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兄を亡くして読んだ『さとりをひらいた犬』――魂は壊れないという希望 | 2025.12.05
「ほんとうの自分」を問い直す、1匹の犬の物語
――『さとりをひらいた犬 ほんとうの自分に出会う物語』(刀根健)
狩猟犬ジョンが、殺されそうになったオオカミの「魂の声」を聞いたとき、物語は静かに動き始めます。
「お前は、人間に仕えるために生まれてきたんじゃない」
その言葉は、ジョンだけでなく、今を生きる私たちの胸にも突き刺さる問いでした。「生存」と「ほんとうに生きる」のあいだで
ジョンは優秀な狩猟犬で、群れの中心的な存在。
けれどオオカミに問われてしまうのです。今の自分は“ほんとうの自分”なのか?
仲間たちは言います。
「何も知らない方が幸せだよ」「眠っていた方が楽だよ」と。耳が痛いほど、人間の世界にも同じ言葉があふれています。
見ないふりをして、感じないふりをして、
「このくらいでいいか」と、心を麻痺させて生きること――
それはたしかに“生存”かもしれない。
でも、ほんとうに「生きている」と言えるのか?
この本は、そこに容赦なく光を当ててきます。世界はつながっている――命に「ありがとう」と言えたとき
旅に出たジョンは、空腹のあまりウサギを狩ります。
そのとき彼は気づきます。自分も、ウサギも、森も、
みんな大きな「いのちのつながり」の中にいること。奪うだけの狩りではなく、
「ありがとう」と感謝して、自分の一部として受け取る。この場面を読んだとき、
私自身の「当たり前の毎日」も、
どれだけ多くの命に支えられているのかを
あらためて考えさせられました。兄を亡くして、胸に残った「魂」の言葉
本書の中で、
「身体とエゴだけでも、生存していくことはできる。
でも魂が死んでいる人間が多い」
というような一節があります。そして、
「肉体は壊れても、魂は壊れない」
というメッセージ。最近、兄を亡くした私は、
この言葉を読みながら、静かに涙がこぼれました。もう触れることも、話すこともできない。
それでも、兄の存在が消えてしまったとはどうしても思えない。
肉体は終わっても、あの人の魂は、
私の中で、生きた時間の中で、たしかに続いている――。この本は、その感覚にそっと寄り添ってくれました。
「本当の自由」とは、自分から自由になること
物語の終盤で語られるのは、
身体・エゴ・魂という三つの存在のバランス、
そして「本当の自由」の正体です。本当の自由とは、
外側の誰かや、環境から解放されることだけではなく、
自分の中の「怖れの声」「エゴの声」から自由になること。逃げれば逃げるほど、恐怖は追いかけてくる。
だからこそ、勇気を出して
「本当じゃない自分」と向き合うしかない。苦しみとは、
「今ここで起きている現実を受け入れたくない」という心の抵抗だと
この本は教えてくれます。読み終えて、私が自分に問いかけたこと
ページを閉じたあと、
私は自分にこう問いかけました。私はいま、「生きて」いるだろうか?
それとも、ただ「生存」しているだけだろうか?
兄との別れを前に、私はどんな態度で生きていきたいのか?
『さとりをひらいた犬』は、
かわいい犬の物語に見えて、
じつは「自分の魂に向き合う覚悟」を試される一冊でした。もし今、
なんとなく心が疲れている人、
本当の自分を見失いそうな人、
大切な人との別れを経験した人がいるなら――ジョンの旅路とともに、
あなた自身の「魂の声」に耳を傾けてみてほしい、
そう強く思います。
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体は借り物かもしれない——「君の顔では泣けない」がくれた深い問いと静かな感動 | 2025.11.26
「君の顔では泣けない」——映像と言葉のあいだで揺れた心の記録
君嶋彼方さんの『君の顔では泣けない』は、男女が入れ替わるという昔からある設定を持ちつつ、その背後に大きなテーマが潜んでいる小説だ。読み進めるほど、ただのファンタジーでは収まり切らない“人生の重さ”が押し寄せてくる。
実は、読書の途中で映画版も観た。
この順番で体験したことで、映画と小説が互いに光を投げかけ合うように、立体的な理解が生まれた。とくに映画のラスト、エンドロールが流れ始めてからの数分、何も言葉が出なかった。感情はあるのに、それを言葉にする糸口が見つからず、ただ静かに胸が熱くなる——あの「言語化できないけれど確かにある感覚」もまた、この物語の力なのだと思う。
■ 映画がくれた“言葉にならないもの”
映画は、映像と音楽だけで感情を呼び起こす表現だ。
役者の佇まいや、ふとした目線、光の射し方、家の生活音。そういう“説明されない部分”がじんわり心に染みてくる。とくにこの作品では、二人の主人公——水村まなみと坡平陸——の心が揺れるシーンで、言葉よりも静けさが響いた。画面の余白が語りすぎないことで、観る側の想像が広がる。
物語が終わっても思考が追いつかず、しばらく席を立てなかった。
胸の奥に重く柔らかいものが置かれたような、包み込まれるような感覚。「何かを受け取った気がする。でもまだ説明できない。」
そんな映画体験は久しくなく、だからこそ強く心に残った。
■ 小説は“言葉でしか触れられない領域”を描く
一方、小説は言葉によって、映像では掬えないほど細かく感情が描写されている。
二人が互いの身体で長い年月を生きていく中で抱いた戸惑い、喪失感、責任、赦し。
その複雑な重なりは、小説だからこそ丁寧に描ける部分だ。特に、
“自分ではない身体で、自分の人生が続いていく”
という設定が、生々しいほどリアルに迫ってくる。入れ替わりものは、若い頃は軽やかなエンタメとして読めた。しかし年齢を重ねたいま読むと、まったく違う場所に着地する。
自分の体とは何か?
