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コーヒーは嗜好品じゃなく「話がはずむきっかけ」だった | 2026.02.06
落ち着いた時間を楽しみたいと思うようになって、最近はコーヒーをドリップで淹れる時間が小さな楽しみになっている。湯気と一緒に立ち上がる香りの中で、部屋の静けさが少し深くなる。
以前からインスタントは毎日2杯くらい飲んでいたのに、なぜか今になって急に「コーヒーに愛着」が湧いてきた。そんなタイミングで手に取ったのが、**『世界のビジネスエリートは知っている。教養としてのコーヒー』(井崎英典 著)**だ。本書でまず驚いたのは、コーヒーが“世界規模の存在”だということ。著者は、コーヒーの貿易取引総額が石油に次ぐ規模であること、さらに世界で1日に飲まれる量も桁違いであることを紹介している。私にとっては身近な飲み物だったものが、一気に「世界を動かす液体」に見えてきた。
そして何より面白かったのは、コーヒーが“議論とコミュニティの飲み物”として歴史を作ってきた点だ。コーヒーハウスは、酔いが回って話が流れてしまう酒場と違い、しらふで頭が冴えたまま言葉を交わせる場所だった。保険の仕組みや情報交換の文化が、こうした場から育ったという話は妙に腑に落ちた。
ここでふと思う。商談や打ち合わせで、自然にコーヒーが出てくるのはなぜなんだろう、と。たぶん理由は単純で、コーヒーは場を整える。人の気持ちをほどき、頭を起こし、言葉を前に進める。つまりコーヒーは、嗜好品というより**「対話の装置」**だったのかもしれない。
一方で、本書はコーヒーの明るい面だけで終わらない。ヨーロッパでは“コーヒーを飲む権利”が人権に近い感覚で語られることがある一方、その裏で人権を無視された労働や植民地主義の歴史があったという指摘も重い。好きになったものほど、都合のいい部分だけ見たくなる。でも、背景も知って飲む一杯のほうが、たぶん味わいが深い。
日本の話も印象的だった。日本は消費国として存在感が大きく、喫茶店文化も独特に育ったという。ファーストウェーブ/セカンドウェーブ/サードウェーブという“流行の波”の整理もされていて、いま当たり前に美味しいコーヒーが飲める時代が、実は長い積み重ねの上にあることがわかる。
個人的な記憶も呼び起こされた。昔、長崎で飲んだ水出しコーヒーのこと。飲み物は味だけじゃなく、時間や場所の記憶まで連れてくる。そういう意味でも、コーヒーは「人と場」を運ぶ飲み物なんだと思う。
結局、この本が何度も言っているのは、コーヒーの本質的な価値は“精神の解放”にある、ということだ。淹れようと思った瞬間から、湯を沸かし、香りが立ち、抽出が終わって口に運ぶまで——その一連が、すでに体験になっている。私はただ落ち着きたくて飲んでいたのに、いつの間にか「世界史と哲学」を飲んでいたのかもしれない。
さらに怖い話として、本書では「2050年問題」にも触れている。気候変動で栽培適地が減り、いま当たり前に飲んでいるコーヒーが当たり前ではなくなるかもしれない。そう思うと、目の前の一杯を雑に扱えなくなる。
一杯のコーヒーの背後には、神話のようなはじまりの物語から、宗教、政治、植民地、ビジネス、そして未来の環境問題まで、途方もない話が折り重なっている。これからは、なんとなく飲む一杯に、少しだけ“彩り”を足して味わっていきたい。

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読書は脳をつくる行為だった —『読書する脳』で知る、紙の本の力 | 2026.02.05
読書は脳をつくる行為だった
—『読書する脳』(毛内 拡 著)で知る、紙の本の力—
■ なぜ「読む」と脳が喜ぶのか?
