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  • 写真は被写体だけでなく、撮る人も写している | 2026.03.26

    ワタナベアニ著『カメラは、撮る人を写しているんだ。』を読んで

    この本は、題名を見た瞬間に引っかかりました。
    「カメラは、撮る人を写しているんだ。」
    なるほど、そうかもしれない。そう思う一方で、どこか哲学的でもあり、写真を長く楽しんできた自分には見過ごせない言葉でした。

    実際に読んでみると、とても面白かったです。
    カメラの技術論や写真の上手下手だけではなく、もっと根っこのところ、つまり「なぜ人は写真を撮るのか」「何が写るのか」「いい写真とは何か」というところまで話が及んでいて、何度も頷きながら読みました。

    私は趣味でずっと写真をやってきました。
    旅に出て撮る、季節を追って撮る、何度も同じ場所へ足を運んで撮る。
    そして今は、撮った写真をインスタに上げたり、リール動画を作ったり、自分なりに言葉や音楽まで添えて楽しんでいます。
    そんな自分にとって、この本は「写真を撮る」という行為を、もう一段深いところから見せてくれる本でした。

    「映え」にも、白と黒があるという話

    特に面白かったのは、「映え」にも白い映えと黒い映えがある、という話です。

    他人から褒められるだろう、うまいと言われるだろう、すごいと思われるだろう。
    そういう気持ちが先に立って撮る写真は“黒い映え”。
    それに対して、自分の中から自然に湧いてきた「撮りたい」という衝動で撮る写真は“白い映え”。

    この表現は、実に言い得て妙だと思いました。

    今は誰でも写真を発信できる時代です。
    スマホでも撮れるし、その場で上げられる。
    評価も反応もすぐ返ってくる。
    だからこそ、つい「見せるための写真」に引っ張られてしまうことがあります。

    私自身も、インスタに写真を上げ、動画を作り、言葉を添えている人間ですから、その感覚はよくわかります。
    でも、結局あとで自分の中に残るのは、自分が本当に惹かれて撮った一枚なんですね。
    人からどう見られるかではなく、自分の心がちゃんと動いていたかどうか。
    その違いは、やはり写真に出るのだと思います。

    上手に撮ろうとしすぎると、かえって写真が痩せる。
    理屈や知識が先に立ちすぎると、写真の中から自分がいなくなる。
    そんなことを、この本は改めて教えてくれました。

    同じ場所へ何度も行く意味

    この本には、写真は一瞬のものだという感覚も流れています。
    絵のように時間をかけて描くのではなく、その瞬間にしかない光、その瞬間にしかない空気、その瞬間にしかない表情を切り取る。
    だから面白いし、難しい。
    そして、そこに写真ならではの醍醐味がある。

    私はこの感覚にもとても共感しました。

    同じ場所に何度行っても、同じ写真にはなりません。
    天気も違う。光も違う。風も違う。
    そこに立つ自分の気分も違う。
    だから、同じ景色を見ているようでいて、実は毎回違うものに出会っているのだと思います。

    写真をやっていると、同じ場所へ何度も行きたくなる理由が自分でもよくわかります。
    それは景色を確認しに行くのではなく、また違う表情に会いに行くからなんですね。
    その日、その時、その場所に立ち会わない限り、撮れない写真がある。
    私は昔から、その“立ち会わないと撮れないもの”にいちばん魅力を感じてきました。

    高性能なカメラもいい。
    スマホで気軽に撮れるのもいい。
    どちらが正しいという話ではなく、結局は「自分がその瞬間に心を動かされたか」が大事なのだと思います。
    写真は機材の競争ではなく、出会いの記録なのだと、あらためて思いました。

    いい写真には、その人が写っている

    この本の中で、いちばん印象に残ったのはやはりここです。
    「いい写真には、撮った人が写っている」ということ。

    もちろん、実際に撮影者の顔が写るわけではありません。
    けれど、その人が何に惹かれたのか、何を愛おしいと思ったのか、何に立ち止まったのか、その人のまなざしは確実に写真に残る。
    著者は、カメラには前だけでなく後ろにもレンズがついていて、被写体を撮りながら、実は撮っている人自身も写しているのだ、というようなことを言います。
    これは本当に深い言葉だと思いました。

    私は孫の写真もよく撮ります。
    その時、自分では孫を撮っているつもりです。
    でもこの本を読んで、ああ、そうじゃないんだなと思いました。
    孫を見つめている自分の気持ち、成長をうれしいと思う気持ち、今この瞬間を残したいという願い、そういうものまで写真には写っているのだと。

    そう考えると、写真はただの記録ではありません。
    その時の自分の生き方や、その時の自分の心のありようまで、そっと封じ込めているものなのだと思います。

    誰かの古い家族写真を見た時に、そこに写っていないはずの親の気配や、撮っている人の愛情を感じることがあります。
    あれはきっと、写真の中に“その人”がちゃんと写っているからなのでしょう。

    写真を通して、自分の人生を味わっている

    この本を読んで、私は改めて思いました。
    自分は写真が好きなんだな、と。
    そして、写真に出会えて本当によかったな、と。

    写真は、ただ景色を記録する趣味ではありませんでした。
    旅を深くしてくれた。
    季節に敏感にしてくれた。
    何気ない一瞬を見逃さない目を育ててくれた。
    そして、自分の人生に、確かな楽しみを与えてくれた。