意識とは何か?
“自分らしさ”はどこに宿るのか?読みながら何度もその問いが頭をよぎった。
映画が“言語化できない感情”を残してくれたなら、
小説は“言語化するための道筋”をそっと差し出してくれる。二つを合わせて体験してはじめて、この作品の輪郭がくっきり見えた気がする。
■ 借り物の身体で生きるという、深いメッセージ
物語を通して感じたのは、“身体は借り物かもしれない”という感覚だった。
宗教的な思想のようにも思えるが、作品のテーマと深く呼応している。身体は自分のもののようでいて、実は預かっているだけ。
だからこそ——-
傷つけてはいけない
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雑に扱ってはいけない
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他者の身体を尊重することは、自分を尊重することに繋がる
そして何より、
どれほど苦しくても、自ら命を手放してはいけない。そのメッセージが、作中の長い年月を生きた二人の姿から静かに滲み出てくる。
読後、自然と「自分にも、他人にも優しくあろう」と思えた。
派手な感動ではなく、深呼吸するような優しさをもたらしてくれる読書体験だった。
■ 映画と小説、二つの表現が教えてくれたこと
映画は、感情を“感じさせる”。
小説は、感情を“理解させる”。どちらが優れているわけではなく、どちらもこの物語にとって欠かせなかった。
映像で心が揺れ、言葉でその揺れの正体を知る。
そんな循環のなかで、この作品はより深い読書体験へと変わっていった。年末のタイミングでこの作品に出会えたことにも意味を感じている。
忙しさに押し流されそうな日々の中で、立ち止まり、
“自分はなぜ生きるのか、どのように在りたいのか”
そんな根源的な問いを静かに差し出してくれた。あなたなら、この物語と映画を通してどんな感情が残るだろうか。
言葉にならなくてもいい——その余韻こそが、この作品の美しさだと思う。
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オフィス併設倉庫をつなぐ高視認イエロー鉄骨階段 | 2025.11.21
明るいイエローで仕上げた鉄骨階段が、オフィス併設倉庫の動線をわかりやすく示し、安全でスムーズな上下階移動をサポートします。滑りに配慮した踏板形状と、しっかりした手すりにより、日常の昇降時も安心。事務スペースと倉庫・設備階を結ぶ階段として、視認性と機能性を両立した一台です。エンドユーザー様・工務店様・施工業者様からのお問い合わせお待ちしております。

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「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」家康型で生きるということ― 養老孟司『バカの壁』 | 2025.11.12
「バカの壁」養老孟司著を読んで
―なぜ今、この本を読むのか―この本を手に取ったのは、「自分がバカだ」と気づいたときに読むべき本だと思ったからだ。
養老孟司は冒頭でこう語る。
「物事は言葉で説明すればわかると思っている人が多い。しかし、言葉でわかることばかりではない」と。
“話せばわかる”“聞けば理解できる”という信仰こそが、実は大きな誤解なのだ。言葉にできないところにこそ、人間の本質がある。日本人の常識が「雑学」に堕しているという指摘にも、思わずうなずいた。
中でも印象的だったのが「感情の係数」という話。
どんなに理屈で説明しても、相手の心の係数がゼロなら何も伝わらない。
反対に、原理主義的な聞き方をする人は、無限大の理解を示す。
マイナスの係数をもてば、善意で話しても悪意に変換される。
この“係数”こそ、人間らしさであり、AIにはない柔軟で変動的な領域なのだと思った。また筆者は、情報は固定され、人間のほうが変わり続ける存在だと説く。
『平家物語』や『方丈記』を引用しながら、無常の中にこそ生命があると語る。
豹変は悪口ではない。私自身、座右の銘を「朝礼暮改」としているが、変わるスピードを恐れずに生きることこそ、今の時代に必要な柔軟さだと思う。
「論語」の“朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり”という言葉の解釈も印象深い。
毎年同じ桜を見ても感情は変わる。その変化こそが生の証だ。だから私は、同じ場所に行ってもまた写真を撮る。自分が変わっているからだ。人間は誰もが個性的な存在であるにもかかわらず、「個性を発揮せよ」と言われながら、同時に「共通了解」を求められる。そこにまた“壁”が生まれる。
