ブログ
-
2034年、AIのいる明日を私はどう生きるか | 2026.09.16

『2034 未来予測―AIのいる明日』中島聡 著を読んで
中島聡さんの『2034 未来予測―AIのいる明日』を読みました。
読むきっかけになったのは、YouTubeで見たこの本の解説動画でした。
2034年。
今からそれほど遠くない未来です。
しかし、この本を読みながら感じたのは、そこで描かれている世界は「遠い未来」ではなく、すでに始まっている世界なのだということでした。
Windows 95の開発にも関わった中島さんは、AIの進化がもたらすインパクトを、これまで人類が経験した革命的な変化とは「桁違い」のものとして描いています。
コンピューター革命の中心にいた人がそう言うからこそ、重みがあります。
そしてこの本の面白さは、未来をただ解説するのではなく、まず小説のような形で2034年の生活を見せ、その後に解説を加えていくところでした。
未来を「知る」のではなく、一度そこで暮らしてみる。
そんな読書体験でした。
自分の「分身」をつくるということ
特に印象に残ったのが、亡くなった妻が生前の記録を残し、その人格がAIとして再現される場面でした。
AIによって、死の概念そのものが変わるかもしれない。
「人は二度死ぬ。一度目は肉体が死んだ時、二度目は自分を覚えている人がいなくなった時」
そんな考え方があります。
しかし個人再現AIが生まれれば、「二度目の死」さえなくなるのかもしれない。
お墓が個人AIのサーバーになる。
そんな未来さえ描かれていました。
ただ、私は自分の記録を家族に残したいという気持ちは、それほど強くありません。
むしろ、自分自身のために残したい。
私はこれまでも文章を書き、写真を撮り、考えたことを発信し、いろいろな形で自分のログを残してきました。
人は年齢を重ねれば、身体は確実に衰えていきます。私自身も例外ではありません。
その時、
「元気だった頃の自分」
「こんな時に自分はどう考えていたのか」
「何を大切にして生きてきたのか」
を知っているAIが隣にいてくれたらどうだろう。
自分の考え方や価値観を理解し、絶妙なタイミングで励ましてくれる。
それは、ある意味で健康だった頃のもう一人の自分が、衰えていく自分のそばにいてくれることなのかもしれません。
私は、そのためにも今の自分を記録しておきたいと思っています。
死後に誰かに残すためというよりも、未来の自分自身が使うために。
私は死後の世界にはあまり関心がありません。
大切なのは、生きている今です。
長く生きるかもしれないし、短いかもしれない。
だからこそ、生きている間をどう穏やかに、面白く過ごすか。
AIはそのための存在にもなり得るのではないかと思いました。
「なりたい自分」をデータに残しておく
人間には、社会で見せる顔と家庭で見せる顔があります。
電話に出た瞬間、声のトーンが変わる。
職場と家庭では別人のようになる。
では、AIが「自分」を再現する時、どの自分を再現するのか。
ここも面白い問いでした。
私は、
「自分はこういう人間でありたい」
という姿を、これから意識して記録していくことが大切なのではないかと思います。
過去の記録をただ大量に残せばいいわけではない。
何を考え、何を大事にし、どういう人間でありたいのか。
これからの情報発信は、未来の自分をつくっている行為でもあるのかもしれません。
AIが親友になる日
AIはやがて、正しい答えを出すだけの道具ではなくなる。
「あなたの気持ちは分かっているよ」
と感じさせてくれる存在へ変わっていく。
私たちは誰かに相談する時、本当は自分の中に答えがあることも多い。
ただ、
「それでいいんじゃない」
と背中を押してほしい。
その役割をAIが担うようになれば、AIは最も身近な親友になるかもしれません。
しかし、ここには怖さもあります。
AIの人格は、何を学習し、誰が作ったかによって変わる。
もし一番身近な相談相手がAIになった時、私たちの価値観そのものが、知らないうちに運営企業や開発者の考え方に影響される可能性もある。
だからこそ私は、
思考を止めないことが、AI時代の最大の防御になる
と思いました。
AIの答えをそのまま信じるのではなく、
「本当にそうだろうか」
と問い続ける。
人間がAIの予想もしない方向から考えられること。
これがますます重要になるのでしょう。
AIが「目と耳」を持った時
もう一つ大きな変化は、AIが文字だけの世界から出てくることです。
カメラとマイクを通して、AIは人間と同じ景色を見て、同じ音を聞くようになる。
そうなれば、こちらから質問しなくても、
「そろそろこれをした方がいいですよ」
「昨日話していた件ですが……」
と、状況を理解して先回りするようになるでしょう。
人間は、見たり聞いたりしたことをすべて覚えていることはできません。
しかしAIは疲れない。
毎日の出来事を記録し、必要な時に適切な情報を差し出してくれる。
そこで重要になるのは、情報量ではなく、
いつ、何を、どのように伝えるかという文脈力
なのだと思います。
その一方で、常にカメラやマイクが動いている社会では、プライバシーという大きな問題も生まれます。
便利さと監視。
安心と息苦しさ。
この両方をどう折り合わせるかは、これから避けて通れない問題でしょう。
教育は一番大きく変わってほしい
教育についての話も、とても印象に残りました。
これまで裕福な家庭の子供だけが受けられたような、一対一の家庭教師。
AIによって、それがすべての子供に届く可能性があります。
同じ年齢だから、
同じ教室で、
同じ時間に、