    今はそこに、SNSもあります。
    インスタもあります。
    リール動画もあります。
    しかも、リール動画のBGM音楽までAIを使って、作詞・作曲・編曲し、AIボーカロイドで歌わせるところまで自分なりに楽しめるようになりました。写真に言葉と音を添えて、自分なりの作品としてまとめられる。こんなことができる時代に生きていること自体、私はありがたいと感じています。

    ずっと写真をやってきたこと。
    趣味として続けてきたこと。
    それが今、別の形でも花開いている。
    それはとても幸せなことだと思います。

    そしてもう一つ、この本を読んで強く感じたのは、写真には写真以外の蓄積が必要だということです。
    本を読むこと。
    旅をすること。
    人に会うこと。
    時代のことを考えること。
    歴史や自然や人間のことに心を向けること。
    そういう写真以外の積み重ねが、結局は写真の厚みになるのだと思います。

    だから私は、写真だけをやっていればいいとは思いません。
    読書も好きですし、いろいろなものを見聞きして、自分の中に少しずつ溜めていきたい。
    その蓄積が、ある日一枚の写真の奥行きになって現れる。
    そんな気がしています。

    「カメラは、撮る人を写しているんだ。」
    この言葉は、読み終えてからのほうが、むしろ強く残りました。

    写真を撮るということは、目の前の景色を写しているようでいて、
    本当は、自分が何を愛し、何に心を動かされ、どう生きているのかを写しているのかもしれません。

    そう思うと、ますます写真が好きになります。
    そして、これからも撮り続けたいと思います。
    うまく撮れるかどうかよりも、自分が心から「撮りたい」と思える瞬間に、ちゃんと立ち会いながら。

  • わかるより、わからないが増えていく豊かさ | 2026.03.25

    深井龍之介・野村高文 著『視点という教養』を読んで

    視点を増やすことは、変化の時代を生きる力になる

    『視点という教養』を読んで、あらためて感じたのは、世界はひとつの物差しではとても測れないということでした。
    量子力学、仏教、歴史学、宗教学、脳科学、教育。こうして並べると一見別々のテーマのようですが、この本ではそれらがすべて「世界をどう見るか」という一点でつながっていました。

    私は長く仕事をしてきて、今ほど「多面的情報収集」が必要な時代はないと感じています。
    業界の常識も、働く環境も、技術も、お客様の価値観も、想像を超える速さで変わっています。昨日まで通用した見方が、今日はもう通用しない。
    そんな時代に必要なのは、何か一つの正解を握りしめることではなく、視点を増やし続けることなのだと、この本を読んで強く思いました。

    私たちはつい、物事に名前をつけ、分類し、理解したつもりになります。
    けれど本当は、その瞬間にこぼれ落ちるものがある。世界を固定的に理解しようとすればするほど、見えなくなるものがある。
    この本は、そのことを何度も静かに教えてくれました。

    教養とは、知識を増やして賢く見せることではなく、自分が見えていないものの存在に気づくことなのかもしれません。
    本を読み、学べば学ぶほど、自分が無知であることを知らされる。けれど私は、それを不安ではなく、むしろ豊かさだと思っています。
    なぜなら、わからないことが増えるということは、それだけ世界に対する解像度が上がっているということだからです。

    「卒近代」という言葉が、これからの経営と重なった

    この本の中で、私が妙に共感したのが「卒近代」という考え方でした。
    近代は、合理性、効率、進歩、成長を大切にして社会を押し上げてきました。その恩恵は間違いなく大きい。けれどその一方で、人間を数字で測り、減点主義で評価し、失敗しないことばかりが重んじられる社会も生んできたのではないかと思います。

    経営の現場でも、それはよく感じます。
    短期的な利益だけを追えば、もっともらしい答えは出せるかもしれない。けれど、それでは長く続かない。取引先をだまし、従業員を疲弊させ、お客様の思いより会社の都合を優先することが、もし“最適解”になってしまうなら、それはどこかで必ず行き詰まる。
    この本の中で語られていた仏教の視点や、長い時間軸で他者との関係を見る視点は、まさに今の経営に必要なものだと感じました。

    私は以前から、五十嵐工業は単なる製品作りの会社で終わってはいけないと思ってきました。
    製品作りの独自化は、すぐに陳腐化してしまう時代です。だからこそ、物理的なもの作りの会社から、こと作りの会社へ進化したい。
    お客様のまだ想像できない半歩先を提案し、時間や場所を超えた働き方や、メタバースやAIも受け入れながら、新しい建築の形、新しい関わり方、新しい価値をつくっていく。
    この本を読んで、その方向は間違っていないとあらためて思いました。

    「卒近代」とは、近代を否定することではなく、近代の物差しだけでは見きれないものを見ようとする姿勢なのだと思います。
    効率だけではなく関係性を見る。
    利益だけではなく未来を見る。
    競争だけではなく協調を見る。
    それはまさに、五十嵐工業株式会社社長提言書の中で私が大切にしたいと思っている感覚と重なります。

    学ぶほど、問いが増える。それが未来への力になる

    本の中で語られていた仏教の「諸行無常」や「空」という考え方も、とても印象に残りました。
    執着に永遠はない。けれど、それは悲観ではなく、変化の中にこそ可能性があるという考え方でもある。
    この感覚は、これからのものづくりにも、そのまま通じるように思います。

