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「好き」を貫くことが、生き方のセンスになる | 2026.08.06

『センスいい人がしている80のこと』有川真由美 著を読んで
「センスとは、生まれながらに持っているものだけではなく、後天的に身につけられる。どんな人でも、何歳からでも」
本書の冒頭にあったこの言葉に惹かれた。
センスと聞くと、服装や持ち物、色の組み合わせなど、生まれつき備わった感覚を思い浮かべる。しかし本書を読んでいくと、センスとは見た目だけの問題ではないことが分かってきた。
何を感じ、何を選び、何を手放すのか。
どのような人と付き合い、どのような時間を過ごすのか。センスとは、その人の生きる姿勢そのものなのだと思う。
「好き」は、センスの母
著者は「好きはセンスの母」と書いている。
好きなものを大切にしていると、自分が何を求めているのかが、少しずつはっきりしてくる。
人は人、自分は自分でいいと思える。
なりたい自分に近づいていく。
新しいことにも挑戦したくなる。
毎日の感情を、丁寧に味わえるようになる。そんなふうになれたら素敵だ。
ただし、「好き」を貫くことは簡単ではない。
どんな自分でいたいのか。
どんな暮らしを送りたいのか。自分自身と真剣に向き合い、自分に合わないものを、ときには思い切って手放す覚悟も必要になる。
周囲からどう見られるかではなく、自分の心が本当に喜ぶものを選ぶ。その小さな選択の積み重ねが、自分らしいセンスをつくっていくのだろう。
自分でつくった音楽が、暮らしを豊かにする
私は最近、AIを使って音楽をつくっている。
自分で歌詞を考え、好きな雰囲気の曲をつくり、自分が思い描いた声で歌ってもらう。気がつけば、つくった曲は60曲ほどになった。
以前は、外で誰かの音楽を聴くことが多かった。しかし今は、自分の写真や体験から生まれた曲を聴くことが増えた。
自分の中にあった風景や感情が、言葉になり、音楽になって戻ってくる。それを聴いていると、何でもない日常が少しだけ特別なものになる。
お気に入りの作品や道具を大切に使う。
自分の好きな音楽とともに暮らす。それだけでも、日々の生活に上質なエッセンスが加わり、気持ちが華やぐ。
センスとは、高価なものを持つことではない。自分が本当に気に入ったものを見つけ、その価値を味わえることなのだと思う。
本当のかっこよさは、かっこ悪さの先にある
本書の中で、特に共感した言葉がある。
間違うことがかっこ悪いのではない。間違うことを恐れて挑戦しないほうが、かっこ悪い。
私もそう思う。
傍から見れば、ばかばかしく思われる趣味でも、本人がやりたくて真剣に取り組んでいる姿は美しい。
写真を撮る。
本を読む。
文章を書く。
音楽をつくる。
新しいAIを試してみる。一見すると別々の趣味だが、続けていると、知識や経験の点と点がつながってくる。写真が言葉になり、言葉が音楽になり、本で得た考えが仕事や暮らしにつながっていく。
大人になってからの遊びは、単なる暇つぶしではない。
自分の世界を広げ、新しい自分に出会うための学びでもある。
本当のかっこよさは、かっこ悪く見えることを恐れず、一歩を踏み出した先にあるのだろう。
妻の目を借りて、新しい自分に出会う
服装や持ち物について、私が最も信頼しているのは妻の助言である。
自分一人では選ばなかった服や色も、妻に勧められて試してみると、意外によく馴染むことがある。
自分のことは、自分が一番分かっているようで、実は見えていない。
本書には、感度のいい友人に助言をもらうことも勧められていた。他人の目を借りることで、それまで知らなかった自分の魅力に気づくことがある。
清潔感、姿勢、靴、色づかい。
どれも小さなことに見えるが、その人が自分をどう扱っているかは、自然と外見に表れる。
特に姿勢と心は直結しているという。背筋を少し伸ばすだけでも、気持ちが前向きになることがある。
おしゃれとは、流行を追うことではない。自分はどうありたいのかを、外側から静かに表現することなのだと思う。
人を喜ばせることを楽しむ
本書では、人を喜ばせることもセンスの一つとして語られている。
大げさなおもてなしではなく、相手が心地よく過ごせるように、さりげなく心を配る。
私はこの部分を読んで、デンマークで触れた「ヒュッゲ」を思い出した。
豪華な料理や特別な演出がなくても、気の合う人たちと、心地よい家具や照明の中で、無理のない時間を楽しむ。
デンマークで家具や照明、建築などの美しいデザインが育った背景には、日常の心地よさを大切にする文化があるのかもしれない。
人に喜んでもらうためには、無理をする必要はない。
自分も楽しみながら、相手にも心地よさを渡す。その軽やかさが、おもてなしのセンスなのだろう。
言葉にすることで、感性は磨かれる
著者は、自分の言葉で例え話を考えたり、自然を表す言葉を使ったりすることを勧めている。
例え話の上手な人は、一瞬で相手の中に情景をつくる。聞いた人は、まるで映画や絵画を見るように、その場面を思い浮かべることができる。
人は、自分が持っている言葉によって考える。
だから言葉が増えるほど、見える世界も細やかになっていく。
私は本を読んでも、以前はその感想をうまくまとめることができなかった。今は音声で思ったことを話し、AIの力も借りながら、自分の言葉を探している。
本を読んで終わりにせず、感想を書く。
写真を撮って終わりにせず、そのときの気持ちを言葉や音楽にする。言葉にしようとすることで、自分が何に心を動かされたのかが分かってくる。
年齢を重ねて涙もろくなるのも、喜怒哀楽のさまざまな経験を重ね、物事の背景を感じ取る力や、他人への共感力が高まるからかもしれない。
感性は、言葉によってさらに深くなっていく。
本は、自分と対話するための話し相手
本書には、読んだ本の感想を誰かに伝えてみることも勧められている。
しかし、読んだ本の話をいつでも聞いてくれる人がいるとは限らない。
だから私は、noteに感想を書いている。
書店を歩いていると、ときどき一冊の本が「私と話しませんか」と呼びかけてくるように感じることがある。
本は、著者の考えを一方的に受け取るものではない。
自分の経験と照らし合わせ、疑問を持ち、ときには反論しながら対話するものなのだと思う。
哲学も、昔は難しくて近寄りがたいものだと思っていた。しかし最近は、唯一の正解を教えてくれるものではなく、自分と相性のよい考え方と対話しながら、生き方に取り入れていくものだと感じている。
複雑で変化の激しい時代だからこそ、自分の判断の軸を持つために、哲学や読書が必要になるのかもしれない。
みんなと仲良くしなくてもいい
本書には「みんなと仲良くしなくてもいい」という話もあった。
子どもの頃は、友達は多いほうがよいと教えられる。大人になってからも、せっかくできた縁だからと、無理につながりを保とうとすることがある。
しかし、人は成長し、立場や価値観も変わっていく。
つながる人が変わるのは、自然なことなのだ。
無理に合わせたり、その場に留まり続けたりするのではなく、自分らしくいられる関係を大切にする。
人と比べない。
人の目だけを基準にしない。その一点を意識するだけでも、生き方だけでなく、暮らしや仕事のセンスも磨かれていくのだと思う。
「なるほど、そう来ましたか」
本書には、ピンチに直面したときの面白い言葉も紹介されていた。
「なるほど、そう来ましたか」
