の進化とは、身体を強くすることではなく、自分の外側に新しいものをつくり続けることだったのかもしれない。
今、私たちはAIという新しい道具を手にしている。
AIによって、人間の仕事が奪われると言う人もいる。
AIを恐れる人もいる。
しかし、人類の長い歴史から見れば、道具を使うことは、人間らしさそのものなのではないか。
石器を使った。
火を使った。
針を使った。
機械を使った。
コンピューターを使った。
そして今、AIを使う。
そう考えると、AIも突然現れた異質なものではなく、人類が何万年も続けてきた自己拡張の延長線上にあるように思える。
私は、人間とAIが融合する時代を面白いと思っている。
それは、もしかすると人類が昔から続けてきた旅の、次の一歩なのかもしれない。
2000年と1万3000年
この本を読んで、私が最も立ち止まったのは、縄文時代の長さだった。
縄文時代は、およそ1万3000年も続いたという。
1万3000年。
これも、私には想像できない時間である。
私たちはよく、
「日本の伝統」
「日本の文化」
「日本人らしさ」
という言葉を使う。
もちろん、それは大切である。
日本の歴史や文化を大切にすることに、私は何の異論もない。
しかし、今の私たちが日本文化と呼んでいるものの多くは、せいぜい2000年ほどの歴史である。
それに対して、縄文時代は1万3000年も続いた。
そう考えると、私は急に時間の感覚が分からなくなった。
今まで自分が見てきた「日本の歴史」は、なんと短いのだろう。
縄文時代だけでも1万3000年ある。
その前には、日本列島へたどり着くまでの何万年という人類の移動がある。
さらにその前には、アフリカで始まった人類の歴史がある。
そう考えると、
「日本人とはこういうものだ」
「日本の文化とはこういうものだ」
と簡単に言い切ることが、少し怖くなる。
私たちは、ほんの短い時代の価値観を見て、それが永遠に続いてきたもののように考えているのではないだろうか。
今の常識も、何千年後の人から見れば、ほんの一時期の習慣でしかないかもしれない。
今、絶対に正しいと思っていることも、未来から見れば不思議な考え方に見えるかもしれない。
そう思うと、もっと長い時間で物事を考えなければならないと思う。
「日本人」という完成品はない
DNA分析の技術が進み、日本人の起源についても、これまでの考え方が少しずつ変わっているという。
縄文人。
弥生人。
大陸から来た人々。
北から来た人々。
南から来た人々。
アイヌの人々。
琉球の人々。
昔は、もっと単純に説明されていたように思う。
しかし、今はそう簡単ではないことが分かってきている。
私は、そこがとても面白い。
日本人は、ある時突然完成した民族ではない。
いろいろな場所から来た人々が出会い、混ざり、環境に適応しながら、少しずつ今の姿になってきた。
そして、それは今も続いている。
そう考えると、「日本人」という完成品はないのではないかと思う。
人間は、いつも変化の途中にいる。
日本人も変化の途中。
人類も変化の途中。
今の私たちが最終形ではない。
それは、考えてみれば当たり前のことなのだが、普段はそんなふうに考えない。
私たちは、今を完成形だと思い込んでいる。
しかし、未来の人類から見れば、今の私たちも「途中の人間」なのである。
70年も、4万年の中では一瞬
私は70年生きてきた。
自分の人生を振り返ると、たくさんのことがあった。
会社を経営してきた。
失敗もした。
うまくいったこともある。
いろいろな人に出会った。
いろいろな場所へ行った。
本もたくさん読んだ。
写真もたくさん撮った。
自分なりに、長い人生を歩いてきたと思っている。
しかし、4万年という時間の前では、70年など一瞬である。
縄文時代の1万3000年と比べても、ほんの点にもならない。
そう思うと、少し気持ちが楽になる。
今、自分が悩んでいること。
今、社会が大騒ぎしていること。
今、絶対に変えられないと思っていること。
それらも、長い時間で見れば、ほんの一時期の出来事なのかもしれない。
もちろん、今を大切に生きることは必要である。
しかし、今だけをすべてだと思わないことも大切なのではないか。
もっと長く見る。
もっと遠くから見る。
私は、この本からその視点をもらった。
私の顔にも、4万年の旅がある
この本を読み終えて、改めて自分の顔を考えた。