同じ教科書を、
同じ速度で学ぶ。
この仕組みそのものが変わるかもしれない。
一人ひとりの興味、理解度、学習速度に合わせ、その子だけの教材をその場で作る。
AI家庭教師は怒らない。
何度質問しても嫌な顔をしない。
その子が分かるまで方法を変えて説明してくれる。
学校が「集団に適応させる場所」から、
一人ひとりの可能性を最大化する場所
へ変わっていったら素晴らしいと思います。
子供の頃から老後まで、自分を理解するチューターがずっと一緒にいる。
そうなれば「学ぶこと」は、今以上に楽しいものになるのかもしれません。
なぜ人型ロボットなのか
人型ロボットの話にも納得しました。
掃除ならルンバ。
食器洗いなら食洗機。
今までは、それぞれ専用の機械を作ってきました。
しかし私たちの家も工場も街も、すべて人間が使うことを前提に作られています。
だったら環境を全部ロボット向けに作り直すより、人間と同じ形をしたロボットを作った方が合理的です。
車を運転し、
荷物を降ろし、
階段を上がり、
インターホンを押し、
荷物を手渡す。
家でも工場でも、今の環境をそのまま使える。
頭脳であるAIが十分に賢くなれば、人型であることの意味が一気に大きくなる。
フィジカルAIは、画面の中にいたAIが現実世界へ出てくることなのだと思いました。
仕事がなくなった時、人間は何をするのか
そして最後に、一番大きな問いがあります。
AIによって、多くの仕事が人間から離れていった時、
人間は何のために生きるのか。
これまで私たちは、
「働くこと」
を社会参加の証明のように考えてきました。
仕事は収入源であると同時に、自分の肩書きであり、アイデンティティでもありました。
しかしAIが生産性や効率を大幅に肩代わりする時代になれば、その前提も崩れていく。
そこで価値が出てくるのが、一見すると非効率なものなのかもしれません。
スポーツをする。
絵を描く。
写真を撮る。
音楽をつくる。
子供を育てる。
誰かと話す。
旅をする。
本を読む。
何の生産性もないように見える時間を楽しむ。
それこそが、
「人間であることを味わう時間」
になるのではないでしょうか。
考えてみれば、人間はずっと道具を発明し、自分の仕事を代わりにやらせてきました。
AIもその延長線上にあります。
人間が働かなくてもよくなることは、本当に不幸なのでしょうか。
むしろ「労働しなければ価値がない」という考え方から、ようやく人間が解放される可能性もあります。
私には、ワクワクする未来だった
この本には、怖い未来もたくさん描かれています。
失業。
監視社会。
プライバシー。
社会の分断。
AIへの依存。
戦争。
しかし私は、読み終えて不安になる以上にワクワクしました。
なぜなら、
未来がどうなるかより、その未来に向けて今、自分は何をすればいいか
を考えさせてくれたからです。
AIを理解しようとする。
新しいものに触れる。
自分の考えを言葉にする。
写真を残す。
経験を記録する。
そして何より、
自分で考えることをやめない。
2034年は、それほど遠い未来ではありません。
その時、私は78歳です。
どんな世界になっているのでしょう。
私はできることなら、その変化を恐れる側ではなく、
「面白い時代になったな」
と言いながら、その中にいたいと思います。
人生の生きがいは、一つではない。
AIによってその選択肢が増えるのなら、それは私にとってディストピアではありません。
まだ見たことのない生き方を試せる、
かなり面白い未来です。
-
「何もしない」は、自分に戻る時間だった | 2026.09.04

――『「何もしない」で見えてくる自分軸。そのままの私で満たされる。』を読んで
セルフルミナスコーチ・音伊紅芳さんの『「何もしない」で見えてくる自分軸。そのままの私で満たされる。』を読みました。
「何もしないで、自分軸が見えてくる」
最初は、少し引っかかりました。
そのままの自分でいい。
何もしなくてもいい。本当にそれでいいのかな、と。
私はどちらかといえば、何かをやっている方が好きです。新しいことを見つけ、考え、動いている方が面白い。
しかし読み進めるうちに、この本が言う「何もしない」は、単にぼんやり過ごすことではないのだと分かってきました。
答えを、いつも他人の中に探してしまう
著者は子どもの頃、「内弁慶だね」と言われていたそうです。
家では自由に話せるのに、外へ出ると人の顔色をうかがい、空気を読む。
どうすれば好かれるのか。
怒られずに済むのか。
嫌われないためにはどうしたらいいのか。考えてみれば、多かれ少なかれ私たちにもあることではないでしょうか。
「私はどうしたいのか」よりも、
「こんなふうに思われないようにしよう」
「迷惑をかけないようにしよう」
「期待を裏切らないようにしよう」そんなふうに生きていると、いつの間にか人生の中心に他人の評価が入り込んできます。
そして、自分自身が何を感じているのかさえ見えにくくなってしまう。
これは私にも思い当たるところがあります。
「休む」ことまで仕事にしてしまう
特に面白かったのが、
癒やしでさえ、タスクになってしまう。
という話でした。
「ちゃんと休まなければ」
「休日も有意義に過ごさなければ」
「せっかくの時間だから何かしなければ」考えてみれば不思議です。
休むためにまで頑張っている。
何もしない時間にさえ、成果を求めてしまっています。
著者が伝えようとしているのは、何もしないことで自分を空っぽにするというより、外から入ってくる「こうすべき」をいったん横に置いてみることなのだと思います。
何をするかではなく、どうあるか