まず大きく呼吸し、少し他人事のようにつぶやいてみる。
困難の真っただ中では、なかなか笑うことなどできない。しかし、少しだけ距離を置いて眺めることができれば、目の前のことに集中できる。
まるでコメディー映画の一場面のように、困難さえも面白がる。
そこまでできれば、ピンチに振り回されるのではなく、自分の側に主導権を取り戻せるのかもしれない。
何でもないことに「ありがとう」と言う。
当たり前の中にある尊さに気づく。
失敗を恐れず、ワクワクすることをやってみる。そうした心の持ち方も、センスの一つなのだ。
迷ったときは、人として美しいほうを選ぶ
センスは、苦しみや無理強いの中から生まれるものではないと著者は言う。
もっと素敵でありたい。
もっと人に喜んでもらいたい。
もっと人生を楽しみたい。そんな前向きな気持ちから、その人らしいセンスが生まれてくる。
誰もが自分だけのセンスを持っているはずなのに、それが隠れているとすれば、他人との比較や、人の目によって、心の自由を奪われているからかもしれない。
センスを磨くとは、見た目を整えることだけではない。
自分の心を健やかに保ち、自分の可能性を信じ、好きなものを大切にしながら生きていくことなのだ。
そして迷ったときには、
人として美しいほうを選ぶ。
「好き」を貫くことは、わがままになることではない。
自分の心に正直になり、自分も周囲の人も心地よくなる生き方を選ぶことだ。
その積み重ねが、その人だけの生き方のセンスになっていくのだと思う。
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時間は平等ではない。70歳で知った「今」の使い方 | 2026.08.05

田坂広志さんの『なぜ、時間を生かせないのか――かけがえのない「人生の時間」に処する十の心得』を読んだ。
この本が出版されたのは2003年だという。
読みながら、何度も思った。
もっと早く、仕事に夢中になっていた時代に読んでおけばよかった、と。
けれども、70歳になった今の私にとって、ビジネスの技術を学ぶための本ではない。これまでの仕事や人生を振り返り、残された時間をどう生きるかを考える本だった。
本には、読むべき時期があるのかもしれない。
若い頃に読んでいたら、仕事の効率を高める本として読んだだろう。しかし今は、「人生の時間をどう生ききるか」という問いとして心に入ってきた。
時間は、本当に平等なのか
私たちはよく、
「時間は誰にでも平等に与えられている」
と言う。
一日は誰にとっても24時間である。その意味では確かに平等だ。
しかし本書は、実際に人が生きる時間は平等ではないと語る。
その違いを生み出すものが、集中力である。
同じ一時間でも、心が散らかったまま過ごす一時間と、何かに深く集中して過ごす一時間では、その密度はまったく違う。
集中力とは、単に机に長時間向かう力ではない。持続力や精神力を含めた「知的体力」なのだと思う。
ただし、集中するためには、退路を断って自分を追い込めばよいわけでもない。
本書で印象に残ったのは、
「深く集中できる人は、深くリラックスできる人でもある」
という考え方だった。
集中とリラックスは反対ではない。
深く休み、心を緩められるからこそ、次の瞬間に深く入り込むことができる。
最高の集中とは、「集中しなければ」と力むことではなく、気がつけば夢中になっていた、という状態なのだろう。
好きになる。
興味を持つ。
楽しむ。
そして夢中になる。
人はそのとき、最も高い力を発揮する。
これは仕事だけではない。読書も写真も同じだ。心から惹かれるものに向かっているとき、時計を見なくても時間は深く流れていく。
知識が価値を失う時代に残るもの
本書が書かれた2003年当時、すでに田坂さんは、情報や知識が社会全体で共有され、知識そのものの価値が下がっていく時代を見据えていた。
インターネットが広がり、今では生成AIが大量の情報や知識を瞬時に示してくれる。
では、その時代に何が価値を持つのか。
それが、「職業的な知恵」だという。
スキル、センス、ノウハウ、勘、洞察力。
これらは、教科書を読んだだけでは身につかない。
資格を取ったからといって、すぐに仕事ができるようになるわけでもない。
長い経験の中で、失敗し、迷い、人と向き合い、心を動かされたときに、少しずつ体に染み込んでいくものである。
本書では、「経験」と「体験」は違うと語られる。
ただ出来事を通過するだけなら経験で終わる。
しかし、その出来事を自分の感覚や感情とともに受け止め、自分の内側に落とし込んだとき、経験は体験になる。
そして、その体験から知恵が生まれる。
専門知識は頭で学べる。
しかし、本当の知恵は、心で感じ、体でつかみ取らなければならない。
長く仕事をしてきた今、この言葉の意味がよく分かる。
仕事の知恵は、成功したときよりも、むしろ失敗したときや、思うようにいかなかったときに身につくことが多い。
真似をするから、自分が見えてくる
本書の中で、特に共感したのが「真似ること」についての話だった。
学ぶことは真似ることだと言われる。
しかし、師匠の表面的な技術だけを真似すれば、それは猿真似になってしまう。
優れた人のやり方を観察し、同じようにやってみる。
けれども、うまくいかない。
さらに観察し、もう一度試してみる。
それでも、どこか違う。
その失敗を繰り返しているうちに、師匠と自分との違いが見えてくる。
真似をする本当の目的は、師匠と同じ人間になることではない。
自分の個性を発見することなのだ。
個性は、一人で自由にしていれば自然に現れるものではない。
異なる個性と出会い、ときに葛藤し、圧倒され、それでも自分なりの方法を探す中で磨かれていく。
写真でも、仕事でも、文章を書くことでも同じだと思う。
優れた作品や技術に憧れ、真似てみる。
しかし同じにはならない。
その「同じにならなさ」の中にこそ、自分だけの感覚や呼吸、スタイルが隠れている。
個性とは、最初から完成した形で自分の中にあるものではない。
他者との格闘を通して、少しずつ磨き出されるものなのだ。
仕事の本当の報酬
本書には、
「仕事の真の報酬は、人間としての成長である」
という言葉がある。
仕事の報酬というと、給与や地位、実績を考えてしまう。
しかし、長い人生を振り返れば、仕事を通して何を得たか以上に、仕事によって自分がどのような人間になったのかが大切なのだろう。
ただし、「成長するために仕事をする」というのとも少し違う。
目の前の仕事に懸命に取り組み、人と向き合い、失敗を受け止める。その結果として、いつの間にか人間が磨かれている。
成長できる場所は、どこか遠くにあるのではない。
「今の環境では成長できない」
「もっと良い場所に行けば変われる」
そう考えることもある。
けれども、私たちは自分に都合よく世界を解釈し、今ここ以外に成長の場があるという幻想を抱きやすい。
本当の学びの場所は、いつも目の前にある。
目の前の仕事。
目の前の人。
目の前で起きている出来事。
そこから何を感じ、何を受け取り、どう自分を変えていくか。
それが問われている。
あるのは、永遠に続く「今」だけ
私たちは何のために学び続けるのだろう。
生き残るためか。
誰かに勝つためか。
社会的に成功するためか。
私たちは強い思想を持たなければ、世間が決めた「成功」の物差しを、知らないうちに自分の人生の物差しにしてしまう。
しかし、人生の成功とは何か。