    建築も、住宅も、働き方も、これから大きく変わっていくはずです。
    災害に強く、気候変動に対応し、スクラップ&ビルドではない未来の住宅を考えること。3Dプリンター住宅の可能性に挑み、人とIT・AIが融合する時代にふさわしい仕事の形を探ること。
    そういう挑戦は、今までの延長線の発想だけでは生まれません。
    視点を変え、多面的に考え、まだ見えていない未来を想像する力が必要です。

    また、歴史学の章で語られていた「資料をそのまま信じず、背景や立場を読む」という視点も、今の時代にとても大事だと思いました。
    情報があふれているからこそ、表面だけを見て判断しないこと。
    人の言葉の奥にある思いを想像すること。
    お客様の要望も、言葉に出てきた表面だけではなく、その奥にある本当の願いまで受け取ろうとすること。
    そういう姿勢がなければ、これからの仕事は本当の意味でお客様に寄り添えないのではないかと思います。

    私は、学べば学ぶほど、わからないことが増えていくと感じています。
    けれど、その「わからない」は、決してマイナスではありません。
    問いが増えるということは、まだ可能性があるということです。
    知らないことがあるから、人の声を聞ける。
    見えていないものがあるから、挑戦できる。
    昨日より今日、今日より明日、世界の見え方が少しずつ変わっていく。
    その変化を受け入れ、楽しみながら進むことこそ、これからの時代に必要な教養であり、会社の未来をつくる力でもあるのだと思います。

    『視点という教養』は、単に知識を与えてくれる本ではありませんでした。
    五十嵐工業はこれから何を目指すのか。
    どんな会社でありたいのか。
    なぜ多面的情報収集が必要なのか。
    なぜ人間とIT・AIの融合を受け入れなければならないのか。
    なぜお客様の半歩先を提案する会社を目指したいのか。
    その問いに対して、静かに、しかし確かな光を当ててくれる一冊でした。

    わかることを急ぎすぎない。
    わからないことの中にこそ、未来への入口がある。
    そう思えたことが、この本を読んで得た一番大きな収穫だったように思います。
    そしてこれからも五十嵐工業は、変化を恐れず、多くの視点を受け入れながら、物作りからこと作りへ、そして未来の建築へと歩みを進めていきたい。
    そんな思いを、あらためて強くした一冊でした。


  • 何度も閉じて、また開いた『荘子の哲学』 | 2026.03.16

    この本を手に取ったきっかけは、帯の赤文字だった。
    「考えるな!感じろ!」
    その勢いのある言葉に背中を押され、「斉物論編を読み解く」という一文にも惹かれた。荘子は難しい、という先入観はあったが、理屈で構えすぎず、まずは感覚で入っていけばいいのかもしれない。そんな気持ちで読み始めた。

    けれど、実際はそう簡単ではなかった。
    感じる前に、まず**「???」**が立ちはだかった。
    数ページ読んでは止まり、また戻る。少しわかった気がしたかと思えば、次のページでまたわからなくなる。そんなことを何度も繰り返した。結局この本は、二カ月ほどかけて、数ページで投げ出し、また挑む、という読み方になった。

    でも今は、それでよかったと思っている。
    すらすら読める本ではないからこそ、こういう向き合い方になった。そして、その難解さそのものが、この本の面白さでもあったのだと思う。

    帯の言葉に惹かれて読み始めた

    「考えるな!感じろ!」という言葉は、いかにも荘子らしい自由さと軽やかさを感じさせた。難しい本でも、頭で理解しきろうとする前に、まず何かを感じてみればいい。そんなふうに背中を押された気がした。

    ところが、実際に読んでみると、感じるどころではない。
    世界の始まりはあるのかないのか、知るとは何か、言葉で表せる知と表せない知とは何なのか。問いが次々に現れ、そのたびに自分の頭がかき回される。わかったつもりになった直後に、またわからなくなる。まるで霧の中を歩いているような読書だった。

    それでも不思議と、本を閉じて終わりにはならなかった。
    難しいのに、気になる。わからないのに、また開きたくなる。そこに、この本の引力があったのだと思う。

    わからないのに、なぜか離れられなかった

    この本を読んでいて何度も思ったのは、人は言葉で世界を整理し、理解しようとするけれど、その言葉や理性だけでは届かないものがたしかにある、ということだった。

    知識として頭に入ることと、自分の中で腑に落ちることは違う。
    言葉で説明できることと、日々の感覚として知っていることも違う。
    本書は、その違いを何度も突きつけてくる。だから簡単に「わかった」と言えないし、逆にそこがこの本の深さでもあるのだろう。

    私たちは普段、説明できることだけで生きているわけではない。自然の中で、社会の中で、説明しきれないものを前提にしながら日々を過ごしている。そう考えると、「わからないこと」がただの不足や欠点ではなくなる。むしろ、わからないまま抱えておくことにも意味があるのだと思えてくる。

    今回の読書は、まさにそんな時間だった。
    理解しきれない。けれど、何も残らなかったわけではない。
    むしろ、すぐにわからなかったからこそ、心のどこかに引っかかり続けている。そういう本との出会いは、案外貴重なのかもしれない。

    たまには、こんな読書もいいと思った

    正直に言えば、私は『荘子の哲学』を「理解できた」と胸を張って言えるわけではない。まだ入口に立っただけなのだろう。けれど、この難しい本に二カ月かけて向き合い、何度も閉じてはまた開いた自分は、少しくらい褒めてもいいと思っている。