専門性が増すほど入力は膨大になるのに、出力は限られていく。
養老はそれを「不健康な状態」と言う。
だからこそ私はnoteで発信し、言語化できない感情は写真で表現するようにしている。人生の意味についても、筆者の視点は深い。
「自己実現」は自分の内側で完結するものではなく、常に社会との関係性の中で生まれる。
無人島で暮らす人にも意味はある。それは自然という共同体に生きているからだ。
意味は“他者”とのつながりの中に生まれる。
人が生きた証は、発信したもの、残したものの中に息づいていく。「無意識の発見」という章では、人間の脳が24時間働き続けていることを指摘する。
睡眠を“もったいない”と思うのは、意識の世界だけを信じている証拠だという。
冬眠する熊が天上界と下層界を行き来するように、人間も無意識の世界を旅している。
三分の一を無意識で生きる――それこそが人間たるゆえんなのだ。そして終盤、筆者はこう語る。
「バカとは思考停止である」。
安易に「わかる」「話せばわかる」「絶対の真理がある」などと思ってしまう姿勢。
そこから“一元論”に落ちていくのは容易だ。
一元論に囚われれば、強固な壁の中に住むことになる。
そこは一見、快適で安心な空間に見える。
しかし、壁の向こう側――自分とは異なる立場、異なる感情、異なる視点を見失う。
そうなれば、当然、話は通じなくなる。
つまり、「わかった」と思った瞬間に、人は“わからなくなる”のだ。筆者はさらに、「人生は家康型で行け」と結ぶ。
徳川家康の言葉――「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」――を引用しながら、
一歩上がれば遠くが見えるが、その一歩がいかに重いかを語る。
荷を背負いながらも歩みを止めないこと、その地道な努力の中に人間らしい成長がある。
安易に理解しようとせず、ゆっくりと、しかし確実に歩く。
その姿勢こそ、バカの壁を越える唯一の方法ではないかと感じた。思考を止め、世界を単純化するほど、壁は厚くなる。
それでも私たちは、生きる中で何度も壁にぶつかる。
大切なのは、壁を壊すことではなく、その向こうに“他者”がいると気づくこと。
自分の理解を疑いながら、立ち止まって考える勇気を持つこと。
それこそが、養老孟司のいう「人間的思考」であり、
この本の最後の行――「向こう側のこと、自分と違う立場のことは見えなくなる。当然、話は通じなくなるのです。」――に凝縮されている。この一文こそ、「バカの壁」というタイトルのすべてを語っているのだと思う。
わかることより、わからないことを受け入れる勇気。
それが今、最も必要な“知の姿勢”なのだ。
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特別じゃない日々が、いちばん愛しい | 2025.10.31
「愛すべき凡庸な日常」を読んで
守田 樹 著
私は人間観察が好きだ。特に目的があるわけではない。ただ、人が何気なく過ごす時間や、ちょっとした言葉のやり取りに、妙に心を惹かれてしまう。誰かが笑う瞬間や、ふと黙り込む間(ま)に、その人の物語が見えるような気がする。
人って、ほんとうに不思議で、そして面白い。守田樹さんの『愛すべき凡庸な日常』を読むと、その「人間っていいな」という気持ちがじんわりと蘇ってくる。どんなに平凡に見える一日も、少し引いて見れば、そこには小さな笑いや、言葉にならない感情のうねりがある。著者はそれを、ユーモアとやさしさを持ってすくい上げていく。ときに少し皮肉を交えながらも、最後には必ず笑って終わる。その軽妙なリズムに、思わずこちらも笑みがこぼれた。
タイトルにある“凡庸”という言葉は、一般的には退屈の代名詞のように扱われる。けれど、この本では逆だ。凡庸とは、誰もが持つ「普通に生きる力」なのだ。特別なことがなくても、ちゃんと呼吸して、食べて、笑って、時に落ち込みながらもまた立ち上がる。日々の繰り返しこそが、人生の根っこを支えている。著者はそのことを、淡々とした筆致で、しかし確かな温度をもって描いている。
読んでいて何度も笑ってしまった。守田さんの文章には、“大げさに語らない”強さがある。深刻なテーマを扱っていても、どこか肩の力が抜けている。その自然体が心地よく、まるで日向ぼっこをしているような読後感が残る。人の弱さや不器用さを笑いながら受け止めてくれるようで、「それでいいんだよ」とやさしく背中を押される。
