「わかる」ことより、「見続ける」こと

『観察力の鍛え方 一流のクリエイターは世界をどう見ているのか』を読んで
佐渡島庸平さんの『観察力の鍛え方』を読んで、あらためて自分は「観察する」ということが好きだったのだと気づかされました。
人を見て、物を見て、風景を見て、天気を見て、写真を撮る。そうやって生きてきた時間そのものが、私にとっては観察の積み重ねだったのだと思います。
この本の題名を見たとき、私はすぐに惹かれました。
観察力という言葉が好きだったからです。好きというより、たぶん私はそれをずっと大事にしてきました。しかも最近は、他人や世界を観察するだけではなく、自分自身を観察することの大切さを強く感じていました。だからこの本は、まるで今の自分に向けて差し出された本のように思えました。
観察とは、情報をただ受け取ることではない
読んでいて特に共感したのは、観察力とはインプットの質を高める力だという考え方でした。
私たちは毎日たくさんの情報に触れています。でも、ただ情報が目の前を通り過ぎていくだけでは、本当の意味でのインプットにはならない。そこに自分の目がなければ、自分の問いがなければ、情報はただ流れていくだけのものになってしまうのだと思います。
経営でも、創作でも、写真でも、結局大事なのは「何を見るか」よりも「どう見るか」なのかもしれません。
この本では、良い観察とは、仮説を持ちながら物事を見て、そのズレに気づき、仮説を更新していくことだと語られていました。私はここに深くうなずきました。人はつい、自分の思った通りのものを見つけると安心してしまいます。「やっぱりそうだった」と思った瞬間に、観察は止まってしまう。けれど本当は、その“思っていたこと”と“現実のズレ”にこそ、新しい発見があるのでしょう。
年齢を重ねるほど、経験があるぶん、自分の見方に自信を持つようになります。けれど、その自信がそのまま偏見や思い込みになることもある。
人は目で見ているようで、実は脳で見ている。見たいものだけを見て、見たくないものは見落としてしまう。観察を阻んでいるものの多くは、外ではなく、自分の中にあるのだとあらためて感じました。
外を見るだけでなく、自分の内面を観察する
この本を読みながら、最近の自分の実感とも重なる部分がいくつもありました。
昔の家庭の映像をDVD化して見返しているのですが、その中に映る妻の言葉やしぐさを見て、今になって「ああ、自分のことをこんなふうに思ってくれていたのか」と気づくことがあります。
その当時はまったく見えていなかったものが、今の自分には見える。
事実は変わっていないのに、その意味は変わるのです。つまり過去でさえ、今の自分の認知によって更新されていく。これはとても不思議で、同時にとても人間らしいことだと思いました。
だからこそ、自分をもう一人の自分が見るように観察することが大切なのだろうと思います。
私は最近、ChatGPTのようなAIを脇に置きながら、自分の考えや感情を見つめ直すことが面白くなってきました。AIが答えをくれるというより、自分の内面を映す鏡のような役割を果たしてくれることがあるからです。これからの時代は、外の世界を観察する力と同じくらい、自分の内面を観察する力が大事になるのではないか。そんなことも感じました。
さらに印象に残ったのは、感情もまた観察を左右しているということでした。
怒っているとき、不安なとき、うれしいとき、誇らしいとき。同じ出来事でも、感情が違えば受け取り方も判断も変わってしまう。感情は観察を豊かにもするし、歪めもする。だから大事なのは、感情を無理に消すことではなく、「今、自分はこういう感情の中にいるな」と一度立ち止まって気づくことなのだと思います。自分の感情を観察できるようになれば、行動の質も変わっていく。これは年齢を重ねた今だからこそ、いっそう大切にしたい視点でした。
「わかる」と言い切らず、見続ける人でありたい
この本を読んでいて、何度も胸に引っかかったのは、「わかる」という言葉の危うさでした。
私たちは会話の中で簡単に「わかる」と言います。けれど本当にわかるのか。相手の人生は相手のもので、自分の経験とは違います。だから「あなたの気持ち、よくわかります」と言い切ることは、ときに相手を突き放す言葉にもなってしまう。これは本当にそうだと思いました。
共感しようとすることは大切です。けれど、「わかった」と言い切ってしまった瞬間に、観察も対話も止まってしまう。
むしろ「わからないまま、わかろうとし続けること」のほうが、ずっと誠実なのではないか。そんなことを考えました。
私はこれまで、感想文や作文のようなものに、どこか苦手意識がありました。
誤字脱字を気にしたり、正しい言葉を使わなければいけないと思ったり、そういう“正解主義”が先に立っていたからだと思います。でも本当は、文章とは正しさを競うものではなく、自分の感情や違和感をすくい上げるものなのかもしれません。子どもの作文に必要なのも、間違いを細かく正すことではなく、その子の中に動いた感情に応答することなのだろうと思いました。
さらに深かったのは、「する」より「いる」という考え方でした。
相手のために何かをしてあげる、ではなく、相手のためにどう“いる”か。これは簡単なようでいて、とても難しいことです。何かをするほうが結果は見えやすい。けれど本当に信頼や愛情が試されるのは、曖昧で、何も起きない時間を一緒に過ごせるかどうかのほうなのかもしれません。
孫といる時間、家族といる時間、夫婦でいる時間もそうでしょう。
何か特別なことをしなくても、ただ一緒にいる時間の中でしか見えてこないものがある。観察とは、効率や成果の反対側にある、静かで贅沢な時間なのかもしれません。
この本を読んで、私はますます「わかる人」になりたいとは思わなくなりました。
それよりも、見続ける人でありたいと思いました。人を、世界を、自分を、簡単に決めつけずに見続ける。その先にしか、本当の意味での創造も、優しさも、深い言葉も生まれないのだと思います。
観察とは、世界を見る技術であると同時に、自分の内側に小さな革命を起こすための静かな習慣なのだ。
この本を読んで、そんなふうに感じました。