    すぐに答えをくれない本。
    簡単には理解した気にさせてくれない本。
    だからこそ、自分の読み方や考え方まで試される本。

    そういう本に出会うと、読書はただ情報を得るためのものではなくなる。わかったことを増やすだけでなく、わからないことに耐える力も少し育ててくれる。効率のよい読書ではなかったかもしれないが、こういう時間は決して無駄ではないと思う。

    たまには、こんな読書もいい。
    むしろ、こういう読書があるからこそ、本を読む面白さは深くなるのかもしれない。今はまだ霧の中にいるようでも、これから別の本を読み、別の経験を重ねたあとに、もう一度この本を開いたら、また違う景色が見える気がする。

    『荘子の哲学』は、私にとって、すっきり理解できた一冊ではなかった。
    けれど、何度も閉じて、また開いたという、その読書の時間そのものが、すでにこの本から受け取った大切なものだったように思う。

  • 本ばっかり読むと、バカになる。 | 2026.03.12

    本をたくさん読めば、それだけ賢くなれる。
    そんな思い込みを、やさしく、しかし鋭く崩してくれた一冊でした。
    読書好きほど耳が痛い。けれど同時に、読むことをもっと自由で軽やかなものにしてくれる本だったと思います。

    外山滋比古『乱読のセレンディピティ』を読んで

    また一人、すごい人に出会った

    外山滋比古さんの『乱読のセレンディピティ』を読んで、私はまた一人、すごい人に出会ったと思った。
    著者は私よりずっと上の世代の人だが、こんなにも今の時代に通じることを、こんなにも早い時期から考えていたのかと驚かされた。

    本を読むことは良いことだ。
    読書は人を賢くする。
    たくさん読めば、それだけ人間は深くなる。

    私たちはどこかで、そんなふうに信じてきた。
    私自身もまた、長いあいだそう思ってきた一人だと思う。
    けれどこの本は、その常識を軽やかに、しかし鋭くひっくり返してくる。

    その読み味がとても面白かった。
    説教くさくない。
    むしろ逆説的で、少し意地悪なくらいに本質を突いてくる。
    だから読んでいて何度も「耳が痛いなあ」と思った。
    でも同時に、「そうか、そういうことだったのか」と深く腑に落ちるところがたくさんあった。

    本は、力を入れて読むものではない

    この本の中で特に面白かったのは、本は力を入れて読むものではなく、「風のように読む」のがよい、という考え方だった。

    普通、読書というと、じっくり読むこと、丁寧に読むこと、ゆっくり味わうことが正しいように言われる。
    けれど外山さんは、そういう常識そのものを疑っている。
    むしろ、あまり力まず、風のようにさっと読む。
    そのほうが、言葉の流れを殺さずに、本来の面白さが入ってくるという。

    これは私にとって新鮮だった。
    確かに、難しい本や、ありがたい本ほど、「ちゃんと読まなければ」と力が入る。
    しかし、その力みがかえって読むことを窮屈にし、面白さを奪ってしまうことがある。
    遅く読むことが必ずしも丁寧ではない。
    ゆっくり読むことが、かえって意味の流れを止めてしまうこともある。
    この指摘は、本当にその通りだと思った。

    私自身、読んでいてわからないところに何度もぶつかる。
    だが、そのたびに立ち止まりすぎるより、まずは風のように通り過ぎてしまう。
    そうしているうちに、ふと一文が無意識の中に残ったり、あとから別の場面でつながったりする。
    そういう読み方も、立派な読書なのだと、この本は教えてくれた。

    読破したから偉いわけではない

    この本には、読書に対する世間の妙な“義理立て”への批判がある。
    本を読破した、難しい本を最後まで読んだ、何冊読んだ。
    そういうことを私たちはどこかで価値あることのように思ってしまう。
    けれど、それがそのまま知的個性につながるわけではない。
    むしろ、本に義理立てしすぎると、自分の知的個性はだんだん小さくなる、という。

    ここは本当に痛かった。
    なぜなら、私にも思い当たるところがあるからだ。

    本をたくさん読んだことは、もちろん無駄ではない。
    ただ、それがそのまま「自分の頭で考えた」ことになるわけではない。
    知識が増えることと、思考が深まることは違う。
    そこを混同すると、読んでいるつもりで、実は本に引っ張られているだけになる。

    私はかなり本を読んできた。
    けれど、たくさん読んだから自分が優れているとは思わない。
    むしろ、たくさん読んだからこそ、読書の限界も少しわかってきた気がする。
    たくさん読んだ効用をあえて言えば、活字に触れることへの抵抗が少なくなったことくらいだろう。
    文字を読み、考えることにストレスを感じにくくなった。
    それは確かに大きい。
    けれど、人間力そのものとはまた別の話だと、今は思う。

    自分で買った本には、重みがある

    外山さんは、本は買って読むべきだとも言う。
    借りてきた本や、もらった本より、自分のお金で選んで買った本のほうが重い意味を持つ。
    これも非常によくわかる。

    自分で選び、自分で買い、自分で読んでみる。
    その結果、「これは違ったな」と思うこともある。
    しかし、その失敗も含めて自分の読書になる。
    誰かに与えられた本ではなく、自分の目で見て、自分の手で選んだ本だからこそ、その一冊は自分にとって意味を持つのだと思う。

