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『こんなものは本物じゃない』と言う前に(その1) | 2026.07.30

写真の進化から生成AIを考える
今回は、本の感想ではなく、今、私が考えていることを書いてみたい。
生成AIについて考えていた時、ふと、写真の歴史とよく似ているのではないかと思った。
私は、半世紀ほど写真を趣味にしている。
その変化を長い時間の流れの中で俯瞰してみると、新しい技術が登場するたびに、人は戸惑い、否定し、やがて当たり前のものとして受け入れてきたことがよく分かる。
今、生成AIに対して私たちが感じている戸惑いも、写真の世界で何度も繰り返されてきたものと同じではないだろうか。
暗室で写真が浮かび上がった感動
私が写真を始めた頃は、白黒写真だった。
撮影したフィルムを自分で現像し、暗室の中で印画紙に焼き付ける。
現像液の中に白い印画紙を入れると、何もなかった紙の上に、少しずつ画像が浮かび上がってくる。
あの瞬間の感動は、今でも忘れられない。
まるで、自分だけが知っている暗闇の中から、新しい世界が生まれてくるようだった。
結婚したばかりの頃には、自宅の押し入れを改造して暗室を作った。
その後、新しい家を建てた時にも、自分専用の小さな暗室を作った(ところが、物が増えるにつれて、あっという間に物置化し、結局一度も使うことはなかった)。
そうしているうちに、時代は白黒からカラーへと移っていった。
白黒の中には、無限の色があった
カラー写真が広がり始めた時、
「こんなものは写真ではない」
と言う人がいた。
「写真は、白と黒の階調の中に無限の色を感じさせるものだ」
という考え方である。
その気持ちは、私にもよく分かる。
白黒写真には、白と黒だけで世界を表現する強さがある。
実際には色が写っていないからこそ、見る人は、その場の空や花、服、肌の色を想像する。
白と黒の間にある無数の濃淡から、自分の記憶の中にある色を呼び起こす。
見えていない色を、見る人の心の中に生み出す。
それは、白黒写真にしかない、非常に豊かな表現だと思う。
しかし、カラー写真にはカラー写真の力があった。
人に見せた時、細かく説明しなくても、その場の色や雰囲気を直感的に受け取ってもらえる。
頭で考える前に、感覚として伝わる。
だからこそ、カラー写真は多くの人に受け入れられ、写真の世界を大きく広げていったのだと思う。
白黒が優れていて、カラーが劣っているわけではない。
カラーが進化で、白黒が退化したわけでもない。
表現の方法が一つ増えたのである。
オートフォーカスは、写真を簡単にしたのか
その後、カメラにオートフォーカスが登場した。
すると、また、
「機械が勝手にピントを合わせるなんて、けしからん」
「写真は、自分の目と手でピントを合わせるものだ」
という声が聞かれた。
しかし、フィルムの時代は、一枚一枚にお金がかかった。
特にポジフィルムを使う時には、一回シャッターを切るだけでも神経を尖らせた。
ピントは合っているか。
露出は正しいか。
シャッタースピードは適切か。
そうして迷っているうちに、撮りたかった瞬間が過ぎてしまうこともあった。
「あの時だ」
と思った時に、ピント合わせが間に合わず、シャッターを押せないこともあった。
オートフォーカスが登場したことで、ピント合わせの一部をカメラに任せられるようになった。
その分、私は構図や露出、そしてシャッターを切る瞬間に、より意識を向けられるようになった。
機械に任せたから、写真が簡単になったのではない。
機械に任せられる部分が増えたからこそ、人間は別のことを考えられるようになったのである。
これは、今の生成AIにも通じる話ではないだろうか。
「横着なレンズ」と呼ばれたズームレンズ
ズームレンズが登場した時にも、否定的な意見があった。
それまでは、焦点距離の違う単焦点レンズを何本も持ち歩くのが普通だった。
単焦点レンズは軽く、明るく、開放絞りで撮影しやすい。
画質にも優れている。
だから、
「やはり単焦点レンズが一番だ」
という考え方は、私にもよく分かる。
一方で、実際の撮影現場では、
「今、この画角で撮りたい」
と思った瞬間に、レンズを交換している時間がないこともある。
レンズ交換をしている間に、人が動き、光が変わり、景色が失われてしまう。
ズームレンズなら、その場で画角を変え、すぐにシャッターを切ることができる。
それでも当時は、
「一本で何本分もの役割をするなんて、横着なレンズだ」
「そんなレンズを使っていたら、写真が下手になる」
と言う人がいた。
けれども、ズームレンズは写真家を怠けさせるために生まれたのではない。
撮りたいと思った瞬間を逃さず、表現の可能性を広げるために生まれたのだと思う。
銀塩からデジタルへ
写真がフィルムからデジタルに変わった時も、大きな反発があった。
「デジタルなど写真ではない」
「写真は銀塩フィルムで撮るものだ」
「ISO50のフィルムでなければ、本当の階調は出ない」
「スライドフィルムの色こそが写真だ」
そうした強いこだわりを持つ人も多かった。
確かに、フィルム独特の色味や粒子、階調には魅力がある。
私も、その良さを否定するつもりはない。
しかし、今ではフィルムの現像を行うラボも少なくなり、写真の中心はほとんどデジタルへ移った。
さらに、写真を発表する場所も変化した。
以前は、印画紙に焼き付け、額に入れて展示することが、写真発表の中心だった。
今ではInstagramをはじめ、スマートフォンやパソコンの画面で写真を見る機会が圧倒的に増えている。