著者・毛内拡さんのYouTubeをきっかけに本書を手に取りました。
読書好きな私にとって、「読むことが脳にどう作用しているのか」はずっと気になっていたテーマ。本書を通して、紙の本で読むことの“意味”が、脳科学という視点から次々と明らかにされていきます。読書は、ただの情報収集ではない。
あなたの脳を、作る行為である。この言葉が、読後にずっしりと響いています。
■ 紙の本がもたらす「触れる読書体験」
今の時代、スマホやタブレットで文章を読む時間は長くなりました。でも、本書ではあえて**“紙の本”を読むことが脳に与える刺激の違い**を強調しています。
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本を「めくる」動作は、視覚・触覚・運動感覚を同時に刺激する
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ページの厚みや位置で、「どこに何が書いてあったか」を空間的に記憶できる
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読んだ情報を脳内に地図のように残せるのは、紙だからこそ
まさに、空間ナビゲーションとして読む感覚。デジタルではスワイプで飛ばしてしまう情報も、紙なら自然に“戻る・探す・考える”行為ができるのだと実感しました。
■ 情報過多の時代に、読むという“静かな革命”
SNSや動画、ニュース…私たちは常に情報の波にさらされています。
脳はエネルギー消費が激しい臓器で、つい“省エネ”で簡単な情報に飛びついてしまう。そこに、ドーパミンが関係していると本書は語ります。面白そう、という予測が当たることで、脳は快感を得る。
だから“浅く・速く”情報を追いがち。けれど、読書は逆です。「じっくり読むこと」が脳に深い満足を与える。外からの刺激ではなく、内的な報酬を生む行為だからこそ、読後の余韻や感動が深く記憶に残るのです。
■ 読書がくれる、精神的自由
本書の中で初めて知った言葉があります。
精神的自由 — 自分の価値観で物事を解釈し、生き方を選ぶ力
これは、ただの知識では得られないもの。物語に感情移入し、他者の心に触れる読書体験を通して、私たちは知らず知らずのうちに「共感力」や「創造力」を育てているのだと感じました。
そして、自分の内なる声を聞き、言葉にする。私は今、noteで読書の感想を綴ることが、**読書という旅の“最後の1ピース”**のように思えます。
■ おわりに
読書は、ただ読むだけでは終わらない。
その時感じたことを言葉にし、誰かに伝えることで、脳の中にしっかりと刻まれていく。読書とは、脳で感じる旅。
その旅の記録が、私のnoteです。忙しい時代だからこそ、「あえて読む」という選択をしていきたい。
この本に出会って、そう強く思えた1冊でした。
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やる気に頼らない習慣のつくり方 | 2026.02.04
『習慣超大全』BJ・フォッグ著(須川綾子訳)を読んだ。
習慣にしたいことは本当にたくさんある。でも、なかなか習慣にできないことの方が多い。たぶん人間みんなそうなんだろうけど、それでも何かヒントが欲しくてこの本を手に取った。気づけば2ヶ月。じっくり読んだのに、読んだだけで“できる人”にはなれない。けれど、「できない理由」が見えてきた分、これは良い読書だったと思う。冒頭で特に印象に残ったのは、継続的な変化を起こす方法は3つしかない、という話だ。
正確な情報を提供すれば、人は考えを改め、結果的に行動も変わる――私たちはつい、そう信じがちだ。でも実際は、情報だけでは足りない。行動を確実に変えるには、次の3つのどれかが必要になる。天啓を得る(腑に落ちる瞬間)
環境を変える
小さなことから始める
ここが、最初は少し難しく感じた。でも読み進めるほどに、「ああ、だから続かなかったのか」と納得する場面が増えた。特に“やる気”や“意志力”に頼る発想は、脳の性質的に危うい。モチベーションは移ろいやすく、当てにすると崩れる。だからこの本は、やる気を使わなくてもできる形にすることを勧めてくる。
人の行動は、モチベーション・能力・きっかけの3つで決まる。
そして多くの場合、最後まで到達できる人は1割もいない。これを知っているだけで、落ち込み方が変わる。「自分がダメだから」ではなく、「設計が合っていないだけ」かもしれない、と考えられる。私にとって実用的だったのは、「その行動は本当に習慣になりやすい形か?」を見抜くための質問だった。