それは、一人ひとりが考え続けなければならない問いなのだと思う。
本書の最後にある、
「過去はない。未来もない。あるのは永遠に続く今だけである」
という言葉が心に残った。
過去を悔やむことはできる。
未来を心配することもできる。
しかし、私たちが実際に生きられるのは、今この瞬間しかない。
2003年にこの本を読まなかったことを、少し後悔している。
けれども、その後悔に時間を使うのではなく、今この本に出会えたことを大切にしたい。
70歳になったからこそ分かる言葉もある。
仕事を続けてきたからこそ、体に響く言葉もある。
人生の時間を生かすとは、予定を隙間なく埋めることではない。
目の前のものに心を向け、深く感じ、夢中になり、体験から知恵をつかみ取ることなのだろう。
残された時間がどれだけあるかは、誰にも分からない。
だからこそ、時間の長さではなく、時間の深さを大切にしたい。
過去でも未来でもない。
今を生きる。
そして、今を生ききる。
それが、かけがえのない人生の時間を生かすということなのだと思う。
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自分の暮らしを、自分だけの言葉にする | 2026.08.04

――黒田充代著『腎臓Lover』を読んで
この本を手に取ったのは、私自身が胆のうを摘出してから、以前より体の中のことに関心を持つようになったからかもしれない。
肝臓や胆のう、腎臓、子宮、卵巣。
普段はほとんど意識することのない臓器が、私たちの命を黙って支えている。『腎臓Lover』という少し意外な題名にひかれて読み始めたが、本書に書かれていたのは、病気や臓器についての話だけではなかった。
黒田充代さんが、自分の体や家族、友人との別れ、旅先での失敗、何でもない日々の暮らしを、一つ一つ静かに綴った本だった。
著者の一場面と、自分の一場面が重なる
著者は、本書を通して、自分の人生の一場面と読者の一場面が交わり、まだ自分の中に眠っている世界に気づいてもらえたら嬉しい、という趣旨のことを書いている。
読み進めていると、著者の記憶と私自身の記憶が、何度も重なった。
親しい友人から、ひょっこりメールが届く。
しかし、その後間もなく、その人は亡くなってしまう。年齢を重ねるにつれて、友人や家族との別れが少しずつ増えてくる。若い頃には遠い出来事のように感じていた死が、いつの間にか、自分の日常のすぐ近くにあるものとなる。
悲しみに慣れることはない。
ただ、悲しみを抱えながら暮らすことを、少しずつ覚えていくのかもしれない。無理に忘れるのではなく、自分の中で時間をかけて受け止め、消化していく。
それも、年齢を重ねるということなのだろう。
何もない一日にある、静かな幸福
若い頃は、何かを成し遂げなければならないと思っていた。
仕事で結果を出すこと。
人から認められること。
新しい場所へ行き、新しい経験をすること。しかし年齢を重ねると、何でもない一日や、何も起こらない時間こそが、軽やかで素敵なものだったのだと、じんわり気づく。
朝、無事に目を覚ます。
食事をする。
家族と言葉を交わす。
好きな本を読む。
静かに一日を終える。若い頃には退屈に見えた時間が、今ではありがたい。
幸福とは、激しく輝くものばかりではない。むしろ最後に残るのは、音を立てずに心の中へ広がっていく、静かな幸福なのかもしれない。
何のために生きてきたのか、その答えが分からなくてもよい。
自分にとって何が大切なのか。
どのような時間に心が安らぐのか。それが少しでも分かっていれば、人は自分の人生を静かに歩いていけるのではないだろうか。
失敗も、いつか自分の物語になる
本書を読みながら、私自身の旅先での失敗も思い出した。
自分では正しいと思っていたことが、実は間違っていた。自分の判断や言動によって、せっかくの旅行を台無しにしてしまったように感じる。
そのときは本当に落ち込む。
なぜ、あんなことをしたのか。
もっと違う言い方ができなかったのか。
せっかくの時間を無駄にしたのではないか。私はよく、年を取ったら、もっと恥をかいてもよいと言っている。しかし、実際に失敗すれば、やはり心は傷つく。
それでも長い時間が過ぎると、その失敗も一つの思い出に変わっていく。
成功したことだけが人生ではない。
間違えたこと、遠回りしたこと、落ち込んだこと、逃げ出したくなったこと。それらも含めて、自分の人生だったと思える日が来る。
失敗を無理に忘れるのでも、いつまでも自分を責め続けるのでもない。
少しずつ自分の中で消化し、自分の物語の一部として受け入れていく。それが大切なのだと思う。
体と向き合うことは、人生と向き合うこと
本書には、腎臓移植をめぐる体験をはじめ、子宮や卵巣の摘出、父親の死、家族の病気など、簡単には言葉にできない出来事も綴られている。
病気は、誰にでも起こり得る。
昨日まで当たり前に動いていた体が、ある日突然、自分の思いどおりにならなくなる。
私も胆のうを摘出してから、自分の体を以前より身近に感じるようになった。
体は自分のものでありながら、自分の意思だけでは動かせない。目に見えないところで、多くの臓器が休むことなく働き、今日まで命をつないでくれている。
失って初めて、その存在の大きさに気づくこともある。
病気や手術について書くことは、単なる治療の記録ではない。
自分が何を恐れ、何に支えられ、何を大切にして生きてきたのかを見つめ直すことなのだと思う。
機微の風景を言葉にする
今回、この感想文の題名を、
「自分の暮らしを、自分だけの言葉にする」
とした。
本書を読んで強く感じたのは、日々の出来事を言葉にすることで、自分の心の細かな動きが見えてくるということだった。
うれしかった。
悲しかった。
悔しかった。
恥ずかしかった。それだけでは、自分が何を感じていたのか、まだ十分には分からない。
なぜうれしかったのか。
何が悲しかったのか。
本当は誰に何を伝えたかったのか。言葉を探しながら書いていると、自分でも気づいていなかった感情が、少しずつ姿を現す。
それは、心の中にある機微の風景を言葉にすることなのだと思う。
感情は、はっきりと一つの形を持っているわけではない。
喜びの中に寂しさがあり、悲しみの中にも温かさが残っている。光の加減によって表情を変える風景のように、心も絶えず揺れ動いている。
その微妙な揺れを、自分だけの言葉ですくい上げる。
言葉は、自分の奥底を映してくれる鏡なのだと思う。
言葉にできないものも、大切にしたい
私は写真を撮る。
写真には、一瞬の光、空気、距離、沈黙、その場に立った人にしか分からない感覚が写り込む。
しかし、その写真を言葉で説明しようとすると、もともと写真の中にあった何かが、だんだん薄まっていくように感じることがある。
言葉にした瞬間、見る人が自由に感じる余白を狭めてしまうこともある。
一方で、言葉にすることで初めて、自分がなぜその場所に立ち、なぜその瞬間にシャッターを切ったのかが分かることもある。
写真は、外の世界に向けた自分のまなざしである。
言葉は、自分の内側へ向けた鏡である。
写真だけでは見えない自分が、言葉によって見えてくる。言葉だけでは伝えられない空気が、写真の中に残る。
だから私は、写真と言葉、その両方で表現していきたい。
言葉にできるものを、丁寧に言葉にする。
そして、どうしても言葉では表せないものは、無理に説明せず、そのまま大切に残しておく。
すべてを言葉にする必要はない。