    私はあまり人に本を勧めない。
    それは、勧められた側が窮屈になることを、自分自身がよく知っているからだ。
    勧められると、かえって読みたくなくなる。
    逆に、禁じられると読みたくなる。
    この人間のへそ曲がりなところも含めて、読書とは自由であるべきなのだろう。

    だから「この本は良いから読みなさい」という善意は、ときに逆効果になる。
    本好きの側がそのことを自覚していないと、読書の喜びを伝えるつもりが、逆に本嫌いを増やしてしまう。
    この本には、そういう厳しい指摘もあって、そこもまた胸に刺さった。

    学校が本嫌いを育ててしまうこともある

    学校教育では、長いあいだ「本を読みなさい」が善意として語られてきた。
    だが、それが本当に読書好きな人を育ててきたのかというと、疑わしい面もある。

    宿題がある。
    感想文がある。
    読書記録がある。
    推薦図書がある。
    そこにはいつも「良いことだから読みなさい」がつきまとう。
    しかし、それは読むことを自由な楽しみから、義務や評価の対象に変えてしまう。

    私も、子どもの頃から、読書はどこか“良いこと”として押しつけられてきた感覚がある。
    だからこそ、今になってこの本を読み、なるほどそうだったのかと思った。
    読むことは本来、もっと自由で、もっと自発的なものだったはずなのだ。

    本のありがたみを教えようとするほど、本の窮屈さだけが残る。
    これはなかなか鋭い逆説だと思う。

    読書メタボという、耳の痛い言葉

    この本で一番ショックだったのは、「読書メタボリック症候群」というような考え方だった。
    つまり、知識を詰め込みすぎることで、頭が肥満状態になるというのである。

    知識は役に立つ。
    だが、消化しきれない知識は、思考を助けるどころか邪魔をする。
    頭の中が知識でいっぱいになると、かえって頭が働かなくなる。
    そのうちに、ものが見えなくなる。
    これは本当に鋭い言葉だと思った。

    知識は借り物である。
    それに対して思考は自力である。
    この対比には、私はとても納得した。

    本を読んで、何かを知った。
    何か賢くなった気がする。
    これは誰にでもあることだと思う。
    だが、それは借金が増えているだけかもしれない。
    しかも、知識の借金は返済しなくてよいから、気分だけはよくなる。
    そこに落とし穴がある。

    私自身も、きっとどこかでそういう錯覚に陥っていた。
    本を読んでいることに、少し安心し、少し満足し、少し自分を認めていた。
    けれど、本当に問われるのは、その知識が自分の生き方にどうつながっているかだ。
    そこにつながらなければ、ただ頭の中に情報が溜まっているだけかもしれない。

    忘れることは、衰えではない

    この本の大きな発見の一つは、「忘却」を肯定していることだった。
    私たちは、忘れることを悪いことのように考えがちである。
    歳をとって忘れやすくなると、不安にもなる。
    けれど外山さんは、忘れることこそ頭の働きを支える大切な作用だと言う。

    これには深くうなずいた。
    忘却は、頭の中の清掃であり、新陳代謝なのだ。
    忘れられないことのほうが、むしろ危うい。
    覚えておかなくてもいいことまで溜め込んでいたら、頭は重くなり、自由に動けなくなる。

    歳をとるほど、私は「いかに覚えるか」より「いかに手放すか」のほうが大事になる気がしている。
    全部覚えていようとしない。
    本当に心に残ったものだけを、そっと残す。
    そのために私は、感想をメモしたり、noteに書いたりするのだと思う。

    全部を保存するためではない。
    心に触れた火種だけを残すためである。
    それで十分なのだろう。

    忘れない人が優秀、とは限らない

    この本を読んで面白かったのは、忘れない人が必ずしも優秀ではない、という逆説だった。
    私たちは、よく覚えている人を優秀だと考えがちである。
    しかしそれは、裏返せば忘却が弱い人なのかもしれないという。

    これはなるほどと思った。
    記憶ばかりが強く、頭の中の整理ができないと、余計なものまで残り続ける。
    それでは苦しい。
    人間が自然に生きていくためには、ある程度、忘れる力が必要なのだ。

    しかも睡眠は、その忘却を助ける。
    夜のあいだに頭が整理され、朝には少しきれいになっている。
    この考え方は、今の私にはとても実感がある。
    若い頃よりも、朝の頭のすっきりした感じが大事に思える。
    夜いくら考えてもまとまらないことが、朝になると少し見えてくることがある。
    年を重ねるほど朝が大切になるというのも、よくわかる。

    おしゃべりは、知的な行為なのだ

    この本には、耳や会話の大切さについての話も出てくる。
    これもとても面白かった。

    私たちはどうしても、書かれた言葉のほうに価値を置きがちである。
    文字で残っているもの、文章として整っているもののほうが上だと考えがちだ。
    けれど、話すことはその人の頭の働きそのものを反映する。
    飾れない。
    その場で考えて、その場で言葉にしなければならない。
    だからこそ、話すことには独特の知性がある。

    この感覚は私にもある。
    趣味の会でも、例会のあとにみんなで話をしている時間がとても楽しい。
    その時間があるから気持ちが軽くなる。
    足取りまで軽くなる。
    ストレスが抜け、まだまだやれる気になる。
    そういう経験を私は何度もしてきた。