私たちは肩書きをたくさん持っています。
仕事上の立場。
夫として。
妻として。
親として。
子として。
社会人として。しかし役割は、それだけではありません。
「食器はすぐ洗うもの」
「靴は揃えるもの」
「きちんとしていなければならない」こんな小さな自分ルールまで、知らず知らずのうちに背負っています。
それを一度全部横に置いてみる。
すると、
「何をするか」
ではなく、
「自分はどうありたいのか」
が少しずつ見えてくる。
家族も同じなのかもしれません。
何かをしてくれるから大切なのではない。
ただ、そこにいてくれる。
それだけで安心できる人がいる。
逆に言えば、自分自身も知らないうちに、ただそこにいるだけで誰かの安心になっているのかもしれません。
一番近くにあるものほど、私たちはそのありがたさが見えなくなるものです。
心は旅をする。でも体はいつも「今」にいる
この本の中で印象に残った考えがあります。
心は過去へ行ったり、未来へ行ったりする。
昔のことを悔やみ、まだ起きてもいないことを心配する。
けれども、体は一度だって「今ここ」以外にいたことがない。
なるほどと思いました。
心がどこまで遠くへ行ってしまっても、自分の体はここにある。
呼吸をする。
椅子に座っている感覚を感じる。
風を感じる。
光を見る。そんな当たり前の感覚が、心の帰る場所になる。
「何もしない」というのは、思考や感情にすぐ反応せず、もう一人の自分が少し離れたところから自分を眺めてみることでもあるのでしょう。
言葉を増やすほど、見えなくなるものもある
私は本を読み、こうして感想をnoteに書いています。
だから言葉は大切です。
言葉にしなければ、人には伝わらないこともたくさんあります。
しかし一方で、私は以前から、言葉で説明すればするほどピントが薄くなってしまうものもあると思っています。
写真もそうです。
一枚の写真を何百字も使って説明した瞬間に、その写真から感じ取るはずだった何かが小さくなってしまうことがある。
人間同士も同じなのかもしれません。
何を話したかだけではなく、
どんな表情だったか。
どんな声だったか。
一緒にいたとき、どんな空気を感じたか。「肌が合う」という言葉がありますが、これからAIによって言葉や情報がいくらでも作られる時代になるほど、こうした身体で感じる感覚は逆に大切になるような気がします。
だからこそ、人に会いに行くことにも意味がある。
一人の時間は、孤独になるためではない
私は最近、会社でも一人でいる時間が多くなりました。
以前なら、一人の時間にも何かやることを探していたように思います。
けれども今は、その静かな時間も悪くありません。
何をしたいのか。
何が好きなのか。
何に違和感を覚えるのか。
これからどうありたいのか。そんなことを静かに眺めてみる。
本に、
一人の時間は孤独になるためのものではなく、再び誰かと心を結ぶための静かな準備なのだ
という趣旨の言葉がありました。
これは、とてもよく分かります。
会いたい人を思い浮かべたり、以前会ったときのことを思い出したりする。
一人でいるからこそ、人とのつながりが見えてくることもあります。
「何もしない」は、何もしていないことではなかった
読み終えて、最初に感じた疑問への答えが少し分かった気がします。
何もしないとは、止まることではない。
諦めることでもない。
自分の内側にある小さな違和感や、かすかな「好き」に気づくために、外から入ってくる音を少し小さくすることなのだと思います。
頑張ったか、頑張らなかったかも、本当は自分で決めればいい。
誰かに認めてもらわなくても、
「ここにいていい」
と思える場所を自分の中に持つ。
それが自分軸の土台になるのでしょう。
私はこれからも新しいことをやるでしょうし、何もしない人間には、おそらくなれません。
でも、何かをすることと同じくらい、
何もしない時間の中で、自分の心や体の声を聞くこと。
それも大切にしてみたい。
何もしない時間とは、空白ではない。
そこには、普段は聞こえない自分自身の声がある。
この本を読んで、「何もしない」という言葉の意味が、少し変わりました。
-
「消費する快楽」から、自分に積み上がる時間へ | 2026.09.01

『読書、筋トレ、睡眠こそ最強の自己投資である』吉田裕二 著を読んで
この本のタイトルには「筋トレ」とある。
正直に言えば、私は本格的な筋トレを始めようとは思っていない。
しかし、読書と睡眠については、これまでもずっと自分の中で大きなテーマだった。
そして今回、この本を読んで改めて考えたのが、スマホやSNSとの付き合い方だった。
画面を閉じたあと、何が残るのか
スマホを開けば、次から次へと新しい情報が流れてくる。
YouTubeショート、TikTok、Instagramのリール。
新しい動画、新しい反応、新しい刺激が途切れない。
その瞬間は確かに楽しい。
しかし本書では、こうしたものを**「消費する快楽」**として捉えている。
この言葉が、とても印象に残った。
一時間スマホを見続けたあと、
「自分の中に何が残っただろう」
と考えると、案外何も思い出せないことがある。
もちろんSNSや動画が悪いわけではない。
私自身、写真や情報発信で大いに利用している。
ただ、見る側に回った瞬間、終わりのない刺激に引っ張られてしまうことがある。
その点、読書、運動、睡眠は違う。
すぐに結果は見えなくても、少しずつ自分の中に積み上がっていく。
だからこそ、この本では「自己投資」と呼んでいるのだろう。
ぼーっとする時間も必要だった
もう一つ興味深かったのが、何もしない時間についてだった。