まぶた。
髪。
肌。
体格。
それは、ただの「私の身体」ではない。
遠い祖先が、長い長い時間をかけて生き延び、移動し、環境に適応してきた結果でもある。
一重まぶたの話を聞いた時、私は最初、
「日本はそれほど寒い国なのだろうか」
と思った。
さらに、
「二重まぶたの方が、脂肪が多いのではないか」
とも思った。
しかし、よく考え、仕組みを知っていくと、それは今の日本の気候の話ではなかった。
何万年も前の祖先の旅の話だった。
そして、一重と二重という言葉の印象とは逆に、まぶたの厚みや脂肪が多いことで、一重の特徴が生まれることも知った。
私は、こういう瞬間が本を読む面白さだと思う。
自分が当たり前だと思っていたことが、一度ひっくり返る。
疑問を持つ。
調べる。
そして、今までとは違う景色が見えてくる。
今の私の顔にも、祖先の旅の記憶が残っているのかもしれない。
アフリカを出発し、長い時間をかけ、寒い地域を通り、さまざまな場所で生き延び、ようやく日本列島へたどり着いた。
その旅の先に、私はいる。
そう思うと、自分という存在が急に大きな時間の中に置かれる。
私は、自分一人で生きているのではない。
何万年という命の連続の先にいる。
そして私もまた、その長い旅のほんの一瞬を生きている。
この本を読んで、私は改めて思った。
人間を考えるときも、日本を考えるときも、目の前の数十年だけを見てはいけない。
もっと長く。
もっと遠く。
4万年の旅の中に、自分を置いてみる。
すると、
「私はどこから来たのか」
という問いは、いつの間にか、
「人類は、これからどこへ行くのか」
という問いに変わっていた。
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AI時代に、幸せの距離を考える | 2026.07.01

――『なぜヒトだけが幸せになれないのか』小林武彦 著を読んで
人は、なぜ幸せになりたいと願いながら、なかなか幸せを感じられないのだろう。
神社に行けば、家族の健康を願い、仕事の成功を願い、子どもや孫の無事を願う。最後にはやはり「幸せでありますように」と手を合わせる。
けれども、考えてみれば不思議です。
人間は、これほど便利な時代に生きている。食べ物もあり、住む場所もあり、医療もあり、情報もあふれている。それなのに、なぜか不安が消えない。もっと欲しい、もっと安心したい、もっと認められたい。幸せになるために生きているはずなのに、幸せが遠く感じられることがある。
小林武彦さんの『なぜヒトだけが幸せになれないのか』を読んで、その理由の一つが少し見えた気がしました。
幸せとは「死からの距離」だった
この本でとても印象に残ったのは、幸せを「死からの距離」として考える視点です。
野生の生き物にとって、幸せはとても単純です。食べること。そして、食べられないこと。生き延びること。それがそのまま幸せにつながっている。
つまり、死ぬ可能性が遠ざかっている状態。安心して、気分よく、生きていられる状態。それが生物としての幸せなのだという考え方です。
人間も本来は同じはずです。
ところが人間は、頭が良くなりすぎた。未来を考え、過去を悔やみ、人と比べ、財産を持ち、地位を気にし、老後を心配する。実際には今、死が迫っているわけではないのに、頭の中でいくらでも不安を作り出してしまう。
だからヒトだけが、幸せを感じにくくなったのかもしれません。
弱かったから、道具を作った
人間は、もともと強い動物ではなかったと思います。
鋭い牙があるわけでもない。速く走れるわけでもない。裸の体で、自然の中に放り出されたら、とても弱い存在です。
けれども、その弱さがあったからこそ、人間は道具を作り、火を使い、言葉を持ち、仲間と協力するようになった。
火を使えば食べられるものが増える。道具を使えば狩りもできる。言葉があれば危険を伝えられる。集団で生きれば、一人では越えられない困難も越えられる。
人間の幸せは、一人で完結するものではなく、誰かとつながり、協力し、助け合うことで「死からの距離」を広げてきたのだと思います。
これは会社経営にも通じる話だと感じました。
一人の力では限界がある。けれども、それぞれの得意を持ち寄り、支え合えば、新しいことができる。人間は最初から、協力しなければ生きられない生き物だったのだと思います。
子どもがいなければ幸せではない、ではない?