紙に焼いた時の階調や質感だけを追求しても、画面上では十分に伝わらないこともある。
だからこそ今は、画質だけでなく、
「なぜ、そこに立ったのか」
「なぜ、その瞬間にシャッターを切ったのか」
という、撮影する人の経験や感情が、より重要になっているように思う。
一眼レフからミラーレスへ
一眼レフからミラーレスへ変わった時にも、
「ミラーレスは本当のカメラではない」
という声があった。
しかし、ミラーレスカメラの手ブレ補正は、本当にすごい。
以前なら三脚がなければ難しかった遅いシャッタースピードでも、手持ちで撮れるようになった。
場合によっては、花火でさえ手持ちで撮影できる。
これは、単にカメラが便利になったという話ではない。
「こんな写真を撮ってみたい」
という人間の願いを、技術が形にした結果だと思う。
一眼レフには一眼レフの良さがあり、ミラーレスにはミラーレスの良さがある。
どちらが本物で、どちらが偽物という話ではない。
撮影する人に、新しい選択肢が加わったのである。
スマートフォンは写真ではないのか
そして今は、スマートフォンで誰もが気軽に写真を撮る時代になった。
すると今度は、
「スマートフォンで撮ったものは写真ではない」
「写真を趣味にするなら、高級な一眼カメラを使うべきだ」
という声が出てくる。
カメラの価格は高くなり、60万円、100万円もする機種がある。
高性能なカメラやレンズが素晴らしいことは間違いない。
しかし、高価な機材を使わなければ写真にならないわけではない。
ローアングルで撮りたい時には、スマートフォンが便利なこともある。
棒を使えば、今までカメラを置けなかった場所から撮影することもできる。
私は現在、360度カメラも使っている。
一度に周囲すべてを記録し、後から視点を選ぶことができる。
以前には想像もできなかった表現方法である。
大切なのは、どの機材が一番優れているかではない。
自分が表現したいものに合わせて、道具を選べることだと思う。
新しい技術は、表現を奪うのではない
写真の半世紀を振り返ると、新しいものが登場するたびに、同じ言葉が繰り返されてきた。
白黒からカラーへ。
マニュアルフォーカスからオートフォーカスへ。
単焦点レンズからズームレンズへ。
銀塩フィルムからデジタルへ。
一眼レフからミラーレスへ。
高級カメラからスマートフォンや360度カメラへ。
そのたびに、
「こんなものは写真ではない」
と言う人が現れた。
しかし、新しい技術によって古い表現が完全になくなったわけではない。
今でも白黒写真はある。
フィルムを愛する人もいる。
単焦点レンズを使う人もいる。
新しい技術は、以前のものを消したのではない。
表現の選択肢を増やしたのである。
理解できないものを、否定しない
人は、自分が扱えないものや、自分の理解を超えたものに対して、否定的になりやすい。
自分が長年身につけてきた技術を、機械が簡単に行うようになると、自分の価値を否定されたように感じることもある。
しかし、新しい技術を拒み続けていたら、次の時代を楽しむことはできない。
新しいものが出てきたら、まず触ってみる。
使ってみる。
自分の表現に取り入れられるかを考えてみる。
新しい道具は、多くの人が、
「こんなことができたらいい」
と思い続けた結果として生まれてきたものでもある。
だから私は、新しいものを最初から否定する理由は一つもないと思っている。
これは、半世紀にわたって写真の変化を経験してきた、私自身の人生の実感である。
そして今、生成AIが現れた
現在、生成AIが作った画像に対して、
「これは写真ではない」
「人間が作っていないものに価値はない」
という声がある。
確かに、生成AIが作った画像は、カメラで現実の光を記録した写真ではない。
しかし、それならば、無理に写真と同じ土俵に上げて比べる必要はないのではないか。
絵画と写真が別の表現として共存してきたように、生成AI画像も、新しく生まれた別の表現方法と考えればよい。
生成AIが作る画像、文章、音楽には、生成AIならではの素晴らしさがある。
同時に、人間が自分の身体で感じ、経験し、迷いながら作る作品にも、変わらない価値がある。
どちらが進化し、どちらが退化したという話ではない。
人間の表現の世界に、新しい方法が一つ加わったのである。
写真の歴史を長く見てきたからこそ、私は今、生成AIを脅威よりも、新しい表現の入口として見ている。
新しい道具を否定するのではなく、それをどう使い、自分の思いや感性をどう表現するか。
そう考えれば、これほどワクワクする時代はないと思う。
次回の「その2」では、生成AIを人間の競争相手ではなく、もう一人の創作パートナーとして考えてみたい。
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「わからない」を抱えられる人が、知性的である | 2026.07.29

『知性について』内田樹 著を読んで
内田樹さんの本は、これまでも何冊も読んできた。
内田さんは、私の兄と同じくらいの年代である。そのせいか、本を読んでいると、どこか兄から話を聞いているような気持ちになる。
少し厳しく、少しひねりがあり、簡単には答えを渡してくれない。
けれども、読み終える頃には、自分が当然だと思っていたことを、もう一度考え直している。
今回読んだ『知性について』も、そんな一冊だった。
本書は、韓国の読者から寄せられた問いに対して、内田さんが自らの考えを語ったものだという。
日本人だけに向けて書かれた本ではないからこそ、日本人の思考や言葉、教育、そして知性について、少し離れた場所から考える内容になっていた。