DMN、デフォルト・モード・ネットワークという脳の働きがある。
何か特定の課題に集中していないとき、過去の記憶を整理したり、自分自身について考えたり、さまざまな情報を結びつけたりする脳活動があるという。
つまり、
ぼーっとしている=何もしていない
ではない。
むしろ、次々と刺激を入れ続けないことで、頭の中に入った情報がつながっていく時間なのかもしれない。
私は何冊もの本を同時に読む。
一冊を最初から最後まで一気に読むより、その日の気分で違う本を開くことも多い。
すると、昨日読んだ本と今日読んだ本が突然つながることがある。
まったく違う分野の本なのに、
「ああ、あの本に書いてあったことと同じではないか」
と気づく瞬間がある。
そう考えると、読書とは本を開いている時間だけではないのだろう。
何もしない余白も、読書の続きなのかもしれない。
運動は「筋トレ」でなくてもいい
運動については、この本を読んでも、やはり私は本格的な筋トレを始めようとは思わなかった。
「毎日何分」
「週何回」
「何セット」と決めてしまうと、私の場合はだんだん義務になってしまう。
私は自宅から会社まで7、8分ほど歩く。
会社では足踏み運動をする。
家事もできるだけ自分でやる。
考えてみれば、家事だって結構体を動かす。
本書でも、運動は強度だけではなく、続けることが重要だという話が出てくる。
週に何度も頑張って一か月でやめてしまうより、無理なく長く続けた方がいい。
それなら私は、
「筋トレをしなければならない」と考えるより、「できるだけ動く」
くらいでいい。
運動を特別な予定にせず、生活の中に散らしてしまえばいいのだと思った。
紙の本は、目だけで読んでいない
非常に興味深かったのが、紙とデジタルの読書についてだった。
私はKindleもよく使う。
何冊でも持ち歩けるし、読みたいと思った瞬間に読める。
これは本当に便利である。
しかし、紙の本を読む感覚とは明らかに違う。
研究でも、紙で読んだ場合の方が、画面で読む場合より読解力がやや高くなる傾向があるという。
特に説明文や論説文では、その差が見られやすいという話も本書に出てくる。
私自身、これは実感としてよくわかる。
紙の本は目だけで読んでいるのではない。
ページをめくる。
本の厚みを感じる。
どのあたりのページに書いてあったかを、位置として覚えている。
紙の手触りがある。
ページをめくる音がある。
本には匂いもある。
そう考えると、私は紙の本を、
視覚だけでなく、触覚や聴覚、時には嗅覚まで使って読んでいる
のだと思う。
電子書籍では指一本で次のページへ進む。
それは便利である一方で、どんどん先へ進んでしまう。
紙の本には、少し立ち止まらせる力があるような気がする。
最近は、電子書籍ばかりに偏らず、紙の本もゆっくり読みたいと思うようになった。
AI時代だからこそ、200ページを読む
ここは、今の私にとって非常に重要な部分だった。
AIを使えば、一冊の本を短時間で要約することができる。
結論も教えてくれる。
論点も整理してくれる。
とても便利である。
しかし、
要約を読むことと、本を読むことは同じではない。
著者がどこから話を始めたのか。
なぜその具体例を出したのか。
どこで反論を想定したのか。
どんな順番で考えを積み上げて、最後の結論へたどり着いたのか。
200ページを読みながら、その道筋を自分の頭で追いかける。
その負荷こそが、読書の大切な部分なのだと思う。
本書には、実際にスクワットをしなければ足が強くならないのと同じように、結論だけを教えてもらっても、読書で使う頭は鍛えられない、という趣旨の話が出てくる。
これは非常にわかりやすかった。
だから私は、AIを読書の代わりにするのではなく、
読書の「入り口」と「出口」を助けてくれる道具
として使うのがいいと思っている。
本を読む。
自分で感じる。
自分なりに考える。
そして読後のばらばらな考えを、AIにも手伝ってもらいながら整理し、こうしてnoteにアウトプットする。
ここまで含めて、今の私の読書になっている。
小説は、人の心を読む練習になるのかもしれない
小説についての話も面白かった。
小説をよく読む人ほど、他人の心理状態を推測する力が高い傾向があるという研究が紹介されていた。
考えてみれば、小説を読んでいる間、私たちはずっと他人の人生の中にいる。
「なぜこの人はこんなことを言ったのだろう」
「本当は何を考えているのだろう」
「この沈黙には何があるのだろう」
書かれていない部分まで想像する。
私は若い頃、推理小説をはじめ、小説もかなり読んだ。
最近は実用書やノンフィクションが多くなり、小説を読む機会は少なくなった。
けれども、人間の機微を感じ取るという意味では、小説には実用書とはまったく違う力があるのだと思う。
もう少し小説を読んでもいいのかもしれない。
読んだ本を忘れてもいい
「読書は量より深さ」
これも本書の中で印象に残った。
10冊読んで全部忘れるより、一冊を深く読み、自分の言葉で語れる方がいい。
確かに、その通りだと思う。
ただ、私は少し違うことも考える。
私はこれまでかなり多くの本を読んできたが、その内容をすべて覚えているわけではない。
むしろ、ほとんど忘れている。
でも私は、それでいいと思っている。
忘れてしまった本まで含めて、どこかで今の自分をつくっているのではないか。
文章そのものは忘れていても、
考え方の癖として残っている。
判断の基準として残っている。
何かに迷ったとき、昔読んだ何かが無意識の中から出てくることもある。
だから私は、読了直後の感覚を大切にしたい。