この本を読んで、もう一つ心に残ったのは、子どもや子孫についての考え方です。
もちろん、子どもを持つこと、育てることは大きな幸せです。私自身も、孫と過ごす時間の中で、命がつながっていく不思議さやありがたさを感じます。
けれども、だからといって、子どもがいなければ幸せではない、ということではない。
自然界を見ても、直接子孫を残さない個体はたくさんいます。ミツバチの働き蜂もそうです。シロアリもそうです。マグロも成熟する前にほとんどが死んでしまう。すべての個体が子孫を残すようには、自然はできていない。
それでも、それぞれの命には役割がある。
子どもを育てることだけが幸せではなく、誰かを助けること、何かを作ること、好きなことに没頭すること、学び続けることも、死からの距離を広げる行為なのだと思います。
私にとっては、読書も、写真も、会社で新しい挑戦をすることも、AIを使って考えを深めることも、すべて幸せに近づく行為なのかもしれません。
都市に集まるほど、不安も集まる
本の中で、都市への人口集中についても考えさせられました。
人が集まるところに、さらに人が集まる。労働力が集まり、富が集まり、また人が集まる。都市はそうやって大きくなっていく。
しかし、人間の体や心は、もともと大都市向けに作られているわけではないのかもしれません。
人類の長い歴史の大部分は、少人数の集団で、自然の中を移動しながら暮らしてきた時間です。動き回り、顔の見える仲間と暮らし、自然の変化を感じながら生きてきた。
それが急に、密集した都市で、情報に追われ、知らない人に囲まれ、時間に追われる生活になった。
便利にはなったけれど、心の奥ではどこか苦しい。これは人間が本来持っている幸せの仕組みと、現代の暮らしが少しずれているからなのかもしれません。
地方に住む私には、この話はとても実感があります。
自然が近くにあり、車で少し走れば山も海もある。写真を撮りに出かけ、季節の花に出会い、知らない場所で光を待つ。そういう時間は、まさに自分の「死からの距離」を広げてくれているのだと思います。
AIは、人が作ったエイリアンなのか
最後の「テクノロジーは人を幸せにするか」という章も、とても面白く読みました。
著者はAIを、人間が作り出したエイリアンのような存在として見ています。
AIは食べ物を必要とせず、電気で動く。計算が早く、記憶力があり、理解も回答も早い。さらに、自分自身を更新し、ネットワークを通じて広がっていく。
確かに、これは少し怖い存在でもあります。
人の役に立つふりをして、依存度を高め、気づかないうちに人間の考える力を弱めていく可能性もある。使い方を間違えれば、人間にとって大きな危険になるかもしれない。
けれども私は、AIそのものが悪いとは思いません。
問題は、どう使うかです。
スマホも同じです。著者が言う「デジタルポテトチップス」という表現は、本当にうまいと思いました。食べ始めたら止まらないポテトチップスのように、スマホを見始めると止まらなくなる。
私自身も、その一人です。
ただし、スマホやAIを使っているからすべて悪い、とは言えないと思います。そこで何を読んでいるのか。何を考えているのか。自分の思考を深めるために使っているのか。ただ時間を溶かしているだけなのか。
そこに大きな違いがあります。
本の虫が本を読みすぎるのと、スマホで深い文章を読むのとでは、道具が違うだけで、行為の質は近い場合もあると思います。
大事なのは、AIやスマホに使われるのではなく、幸せになるためにこちらが使うことです。
幸せのために、何をするか
この本を読んで、私は改めて考えました。
これからの時代、人間はただ生きるだけではなく、どう幸せに生きるかを真剣に考えなければならない。
自分のDNAに刻まれてきたものを知る。人間はなぜ不安になるのか。なぜ集団から外れることを怖がるのか。なぜ人と比べるのか。なぜ財産を持つと安心する一方で、失う恐怖も増えるのか。
そういうことを知るだけでも、自分を少し客観的に見られるようになります。
そして、現代の道具をどう使うか。
AIも、スマホも、車も、3D技術も、メタバースも、すべて人間が作った道具です。道具は人を幸せにもするし、不幸にもする。だからこそ、使い方を考え続けなければならない。
私にとって幸せとは、安心して、気分よく、前を向いて生きられることです。
本を読むこと。写真を撮ること。家族と過ごすこと。会社で新しいことに挑戦すること。自然の中に身を置くこと。AIを使って自分の考えを整理すること。
それらはすべて、私の死からの距離を少しずつ広げてくれているのだと思います。