そもそも、知性とは何なのだろう。
頭が良いことなのか。
知識が多いことなのか。
論争に勝つことなのか。
自分の意見を明確に言えることなのか。読み進めるうちに、知性とは、そのどれとも少し違うものではないかと思い始めた。
オリジナルな自分など、どこにもいない
冒頭で内田さんは、自分だけのオリジナルな思想など存在しないという趣旨のことを書いている。
私は、この言葉に強く共感した。
今の自分の考えの中に、自分一人でゼロから生み出したものが、どれほどあるのだろう。
おそらく、ほとんどない。
読んできた本、出会った人、仕事での経験、家族との会話、旅先で見た風景。
そうしたものが少しずつ積み重なり、今の自分をつくっている。
論語には、
「述べて作らず、信じて古を好む」
という言葉がある。
孔子は、自分が説いていることは自分だけの独創ではなく、先人たちの教えを伝えているのだと考えていた。
孔子でさえ、そうだったのかと思う。
しかし、先人の言葉を受け継ぐことは、ただ同じことを繰り返すという意味ではない。
誰の言葉を受け取り、何を残し、どのように自分の経験と結びつけるのか。
そこに、その人なりの考えが生まれる。
オリジナリティとは、誰も考えたことのないことを言うことではないのかもしれない。
受け取った言葉を、自分の人生を通して語り直すことなのだと思う。
言葉にすることで、自分の考えが見えてくる
本書には、私たちは自分の思いを過不足なく表現できたという経験を、ほとんど持たないという話が出てくる。
確かにそうだ。
言いたいことがあったのに、うまく言葉にならない。
後になってから、
「あのとき、こう言えばよかった」
と思うことがある。
反対に、つい言いすぎてしまい、
「あそこまで言う必要はなかった」
と反省することもある。
人は、言い足りないか、言いすぎるかのどちらかで、自分の思いをちょうどよく伝えることは難しい。
最近、私は音声で残した読書メモを、生成AIと対話しながら文章にまとめている。
AIが文章を出しても、そのまま使うわけではない。
「ここまで強く言い切りたいわけではない」
「少し整いすぎていて、自分の感覚とは違う」
「ここには、もっと迷いや引っかかりを残したい」
そんなふうに修正を重ねていく。
すると、自分でも気づいていなかった考えが見えてくることがある。
AIに答えを出してもらうというより、AIが出した文章を読みながら、自分の中にある違和感を探しているのだと思う。
違和感があるということは、自分の中に別の考えがあるということだ。
その輪郭を、少しずつ言葉にしていく。
生成AIは、自分の代わりに考える道具ではなく、自分が何を考えているのかを確かめるための鏡のような存在になっている。
分からないところに印をつける
内田さんは、本の読み方そのものを、本から教えてもらうと書いている。
これも、よく分かる。
一冊の本を読むことで、それまでとは違う読み方を知る。
すると、次の本を読むときに、以前なら見過ごしていたところが見えるようになる。
読書とは、知識を増やすだけではない。
読む自分を、少しずつつくり変えていくことなのだと思う。
本書には、若い著者であっても、仮に自分のメンターだと思って読んでみるという話が出てくる。
そして、自分が共感できるところよりも、自分には理解できないところ、納得できないところに印をつける。
それは、喉に刺さった魚の小骨のように、長く心に残る。
この比喩は、とてもよく分かる。
本を読んでいて、
「何を言っているのか、よく分からない」
と思うことがある。
以前は、分からない本に出会うと、自分には関係がないと思って本を閉じていた。
しかし今は、分からない部分の方が、その後も長く残ることがある。
何年もたって、別の本を読んだとき。
仕事で新しい経験をしたとき。
誰かの話を聞いたとき。突然、昔は理解できなかった言葉が、自分の中に入ってくる。
本は、読んだときにすべて理解する必要はない。
分からないものを、分からないまま自分の中に置いておける。
それも、読書の大きな価値なのだと思う。
周囲を黙らせる人は、知性的ではない
本書の中で、最も心に残ったのは、知性的な人についての話だった。
頭が良く、知識もあり、弁も立つ。
しかし、その人が話し始めると、周りの人が黙り込んでしまう。
誰も新しいアイデアを言わなくなり、その場の思考が止まってしまう。
そういう人は、知性的な人ではないと内田さんは言う。
これは、会社の会議でもよく起こり得ることだと思う。
社長や上司が、最初から答えを持っているように話し続ければ、周囲は意見を言わなくなる。
何かを提案しても否定される。
反対すれば面倒なことになる。
どうせ結論は決まっている。そう思われた瞬間、会議は対話の場ではなく、誰か一人の話を聞く場になる。
それでは、組織全体の知性は働かない。
本書では、知性は個人が所有するものではなく、集団の中で立ち上がるものとして語られている。
中世ヨーロッパの共同利用地である「コモン」のように、誰か一人が独占するものではない。
皆が言葉を持ち寄り、そこから新しい考えが生まれる。
そう考えると、本当に知性的な人とは、自分の賢さを見せる人ではないのだろう。
他人が話せる余白をつくる人。
まだ言葉になっていない考えを引き出す人。
自分とは違う意見が出ても、すぐに否定しない人。政治討論やテレビの議論を見ていると、自分の意見を途切れなく話し続ける人がいる。
知識は豊富で、話も分かりやすい。
けれども、他の人の言葉が入る隙間がない。
そういう姿を見ると、この人は知識が多いかもしれないが、本当に知性的なのだろうかと思う。