    ただの雑談ではないのだろう。
    会話の中で、頭の中が整理され、心も整っている。
    本だけでは得られないものが、おしゃべりにはある。
    これはとても大事なことだと思う。

    散歩や写真が、頭をきれいにしてくれる

    外山さんは散歩の効用も語っていた。
    私は散歩というより、写真を撮りながら自然の中を歩くことが好きである。
    野山を歩き、光を見て、風を感じ、草花や景色と向き合う。
    その時間は、本を読んで得た知識を思い出している時間ではない。
    むしろ頭が空っぽになっていく時間である。

    その空っぽの中に、思いがけない発見が入ってくる。
    これこそ、セレンディピティなのかもしれない。

    本ばかり読んでいると、頭の中に借り物の言葉が増えていく。
    けれど自然の中に立つと、自分の五感が戻ってくる。
    風の冷たさ、空の広さ、光の角度、土の匂い。
    そういうものに触れていると、頭の中の余分な知識が少しずつ落ちていく感じがする。
    私は写真が趣味で本当によかったと思う。
    読書とは別の場所で、頭をきれいにしてくれる時間があるからだ。

    本を読むだけでは、生きる力にならない

    この本が何度も教えてくれるのは、読書そのものが目的ではないということだ。
    本を読むことは大事だが、それが生きる力につながらなければ意味が薄い。
    読んだ知識が、自分の判断や行動や人との関わりに結びついてこそ、本は生きてくる。

    新しい文化を作る志につながらない教養は不毛だ。
    独立独歩を妨げるような教養は捨てなくてはならない。
    このあたりの言葉も、とても厳しいが、その通りだと思う。

    読書によって知識は得られる。
    でも、知識だけで人間は変わらない。
    本を読んでいるだけで、自分が前に進んでいるような気になるのは危ない。
    そこには快適な錯覚がある。
    私はそれを、この本によって改めて見せられた気がした。

    AI時代だからこそ、なおさら響く

    この本のすごさは、今の時代に読んでもまったく古く感じないどころか、むしろ今だからこそ強く響くところにある。
    本を読めば賢くなる、知識をたくさん持てば価値がある、という近代的な考え方を、外山さんはかなり早い時期から疑っていた。

    今はAIがある。
    検索すれば情報はすぐ出てくる。
    知識を蓄えるだけなら、人間より機械のほうが速い。
    そうなると、これまでのように「知っていること」そのものをありがたがる時代ではなくなっていく。

    では人間に何が残るのか。
    それは、知識をどう組み合わせるか。
    どう忘れるか。
    どう話すか。
    どう感じるか。
    どう生き方に変えるか。
    そこなのだろうと思う。

    この本は、そのことをAI以前の段階ですでに示していた。
    だから私はとても驚いたし、感心した。

    少しだけ、自分のことも書いておきたい

    こういうことを書くのは少し蛇足かもしれないが、私は時々、人からこんなふうに見られているのではないかと思うことがある。
    まさしく“論語読みの論語知らず”で、こんなに本を読んでいるのにデリカシーがないね、とか、読書してます感を出しすぎだとか、私は知っていますよという空気が鼻につくとか、そんなふうに受け取られているのではないか、と。
    実際、そういう危うさは自分の中にもあるのだと思う。だからこそ、この本の言葉が耳に痛かった。

    けれど一方で、私にとって読書は、ただ知識を増やすためのものではない。
    むしろ、ストレスを溜めないための、ほとんど唯一の方法でもある。
    本を読み、心に引っかかったことをこうして書き出し、発信する。そうすることで、抱え込みすぎたものを少し外に出し、忘却へと渡していく。
    私にとって発信は、覚えるためだけではなく、忘れるためでもあるのだ。

    そして、経営者のはしくれとして考えても、私はこれがとても大切な仕事だと思っている。
    ただ情報を集めるのではなく、それを自分の中で咀嚼し、少しでも言葉にして外に渡すこと。
    本を読み、考え、忘れ、また考える。
    その繰り返しの中でしか、自分の頭も、人との関わり方も、磨かれていかないのではないかと思っている。

    私自身への反省でもあった

    この本を読んでいて、結局いちばん考えさせられたのは自分のことである。
    私は本を読むことが好きだ。
    でも、その読書がどこかで“読んでいる自分”を支えるためのものになっていなかったか。
    知識を得ているつもりになり、思考している気になっていなかったか。
    そこを何度も問い直された。

    さらに、読めない人にとっては、本を読んでいる人を見ること自体がストレスになることもあるのだろうと思った。
    自分にとってワクワクする行為が、別の人には重たく見えることもある。
    そこにも気づかされた。

    だから本好きであることを、あまり自慢げに語るのは違うのだろう。
    読むことそのものではなく、そこから何を感じ、どう軽くなり、どう人にやさしくなれるか。
    本当に大事なのは、そこなのだと思う。

    それでも私は、本を読む

    ここまで読むと、まるで読書を否定しているように見えるかもしれない。
    けれど、そうではない。
    この本もまた、読書の中から出会った一冊である。
    しかも私に新しい発見を与えてくれた。
    だからやはり、読書には大きな意味がある。