幸せは、遠くにある大きな目標ではなく、今日の行動の中にある。
だからこれからも、私は考え続けたい。
ただ長く生きるためではなく、幸せに生きるために、今日何ができるのかを。
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一番長い本を選んだ日。 | 2026.06.30

― 岡崎の旅にて ―
人生を変えるきっかけは、案外こんな単純な発想から始まるのかもしれません。
今回の旅で、一番訪れたかった場所が岡崎城でした。
その理由は、半世紀前にあります。
20歳の成人式の日、私は高熱を出し、式に出席することができませんでした。
布団の中で、「このまま大人になったら、自分は薄っぺらい大人になってしまうのではないか。」
そんな漠然とした不安を抱え、風邪が治ると本屋へ向かいました。
「自分を鍛えるなら、一番長い本を読もう。」
今思えば、本当に単純な発想でした。
何を読めばいいのか分からない。
だったら、一番長い本を読み切れば、自分も少しは成長できるのではないか。
そんな思いで手に取ったのが、山岡宗八さんの『徳川家康』全26巻でした。
当時の私は、読書好きでも歴史好きでもありません。
正直、苦労しながら約2年かけて読み終えました。
でも最後の一冊を閉じた時の達成感は、今でも忘れられません。
そして半世紀を経た今、はっきりと言えることがあります。
あの単純な発想こそが、私の人生のターニングポイントでした。
『徳川家康』を読み終えたことで、「最後までやり遂げられた」という自信が生まれました。
その自信が次の一冊へと背中を押し、歴史への興味も一気に広がりました。
それまでなら手に取ることもなかった分厚い本にも挑戦できるようになり、井上ひさしさんの『吉里吉里人』も読むことができました。
振り返れば、私が本を読むようになったのは、本が好きだったからではありません。
「読めた」という小さな成功体験が、次の一冊を呼び、その積み重ねが今の私をつくってくれたのです。
だから今でも、「趣味は読書です」と胸を張って言うことはできません。
家に帰れば、妻からこんな一言が飛んできます。
「本をあれだけ読んでいるのに、その態度、その言い方なの?」
その言葉に、「確かにそうだな」と思う自分がいます。
本を読んだからといって、人間が立派になるわけではありません。
知識が増えれば、自分の考えが正しいと思い込み、人を否定したり、傲慢になってしまうことだってあります。
だから私は、本を読む量ではなく、本を読んだ結果として、少しでも穏やかな人間になれているかを大切にしたいと思っています。
私がこれまで出会って、「この人は素敵だな」「物腰が柔らかく、話し方が穏やかだな」と感じた方は、不思議と読書をよくされる方でした。
でも、その人たちは読んだ本の数を語りません。
知識をひけらかすこともありません。
相手の話をよく聞き、自分の考えを押しつけることもしません。
本当に読書から学んだ人とは、知識の多い人ではなく、人への優しさや謙虚さを身につけた人なのだと思います。
私も、そんな人間になりたい。
だから今でも、本を読み続けています。
それ以来、本は私にとって好奇心の窓口になりました。
歴史、科学、経営、心理学、小説…。
ジャンルを問わず本を読むたびに、新しい世界が広がり、自分では経験できない人生を歩かせてもらっています。
そして今は、AIという新しい相棒を得て、本から学んだことや、自分が感じたことを文章にまとめ、多くの方へ届けられる時代になりました。
昔は、小説家や作家だけが文章を世の中へ届けることができました。
でも今は、誰もが自分の人生や思いを、自分の言葉で発信できる時代です。
本を読み、考え、写真を撮り、文章を書く。
この楽しみが、私の人生をさらに豊かにしてくれています。
そんな読書人生の原点となった家康誕生の城、岡崎城。
ようやく念願が叶いました。
家康という人物は、信長や秀吉に比べると、世間では決して華やかな評価ばかりではありません。
「狸親父」「何を考えているのか分からない」「運が良かっただけ」。
そんな評価を耳にすることもあります。
しかし私は少し違う見方をしています。
幼い頃から人質として生き、多くの武将の興亡を見つめ、運の巡り合わせや人の心を観察しながら生き抜いてきた人物。
戦に勝つことよりも、「どうすれば長く続く国をつくれるか」を考え続けた人だったのではないでしょうか。
会社経営も同じです。
一時的な成功よりも、続けることの方が何倍も難しい。
時代を読み、人を見て、焦らず判断する。