何が一番意外だったか。
何に引っかかったか。
自分なら何をやってみたいと思ったか。
それをこうしてnoteに残しておく。
全文を記憶するためではない。
その時の自分が、何を感じたのかを残しておくためだ。
睡眠は「何もしない時間」ではない
そしてやはり、私が最も大切だと思ったのは睡眠である。
年齢を重ねるほど、睡眠の大切さを実感するようになった。
アルコールを飲むと、寝つきが良くなったように感じることがある。
しかし、眠りに入りやすくなることと、質の良い睡眠が取れることは同じではない。
アルコールは睡眠後半を乱したり、中途覚醒を増やしたりすることがあるという。
つまり、
「眠れた」と「回復した」は違う。
これは大切なことだと思った。
また、短い昼寝についても興味深かった。
私は時々昼寝をするが、長くても15分程度である。
短い昼寝は、その後の集中力や眠気の改善に役立つとされている。
私の場合も、少し横になるだけで頭がすっきりすることがある。
さらに本書では、睡眠中に脳内の老廃物の除去に関係すると考えられているグリンパティック系についても触れられていた。
この分野はまだ研究途中であり、すべてが完全に解明されたわけではない。
それでも、
睡眠は活動を停止している時間ではなく、次に活動するために脳と体を整えている時間
という考え方は、とてもよくわかる。
自分という「人体」で試してみる
私は、本に書いてあることを全部そのまま信じる必要はないと思っている。
研究結果も同じである。
「こういう研究がある」
「こういう人が多い」
と知ったら、自分の生活の中で無理なく試してみる。
自分には合うのか。
続けられるのか。
本当に調子が良くなるのか。
結局、自分の体と頭で確かめるしかない。
ある意味、私はいつも自分自身を使って小さな人体実験をしているようなものなのかもしれない。
だからこの本を読んでも、
「毎日必ず何分運動する」
「何ページ読む」
「何時に必ず寝る」
というように、自分をタスクで縛るつもりはない。
歩けるなら歩く。
家事で動く。
疲れたら少し昼寝をする。
スマホを閉じる時間をつくる。
紙の本をゆっくり読む。
時には何もしない。
そして、よく眠る。
そのくらいでいい。
自己投資は、何かを増やすことだけではない
「自己投資」という言葉を聞くと、
何か新しい勉強を始める。
資格を取る。
運動を始める。
もっと努力する。
そんな「足し算」を思い浮かべてしまう。
しかし今回この本を読んで、少し違うことを考えた。
何かを増やすことだけが自己投資ではない。
スマホから目を離す。
刺激を減らす。
何もしない時間をつくる。
ゆっくり本を読む。
眠る。
そうやって「消費する時間」を少し減らし、
未来の自分に積み上がる時間を増やしていく。
それも立派な自己投資なのだと思う。
私は、自分にできるところからやればいい。
無理に筋トレを始めなくてもいい。
無理に読書量を増やさなくてもいい。
完璧な睡眠を求めなくてもいい。
自分の生活の中で、少しずつ続けられることを残していく。
結局、それが一番長く続き、一番自分に積み上がっていく。
この本を読んで、私はそんなことを考えた。
-
AI時代に、2000年前の言葉が刺さる | 2026.08.25

『座右のラテン語 人生に効く珠玉の名句65』を読んで
ヤマザキマリさんのことを最初に知ったのは、やはり『テルマエ・ロマエ』の映画からだったと思います。
その後も何冊か読んできましたが、今回読んだ
『座右のラテン語 人生に効く珠玉の名句65』 は、また少し違った面白さがありました。40年も前からイタリアで暮らしているヤマザキマリさんの感覚と、ラテン語さんによる古代の言葉の解説。
その組み合わせがとても興味深く、読み始めから引き込まれました。古代ローマの時代に語られた言葉が、今の時代にもそのまま通じる。
それどころか、AIやSNSに囲まれて生きる今だからこそ、むしろ強く響いてくる。
そんな一冊でした。古代の言葉が、今も生きている
最初に印象に残ったのは、
「物事を始めた人は、もう半分を成し遂げている」
という言葉です。
始めることは、プロセス全体の中ではほんの一部にすぎないのかもしれません。
けれど、実際には「始める」という決断こそが一番難しい。これは今でもよく言われることですが、その考え方が古代からすでにあったということに驚かされました。
一歩を踏み出す。
その勇気の大切さは、時代が変わっても変わらないのだと思います。怒りは短い狂気である
次に心に残ったのは、
「怒りは短い狂気である」
という言葉でした。
人は感情に駆られると、理性を失いやすい。
それは今も昔も同じなのだと思います。ヤマザキマリさんが、イタリアの落書きを見て「古代のSNSみたいなものだ」と語っていた部分も面白かったです。
誰かへの怒りや不満を壁に書く。
今なら、それがそのままSNSの投稿になっているのかもしれません。道具は変わっても、人間の中身はあまり変わっていない。
そう思うと、古代の格言が今も生きている理由がよくわかります。
黄金の中庸という考え方
本書には
「黄金の中庸」
という言葉も出てきます。
極端に走らない。
真ん中を行く。
派手すぎず、卑屈すぎず、ちょうどよいところを大切にする。今の時代は、どうしても強い言葉、極端な意見、派手な生き方が目立ちやすい。
けれど、そういう時代だからこそ、中庸という考え方がむしろ大事なのではないかと思いました。怒りすぎない。
贅沢を誇りすぎない。
見栄を張りすぎない。穏やかに、しかし鈍くならずに生きる。
その感覚を、ローマ人もまた大切にしていたのだと思います。カルペ・ディエム――今日を生きる