その行動を実行するだけの時間はあるか
お金はかかるか
身体的に無理はないか
頭を使いすぎる内容ではないか
日課に組み込めるか(調整が必要か)
ストレスを伴う行動は習慣になりにくい。無理をすれば短期的には頑張れても、長くは続かない。運動が続かないのも、ここに理由がある気がした。さらに厄介なのは、続かないと罪悪感が出ることだ。罪悪感が出ると、ますます遠ざかる。だから完璧を目指さない。目指すのは「継続」。この割り切りは、きれいごとじゃなくて、現実的な優しさだと思った。
そして本の中心にあるのが、**きっかけ(アンカー)**の使い方だ。
自分の意志で「やろう」とすると失敗しやすい。だから、すでに毎日やっている行動の“後ろ”に、小さな新習慣をくっつける。特に朝は日課が多く、予測もしやすい。つまり、「〇〇した後に、△△をする」
これが作れた瞬間、習慣は“気合い”から“仕組み”に変わる。必要なスキルは、最適なアンカーを見つけて、適切な小さな行動と組み合わせること。自分をコントロールするために、相手をコントロールしようとしない。この視点も、妙に腑に落ちた。
もう一つ、意外に深かったのが**「祝福(セレブレーション)」**だ。
行動のあとに気分が良くなると、脳はそれを覚える。ポジティブな感情は行動を強化し、次につながりやすくする。逆に、不快感が強いと、脳は避ける回路を強めてしまう。だから、うまくできたら大げさに祝っていい。むしろ祝うことが、習慣の燃料になる。ユーモアや小さな達成感も、馬鹿にできない。さらに、モチベーションを下げる要因として「社会的プレッシャー」が挙げられていたのも納得だった。比較、評価、人の目。これが入ると、行動のハードルが一気に上がる。長期的な変化をデザインするなら、下げる要因を軽くする、あるいは遠ざける工夫が必要になる。
終盤の比喩で印象に残ったのは、**絡み合ったロープ(結び目)**の話だ。
習慣というのは、いろんな結び目が絡んでできている。全部を一気にほどこうとすると、余計に固くなる。だから、いちばんほどきやすい結び目から解く。小さく、確実に。そうして少しずつ全体がほどけていく。これは、習慣づくりに限らず、人生の立て直し方にも似ている気がした。「このレシピで一生が変わる」と言われても、現実はそんなに単純じゃない。自分を変えるのは難しい。そこは正直にそう思う。
でも同時に、「変われないのは自分のせい」と思い込まなくていいとも思えた。仕組みの作り方を知らなかっただけかもしれない。私はきっとまた読み直す。自分の行動を点検するために。そして次は、“ほどける結び目”を一つだけ解いてみようと思う。
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人生が主役。仕事はその手段 | 2026.02.03
25年前、北欧で唯一訪れた国がデンマークだった。デンマークデザインの視察研修旅行として記録も残したが、あの旅で受けたカルチャーショックは、いまも鮮明に思い出せる。今振り返ると、あの衝撃こそが、私の仕事観や経営の根っこをつくったのかもしれない。
今回『デンマーク人の休む哲学』を読み、その記憶が、現在の言葉で“再点火”された感覚がある。驚くのは、25年前の時点で、彼らはすでに「休み」を人生の中心に据えた働き方をしていたことだ。日本ではようやく働き方が見直され始めたが、デンマークでは「休むこと」に罪悪感がない。外から見ると、のんびりしているように見えるのに、決して怠けてはいない。むしろ彼らは、休みの価値を最大化する“休みの達人”なのだと思わされた。
休みの時間は、ただ寝て回復するだけではない。森を歩き、スポーツをし、焚き火を囲み、家族や親しい人と食事をし、DIYや家庭菜園、読書を楽しむ。そこにはリラックスだけでなく、社交と創造が自然に含まれている。象徴的なのが「ヒュッゲ」。気心の知れた人と、心地よい空間で、肩の力を抜いて過ごす時間。豪華さやサービスではなく、体験を共有することが“贅沢”になる。最高に心地よい場面を思い浮かべたとき、誰といて、どこにいて、何をしているか——それが自分にとっての「帰る場所」だ、という視点は刺さった。
また、休みを守るために、働き方の設計も違う。メールの即レスを前提にせず、勤務時間外に仕事が侵入しないようにする。重要な連絡は実は少ない、という見立ても示唆的だった。さらに休暇は「取れたら取る」ではなく「取るのが当たり前」。長期休暇も、細かく詰め込まず、余白を残して味わう。日本の旅行が“タスク化”しやすいのに対し、彼らは「満喫する」ために予定をゆるく持つ。仕事は幸福な人生の手段であり、主役は人生のほう——この前提が揺るぎない。