    ただし、それは“たくさん読むこと”の価値ではない。
    “どう読むか”“どう忘れるか”“どう生きるか”を含めた読書の価値だと思う。

    本に支配されない。
    知識に溺れない。
    読み終えたあと、少し頭が軽くなり、少し生き方が柔らかくなる。
    そんな読書でありたい。

    風のように読む。
    面白いものを自由に読む。
    失敗も恐れず、自分で選ぶ。
    全部覚えようとせず、心に残るものだけを拾う。
    そして、読んだことを生きる力につなげていく。
    この本は、そんな読書のあり方を、私に改めて教えてくれた。

    そして今、私はもう一つ、少し皮肉なことも感じている。
    私はこの感想文に、自分なりの切実な思いを込めた。
    本を読まない人にこそ届けたいと思って書いている。
    本ばかり読んで賢くなったつもりになる危うさ。
    知識を詰め込むだけでは、人は自由にも深くもなれないこと。
    忘れること、話すこと、歩くこと、生きることのほうが、よほど大事だということ。
    そういうことを、本をあまり読まない人にも届けたいと思っている。

    けれど、その相手ほど、きっとこの文章を読まない。
    読む前からスルーする。
    文字の多さを見ただけで閉じてしまう。
    その現実を思うと、何とも言えない気持ちにもなる。
    届けたい相手にほど届かない。
    そのもどかしさもまた、読書や発信にまつわる現実なのだと思う。

    それでも、私は書く。
    読まれないかもしれない。
    届かないかもしれない。
    それでも、自分が本を読んで受け取ったものを、自分の言葉で社会に返していく。
    それは、読書家の見栄ではなく、経営者のはしくれとしての仕事でもあると思っている。
    人が読むか読まないかを先に決めつけるのではなく、まず差し出す。
    考えたことを、言葉にして外へ置く。
    その中から、たった一人でも、何かを受け取ってくれる人がいれば、それで意味がある。

    本を読みすぎて知識バカになるのではなく、
    本をきっかけにして、自分の頭で考え、自分の言葉で話し、自分の足で動ける人間でいたい。
    そして、読まない人にも届く言葉とは何かを、これからも考え続けたい。
    そんな宿題まで渡してくれた一冊だった。

    最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。
    感謝を込めて。

  • 古代史を読むと、日本の輪郭が揺らぎはじめる | 2026.03.11

    なぜこの二冊を同時に読んだのか

    『日朝古代史の謎』瀧音能之 著と、『新・古代史』NHKスペシャル取材班 著を、今回はほぼ同時に読んだ。きっかけはNHKのドキュメンタリーだった。もともと私は日本の古典や古代史に関心があり、『日本書紀』や卑弥呼、邪馬台国の話には以前から強く惹かれていた。

    室町、戦国、江戸、明治以降の歴史は比較的イメージしやすい。けれど、それ以前になると急に史料が少なくなり、分からないことが増える。そこにこそ、私にとっての面白さがある。特に古代史は、日本だけを見ていても見えてこない。朝鮮半島、さらに中国まで視野を広げてはじめて、少しずつ輪郭が見えてくる。そう思ったからこそ、この二冊を並べて読んでみたくなった。

    日本は日本だけでできたのではないという感覚

    読んでいて何より面白かったのは、日本という国の成り立ちが、最初から「日本だけ」の物語ではなかったと感じられることだった。倭国のことは中国の史書にも記されているが、その間には空白も多い。その空白を埋めるには、日本側の伝承だけでなく、朝鮮半島側の歴史や交流も見ていかなければならない。

    卑弥呼がなぜ女性の統治者だったのか。空白の四世紀とは何なのか。ヤマト王権はなぜ朝鮮半島と深く結びついていたのか。百済や新羅、高句麗との関係はどうだったのか。そうした問いを読んでいると、昔習った「日本の歴史」が、実はもっと大きなアジア全体の流れの中に置かれていたのだと感じる。

    私は、国というものは最初からきれいに分かれて存在していたのではなく、もっと複雑に、人も文化も技術も行き来しながら形づくられてきたのではないかと思った。文字も制度も技術も、交流の中で育ってきた。そう考えると、日本の文化をただ単純に「日本はすごい」と語るだけでは見えてこないものがたくさんある。むしろ深く知れば知るほど、日本の中に朝鮮半島や中国とのつながりが濃く息づいていることに気づかされる。

    新しい技術が、古代の見え方まで変えていく

    もう一つ強くワクワクしたのは、古代史が今も更新され続けているということだった。昔の歴史は、古い文献を読むだけの世界ではない。今はドローンやレーザー測量、地形解析などの技術によって、これまで見落とされていた古墳群や地形の痕跡が次々と見えてくる。掘り返さなくても内部の構造に迫れる時代になってきた。

    つまり古代史は、過去の話でありながら、今の技術によって新しく読み替えられていく世界でもある。これが実に面白い。誰かが文字を残してくれたからこそ分かることがあり、逆に残されなかった空白は、現代の技術によって少しずつ埋められていく。その営み自体に、私は大きなロマンを感じた。

    戦争や同盟、馬の導入、豪族たちの争い、国家のかたちの模索。そうしたものを見ていくと、人間は昔から愚かさも抱えながら、必死に生き延び、交わり、学び、次の時代をつくってきたのだと思う。国境もまた、後の時代に引かれた線にすぎないのかもしれない。そう思うと、歴史を学ぶことは、ただ過去を知ることではなく、今の世界をどう見るかを問い直すことでもあるのだと感じる。