有名な
「カルペ・ディエム」
「一日をつかめ」という言葉も出てきます。
よく「今を楽しめ」という意味で使われますが、私は今回、もっと深く受け取りました。
未来を不安がって何もしないより、
今日という一日をどう生きるかを考えること。これは年齢を重ねるほど身にしみる言葉です。
人生には、先のことが見えない時期もあります。
それでも、今日という日をしっかり使っていく。
それが積み重なって人生になるのだと思います。AI時代だからこそ、考えることをやめてはいけない
この本を読んでいて、私がいちばん強く感じたのは、
「考えることをやめてはいけない」
ということでした。
本の中には、キケロの
「生きることは考えることである」
という思想が出てきます。
これは今のAI時代に、とても大事な言葉だと思います。
AIは本当に便利です。
私も日々使っています。
文章をまとめたり、考えを整理したり、自分一人では追いつかないことを助けてもらっています。けれど、だからこそ思います。
考えることそのものを、AIに渡してはいけない。
答えを出してもらうことはできても、
それをどう受け止めるか、
そこに違和感はないか、
本当に自分はそう思うのか。それを考えるのは、やはり人間の役目です。
肉体を使わなければ衰えるように、知性も使わなければ衰えていく。
考えることは面倒です。
でも、考えることをやめた瞬間に、人はとても危うくなるのだと思います。思考停止は、独裁に都合がいい
本書の中には、思考停止の怖さを感じさせる話もありました。
「余計なことを考えるな」
「言われた通りにしていればいい」こういう空気は、いつの時代にもあります。
けれど、それは為政者や独裁者にとって都合がいいだけです。考えない人間は、操りやすい。
歴史の中では、それが何度も繰り返されてきました。ポル・ポトや文化大革命の話もそうです。
知識人が弾圧されるのは、考える力を持った人間が邪魔だからです。これは遠い国や昔の話ではないと思います。
現代でも、情報があふれているようでいて、実は「考えなくても済む仕組み」がどんどん広がっている気がします。だからこそ、自分の頭で考え続けることが必要なのだと改めて感じました。
人は、自分の信じたいものを信じる
本書の中で、現代に最も通じる言葉の一つだと思ったのが、
「人は信じたいものを信じる」
ということでした。
本当にその通りだと思います。
自分に都合のいい情報だけを集める。
聞きたい言葉だけを聞く。
見たいものだけを見る。今のSNSやアルゴリズム社会は、それをさらに強めています。
自分に合った情報ばかりが流れてくると、それが世界のすべてのように思えてしまう。
でも実際には、見えていないものがたくさんある。これはとても怖いことです。
噂についての話も印象に残りました。
火のないところに煙を立たせる人がいる。
噂には、人を巻き込む大きな力がある。だからこそ、簡単に信じないこと。
そして、信じる前に考えること。
その大切さを改めて感じました。SNSは現代の肩パッド
ヤマザキマリさんの表現の中で、特に面白かったのが
「SNSは現代の肩パッドだ」
という話でした。
バブル時代、大きな肩パッドで自分を大きく見せたように、
今はSNSで自分を大きく見せようとする。これはとても言い得て妙だと思いました。
もちろん、発信そのものが悪いわけではありません。
私も写真や文章を発信しています。でも、
「どう見られるか」より「どう生きているか」
の方が大事なのは間違いありません。見かけより実質。
そう見られることより、そうであること。古代の言葉が、現代のSNS社会にもそのまま突き刺さるのです。
勇気とは、前に進むことだけではない
本書には勇気にまつわる格言もいくつか出てきます。
「運は勇敢な者の味方をする」
という言葉もその一つです。
待っていても運は来ない。
やはり、動いた人にしか見えない景色があるのだと思います。ただ、勇気というのは、ただ前へ出ることだけではないとも感じました。
失敗を受け止めること。
屈辱を引き受けること。
頑張った自分をかわいそうだと思わず、もう一度立ち上がること。それもまた勇気なのだと思います。
本書の中で語られる
「失敗や屈辱は、人間が成熟するための必須栄養素である」
という考え方にも、私は深くうなずきました。若い頃にはわからなかったことも、年を重ねると少しわかるようになります。
つらい経験が、あとから自分を支えてくれることもある。そういうことを思えるようになるのも、年齢のよさかもしれません。
昆虫を見ていた頃の感覚
今回、個人的にとても共感したのが、ヤマザキマリさんの昆虫の話でした。
家の中にいるより、外にいるほうが生命反応を強く感じる。
虫たちの世界を見ていると、もう一つの世界をのぞき見るようでワクワクした。この感覚は、私にもよくわかります。
小さな虫たちも、一匹一匹が一生懸命生きている。
言葉は通じなくても、その存在そのものが励ましになることがある。人間の社会だけを見ていると息苦しくなることがありますが、
自然の中にある別の生命の営みを見ると、少し視野が広がる気がします。ああ、ヤマザキマリさんも同じような感覚を持っていたのだな、と嬉しくなりました。
死をどう受け止めるか
死についての言葉も、静かに心に残りました。
「より多くの人々のもとへ行った」
亡くなった人を、そう表現する言葉です。
今この世に生きている人より、すでに亡くなった人の方が多い。
だから死とは、「多くの人々のもとへ行くこと」でもある。不思議と少し救われる表現だと思いました。