知性とは、たくさん話せることではない。
その場にいる人たちが、話す前よりも少し深く考えられる状態をつくることなのだと思う。
読者にも肺活量がある
本書の中で、特に面白かった表現がある。
「読者の肺活量」である。
分かりやすい内容なら、文章が多少長くても読者はついていける。
しかし、難しい話を長い文章で書くと、読者は息が続かなくなる。
だから短い文を入れ、息継ぎをさせなければならない。
意味の分からない文章を耐えて読み続けられる限度を、内田さんは肺活量にたとえている。
なるほどと思った。
そして、その肺活量は、訓練によって増やすことができるという。
本当に分からない本を、投げ出さずに少しずつ読み続ける。
すると、以前なら数ページで疲れていた本を、少し長く読めるようになる。
意味が分からなくても、すぐに拒絶せずにいられるようになる。
これは、本に限った話ではない。
自分とは違う意見を聞くときにも、肺活量が必要なのだと思う。
すぐに、
「それは違う」
「そんな考えはおかしい」
と言わずに、相手の話を最後まで聞く。
自分の理解を超える考えに、少しの間耐えてみる。
知性とは、分からないものをすぐに排除しない力でもあるのだろう。
知的興奮は、身体を生き返らせる
私は、本を読んでいて、
「あ、そうか」
と思わず立ち上がりたくなる瞬間が好きだ。
何かが一本につながったとき。
仕事のアイデアが浮かんだとき。
今まで考えていたことに、言葉が与えられたとき。急に誰かに話したくなる。
メモを取りたくなる。
実際に何かを始めたくなる。
内田さんは、知的に興奮すると、心臓がどきどきしたり、深いため息が出たり、お腹が空いたり、トイレに行きたくなったりすると書いている。
知的興奮は、頭の中だけで起きるものではない。
身体全体が反応する。
「知的に興奮すると、身体が生き始める」
という表現が、とても印象に残った。
分からないから読むのをやめようとするのは、脳の合理的な判断である。
しかし身体の方は、
「よく分からないけれど、なぜか続きを読みたい」
と感じることがある。
理屈では説明できなくても、勢いで先へ進んでしまう。
この「つい読んでしまう」という感覚が、本を読むうえでは大切なのだと思う。
知性とは、すべてを理解してから動くことではない。
分からないものに心を動かされ、身体ごと近づいていくことなのかもしれない。
母国語の檻から外へ出る
外国語を学ぶことについても、興味深い話があった。
外国語を学ぶ喜びとは、単に別の言葉を使えるようになることではない。
「母国語の檻から外へ出ること」だという。
私たちは、日本語で考えている。
日本語で説明できるものを、現実だと思っている。
しかし、日本語だけで考えていると、日本語の中にある価値観や思考の癖から、なかなか自由になれない。
別の言語に触れることで、世界には異なる物事の捉え方があることを知る。
同じ出来事でも、言葉が変われば見え方も変わる。
母国語の檻から出るということは、自分が慣れ親しんだ考え方の外に出ることでもあるのだろう。
自分の業界の常識。
自分の世代の価値観。
これまで正しいと思ってきた判断基準。その外側に、別の世界があるかもしれないと考える。
それもまた、知性を広げることなのだと思う。
論争に勝っても、人は成長しない
内田さんは、論争をしないという。
論争によって本当に学問的に成長できるのであれば、朝から晩まで他人に喧嘩を売っている人が、最も成長しているはずである。
しかし、実際はそうではない。
論争では、自分の正しさを証明することが目的になりやすい。
相手の言葉から学ぶよりも、相手の弱点を探すようになる。
論争に勝っても、自分の考えが深まるとは限らない。
これは、インターネット上のやり取りを見てもよく分かる。
誰が正しいか。
誰が間違っているか。
どちらが勝ったか。そんなことばかりが注目される。
けれども、勝ち負けを決めることと、物事を深く考えることは、まったく別である。
自分の仮説は間違っているかもしれない。
そう言える人の方が、科学的であり、知性的であるという。
知性とは、間違えないことではない。
自分が間違っている可能性を、いつも少し残しておくことなのだ。
心と直感に従う勇気
本書の終盤では、心と直感に従う勇気について語られていた。
自分の心に従おうとすると、外からも内からも反対の声が聞こえる。
「そんなことをしても無駄だ」
「誰もやっていない」
「失敗したらどうする」
「恥ずかしくないのか」
新しいことを始めるとき、周囲から理解されないこともある。
特に、誰もやっていないことをやろうとすると、賛同者より先に、反対する人が現れる。
だから必要なのは、正解を知ることではなく、自分の心と直感に従う勇気なのだろう。
現代の社会では、子どもたちに「孤立に耐えなさい」と教えることは少なくなった。
それよりも、
仲間をつくりなさい。
集団から外れないようにしなさい。
できるだけ多くの人に合わせなさい。そう教える。
もちろん、仲間は大切である。
しかし、多数派であることと、正しいことは同じではない。
誰も賛成してくれないときに、それでも自分で考え続けられるか。
少数派であることに耐えられるか。
孤立する恐怖に負けず、自分の直感を信じられるか。
それも、知性の一部なのだと思う。
知性とは、他人の知性を動かす力
この本を読み終えて、知性についての見方が変わった。
知性とは、頭の中に多くの知識を蓄えることではない。
難しい言葉を使うことでもない。
議論に勝つことでもない。
自分の正しさを言い切ることでもない。