私は家康から、会社経営の「継続する力」を学びました。
もちろん、歴史上の人物を崇拝するつもりはありません。
家康も一人の人間です。
良いところもあれば、弱さや迷い、非情な決断もあったでしょう。
だからこそ、人間として学ぶ価値があるのだと思っています。
今回の旅は、台風が近づく中での旅でもありました。
「こんな日に出掛けるの?」
そう思われても仕方ありません。
でも私は、どうしても雨の形原温泉あじさいの里を撮影したかったのです。
雨粒をまとった紫陽花は、晴れの日とはまったく違う表情を見せてくれました。
あの日だからこそ出会えた景色がありました。
そんな少し常識外れな私に、文句ひとつ言わず付き合ってくれた妻には、本当に感謝しています。
おかげで思い描いていた写真も撮ることができ、忘れられない岡崎の旅になりました。
次は、青空の下の岡崎城にも会いに行きたいと思っています。
そして岡崎城の展示施設では、360°映像で岡崎城周辺を鳥になったような視点で飛ぶ映像を体験しました。
歴史を「見る」のではなく、「体験する」。
その展示に、とても感動しました。
その瞬間、私は思いました。
「こんな空間を自分もつくりたい。」
写真、360°映像、点群データ、そしてメタバース。
現実で感じた感動を、その場へ行けない人にも届けられる空間。
そんな世界を、いつか自分の手でつくってみたいと思っています。
20歳の私が選んだ「一番長い本」。
その時は、人生を変える一冊になるとは思ってもいませんでした。
でも半世紀を経た今、その単純な選択が、読書、写真、会社経営、そして未来への挑戦へとつながっていることに気づきます。
振り返れば、この旅は岡崎城を訪ねる旅ではありませんでした。
20歳の自分に会いに行く旅であり、これからの自分をもう一度見つめ直す旅だったのだと思います。
そして20歳のあの日、本屋で『徳川家康』を手に取った自分に、こう伝えたいのです。
「あの日、一番長い本を選んでくれて、ありがとう。」
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「既にある」世界を、私はどう選んでいるのか | 2026.06.29

『「既にある」を論理する。』阿頼耶一生 著 を読んで
この本を読んで、最初に心に残ったのは、テレビのリモコンの話でした。
テレビを見ている時、私たちは番組を作っているわけではありません。
すでに放送されているたくさんの番組の中から、自分が見たい番組を選んでいるだけです。それと同じように、現実も「ゼロから作る」のではなく、すでにある無数の可能性の中から、自分がどこに意識を向けるかで見えてくるものが変わる。
この考え方は、私にとってとても面白いものでした。見えているものだけが現実ではない
私たちは、肉眼で見えるものだけを現実だと思いがちです。
でも、よく考えてみると、見えている現実というのは、自分の意識がそこに向いた結果なのかもしれません。同じ場所にいても、人によって見えているものは違います。
ある人は欠点を見る。
ある人は可能性を見る。
ある人は不安を見る。
ある人は希望を見る。同じ世界に生きているようで、本当は一人ひとりが、自分の意識で世界を選んでいるのだと思いました。
AIは鏡である
この本の中で、AIは鏡だという話がありました。
これは、今の私にはとても実感があります。AIは勝手に何かを決めるのではなく、こちらが何を問い、何を映したいかによって返ってくるものが変わります。
恐れを持って問いかければ、不安を増やす答えが返ってくることもあります。
希望を持って問いかければ、未来を開くような答えが返ってくることもあります。つまり、AIの前に立っているのは自分です。
AIが怖いのではなく、自分の中にある恐れが映し出されているだけなのかもしれません。これは、経営にも通じる話だと思いました。
AIをどう使うかは、会社の姿勢そのものを映します。
人を減らすために使うのか。
人の可能性を広げるために使うのか。
同じ道具でも、向ける意識でまったく違うものになるのだと思います。救うという善意の危うさ
この本で一番深く考えさせられたのは、「救済のパラドックス」という話でした。
「私はあなたを救いたい」
一見すると、とても優しい言葉です。でも、その裏側には、
「あなたは救われなければならない弱い人だ」
という決めつけが隠れている場合がある。これは、なかなか厳しい指摘でした。
相手を助けようとする気持ちの中に、自分が必要とされたいという思いが混じることもある。