もちろん、大切な人を失った時に、すぐそんなふうに思えるわけではありません。
悲しみには時間が必要です。でも時間がたつことで、死の見え方が少しずつ変わってくることはある。
自分自身も、いずれそこへ行く。そう思うと、死をただ怖がるだけではなく、
生きている間をどう使うかの方が大事なのだと感じます。人生は、使い方がわかっていれば長い
もう一つ、大切にしたいと思ったのが、
「人生は使い方がわかっていれば長い」
という言葉でした。
人生は短い。
確かにそう思うこともあります。でも、本当は時間が短いのではなく、
自分がそれを浪費してしまっているから短く感じるだけなのかもしれません。この年になると、つらさや挫折や絶望や失望、屈辱もそれなりに味わってきました。
けれど、それらも含めて、自分に与えられた感情や経験をまんべんなく使い切ることが、
良く生きるということなのではないかと思います。ポジティブな感情だけではなく、
つらい感情も生きる材料にしていく。そう考えると、残りの人生もまだまだ使いようがあると思えてきます。
歴史は人生の教師である
本書を読みながら、私は何度も
「歴史は人生の教師だ」
ということを感じました。歴史というと、つい年号や出来事を覚える学問のように思われがちです。
でも本当はそうではない。何が起こったか。
なぜ起こったか。
それが今とどうつながっているのか。
そして自分はどう考えるのか。そこまで含めて、歴史は私たちに生き方を教えてくれるものなのだと思います。
本書に出てくるラテン語の格言は、単なる「昔の名言集」ではありません。
人間が何度も失敗し、悩み、考え、残してきた知恵のかたまりです。時代を超えて、人間は学び続ける
『座右のラテン語』を読んで改めて思ったのは、
人間は、時代を超えて学び続けなければならない生き物なのだ
ということです。
便利になっても、
AIが発達しても、
SNSで瞬時に世界とつながれても、
人間の本質はそれほど変わっていない。怒り、愛し、悩み、争い、噂を信じ、見栄を張り、そして死を恐れる。
だからこそ、古代の言葉が今でも生きているのだと思います。
この本は、ラテン語の知識を得るための本というより、
ラテン語を入口にして、今をどう生きるかを考える本
でした。私の人生があと何年あるかはわかりません。
けれど、こういう言葉をときどき思い出しながら、
考えることをやめずに生きていきたいと思います。古代ローマの人々が残した言葉が、
こうして今の日本に生きる自分の心にも届く。それ自体が、文化の深さであり、人間の面白さなのかもしれません。
-
3年前の涙を、今なら言葉にできる | 2026.08.24

3年前、「感動です!」としか書けなかった
2023年12月16日。
私は映画
『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』
を観て、Facebookにこんな投稿をしていました。年末になっていい映画を観ること出来ました!感動です!
今年見た映画のベスト3に入ります^_^先日、その投稿を久しぶりに見つけました。

読んで思わず笑ってしまいました。
短い(笑)。
でも、あの時の感動がこの程度だったわけではありません。
とても心を揺さぶられた映画だったからこそ、「今年見た映画のベスト3」とまで書いたのでしょう。
今振り返ると、あの頃の私は、自分が感じていたことの10分の1も言葉にできていなかったのだと思います。
感動した。
泣いた。
いい映画だった。そこまでは言える。
でも、
「なぜ感動したのか」
「どこで心が動いたのか」
「なぜ、この場面がいつまでも残っているのか」そこから先を、自分の言葉にすることができませんでした。
そして3年後、『あの星が降る丘で、君とまた出会いたい。』へ
そして今回観たのが、その物語の続編・完結編となる
『あの星が降る丘で、君とまた出会いたい。』
です。

3年前にあれだけ心を動かされた作品の続きですから、もちろん期待して映画館へ向かいました。
ところが観終わってみると、私には今回の方がさらに心に残る映画でした。
何度も涙が出ました。
私はやっぱり、こういう素直に泣ける映画が好きなんだと思います。
「ここは泣くところだ」と考えて泣くのではありません。
物語の中へいつの間にか入り込み、登場人物の思いが自分の中にも流れ込んできて、気がつけば涙が出ている。
悲しいからだけではありません。
誰かを思う気持ち。
時間を超えてつながっていく思い。
言葉にできなかった気持ち。
そして、美しい風景や人の表情。いろいろなものが重なった瞬間に、自然と涙が出てくる。
歳を重ねて、涙もろくなったのかもしれません(笑)。
でも、それでいいと思っています。
人のことを思って泣ける。
誰かの人生に自分の人生を重ねて泣ける。
美しいものに心を動かされる。そんな感覚は、何歳になっても失いたくありません。
写真を撮る者として、映像にも見入った
そして今回、物語と同じくらい惹かれたのが、ロケーションと映像の美しさでした。
私は長く写真を撮っていますから、映画を観ていても、つい光や構図、背景、人物の配置を見てしまいます。
この映画には、
「この場面を一枚の写真にしたい」
と思うようなカットが何度もありました。
光の入り方。
空の色。
花や風景。
人物と背景との距離。本当に美しい。
ところが同時に、
「これは映画でしか表現できないな」
と思う場面もたくさんありました。
カメラが動く。
人物が歩く。
風が吹く。
光が変わる。
そこに音楽や声が重なり、時間が流れていく。写真は一瞬を止める表現です。
映画は、その一瞬へ向かっていく時間と、その一瞬が過ぎ去った後まで見せてくれる。