特に印象的だったのは、日常の中に潜む小さな奇跡へのまなざしだ。たとえば、朝の光がカーテン越しに差し込む瞬間、コーヒーの香りがふっと立ち上る時間、沈黙の中に漂う安心感。そんな何でもない場面の中に、確かに“生きている”という手触りを見つけている。著者はそれを理屈で語らない。ただ、笑いながら「ほら、ここにあるでしょ?」と示してくれる。その感覚が心地よく、どこまでも自然だ。
読み終えてスマートフォンの画面を閉じたとき、日常の風景が少し柔らかく見えた。朝の空気の透明さや、何気ない会話のぬくもりが、心に静かに残る。守田さんが描く世界は、派手さはないが、どこか懐かしく、今を生きる私たちの心をやさしく整えてくれる。
人間って、ほんとうに愛おしいくらい楽しい生きものだ。
『愛すべき凡庸な日常』は、そのことを静かに、けれど確かに思い出させてくれる一冊だった。
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「心の目で飛べ」――今こそ読みたい『かもめのジョナサン』 | 2025.10.30
「かもめのジョナサン」が今、私に語りかけてくる理由
書店で何気なく手に取った一冊。
それが、リチャード・バック著・五木寛之訳の『かもめのジョナサン』だった。
かつて名を知らぬ者のないベストセラー。
しかし当時の私は、そのタイトルに漂う「自己啓発的な何か」に距離を感じ、読むことなく過ごしていた。けれど今になってこの本と出会い、私は思う。
なぜもっと早く読まなかったのだろうと同時に、いや、今だからこそ深く響くのだとも。
自分だけの「飛ぶ理由」を求めて
ジョナサンは、ただのかもめではない。
彼は“飛ぶ”ことそのものに美しさと意味を見出した、孤高の存在だ。ほとんどのかもめが「食べるために飛ぶ」のに対し、
ジョナサンは「飛ぶために飛ぶ」。
食欲や社会の常識から自由になり、空を極めようとする。その姿は、まるで人生における「意味」を追い求める求道者のようだ。
そして、他者とわかり合えず、理解されず、やがて群れを追われる。
けれどそれでもなお、自分の内なる声に従い続ける。このストイックな生き様が、まるで哲学者そのものに見えてくる。
目に見える世界の限界と、「心の目」の存在
物語の中で最も心に残ったのは、
ジョナサンが若いかもめに向けて語る次の言葉だった。“きみの目が教えてくれることを信じてはいかんぞ。目に見えるものには、みんな限りがある。きみの心の目で見るんだ。すでに自分が知っているものを探すのだ”(バック, p. 139)この一節は、現代を生きる私たちに対する明確なメッセージに思える。
目に見える情報、数値、肩書き、評価…。
それらが真実を語っているようでいて、実はとても限定的で脆いものだということ。私たちが本当に向き合うべきものは、外側にではなく内なる感覚の中にある。
それを「心の目」と呼ぶなら、現代人はどれほどその目を閉じてしまっているだろうか。
神になるという“誤解”と、その行く末
物語の終盤、ジョナサンは伝説となり、彼の言葉は信仰の対象となっていく。
かつて教えを拒んだかもめたちが、今や彼を“神”として崇めるようになってしまう。ここで私は、五木寛之によるゾーンからのメッセージの中で引かれた、法然や親鸞の比喩に思いを巡らせた。
悟りを開いた者の本来の言葉が、やがて形式や儀式に変質していく――。
思想が信仰に、そして信仰が制度になり、やがて“本質”が失われていくプロセス。この皮肉な構図は、宗教だけでなく、あらゆる“権威化”の流れに通じている。
私たちは、かもめたちと同じように、自分の心で考えることを放棄し、
「偉人の言葉」や「すでに定められた意味」にすがろうとしてしまう。
飛ぶ理由は、他人には決められない
ジョナサンの旅は、誰かに理解されるためではなかった。
ましてや、神として崇められるためでもない。
彼が求めていたのは、ただ「自分にとっての飛ぶ意味」を極めることだった。社会に受け入れられずとも、家族にたしなめられても、
自らの魂が向かう方向へと飛び続ける。その姿は、自由の象徴であると同時に、孤独と向き合う覚悟そのものだ。
「あなたは何のために飛びますか?」
この本は、読むたびに違う顔を見せるのかもしれない。
若いころに読んでいたら、きっと「自由でかっこいい生き方だな」で終わっていただろう。
だが今読むと、その裏にある哲学的な問いが、静かに心に刺さる。この世界には、無限に情報があるようで、実はとても狭い枠で回っている。
だからこそ、目に見えるものを超え、「自分の心の目」で世界を見つめる力が問われている。そして私は今、自分に問いかけている。
私は、何のために飛んでいるのだろう?

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