読み終えて強く残ったのは、「休むことは甘えではなく技術であり、文化であり、未来への投資だ」という感覚だ。日本人が休めないのは、忙しさだけでなく、休み方・居場所・人間関係の設計が痩せているからかもしれない。スマホでダラダラ気晴らしをしても回復しないのは、受け身の情報で思考の余白が埋まるから。むしろ、読書や自然の中の散歩のように、主体的に心を整える時間が要る。私自身、自然や写真の時間に救われる感覚があるからこそ、この本の言葉は実感として腑に落ちた。
人口約600万人の小国でも、世界の中で存在感を持てる理由の一端は、ここにあるのだろう。休みを人生の味方にし、限られた時間で集中して働き、体験と関係性に幸福の軸を置く。25年前に受けた衝撃が、今の日本でこそ“鍵”になる——そう確信できた一冊だった。

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大雪だけど、雪国がもっと好きになった | 2026.02.02
今年の雪国は、久しぶりの大雪だ。玄関前と車庫前の除雪が、毎日の「朝晩の用事」になった。雪の降らない土地の人から見れば、きっと驚く日課だろう。でも雪国に住む私たちは、それを当たり前として暮らしている。不思議なものだ。
若い頃は、雪が積もるたびに「またか…」と気が重くなった。スコップを握る手にも、どこか反発が混じっていた気がする。ところがこの頃は、少し感覚が変わってきた。歳を重ねたからこそ、雪の重さだけでなく、自分の体の調子や呼吸の荒さにも敏感になる。だから無理はしない。だけど、ほどよく汗をかくことが「運動しよう」と頑張らなくてもできていると思うと、妙な達成感が生まれる瞬間がある。
ここをこう抜けば道が通る、ここをもう少し落とせば見た目が整う――そんな小さな完成が、体に覚えこませていく。気づけば、雪と向き合うコツも、道具の使い方も、自然に体が思い出す。しんどいのに、少し気持ちいい。終わったあとに、道がスッと通っているのを見るだけで、「よし」と思える。
誰かが踏み固めた雪道、誰かが整えてくれた通り道。そこを通ると、私たちは自然に得をするし、感謝も湧く。だから「雪国の人はみんな優しくて、ボランティア精神がある」と言われることもある。でも実際は、もっと静かな動機があるのかもしれない。やっている側は「いいことをしている」と意識しているばかりではない。気づけば体が勝手に動き、「ここをきれいにしたい」と思ってしまう。利他でも自己満足でもなく、ただ自然とそうしている――そんな状態こそ、私は“上徳”に近いのではないかと感じる。
もちろん、文明の助けも大きい。長岡の融雪道路のように、水が出て雪が消えていく景色を見ると、「生活は確かに良くなっている」と実感する。昔は「雪を退ける」しかなかったのに、今は「雪が消えていく」場面がある。進歩だ。ただ、それでも自然は、こちらの都合通りにはいかない。朝に必死で雪を退けても、昼には同じくらい積もっていることがある。まるで賽の河原だ。
効率や成果だけで見れば、無駄に思える人もいるだろう。でも、リセットされ、また同じことをする――そこにこそ、何か大切な意味が潜んでいる気がする。結果が残らないからこそ、「今日を丁寧にやる」しかない。そう考えると、雪かきは修行というより、心の整え方のひとつにも見えてくる。
そして、ここが私の中で最近いちばん大きい。効率や成果を求められる仕事の感覚で見れば、除雪はかなり非効率で、成果もあまり期待できない。だって、きれいにしても、また同じ状態に戻るのだから。どこか家事にも似ている。洗ってもまた汚れる、片づけてもまた散らかる。それでも人はやる。やらないと暮らしが回らないから、という理由もあるけれど、私はそれだけじゃない気がしている。繰り返しの中で、自分の心の置きどころを探したり、今日の自分を確かめたりできる。だからこの作業は、忙しさの中で置き去りになりがちな「哲学する心」の糧になっているのだと思う。
雪は一年の彩りをいったん消し去り、世界を真っ白なキャンバスにする。青空がのぞく晴天の日、その白と青の対比は言い知れない。雪国の贅沢とは、もしかしたら「リセットされる感覚」そのものなのかもしれない。苦労は確かにある。けれど、あと二ヶ月もすれば、この大雪も消えてしまう。消えると知っているから、今の苦労も、どこか季節の一部として抱えられる。