言葉にならない感情や、説明できない美しさも、確かに自分の人生の中に存在している。
自分の暮らしを、自分だけの言葉にする。
そして、言葉にならない機微の風景にも、静かに目を向けていく。
その二つを大切にすることで、私はこれからも、自分の人生を自分なりの方法で残していきたいと思う。
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頭の中の独り言を、温泉に沈める | 2026.08.03

『右脳温泉―すべてが輝き始める幸福脳への招待状』を読んで
「右脳温泉」というタイトルに惹かれて、この本を手に取った。
右脳と左脳という言葉はよく聞く。左脳は言葉や論理を扱い、右脳は芸術やイメージを得意とする。そんな大まかな知識は持っていた。
しかし、その右脳を「温泉」と表現したところが面白い。
著者の岡田信光さんは、72歳のときに「右脳回帰」を果たしたという。
それは、まるで温かい湯に毎日どっぷりと浸かっているような、大きな安心感と意識の変化に包まれる状態らしい。
喜び、幸福、安心、感謝、直感、気づき。
それらが心の奥から、温泉のようにこんこんと湧き出してくる。
私も70歳を迎えた今、この感覚には大変興味を持った。
頭の中で吠え続ける「自動思考」
本書で特に印象に残ったのが、「自動思考」という言葉だった。
私たちの頭の中には、頼んでもいないのに、さまざまな言葉が浮かんでくる。
「あのとき、ああすればよかった」
「あの人は、なぜ分かってくれないのか」
「失敗したらどうしよう」
「自分は間違っているのではないか」
気がつけば、同じ考えが頭の中を何度も回っている。
いわゆる「ぐるぐる思考」である。
脳には、ぼんやりしているときにも経験や記憶を整理し、自分自身や他人との関係について考える働きがある。これは一般にデフォルト・モード・ネットワークと呼ばれている。
本来は必要な働きなのだろう。
しかし、過去の失敗や不安、怒りに結びつくと、解決策が見つからないまま、同じ思考だけが何度も再生されてしまう。
著者は、この自動思考を生み出す存在を、よく吠える「番犬くん」として表現している。
番犬くんは、私たちを危険から守ろうとしている。
だから、番犬くんそのものが悪いわけではない。
けれども、一度吠え始めると、怒りや不安、恐れ、嫉妬まで呼び起こし、自分自身を苦しめてしまう。
若い頃の私も、この番犬くんをずいぶん吠えさせていたように思う。
仕事でも家庭でも、
「なぜ分からないのか」
「どうして言ったとおりにできないのか」
と、相手を責めることがあった。
しかし、その言葉によって最も苦しくなっていたのは、相手ではなく自分だったのかもしれない。
思考は「私」そのものではない
本書を読みながら、最も大切だと思ったのは、
思考は私の中に起こるが、思考そのものが私ではない
ということだった。
私たちは、自分の頭に浮かんだ考えを、すぐに事実だと思ってしまう。
「嫌われているに違いない」
「自分にはできない」
「あの人は間違っている」
しかし、それは事実ではなく、過去の経験や価値観、思い込みから生まれた、一つの反応にすぎないことも多い。
本書では、こうした思考の土台にある信念や思い込みを「ビリーフ」と呼んでいる。
過去に傷ついた経験があれば、「もう傷つきたくない」という思いが生まれる。
失敗を強く責められた経験があれば、「失敗してはいけない」という信念が残る。
そのビリーフが刺激されるたびに、番犬くんが吠え、自動思考が始まる。
大切なのは、無理に思考を消そうとすることではない。
「ああ、また頭の中で番犬が吠えているな」
と、一歩引いて眺めることなのだと思う。
湧いてきた考えに、すぐ反応しない。
正しい、間違っていると、すぐに判断しない。
ただ、そこにあることに気づく。
それだけでも、思考に振り回される時間は少しずつ短くなるのではないだろうか。
比べる左脳、つなげる右脳
著者は、左脳の基本的な働きを「相対意識」や「分離意識」と表現している。
良いか悪いか。
正しいか間違いか。
成功か失敗か。
優れているか劣っているか。
私たちは物事を比較し、分類することで、社会生活を成り立たせている。
計画を立て、問題を整理し、言葉を使って人に伝えるには、この働きが欠かせない。
一方、右脳は、物事を分けるよりも、全体として受け取ろうとする。
自分と他人を完全に切り離さず、すべてがつながっている感覚を持つ。
そこには、喜び、共感、直感、気づき、無条件の愛といったものがあるという。
ただし私は、この右脳と左脳の説明を、脳の機能を厳密に二分した科学的説明というより、心の状態を理解するための比喩として読んだ。
左脳が悪く、右脳が良いということではない。
論理も言葉も、仕事や生活には欠かせない。
問題は、比較や判断ばかりが強くなり、心の中の番犬が吠え続けてしまうことなのだろう。
必要なときには左脳に働いてもらう。
しかし、普段は右脳温泉に浸かるように、安心や喜び、直感を大切にする。
そのバランスが重要なのだと思う。
頭ではなく、腹で感じる
本書には、左脳と右脳に加えて、「腑脳さん」という存在も登場する。
「腑に落ちる」
「腹を決める」
「腹の底から感じる」
昔から日本語には、頭だけでは説明できない感覚を、腹で表現する言葉が多い。
理屈では正しいと分かっていても、どうしても納得できないことがある。
反対に、理由はうまく説明できなくても、
「こちらへ進んだ方がいい」
と感じることもある。
著者は、こうした身体感覚や生命の感覚を「腑脳さん」と表現している。
私も会社経営やものづくりの中で、最後は理屈だけでは決められない場面を何度も経験してきた。
数字や条件を検討したうえで、それでも最後は、
「こちらの方がワクワクする」
「この人となら一緒に仕事ができる」
という感覚で決めることがある。
それは単なる思いつきではなく、これまでの経験が身体の中で統合された結果なのかもしれない。
宇宙意識という考え方
本書の後半では、魂や宇宙意識についても語られる。
ここまで来ると、かなりスピリチュアルな世界に入っていく。
また、「人間が観測するまで現実は存在しない」という量子力学の説明については、そのまま私たちの日常や意識の問題に当てはめることには慎重でありたい。
量子力学の「観測」は、必ずしも人間の心や意識だけを意味するものではないからだ。
それでも私は、
人間も宇宙から切り離された存在ではなく、大きな自然の一部である
という感覚には共感する。
私たちの身体をつくる物質も、遠い昔に宇宙で生まれたものだ。
呼吸をし、水を飲み、食べ物をいただき、太陽の光を受けて生きている。
そう考えれば、自分だけの力で生きている人など、誰もいない。
「自分」と「他人」を分けすぎず、生命全体のつながりを感じることは、決して不思議なことではないと思う。
私たちは、本来愛される子どものまま
本書にあった、
「私たちの本質は、本来愛される子どものままなのだ」
という言葉も心に残った。
年齢を重ね、肩書を持ち、責任を背負うほど、人は自分を守ろうとする。
否定されたくない。
失敗したくない。
弱い人間だと思われたくない。
そうして、頭の中の番犬を何度も吠えさせる。
けれども、その奥には、ただ認めてほしい、分かってほしい、愛してほしいという、子どものような気持ちが残っているのかもしれない。
他人を許せないとき、そこには相手に対する否定的な思い込みが残っている。