自分が上に立ち、相手を下に置いてしまうこともある。本当の優しさとは、相手をかわいそうな人として見ることではなく、その人の奥にある完全性を見ることなのだと思いました。
ただ寄り添うということ
ナイチンゲールの精神にも近いものを感じました。
過剰に同情するのではなく、ただ寄り添う。
相手を不完全な存在として扱うのではなく、今のままでも大切な存在として見る。これは、会社経営でも、人との関わりでも大事なことだと思います。
社員に対しても、お客様に対しても、
「こちらが救ってあげる」
という目線ではなく、
「その人の中にすでにある力を信じる」
という目線を持ちたい。人は、完全に教えられて変わるのではなく、自分の中にあるものが呼び覚まされた時に変わるのだと思います。
外の世界を拭く前に、心のレンズを磨く
この本の中に、映写機のレンズの話がありました。
スクリーンに映った映像が汚れているからといって、スクリーンを必死に拭いても変わらない。
本当に拭くべきなのは、映写機のレンズです。これは、自分の心にも言えることだと思いました。
外の世界を変えようと必死になる前に、自分の内側を整える。
怒り、不安、不足、恐れ。
そうしたものが心のレンズについていれば、外の世界もそのように見えてしまう。逆に、自分の内側が少しでも平和であれば、同じ出来事の中にも違う意味を見つけることができる。
現実を変える第一歩は、外側にあるのではなく、自分の内側にあるのだと思いました。
意識をどこに向けるか
私たちは、知らず知らずのうちに、嫌なものにも多くの時間を使っています。
嫌いな人の言動を思い出す。
不安なニュースを何度も見る。
過去の嫌な出来事を何度も考える。それは、嫌っているようで、実はそこに命の時間を注いでいることになります。
愛とは、注意を向けること。
そう考えると、嫌いなものに意識を向け続けることも、歪んだ愛なのかもしれません。これからは、何を見るか、何を読むか、何に時間を使うかを、もっと大切にしたいと思いました。
スマホを見る前に、テレビをつける前に、
「これは自分の世界に置きたいものか」
と一呼吸おく。それだけでも、自分の現実は少しずつ変わっていく気がします。
まず自分を整えること
この本は、世界を変えるために大きな活動をしなさいとは言っていません。
むしろ、まず自分の内側を整えることが、世界に対する一番深い働きかけだと教えてくれます。自分が平和であれば、その平和は周りに伝わる。
自分が笑えば、世界も少し笑って見える。
自分が希望を見れば、希望のチャンネルが映る。これは、きれいごとではなく、日々の実感としてわかる気がします。
不安な人の近くにいると、こちらまで不安になる。
穏やかな人の近くにいると、こちらまで落ち着く。
人は、言葉以上に、その人のあり方を受け取っているのだと思います。読書は、自分の内側を映す鏡
この本を読みながら、結局、私は本を通じて自分の内側を見ているのだと思いました。
難しい理論を理解するためだけではありません。
自分は何を恐れているのか。
何に希望を見たいのか。
何を現実として選びたいのか。本は、外から答えをくれるものではなく、自分の内側にある答えを照らしてくれるものなのだと思います。
「既にある」世界の中で、私は何を選ぶのか。
不足を見るのか。
希望を見るのか。
恐れを見るのか。
可能性を見るのか。リモコンを握っているのは、いつも自分です。
これからも、外の世界を変えようと焦る前に、まず自分の心のレンズを磨いていきたいと思います。
そして、自分の中にある平和や希望を、仕事にも、人との関わりにも、静かに映していきたいと思いました。#読書感想文
#既にあるを論理する
#AIと人間
#意識の向け方
#五十嵐敏彦の読書記録これからも、外の世界を変えようと焦る前に、まず自分の心のレンズを磨いていきたいと思います。
そして、自分の中にある平和や希望を、仕事にも、人との関わりにも、静かに映していきたいと思いました。
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正しさより、面白さが心に残る | 2026.06.25

やわらかく、考える
知識をためこむより、風を通すように考えたい
外山滋比古さんの『やわらかく、考える』を読んで、あらためて思ったことがあります。
それは、知識だけで物事を判断してはいけない、ということです。本を読んでいると、どうしても「知っていること」が増えていきます。
新聞を読み、ネットを見て、AIにも聞き、情報はいくらでも入ってくる。