分からないものを、分からないまま抱えておくこと。
自分の考えが間違っている可能性を認めること。
他人の言葉に耳を傾けること。
そして、自分一人が賢く見えるのではなく、周囲の人たちが考え始める場をつくること。
それが、本当の知性なのではないか。
本を読んで、自分の意見を強くするだけでは足りない。
他人の話を聞けるようになること。
自分の言葉を少し控え、相手が考える余白をつくること。
自分とは違う考えを、すぐに排除しないこと。
知性とは、自分一人の能力ではない。
人と人との間に生まれ、互いの考えを動かしていくものなのだと思う。
そして本は、その知性を静かに育ててくれる。
答えを教えてくれるからではない。
すぐには答えの出ない問いを、自分の中に残してくれるからである。
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9割しんどい読書が、血肉になるまで | 2026.07.28

『血肉となる読書 なぜ読むことだけが人生を変えるのか』を読んで
斎藤幸平さん、小川公代さん、安田登さんの共著『血肉となる読書 なぜ読むことだけが人生を変えるのか』を読んだ。
題名にある「血肉となる読書」という言葉に、私は強く引かれた。
本を読むことと、その本が自分の血や肉になることは違う。
内容を知識として覚えているだけでは、その本を本当に読んだとは言えないのかもしれない。考え方や言葉が自分の中に染み込み、日々の判断や人との向き合い方にまで表れて、初めて本は自分の一部になる。
しかし、そこまで本を自分の中に取り込むことは、決して簡単ではない。
本書には「読書の九割はしんどい」という言葉が出てくる。
私は、この言葉に妙に納得した。
読書はいつも楽しいわけではない。分からない文章に何度も戻り、著者の考えに違和感を覚え、それでもページを進める。すぐには役に立たず、何を得たのかさえ説明できない本もある。
それでも、そのしんどさの中にこそ、読書が血肉になるまでの時間があるのではないかと思った。
読むほどに、自分の未熟さが見えてくる
私はこれまで、多くの本を読んできた。
けれども、読み重ねるほど、自分が少しずつ完成に近づいているとは思えない。むしろ、本を読むたびに、自分の未熟さや偏りが、以前よりもはっきり見えるようになった。
知識が増えれば、人にやさしくなれると思っていた。
物事を深く考えられるようになれば、もっと穏やかに人と向き合えるとも思っていた。
しかし実際には、知っていることが増えた分だけ、自分の考えに自信を持ちすぎることもある。相手の話を最後まで聞く前に、すでに自分の中で結論を出してしまうこともある。
本で得た言葉を、自分を省みるためではなく、知らず知らずのうちに自分を正当化するために使ってしまうことさえある。
そこに、私の読書の危うさがある。
私は本を読むことで変わりたいと思っている。
けれども心のどこかには、自分はすでにかなり分かっていると思いたい気持ちもある。
新しい考えを受け入れたい自分と、これまでの自分を否定されたくない自分。
人の意見に耳を傾けたい自分と、自分の考えの正しさを証明したい自分。
その二つが、読書をするたびに私の中でぶつかっている。
だから読書は、私にとって単に知識を増やす行為ではない。
自分の中にある傲慢さ、臆病さ、頑固さに気づき、それでもなお変わろうとするための行為なのだと思う。
本を読んでも、人間はすぐには変わらない。
分かったつもりになっても、日常の言葉や態度には、これまで生きてきた自分がそのまま表れる。
そのたびに私は、本当に読んだのかと自分に問い直す。
文字を目で追っただけではなかったか。
理解した気になっただけではなかったか。
その言葉を、自分に都合のよいところだけ受け取ってはいなかったか。
読書とは、自分を立派に見せるためのものではない。
むしろ、自分の中にある見たくない部分を、何度も見せられることなのかもしれない。
読書は、答えを探すことではない
本書の中で特に心に残ったのは、読書は問題を解決するための答え探しではない、という考え方だった。
問いを自分の中に抱えながら、すぐに結論を出そうとせず、本の世界に身を委ねて読む。
その時間の中で、本の言葉と自分の経験が結びつき、少しずつ化学変化が起こる。その繰り返しによって、読書は知識ではなく、自分の血肉になっていくのだという。
私はこれまで、本の中に答えを求めることが多かった。
経営の悩み、人との関わり方、これからの社会、老い、時間、生きる意味。
何かに迷うたびに、本を開けば進むべき方向が見えるのではないかと思ってきた。
確かに、一冊の本の中の一つの言葉によって、目の前が急に明るくなることはある。
しかし、多くの本は簡単な答えを渡してはくれない。
むしろ、それまで気づかなかった問いを増やしてくる。自分が正しいと思っていたことを揺さぶり、見たくなかった自分の姿まで見せてくる。
読書とは、答えを得ること以上に、自分の中の常識を揺らすことなのかもしれない。
分からないまま、考え続ける力
本書では、簡単に答えが出ない状態に耐える力として「ネガティブ・ケイパビリティ」についても語られていた。
私たちは、分からないことがあると、すぐに答えを探したくなる。
白か黒か。
正しいか間違いか。
賛成か反対か。はっきり分けた方が安心できるからだ。
しかし、世の中の多くの問題は、二つに分けることができない。人間の感情も、社会の問題も、経営の判断も、簡単な正解があるわけではない。
分からないまま考え続けること。
違和感をすぐに消そうとしないこと。
答えの出ない問いを、自分の中に置き続けること。