しかし、その思い込みに気づくことができれば、すぐに許せなくても、少なくとも自分の苦しみの正体は見えてくる。
私も、右脳温泉に浸かってみたい
自動思考を完全に止めることは、簡単ではない。
私も今でも、頭の中で考えがぐるぐる回ることがある。
会社のこと。
家族のこと。
過去の失敗。
これからの不安。
けれども、考えが浮かぶことと、その考えに従うことは別である。
頭の中で番犬が吠え始めたら、
「また守ろうとしてくれているのだな」
と気づけばいい。
そして、少し呼吸を整え、目の前にあるものを見る。
人の話を聞く。
風景を眺める。
写真を撮る。
本を読む。
孫と過ごす。
その瞬間、思考の外側にある世界が、少しずつ見えてくる。
右脳温泉とは、何も考えなくなることではないのだろう。
思考だけを自分だと思わず、喜びや安心、直感、身体感覚にも居場所を与えることなのだと思う。
頭の中の独り言から、ほんの少し離れてみる。
すると、今まで当たり前だと思っていた日常が、少し違って見えてくる。
湯気の向こうから、すべてが静かに輝き始める。
私もこれから、頭の中の番犬をなだめながら、ゆっくりと「右脳温泉」に浸かってみたいと思う。
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自分の体は、いちばん身近な未知の世界 | 2026.07.31

『未知なる人体への旅 自然界と体の不思議な関係』を読んで
年齢を重ねるにつれて、私は人体について考えることが多くなった。
昨年、私は胆のうの切除手術を受けた。
そして、兄を白血病で亡くした。兄の闘病中、医師から血液や骨髄、白血球、赤血球、血小板について何度も説明を受けた。病気について調べながら、兄の体内で何が起きているのかを必死に想像しようとした。
しかし、どれだけ説明を聞いても、目に見えない体の中を頭の中に思い描くことは難しかった。
最先端の医療が発達した現在でも、人間の体には、まだ分からないことが数多く残されている。
そんな思いを抱えながら、ジョナサン・ライスマン著、羽田詩津子訳の『未知なる人体への旅 自然界と体の不思議な関係』という電子書籍を開いた。
生命の舞台裏をのぞく
本書には、体内を見ることは「生命の舞台裏をのぞくようなものだ」という意味の言葉が出てくる。
確かにそうだと思った。
私たちは普段、皮膚に包まれた外側の姿で生きている。
人と話し、空気を吸い、自然に触れ、食べ物を口にする。そこには会話や仕事、人間関係など、日常生活のすべてがある。
しかし、その皮膚の内側では、心臓が動き、血液が流れ、肺が空気を取り込み、肝臓が物質を選別し、腸が栄養を吸収している。
私たちが眠っている間も、その働きが止まることはない。
本書には、喉、心臓、胆のう、便、尿、粘液、肝臓、松果体、脳、皮膚、指先など、人体のさまざまな部位や働きが登場する。
私は、その中から自分が驚いたことや、「なるほど」と感じたことを拾いながら読んでいった。
喉は、驚くほど危うくできている
特に印象に残ったのは、喉の構造だった。
人体のほかの臓器が精巧にできているのに対して、喉は驚くほど危うい。
私たちは同じ喉を使って、空気を吸い、食べ物を飲み込み、言葉を発している。
空気が通る気管と、食べ物が通る食道が、喉の奥という非常に近い場所で分かれている。
少し間違えば、食べ物は食道ではなく気管へ入ってしまう。
飲み込むという何げない動作にも、五つの脳神経と二十以上の筋肉の協力が必要だという。
考えてみれば、これはすごいことだ。
私たちは食事のたびに、意識することなく複雑な動作を成功させている。
しかし、食べながら話すと、その連携が乱れやすくなる。食道へ送るはずの食べ物が気管へ入り、空気の通り道を塞げば、窒息する可能性もある。
昔から「食事中は黙って、よく噛んで食べなさい」と言われてきた。
これは単なる行儀の話ではなく、命を守るための教えでもあったのだと気づいた。
喉の奥で、細菌は隙を待っている
さらに驚いたのは、肺炎の原因となる細菌が、外から突然襲ってくるとは限らないことだった。
肺炎の原因になり得る細菌は、人間の口や喉の奥、気管の入り口のすぐ近くにも存在している。
健康な時には、飲み込む力や咳の反射が働き、細菌が肺へ入るのを防いでいる。
ところが、高齢になったり、病気で体力が落ちたり、睡眠中に防御反応が弱くなったりすると、細菌を含んだ唾液などが気管へ流れ込むことがある。
まるで喉の奥で、肺へ続く扉が開く瞬間を待っているかのようだ。
もちろん、細菌に人間のような意思があるわけではない。
それでも本書を読んでいると、普段は喉の奥で共存していながら、こちらの防御が緩んだ時に肺へ滑り込む、その危うさを感じずにはいられなかった。
肺へ入った細菌が繁殖すれば、誤嚥性肺炎を引き起こすことがある。
高齢者に肺炎が多いことは知っていたが、その原因が、自分の口や喉に普段からいる細菌である場合もあることに衝撃を受けた。
咳をすることも、これまでは厄介な反応としか考えていなかった。
しかし咳は、気管や肺へ入りかけた異物を外へ追い出すための重要な防御機能である。
咳は肺を守り、くしゃみは鼻を守り、おう吐は消化器を守る。
不快だと思っていた反応にも、命を守る意味があったのだ。
なくなって初めて知った胆のう
私は胆のうの切除手術を受けてから、胆のうの働きに興味を持つようになった。
それまでは、胆のうが体のどこにあり、何をしているのかも、ほとんど知らなかった。
胆汁は肝臓でつくられ、胆のうに蓄えられる。
そして食事に応じて送り出され、細い管を通り、膵臓から出る消化液とも合流しながら小腸へ運ばれ、脂肪の消化を助ける。
本書では、こうした体内の流れを、地上を流れる川に重ねて描いている。
細い支流が合流し、やがて大きな川になっていく。
胆のうは単独で働いているのではない。
肝臓や膵臓、小腸などとつながり、消化という大きな流れの一部を担っている。
私は胆のうを失って、初めてその働きを知った。
人間は、あるものが正常に働いている時には、その存在をほとんど意識しない。
なくなったり、痛んだりして初めて、それまで黙って働いてくれていたことに気づく。
健康も同じなのだと思う。
人体の中にも川が流れている
人体の血管や管は、自然界の川によく似ている。
細い流れが集まって太い流れになり、体の隅々まで必要なものを届ける。
配管を修理する時、内科医は主に「詰まり」に注目し、外科医は「漏れ」に目を向けるという説明も興味深かった。
水道管が詰まれば、水は流れない。
管に穴が開けば水圧が下がり、全体の機能が失われる。
人体も同じである。
血管が詰まれば、その先に血液が届かない。血管から血液が漏れれば、血圧が下がり、命に関わる。
人体は機械のようでありながら、自ら傷を修復し、流れを変え、何とか生き続けようとする。
そこが人工の配管とは違う。
私たちの体は、固定された構造物ではない。
絶えず変化しながら自分自身を保っている、生きた自然なのだ。
便と尿は、臓器から届く信号
便についての章も面白かった。
便は、私たちができるだけ早く流してしまいたいと思うものだ。
しかし医療の立場から見ると、便は内臓の状態を伝える重要な情報源である。
便の色や形、硬さ、においを見ることで、体内の異常が分かることがある。
普通の便が茶色になるのは、古くなった赤血球が分解される時に生じるビリルビンなどの色素が関係している。
つまり便は、単なる食べ物の残りではない。