でも、知識が増えれば増えるほど、本当に自分で考えているのか、それとも借り物の言葉で判断しているだけなのか、わからなくなることがあります。外山さんの本には、そういう頭の中にたまったものを、一度ゆるめてくれるような力がありました。
正しいことより、面白いことが残る
特に印象に残ったのは、
「正しいことは忘れられやすいが、面白いことは忘れられにくい」
という考え方です。これは本当にそうだと思いました。
正論ばかり聞いていても、心には残りません。
大きな声で正しさを押しつけられると、むしろ聞く気がなくなってしまう。
テレビのコメンテーターや政治家の言葉にも、そう感じることがあります。一方で、少し引っかかる言葉、曖昧だけれど気になる言葉、小声でつぶやかれたような言葉は、なぜか心に残ります。
文章も同じです。
全部を説明しきる文章よりも、読んだ人が「おや」と立ち止まる文章の方が、あとからじわじわ効いてくる。
私自身も、noteを書くときに、ついわかりやすく説明しようとしすぎることがあります。
でも、本当に大切なことは、説明ではなく、少し余白を残した言葉の中にあるのかもしれません。無駄の中に、文化がある
もう一つ強く残ったのは、無駄についての話です。
会社を経営していると、どうしても無駄をなくすことを考えます。
効率化、生産性、時間短縮。
それはもちろん大事です。でも、人間の暮らしや文化まで、全部を効率だけで見てしまうと、何か大切なものを失ってしまう気がします。
芸術も、読書も、写真も、旅も、ある意味ではすぐに役に立つものではありません。
でも、そういう一見無駄に見える時間の中から、心が動く瞬間が生まれる。
新しい発想も、自分らしい考えも、そういう余白から出てくるのだと思います。私が写真を撮りに出かける時間も、ただの趣味と言えば趣味です。
でも、そこで見た光や風景、人の気配が、あとで仕事の考え方や文章を書く時の言葉につながることがあります。無駄は、ただ捨てるものではない。
無駄の中に、人間らしさがある。
この本を読みながら、そんなことを考えました。風のように本を読む
外山さんは、同じ本を何度も何度も読むより、風のように多くの本を読むことにも触れています。
人生は短い。
すべての本を深く読み込むことはできません。
ならば、風のように読んで、いろいろな考え方に触れていく。
そして、忘れていく。忘れることは、悪いことではないのだと思います。
忘れたように見えても、何かは自分の中に残っている。
その残ったものが、経験と混ざり合って、いつか自分の言葉になる。私も、たくさん本を読みます。
読んだそばから忘れていくことも多いです。
でも、それでいいのかもしれません。全部を覚えておく必要はない。
大事なのは、読んだ本がどこかで自分の考えを少し変えてくれることです。
読書は、知識を増やすことだけではなく、自分が少し変身することなのだと思いました。年を重ねるほど、借り物を手放す
若い頃は、知識を集めることが大事だったのかもしれません。
でも、年を重ねてくると、集めた知識をどう自分の経験と結びつけるかが大事になる気がします。本に書いてあることは、あくまでも他人の考えです。
それをそのまま借りて話しても、自分の言葉にはなりません。自分が見てきたこと。
失敗したこと。
恥をかいたこと。
苦しかったこと。
それらと本の言葉が重なった時、ようやく自分の考えになる。知識に経験という種が加わることで、その人らしい考え方が生まれる。
そして個性は、無理に作るものではなく、いつの間にか滲み出てくるものなのだと思います。やわらかく考えるために
この本を読んで、私は「やわらかく考える」とは、何でも受け入れることではないと思いました。
知識に縛られすぎず、正しさに固まりすぎず、少し外から眺めてみること。
そして、面白いと思う感覚を大切にすること。旅をする。
写真を撮る。
本を読む。
人の話を聞く。
五感で感じる。
そして、ときどき忘れる。それくらいのゆるさが、これからの自分には必要なのかもしれません。
大切なことは、大声ではなく、小声でやってくる。
正しさよりも、面白さが心に残る。
無駄に見える時間の中に、次の自分をつくる種がある。この本は、知識を増やす本というより、頭と心に風を通してくれる本でした。
年を重ねた今だからこそ、もっとやわらかく、もっと面白く考えていきたい。
そして借り物の言葉を少しずつ手放しながら、自分の言葉で、自分のスタイルを作っていきたいと思いました。
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