    この二冊を読んで、私はますます古代史が好きになった。分からないことが多いからこそ面白い。断定できないからこそ想像が広がる。そして、日本という国をもっと深く知るためには、日本だけを見ていては足りないのだということを改めて感じた。こうした本を読むたびに、自分の歴史観が少しずつ揺さぶられ、広がっていく。その感覚が、今とても楽しい。

  • 何を学ぶかより、どう学ぶか――私がこの本で強く頷いたこと | 2026.03.10

    斉藤淳著『アメリカの大学生が学んでいる本物の教養』を読んで

    「教養」という言葉には、私はどこか引っかかりを感じていました。
    日本では教養というと、物知りであることや、社会人として知っておくべき知識を身につけていることのように語られがちです。けれど本書を読んで、そのイメージはかなり変わりました。

    著者が語っていたのは、単なる知識の量ではありませんでした。
    教養とは、特定の目的のためだけに身につけるものではなく、もっと長い時間をかけて、自分の中に積み重なっていくもの。役に立つかどうかをすぐに問うのではなく、学び続ける態度そのものが、やがて自分の人生哲学や守りたい価値観を支える土台になる。私はこの考え方にとても共感しました。

    学ぶほど、世の中は単純ではないとわかってくる

    この本を読んでいて、何度も「そうなんだよな」と思ったのは、学べば学ぶほど正解が一つではないとわかってくる、という点でした。

    若い頃は、知れば知るほど世の中が整理されていくような気がしていました。
    けれど実際には逆で、深く考えれば考えるほど、新しい矛盾や別の立場が見えてきます。人と出会い、本を読み、仕事を続けてきた今の私は、むしろ「なぜ今までこんなことに気づかなかったのか」と思うことの方が多いです。

    だから私は、「これが正解です」と強く言い切る声に対して、以前よりずっと慎重になりました。
    その答えは“現時点では”正しいのかもしれない。けれど前提が変われば、評価も変わるかもしれない。学ぶほどに、大きい声で断定しにくくなる。けれどそれは弱さではなく、むしろ教養ある態度なのではないかと思います。

    知識より大事なのは、それを使って何を考えるか

    本書では、今の時代は「知っていること」自体の価値が下がっているとも語られていました。
    私はこの指摘に強くうなずきました。今は検索すれば多くの情報に触れられるし、ChatGPTのような存在もある。単に知識を持っているだけでは、それだけで大きな価値にはなりにくい時代です。

    だからこそ大事なのは、その知識を使って何を考えるか、どう判断するかだと思います。
    知識人と教養人は違う。たくさん知っている人が、そのまま教養人なのではない。知識を材料にして考え、他者と議論し、必要なら自分の意見も修正できる人。そういう人こそ、本当の意味で教養を持つ人なのだと感じました。

    特に印象に残ったのは、「わかったつもり」が教養の最大の敵だという話です。
    これは本当にそうだと思います。人のわかりやすい説明を聞いて、あたかも自分も理解したような気になってしまう。けれど本当は、他者のことを完全に理解することなど簡単にはできません。だからこそ、知的な謙虚さを持ちながら、想像し、考え続ける。その姿勢が大事なのだと感じました。

    学び続けることは、少し孤独でもある

    もう一つ、深く残ったのは、教養を深めることには孤独が伴うということでした。
    知らなければ考えずに済んだことを、知ってしまったがゆえに考えずにはいられなくなる。慣れ親しんだ価値観や共同体から、少し距離を置くことになる場合もある。私自身も最近、そういう感覚を持つことがあります。

    もちろん共同体には良さがあります。安心感もあるし、支えにもなります。
    けれど、そこで当たり前とされている価値観に、自分まで無自覚に引っ張られてしまうことには抵抗があります。誰かが言ったから正しい、みんながそうしているから正しい。そういう空気に対して、私はやはり「本当にそうなのか」と立ち止まりたくなるのです。

    その意味で、学び続けることは楽ではありません。
    けれど私は、その面倒くささも含めて面白いと思っています。考えることを放棄しないこと。正解らしきものに簡単に飛びつかないこと。その積み重ねが、自分の中心を少しずつ形づくっていくのだと思います。

    何を学ぶかより、どう学ぶか

    この本を読んで、最後に一番強く残ったのは、「何を学ぶかより、どう学ぶかが大事だ」ということでした。

    日本の教育は、どうしても正解を早く当てることや、知識を効率よく覚えることに偏りがちです。もちろん基礎として必要な部分はあるでしょう。けれど、それだけでは自分の頭で考える力は育ちにくい。意見を持つこと、表明すること、違う立場から考えること、批判を人格否定と切り離して受け止めること。そうした訓練がもっと必要なのだと思います。

    私は去年から、読んだことや考えたことをできるだけ言語化して残すようにしています。
    感じただけで終わらせず、言葉にして、自分で見直し、また考える。その繰り返しが、思考の痕跡になり、自分の中の教養になっていくのだと、本書を読んであらためて感じました。

    教養とは、人生を飾るための知識ではなく、複雑で不確かな世界を、自分の足で歩くための姿勢なのだと思います。
    そしてそれは、何を知っているかよりも、どう学び、どう考え続けるかによって育っていく。
    この本は、そのことをあらためて気づかせてくれた一冊でした。

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