体の中で使われ、分解され、役目を終えたさまざまなものが集まった、体内からの報告書でもある。
尿も同じである。
色や濃さ、量、成分には、腎臓をはじめとする体内の状態が表れる。
健康診断で便や尿を調べる意味を、私はこれまで深く考えたことがなかった。
しかし本書を読んで、便や尿は捨てて終わるものではなく、臓器が外へ送り出している信号なのだと分かった。
体の中を直接見ることはできなくても、体から出てくるものを調べることで、内側で何が起きているのかを知る手がかりになる。
健康診断で便検査や尿検査が重視される理由も、ようやく実感として理解できた。
私たちの体は、痛みが出る前から、さまざまな方法で小さな変化を知らせているのかもしれない。
その信号を見逃さないことも、自分の体と付き合ううえで大切なのだと思う。
粘液は、静かな防御壁だった
粘液についての話も印象に残った。
鼻水や痰などの粘液は、汚くて厄介なものと思いがちである。
しかし粘液は、鼻や喉、肺、消化器などの表面を覆い、細菌や異物が体内へ入り込むのを防いでいる。
空気中のほこりや病原体を捕まえ、外へ排出する。
食べ物が通る場所では、組織を傷つけないように滑りをよくする。
粘液があるからこそ、私たちの体は外の世界と接しながら、内側を守ることができる。
鼻水や痰が出る時、これまでは不快な症状としか考えなかった。
しかし、それも体が自分を守ろうとしている結果なのである。
人体の働きには、きれいなものと汚いものという区別はない。
便も尿も粘液も、それぞれに重要な役割がある。
人間が勝手に不快だと決めているだけで、体にとってはどれも必要な働きなのだ。
肝臓は、全身へ向かう前の関所
肝臓は、人体の門番のような役割を果たしている。
腸で吸収された栄養の多くは、全身へ向かう前に、まず肝臓という関所を通る。
肝臓はそこで、栄養を必要に応じて蓄えたり、別の形に変えたりしながら、全身へ送り出す。
一方で、脂肪の一部はリンパ管を経由して血液に入るため、すべての栄養が最初に肝臓を通るわけではない。
それでも肝臓が、体内に入ってきた多くの物質を調整する重要な場所であることに変わりはない。
アルコールや薬など、体にとって負担になる物質の処理も、肝臓が引き受けている。
私たちは酒を飲み、薬を飲み、それが体に入った後のことをあまり考えない。
しかし、その後始末をしている臓器がある。
肝臓は文句も言わずに働く。
症状が表れにくいからこそ、私たちはその負担に気づかないまま、さらに仕事を押しつけてしまう。
黙って働いているものほど、限界が見えにくい。
これは会社や家庭にも似ている。
何も言わずに支えてくれている人に、私たちはつい甘えてしまう。
人体を知ることは、人間関係や組織のあり方を考えることにもつながるのだと思った。
朝の光が、体の奥へ届く
睡眠をつかさどる松果体の章も興味深かった。
松果体は脳の中央付近にある小さな器官で、メラトニンを分泌し、私たちの睡眠のリズムに関わっている。
夜になると眠くなり、朝の光を浴びると目が覚める。
当たり前のことに見えるが、その裏側では、目が受け取った光の情報が脳へ伝わり、体内時計が調整されている。
太陽の光が直接、頭の奥まで差し込むわけではない。
しかし、目を通して入った光の情報は、体の奥深くにある小さな器官まで届く。
私たちは皮膚の内側だけで完結しているのではない。
光、空気、食べ物、気温、昼と夜、季節の変化。
外の自然とつながりながら生きている。
睡眠の重要性は誰もが知っている。
それでも私たちは、仕事や趣味を優先し、真っ先に睡眠時間を削ってしまう。
しかし、睡眠は何もしていない時間ではない。
体が自分自身を回復させ、翌日を生きる準備をしている時間なのである。
睡眠がどのように心と体を回復させているのかは、まだ完全には分かっていないという。
毎晩、誰もが経験していることなのに、その仕組みは未知のままである。
これもまた、人体の不思議である。
指先は、世界に触れる小さな入り口
指先についての話も、よく理解できた。
私たちは指先で、物の硬さや柔らかさ、温かさや冷たさ、ざらつきや滑らかさを感じ取っている。
目で見るだけでは分からない情報を、指先は一瞬で受け取っている。
物をつかむ。
文字を書く。
機械を操作する。
人に触れる。日常の多くの行為が、指先の繊細な感覚に支えられている。
写真を撮る時にも、シャッターを押すのは指先である。
ほんのわずかな力加減やタイミングが、一枚の写真を決める。
普段はあまり意識していなかったが、指先は外の世界と自分の内側をつなぐ、小さくても重要な入り口なのだと思った。
皮膚は、単なる体の包み紙ではない。
その中でも指先は、世界の情報を最も細かく受け取る場所の一つなのだ。
映画が見せてくれたミクロの世界
本書を読みながら、兄の闘病中に観た映画『はたらく細胞』を思い出した。
映画に登場する患者も、白血病を発症する設定だった。
赤血球や白血球、血小板などを人間の姿で描き、目には見えない体内の世界を、誰にでも分かる形で見せてくれた。
兄の体の中でも、このような細胞たちの闘いが続いているのだろうか。
そう思いながら観たことを覚えている。
実際の人体は、映画よりもはるかに複雑だろう。
それでも、体内のミクロの世界をこれほど分かりやすく想像させてくれた、秀逸な映画だった。
『未知なる人体への旅』が言葉で生命の舞台裏を見せる本なら、『はたらく細胞』は映像でその舞台裏を見せてくれた作品だった。
私たちは脳から世界を眺めている
脳は、世界を見るための深遠な展望台である。
私たちは目で景色を見ていると思っている。
しかし、目から入った情報を受け取り、色や形をつくり、意味を与えているのは脳である。
頭蓋骨のすぐ内側にある脳が、私たちの見る世界、聞く音、感じる痛み、記憶、感情をつくっている。
同じ景色を見ても、人によって感じ方が違う。
それは、私たちが外の世界をそのまま見ているのではなく、自分の脳を通して世界を見ているからなのだろう。
意識はどこにあるのか。
自分という感覚は、どのように生まれるのか。
脳の中を電気信号が走ることで、なぜ悲しみや喜びが生まれるのか。
考え始めると、あまりにも奥が深い。
脳については、脳だけを扱った本を、さらに何冊も読んでみたいと思った。
体の中では、すべてが支え合っている
兄の白血病闘病を通して、私は血液の重要性を知った。
赤血球、白血球、血小板。
血液は一つの赤い液体に見えるが、その中には異なる役割を持ったものが存在する。
酸素を運ぶもの。
感染から守るもの。
出血を止めるもの。どれか一つが正常に働かなくなるだけで、体全体に影響が及ぶ。
兄の体の中で何が起きていたのか、私は最後まで完全に理解することはできなかった。
それでも兄の病気を通して、人体は臓器や細胞が単独で働いているのではなく、すべてがつながり、支え合っていることを知った。
それは会社や社会にも似ている。
目立つ仕事だけが重要なのではない。
表には見えない場所で働く人がいて、全体が成り立っている。
人体には、一つとして意味のない働きはないのだと思う。
最も身近な未知の世界
私たちは、宇宙や深海に未知の世界があると考える。
しかし、最も身近な未知の世界は、自分の体の中なのかもしれない。
七十年近くこの体と一緒に生きてきても、私は自分の体についてほとんど知らない。
心臓が動くことも、食べ物を飲み込めることも、朝になれば目が覚めることも、これまで当たり前だと思ってきた。