それは苦しいことだが、その苦しさの中でしか見えてこないものもある。
本を読んでいて、自分の考えと合わない言葉に出会うこともある。
以前の私なら、「この著者の考え方は違う」と、早い段階で判断してしまったかもしれない。
しかし本書を読み、自分と違う考えに出会った時こそ、
「もしかすると、間違っているのは自分の方かもしれない」
と立ち止まることが大切なのだと思った。
すぐに賛成する必要はない。
無理に納得する必要もない。ただ、その違和感を抱えながら考えてみる。
時間がたってから、突然その言葉が腑に落ちることもある。それまで見えなかった景色が、別の経験をしたことで見えてくることもある。
分からないものをすぐに切り捨てず、自分の中に置いておく。
その時間もまた、読書の一部なのだと思う。
漢方薬のように効く本、抗生物質のように効く本
本書では、人生に変化を与える読書には「漢方薬型」と「抗生物質型」の二種類があると語られていた。
この表現が、とても面白かった。
漢方薬型の読書は、読んですぐに劇的な変化が起こるわけではない。
それでも、いつの間にか物の見方や考え方が少しずつ変わっている。
古典や哲学書は、こちらの読書が多いのだと思う。
読んだ当時はよく分からなかった言葉が、何年もたってから突然よみがえる。
仕事で迷った時、人との関係に悩んだ時、人生の節目を迎えた時に、
「あの本に書いてあったのは、このことだったのか」
と気づく。
本を閉じた時には、何も起こっていないように見える。
けれども、種はすでに自分の中にまかれているのだ。
一方、抗生物質型の読書は、苦しい時や迷っている時に、一つの言葉が強く効いてくる読書である。
悩みが深くなり、どちらへ進めばよいのか分からなくなった時、一冊の本が出口の方向を照らしてくれることがある。
ただし、抗生物質型といっても、本がその場ですべてを解決してくれるわけではない。
本からもらった言葉を、自分の現実に照らし合わせ、自分なりに考え、行動に移して初めて、その言葉は効き始める。
私にとって、ミヒャエル・エンデの『モモ』は、まさにそのような本だった。
時間とは何か。
豊かに生きるとは何か。
忙しく動き続けることが、本当に人間らしく生きることなのか。『モモ』を読むことで、時間に対する私の見方は大きく揺さぶられた。
「星の時間」に気づけるか
本書に出てくる「星の時間」という言葉にも、私は引きつけられた。
あらゆる物や生き物が互いに働きかけ、後にも先にもない出来事が生まれる特別な時間。
多くの人は、その瞬間が特別な時間だとは気づかない。
けれども、
「今は星の時間なのかもしれない」
と気づく人がいれば、物事も世界も変わっていく。
人生を振り返ると、あとになって初めて、あの出会い、あの失敗、あの一冊が「星の時間」だったと分かることがある。
その時には、何でもない出来事に見えていたかもしれない。
しかし、その出会いを境に、自分の考え方や進む方向が少しずつ変わっていたことに、後から気づく。
読書も同じなのだと思う。
読んでいる最中には、その本が自分の人生を変える一冊になるかどうかは分からない。
けれども何年もたったあと、ふとした場面で、その本の言葉が自分の中から現れることがある。
その言葉を自分の考えとして語り、自分の判断として使っていることに気づく。
その時、本は初めて自分の血肉になる。
本が変わったのではなく、自分が変わった
だからこそ、古典は一度読んで終わりではない。
時間を置いて読み返すと、以前とはまったく違う言葉が目に入ってくる。
本が変わったのではない。
自分が変わったから、見えるものが変わったのである。
若い頃には理解できなかった言葉が、年齢を重ね、仕事や人間関係でさまざまな経験をした後では、切実な言葉として胸に入ってくることがある。
同じ文章なのに、以前とはまったく違う意味を持って迫ってくる。
本を再読することは、過去の自分と現在の自分の違いを知ることでもあるのだと思う。
読書の九割は、しんどくていい
確かに、すべての本が楽しく読めるわけではない。
途中で眠くなる本もあれば、何度読んでも意味が分からない本もある。最初から最後まで理解できず、読み終えても何が書いてあったのか説明できない本さえある。
ページを開くことすら重く感じ、何日も同じ場所から進めないこともある。
それでも、分からないから無駄だったとは限らない。
分からないまま読んだ一冊が、何年後かに別の本や経験とつながることがある。
その時、過去にまかれた種が、ようやく芽を出す。
だから私は、分からない本を読んだ時間も、決して無駄ではなかったと思いたい。
読書とは、その場ですべてを回収するものではない。
理解できなかった言葉、心に引っかかった文章、説明できない違和感を、自分の中に残しておくことでもある。
読書の九割がしんどいとしても、そのしんどさは、理解できない苦しさだけではない。
自分の考えを揺さぶられるしんどさ。
これまで信じてきたものを疑うしんどさ。
自分の未熟さを見せられるしんどさ。
それでも読み続けた先で、ほんの一割の言葉が、自分の人生を静かに変えることがある。
その一割に出会うために、九割のしんどさがあるのかもしれない。
問いを育てるために、私はこれからも読む
私はこれからも本を読む。
すぐに役立つ答えを得るためだけではない。
自分の中に問いをまき、まだ言葉にならない考えを育てるために読む。
読んだ内容をこうして書き、自分の経験と重ね、時には反論し、時には納得しながら、自分なりの言葉にしていく。
書くことで初めて、自分が何に引っかかり、何を恐れ、何を信じたいと思っているのかが見えてくる。