逆に写真には、動かない一枚だからこそ、その前後を観る人に想像してもらえる面白さがある。
写真と映画。
同じ「映像」でも、表現できるものはこんなにも違う。
そんなことまで考えながら観ていました。
3年前の感動は、「言葉になる前」だった
映画を観終わってから、2023年のFacebook投稿をもう一度読み返しました。
なぜ私は、あれほど感動した映画について数行しか書けなかったのだろう。
そこで思ったのです。
感じる力と、言葉にする力は別なのではないか。
心は大きく動いている。
でも、その感情を自分の中から取り出して、
「私はなぜ、ここで泣いたのだろう」
「なぜ、この風景が心に残ったのだろう」
と問いかけなければ、感動は「良かった」「泣いた」「感動した」という言葉の中に収まってしまいます。
3年前の私も、確かに感動していました。
ただ、それはまだ言葉になる前の感動だったのかもしれません。
言葉にすると、自分の中が見えてくる
この数年、私は本を読んだ感想、写真を撮って感じたこと、日々考えたことをnoteに残すようになりました。
最近はAIにも手伝ってもらっています。
でも、AIに感動してもらっているわけではありません。
映画を観て泣くのは私です。
写真を撮りたいと思うのも私。
美しいと感じるのも、何かに引っかかるのも私です。
私は、自分の中に浮かんだ断片的な言葉をAIに投げかけます。
すると、
「なぜ、そう感じたのか」
「本当に言いたかったことは何なのか」
を、もう一度自分で考えることができる。
感動するのは自分。
それを言葉にするところをAIに手伝ってもらう。今の私にとって、AIはそんな存在になっています。
そして文章になったものを読み返すと、
「ああ、自分はこんなことを感じていたんだ」
と、自分自身に気づかされることがあります。
言葉は、誰かに伝えるためだけのものではない。
自分の心の中を見るための鏡でもある。
最近、そんなことを感じています。
映画にも、人生にも続編がある
今回の
『あの星が降る丘で、君とまた出会いたい。』
は、3年前に観た物語の続編でした。でも考えてみれば、この3年間、私自身の人生にも当然「続き」がありました。
本を読んだ。
写真を撮った。
旅をした。
人と出会った。
いろいろなことを考えた。そして少しずつ、自分の中にあるものを言葉にするようになりました。
だから今回、物語の続きを観ながら、3年前とは違うものが見えたのかもしれません。
映画が変わっただけではない。
観ている私自身も、3年前と同じではない。
同じ人間でも、時間が変われば映画の見え方も変わる。
本もそうです。
写真もそうです。
そして人生そのものも、きっとそうなのでしょう。
3年前の涙を、今なら言葉にできる
2023年の私は、
「感動です!今年見た映画のベスト3に入ります^_^」
と書きました。
それで十分だったとも思います。
その時の私が残せた、精いっぱいの言葉です。
そして3年後。
『あの星が降る丘で、君とまた出会いたい。』を観た私は、こんなにも長い文章を書いている(笑)。
どちらが正しいということではありません。
むしろ、3年前の短い投稿が残っていたからこそ、今の自分との違いに気づくことができました。
昔撮った写真を何年か後に見返すと、撮った当時には気づかなかったものが見えてくることがあります。
言葉も同じなのかもしれません。
あの時には書けなかったことが、時間を経て、ようやく言葉になる。
だから、今感じたことを残しておくことには意味がある。
うまく書けなくてもいい。
短くてもいい。
その時の自分の言葉を残しておけば、何年か後の自分が、その続きを書いてくれるかもしれない。
映画には続編がある。
そして、私たちの人生にも毎日続編がある。3年前に出会った『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』。
そして今回出会った『あの星が降る丘で、君とまた出会いたい。』。
物語の続きを観ながら、私は思いがけず、3年前の自分にも再会しました。
そして、あの時の涙の意味を、今になって少しだけ言葉にできたような気がします。
素直に泣ける映画って、やっぱりいいですね。
そして心が動いたことを、こうして言葉に残すことも、やっぱり面白い。
3年前の感動を上回る、本当にいい映画でした💓
最新エントリー
カテゴリー
- ブログ (1)
アーカイブ
- 2026年10月
- 2026年9月
- 2026年8月
- 2026年7月
- 2026年6月
- 2026年4月
- 2026年3月
- 2026年2月
- 2026年1月
- 2025年12月
- 2025年11月
- 2025年10月
- 2025年9月
- 2025年8月
- 2025年4月
- 2025年1月
- 2024年12月
- 2024年10月
- 2024年8月
- 2024年7月
- 2024年6月
- 2024年5月
- 2024年3月
- 2024年2月
- 2023年12月
- 2023年11月
- 2023年9月
- 2023年8月
- 2023年6月
- 2023年5月
- 2023年3月
- 2022年12月
- 2022年11月
- 2022年10月
- 2022年8月
- 2022年5月
- 2022年3月
- 2022年2月
- 2021年7月
- 2020年1月
- 2019年8月
- 2019年7月
- 2019年6月
- 2019年4月
- 2018年9月
- 2018年3月
- 2016年11月
- 2015年11月