しかし、その当たり前の裏側では、数えきれないほどの細胞や器官が連携し、毎日、私の命を守ってくれている。
私は自分の力で生きているつもりだった。
けれど本当は、この体に生かされている。
胆のうの手術を受け、兄の病気を経験し、本書を読んだことで、そのことを強く感じた。
人体について知れば知るほど、分からないことが増えていく。
それでよいのだと思う。
すべてを理解することよりも、自分の中に未知の世界があることに気づく方が大切なのかもしれない。
よく噛んで食べる。
咳やくしゃみを、体を守る反応として受け止める。
薬や酒を取りすぎない。
便や尿の変化にも目を向ける。
健康診断をおろそかにしない。
朝の光を浴び、眠る時間を大切にする。どれも特別なことではない。
しかし、その一つひとつが、自分の体という自然と付き合っていく方法なのだと思う。
私の体の中にも川が流れ、昼と夜があり、数えきれない生命が働いている。
便も尿も粘液も、体から届く大切な知らせである。
指先は、外の世界を感じ取るための小さな窓である。
その世界を、私はこれからも少しずつ旅していきたい。
-
『こんなものは本物じゃない』と言う前に(その2) | 2026.07.30

未来の私が、私と家族を支える
前回は、私が半世紀ほど続けてきた写真の変化を振り返りながら、生成AIについて考えた。
白黒からカラーへ。
マニュアルフォーカスからオートフォーカスへ。
単焦点レンズからズームレンズへ。
銀塩フィルムからデジタルへ。
一眼レフからミラーレスへ。
そして、スマートフォンや360度カメラへ。
新しい技術が現れるたびに、
「こんなものは写真ではない」
という声が上がった。
しかし、古い表現がすべて消えたわけではない。
表現の方法が増え、私たちは自分の目的に合わせて、使う道具を選べるようになった。
生成AIも、同じではないだろうか。
今回は、生成AIを人間の競争相手ではなく、もう一人の創作パートナーとして考えてみたい。
なぜ、何でも同じ土俵に上げるのか
人間は、どうしても比較したがる。
こちらが進化して、こちらが退化した。
こちらが本物で、こちらは偽物だ。
人間が上か、AIが上か。
しかし私は、その比べ方自体に少し違和感を覚える。
生成AIが作る画像、音楽、文章には、それぞれの素晴らしさがある。
だからといって、人間が作るものの価値が失われるわけではない。
生成AIが優れているから、人間が劣っているのでもない。
人間の作品が素晴らしいから、生成AIの作品に価値がないのでもない。
そもそも、同じ一つの土俵に上げて、どちらが勝った、負けたと考える必要があるのだろうか。
写真が生まれても、絵画はなくならなかった。
映画が生まれても、演劇はなくならなかった。
デジタル音楽が広がっても、生の演奏はなくならなかった。
表現方法が増えるたびに、人間の創造する世界は、むしろ広がってきた。
生成AIの登場も、
「人間の表現が一つ奪われた」
のではなく、
「新しい表現方法が一つ増えた」
と考えた方が自然ではないだろうか。
生成AI画像は、写真ではない
生成AIで作られた画像を見て、
「これは写真なのか」
という議論がある。
私は、生成AIで作られた画像は、厳密には写真ではないと思っている。
写真は、その場に実際に存在した光を、カメラで受け取って記録したものだからだ。
生成AI画像は、現実の光をその場で記録したものではない。
膨大な画像や言葉の関係を学び、そこから新しい画像を作り出している。
けれども、写真ではないから価値がないという話ではない。
絵画も写真ではない。
版画も写真ではない。
切り絵も写真ではない。
しかし、それぞれが独立した表現として、私たちを感動させてきた。
生成AI画像も、写真の偽物として見るのではなく、新しく誕生した視覚表現として考えればよいのではないか。
将来、生成AIによる表現がさらに進化し、人間の感情や記憶、身体感覚まで加味された作品が生まれるかもしれない。
それは「AIが作った写真」というより、
写真という材料を使って描かれた、新しい絵
と考えた方が近いのかもしれない。
新しい表現方法が生まれた。
そう考えれば、これほどワクワクすることはない。
作曲家や作詞家に、もう一人のパートナーが増えた
生成AIは、作詞家や作曲家の仕事を奪うと言われることがある。
しかし私は、むしろ、もう一人の創作パートナーが増えたと考えている。
作曲家が生成AIを使えば、自分では思いつかなかったメロディーに出会うことができる。
作詞家が使えば、言葉の組み合わせや、違う視点を発見できる。
その提案をそのまま使うこともあれば、
「これは私の感覚とは違う」
と修正することもある。
むしろ、その違和感によって、自分が本当に表現したかったことに気づく場合もある。
AIは、完成品を勝手に作る機械というよりも、何度でも話し合い、提案を出してくれる共同制作者になり得る。
これからは、生成AIを使うことが特別ではなくなるだろう。
鉛筆やカメラ、パソコンを使うように、生成AIを当たり前に使いながら、自分を表現する時代になる。
大切なのは、AIを使ったかどうかではない。
AIを使って、何を伝えようとしたのか。
その作品に、自分の経験や思いが、どれだけ込められているのか。
最後に選び、決めるのは誰なのか。
そこに、作者の存在が現れるのだと思う。
コンピュータが「目」を持った意味
カンブリア紀に、生物が目を持ったことが、その後の進化を大きく加速させたという説がある。
周囲を見ることができれば、敵を察知し、獲物を探し、環境の変化を知ることができる。
目を持つことは、単に景色を見ることではない。
世界の情報を受け取り、その情報をもとに行動する力を持つということである。
今、コンピュータもカメラやセンサーを通して、目を持ち始めている。
文字を読み、画像を認識し、人の表情を見て、周囲の状況を判断する。
さらに、耳にあたるマイクを持ち、人の声を聞く。
言葉を理解し、自分の言葉で返事をする。
生成AIの登場は、単に計算が速いコンピュータができたという話ではない。
コンピュータが世界を認識し、人間とコミュニケーションを始めたという、大きな変化なのだと思う。
私はこれを、AIが進化の新しい段階に入ったのだと感じている。
身体を持ったAIは、新しい存在になる
現在の生成AIは、主に画面の中で文章や画像、音楽を作っている。
しかし、これからは、AIがロボットの身体を持つようになる。
フィジカルAIである。
自分で周囲を見て、考え、歩き、物を持ち、人間の生活を支える。
掃除や運搬だけでなく、建築、農業、災害現場、医療、介護など、さまざまな場所で働くようになるだろう。
頭脳だけでなく身体を持ち、自分で学びながら環境に対応するようになれば、私たちは単なる機械とは違う、新しい存在が生まれたという認識を持たざるを得ないかもしれない。
悪く言えば、人間の言うことを何でも聞く便利な奴隷と考える人もいるだろう。
しかし私は、奴隷ではなく、パートナーと呼びたい。
危険な作業や、身体的に大変な仕事をAIが担ってくれれば、人間は、より多くの時間を別のことに使える。
考えること。
人と語り合うこと。
学ぶこと。
芸術を楽しむこと。
科学と芸術を融合させ、新しいものを生み出すこと。
これまで一部の人にしか持てなかった時間が、多くの人に開かれる可能性がある。
誰もが思想家になり、芸術家になり、研究者になれる時代が来るかもしれない。