私は本を読んだ後、こうして感想を書くようになった。
それは、本の内容をきれいにまとめるためだけではない。
本を通して揺れた自分の心を、自分の言葉で確かめるためである。
分かったことだけでなく、分からなかったことも書く。
共感したことだけでなく、違和感を覚えたことも残す。
そうして初めて、一冊の本と自分の人生がつながっていく。
読書による変化は、すぐには目に見えない。
その場では何も変わっていないように感じることもある。
しかし、本は読んだ後から、ゆっくりと効いてくる。
何年もかけて考え方を変え、物の見方を変え、人との向き合い方を変えていく。
読書とは、人生の答えを手に入れることではない。
人生をかけて考え続ける問いを、自分の中に育てていくことなのだ。
その問いが、いつの日か私自身の言葉や態度、そして行動になった時、一冊の本は本当に私の血となり、肉となる。
読書の九割は、確かにしんどい。
それでも私は、そのしんどさの中に身を置きながら、これからも本を読み続けるのだと思う。
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自尊心は、人生の土台だった | 2026.07.27

『うまくいっている人の考え方 完全版』を読んで
ジェリー・ミンチントン氏の『うまくいっている人の考え方 完全版』を読み終えて、私は「人生を変えるのは能力や才能ではなく、自分をどう見ているか」という、とてもシンプルでありながら奥深い真理を改めて感じました。
本書では何度も「自尊心」という言葉が登場します。
自尊心とは、自分を過大評価することでも、自信満々になることでもありません。
「自分には価値がある」と静かに認められる心の状態です。
私はこれまで数多くの自己啓発書を読んできましたが、この本は単なる前向き思考を勧める本ではありませんでした。
その根底には、人間の心理や哲学が流れていました。
特に印象に残ったのは、人を馬鹿にする人への考え方です。
相手を傷つけることで優越感を得ようとする人は、自分自身の心に問題を抱えている。
だから言い返す必要はない。
微笑んで、その場を離れればいい。
この考え方はとても新鮮でした。
私自身も経営をしていると、さまざまな意見や批判を受けます。
以前なら反論したくなることもありました。
しかし今は、「建設的な批判はありがたく受け入れ、人身攻撃には反応しない」という姿勢のほうが、自分の心を守り、成長にもつながるのだと思えるようになりました。
また、「異文化を知ることで自分を知る」という言葉にも深く共感しました。
私は写真撮影が趣味で全国を旅しています。
同じ日本でも地域ごとに風景も文化も人も違います。
その土地を歩き、その空気に触れるたびに、自分自身の価値観が少しずつ広がっていくことを感じています。
旅は景色を見るだけではなく、自分を見つめ直す時間でもあるのです。
そして、もう一つ心に残ったのが「心の中の静かな場所を見つける」という考え方でした。
目を閉じて静かに座る。
禅にも通じるこの時間は、答えを外に探すのではなく、自分の内側に探す時間なのだと思いました。
AIが瞬時に答えを出してくれる時代になりました。
便利になればなるほど、人は外から情報を集めることに夢中になります。
しかし、自分は本当はどう考えているのか。
本当に望んでいることは何なのか。
その答えは、AIでもインターネットでもなく、自分の心の静かな場所にしかありません。
さらに本書は、「人生は不公平だ」と嘆く時間があるなら、「今できること」に集中したほうが人生は良くなると教えてくれます。
私はこの言葉に大きくうなずきました。
会社経営でも写真でも読書でも、思い通りにならないことは数え切れません。
しかし、その不公平さを嘆いても現実は変わりません。
それよりも、一つひとつの選択を大切にし、自分ができることを積み重ねるほうが、未来は確実に変わっていきます。
読み終えて感じたのは、この本は「成功する方法」を教える本ではなく、「幸せに生きる土台」を教えてくれる本だということです。
考え方が変われば、行動が変わる。
行動が変われば、人間関係が変わる。
そして人生そのものが少しずつ変わっていく。
そのすべての出発点が、自尊心なのだと私は理解しました。
これからも私は、自分を必要以上に責めず、人とも比べず、今ある幸せに目を向けながら、一歩ずつ前へ進んでいきたいと思います。
AI時代だからこそ、最後に人生を決めるのは「考え方」であり、「自分をどう信じるか」なのだと、この一冊が静かに教えてくれました。
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幸せは、「いる」から始まる | 2026.07.24

感情を消すのではなく、感情を知る|『感情は、すぐに脳をジャックする』を読んで
佐渡島庸平さん、石川善樹さんの『感情は、すぐに脳をジャックする』を読んだ。
私はこれまで、感情に振り回されないためには、できるだけ冷静になり、感情を抑えることが大切なのだと思っていた。
特に仕事では、怒りや不安を表に出さず、理性的に判断することが求められる。
しかし、この本を読んで気づいた。
感情は、消そうとして消えるものではない。
どれほど理性的な人でも、感情は一瞬で脳を支配する。
大切なのは、感情をなくすことではなく、自分の中に今どのような感情が起きているのかを知ることなのだ。
人間は、自分では理性的に判断しているつもりでも、実際には先に感情が動き、その後から理屈をつけていることが多いという。
怒っている時には、相手が悪いと思う。