私はこの雪国が好きだ。雪に包まれた室内で、時間を長いスパンで眺め直し、自分の考えをまとめ、振り返る。除雪の一心不乱さは、小さな瞑想にも似ている。作業に集中しているうちに、余計な雑念が薄れ、体力だけでなく気持ちまでスッと軽くなる気がする。
危険なことを避けながら、雪と楽しく付き合う。雪の厳しさに学び、雪の美しさに感動し、雪を愛でる――大雪の冬は、私に「自然と一緒に生きるって、悪くない」と思わせてくれる季節だ。

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入院してわかった、治す前に見直すべき「暮らし」の土台 | 2026.01.30
今回、入院と手術を経験したことで、私は『病気にならない暮らし辞典』本間真二郎さんの本を手に取りました。著者は医学者としてウイルス研究の道を歩みながら、いまは農業や自然に寄り添う暮らしを実践し、「人が治る力とは何か」を体験と観察から掘り下げている人です。机上の理屈だけではなく、実際に試し、確かめ、感じたことが言葉になっているので、とても読みやすく、胸に刺さる部分が多い本でした。
とくに衝撃だったのは、「医療が発達しているのに病気は減っていない」という事実です。高血圧、糖尿病、脂質異常症、メタボ、そしてアレルギーやアトピー、喘息など、いわゆる慢性病・生活習慣病が増え続けている。さらに子どもの世界でも、発達障害と呼ばれる診断が増えている現状がある。診断基準の変化などを差し引いても、患者数の増加は無視できない——この指摘は重く感じました。
著者が一貫して言うのは、「病気の根っこは“不自然な暮らし”にある」ということ。医学の高度化は対症療法としては強いけれど、そもそも病気になりにくい暮らしを取り戻さなければ、流れは止まらない、という視点です。風邪でさえ、ただ敵として消すのではなく、体が整おうとする意味がある。症状を闇雲に止めるより、短期・長期の影響まで考えて受け止め、寄り添うことが大切だという話は、子育ての章にもつながっていました。「お母さんは家庭のお医者さん」という言葉は、優しいのに厳しく、自分にも向けられている気がしました。
そしてこの本は、健康の話でありながら、読み終えるとどこか啓示のようなものが残ります。生きていくということは、結局、あらゆるものと関わっていくこと。食べ物も、土も、微生物も、空気も、水も、家族も、仕事も、社会も、全部がつながっている。その関係の中で私は何度も、自分に問い直しました。私は自然法則に従って生きているのか。便利さや効率を優先して、自然の摂理から外れた暮らしを当たり前にしていないか。これは他人に向けた言葉ではなく、自分自身への自戒です。
植物の苗を小さなポットのまま育てる実験の話も象徴的でした。土が根に置き換わり、限界が来ると成長が止まり枯れてしまう。そこから「植物は地球が変化したもの」「地球を傷つけることは巡って自分を傷つけること」という感覚に至る流れは、ただの健康論を超えて、暮らしそのものの姿勢を問う話に広がっていきます。自然を“支配している側”だと勘違いしがちだけれど、本当は自然の一部として生かされている。その視点が戻るだけで、暮らしの選択が変わっていく気がしました。
腸内細菌、心と自律神経、意識と無意識(集合無意識)など、体と心を分けずに見る視点もこの本の魅力でした。結局、病気にならない心とは、自然や他者の役割を認め、感謝できる心なのだ——このまとめ方は、とても腑に落ちました。逆に言えば、「全部排除して安全にする」「全部消毒してゼロにする」といった考え方そのものが、不自然さを増やしてしまう。科学が進んでも、進化しても、すべてを無くしたり、完全に排除したりすることが“本来の姿”ではない。医療は大切だけれど万能ではなく、基本は対症療法でもある。だからこそ、医療だけに寄りかからず、暮らしの土台を整える方向へ戻ることが必要なのだと思いました。
実践としては、腹八分目、よく噛む、地産地消、腸内環境を整える食事、睡眠と休息、ストレスを溜めない工夫、完璧を求めない、笑う、入浴は湯船に浸かる、など、派手ではないけれど本質的な提案が並びます。私自身、胆嚢の手術は終えて回復しましたが、手術で“体質”まで変わったわけではありません。だからこれからは、この本を“暮らしの辞典”として手元に置き、できるところから自然に沿った生活へ戻していきたい。病気になる前に読んでおけばよかった、という悔しさも含めて、今の自分には必要な一冊でした。

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