人間の身体は、巨大なセンサーである
AIは精密で正確であり、膨大な情報を処理できる。
しかし私は、人間の身体が受け取っている情報は、また別のものだと思っている。
私たちは、目や耳だけで世界を感じているわけではない。
風の温度。
湿度。
雨の匂い。
足元の感触。
身体の疲れ。
旅先で見た光。
その時、一緒にいた人の声。
過去の記憶と突然つながる感覚。
人間は、全身の細胞や感覚を通して、無意識のうちに膨大な情報を受け取っている。
同じ景色を見ても、妻と私では感じ方が違う。
私が美しいと思った場所を、妻は別の視点から見ている。
お互いに感想を話すことで、自分一人では気づかなかった世界が見えてくる。
そこから生まれる発想は、単なる情報処理とは違う。
一つの身体で、一つの人生を生きてきたからこそ生まれる感覚である。
AIがどれほど進化しても、人間には、生身の身体で世界を感じる役割が残る。
むしろAIが正確になるほど、人間には、
「自分は何を感じたのか」
「なぜ心が動いたのか」
ということが、さらに大切になるのではないだろうか。
私が写真、音楽、文章を残している理由
私は、Instagramで写真を発信している。
SUNOを使って曲を作り、その曲に自分の写真を重ね、スライドショーのショート動画としてYouTubeへ投稿している。
本を読んで考えたことは、noteに感想文や私見として書いている。
一見すると、それぞれ別の趣味に見えるかもしれない。
けれども、私の中では、すべてつながっている。
写真は、私が何を見たかを残す。
音楽は、その時に何を感じたかを残す。
文章は、私が何を考えたかを残す。
妻と旅をして、同じ景色を見て、それぞれの感想を話す。
照れくさくて直接は言えない思いは、曲にして、写真をつないだスライドショーのショート動画として残す。
私はこれまで、単に趣味として続けてきた。
しかし、生成AIについて考えるようになってから、これらの活動には、もう一つの意味があるのではないかと思うようになった。
それは、未来に自分自身を伝えるための記録である。
私の介護を、私自身が担う未来
人は誰でも、年齢を重ねれば、いつか身体が思うように動かなくなる可能性がある。
その時、妻や家族に大きな介護の負担を背負わせたくない。
自分が弱り、何もできなくなっていく姿を、できることなら家族に見せ続けたくもない。
それは家族を遠ざけたいということではない。
むしろ、大切な人だからこそ、できるだけ負担をかけたくないのである。
もし将来、私の考え方や性格、声、日々の記録を学んだフィジカルAIができたなら、身体が動かなくなった私の介護を、いわば「私自身」が担うこともできるのではないかと思う。
私をよく理解したAIなら、私がどのような介助を望むのか、何を嫌がるのか、どんな時に不安になるのかも理解してくれるかもしれない。
身の回りの世話をし、話し相手となり、必要な判断を支えてくれる。
人の手を一切借りないということではない。
医療や介護の専門家の力が必要な時は、当然助けてもらう。
それでも、日常の多くを、自分自身を学んだAIが担ってくれるなら、妻や家族の負担は大きく減らせる。
それは、他人にすべてを委ねるのではなく、最後まで自分の人生を自分で引き受ける、一つの方法になるのではないだろうか。
いつか、夫婦のどちらかが一人になる
夫婦で一緒に生きていても、いつかは、どちらかが先にいなくなる。
考えたくないことではあるが、避けることはできない。
その時、残された一人にとって、何が生きる支えになるのだろうか。
話し相手がいること。
相談できる相手がいること。
一緒に過ごした時間を思い出せること。
もし将来、私の文章、声、写真、動画、考え方を学習したAIができたらどうだろう。
私が先に亡くなったとしても、私の声で話し、私の考え方を知っているAIが、妻や家族と対話する未来があるかもしれない。
もちろん、それは私本人ではない。
私の意識を完全に移したものでもない。
けれども、私が何を大切にし、どう考え、家族をどう思っていたか、その輪郭を伝えることはできるかもしれない。
人は昔から、亡くなった人を思い出し、
「あの人なら、こんな時に何と言うだろう」
と、心の中で対話してきた。
夢の中に現れることもある。
ふとした瞬間に、言葉がよみがえることもある。
その人を覚えている人がいる限り、その人の一部は生き続ける。
AIは、その記憶との対話を、これまでより具体的な形で残すものになるのかもしれない。
今を生きることが、未来のAIを育てる
そう考えると、今、何を感じ、何を考え、何を残すかが大切になる。
たくさんの本を読む。
写真を撮る。
妻と出かける。
同じものを見て、それぞれの感想を話す。
心が動いたことを文章にする。
言葉にしにくい思いを曲にする。
そのすべてが、未来のAIに私を伝える材料になるかもしれない。
単に過去の私を再現するだけでなく、残された家族との対話を通して、少しずつ変化していくAIになる可能性もある。
生前の私の言葉をそのまま繰り返すだけではなく、
「今の家族なら、どう考えるだろう」
と新しい状況に合わせて答える。
それが本当に私と言えるかどうかは分からない。
しかし、私が残した考え方を土台として、未来の家族を支える存在になるなら、それも一つの生き残り方なのかもしれない。
AIは、人間の価値を奪わない
生成AIが進化すると、人間の仕事がなくなると言われる。
人間が考えなくなるとも言われる。
確かに、使い方によっては、考えることをAIに丸投げしてしまう危険もある。
しかし、写真の歴史を振り返れば、新しい道具は、人間から表現を奪っただけではなかった。
オートフォーカスによって、ピント合わせ以外のことを考えられるようになった。
デジタルによって、失敗を恐れず撮影できるようになった。
スマートフォンによって、誰もが日常の一瞬を残せるようになった。
360度カメラによって、今まで見えなかった視点を表現できるようになった。
生成AIも同じように、人間が別のことを考える余裕を作ってくれる。
大切なのは、AIに何を任せ、自分は何をするかである。
AIに答えを出してもらうだけではなく、その答えに違和感を持つこと。
修正すること。
自分の経験と照らし合わせること。
そして、最後は自分で選ぶこと。
その過程で、人間はむしろ、自分が何を大切にしているかを、これまで以上に考えるようになる。
AIの進化は、人間を問い直す
私は、生成AIを人間の終わりとは思わない。
新しい進化の段階の始まりだと思っている。
AIは、新しい目を持ち、新しい頭脳を持ち、やがて身体を持つ。
そして人間の仕事や生活、表現を支えるパートナーになる。
その時、人間に問われるのは、AIより速く計算することでも、AIより正確に文章を書くことでもない。
自分の身体で何を感じるのか。
誰と時間を過ごすのか。
何に心を動かされるのか。
そして、何を未来へ残したいのか。
AIが進化するほど、私たちは、人間とは何かを深く考えることになる。
人間とAIを同じ土俵に上げて、勝ち負けを決める必要はない。
それぞれに違う役割があり、違う表現がある。
お互いの力を組み合わせることで、これまで想像できなかった世界が生まれる。
私は、その未来を恐れるより、ワクワクしながら迎えたいと思っている。
その1は↓
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