不安な時には、何を見ても悪い方向に考えてしまう。
感情が変われば、同じ出来事でも見え方が変わる。
つまり、感情によって認知が歪められれば、入ってくる情報も、その後に出ていく言葉や行動も歪んでしまう。
これは仕事でも、人間関係でも、文章を書く時でも同じだと思う。
怒りの奥には、別の感情がある
本書を読みながら、特に考えさせられたのは「怒り」についてだった。
怒りは、単独で突然生まれるものではない。
その前には、期待、不安、恐れ、驚き、寂しさなど、別の感情が隠れている。
例えば、相手に対して腹が立った時、本当は、
「こうしてほしかった」
「一緒に良い結果を出したかった」
「分かってもらえると思っていた」
という期待があったのかもしれない。
その期待が満たされなかった結果として、怒りが表に出てくる。
そう考えると、怒りをそのまま相手にぶつけるのではなく、自分が何を期待していたのかを伝えた方が、ずっと建設的である。
「どうしてできないのか」と責めるよりも、
「私はこういう結果を一緒に出したかった」
と伝える。
怒りの奥にある感情を言葉にできれば、相手との関係も、自分自身の行動も変わってくるのだと思う。
感情にも、解像度がある
この本では、感情を理解するには、感情に関する言葉や概念を豊かに持つことが大切だと書かれている。
最近は、うれしい時も、驚いた時も、困った時も、すべてを「やばい」という一言で表すことがある。
しかし、それでは自分の中で何が起きているのかを細かく捉えることができない。
不安なのか。
悲しいのか。
悔しいのか。
寂しいのか。
期待しているのか。
それとも、ただ驚いているのか。
感情を細かく言葉にできるほど、自分の内面を客観的に見ることができる。
本書で紹介されている「感情の輪」も興味深かった。
喜び、信頼、恐れ、驚き、悲しみ、嫌悪、怒り、期待。
それらの基本的な感情が混ざり合うことで、愛、後悔、警戒、楽観など、さらに複雑な感情が生まれる。
私たちは一つの感情だけで生きているのではない。
うれしいけれど不安。
腹が立つけれど寂しい。
期待しているからこそ怖い。
そうした複雑な感情を、無理に一つに決めつけなくてもよいのだ。
「諦める」とは、明らかにすること
本書には仏教的な考え方も多く登場する。
その中で印象に残ったのが、「諦める」という言葉である。
現在では、諦めるというと、途中で投げ出すことや、希望を捨てることのように捉えられる。
しかし仏教では、「諦める」とは「明らかにする」という意味だという。
現実をよく見て、今起きていることを、そのまま受け入れる。
ネガティブな感情は、無理に避けるのではなく、
「自分は今、悲しい」
「自分は今、不安だ」
と認める。
一方で、喜びや成功などのポジティブな感情にも執着しすぎない。
良い感情も悪い感情も、ずっと続くものではない。
感情は移り変わっていく。
それを理解することが、諸行無常を受け入れることにもつながるのだと思う。
感情を否定せず、しかし感情に居座らせない。
認知し、受け入れ、その上で次の行動を選ぶ。
この「認知、容認、選択」という流れは、日常の中でも実践できる考え方だと思った。
驚きから、新しいものが生まれる
感情の中でも、「驚き」についての話が特に面白かった。
どのような感情にも、その直前には驚きがあるという。
予想と違った。
思っていたより良かった。
まさか、そんなことが起こるとは思わなかった。
人は、自分の当たり前が外れた瞬間に驚く。
そして、新しいものを生み出そうとする時には、驚きが必ず伴うという。
本書では、「では」で話す人よりも、「とは」で話す人の方が驚きを生みやすいと書かれている。
「次は何をするのではなく、そもそも仕事とは何だろう」
「良い会社とは何だろう」
「幸せとは何だろう」
「人間にしかできないこととは何だろう」
「とは」という問いは、分かっているつもりになっていた物事を、もう一度考え直させる。
これは私が日頃から考えている、ものづくりからことづくりへ、ということにもつながる。
製品をただ作るのではなく、その製品によって、お客様の感情がどう動くのか。
便利になった。
安心した。
家族との時間が増えた。
思い描いていた空間が現実になった。
人は物そのものだけでなく、その物によって生まれる感情に価値を感じている。
これからの仕事には、機能や価格だけでなく、人の心にどのような波を起こすのかという視点が、ますます大切になるのだろう。
感謝は、伝えるものではなく、伝わるもの
「感謝は伝えるものではなく、伝わるもの」という言葉も心に残った。
私たちは「感謝を伝えなければ」と考える。
もちろん、ありがとうと言葉にすることは大切である。
しかし、感謝を伝えたことで、相手にも感謝を返してほしいと思った瞬間、それは見返りを求める行為になる。
感謝されたいと思わず、自分の中に感謝がある。
その人の態度や行動から、自然に相手へ伝わっていく。
それが本当の感謝なのかもしれない。
日常の当たり前を、当たり前のまま通り過ぎないことも大切だ。
家族が一緒にいること。
社員が働いてくれていること。
お客様が声をかけてくださること。
本を読めること。
写真を撮りに出かけられること。
その一つ一つは、本当は決して当たり前ではない。
幸せは、「いる」から始まる
本書の終盤に出てくる、「いる・する・なる」という考え方は、最も印象に残った部分の一つだった。
私たちはいつも、何をするかを考えている。
何を成し遂げるか。
何者になるか。
どう成長するか。
どう成功するか。
しかし、犬や猫は、何者かになろうとはしていない。
何かを成し遂げようともしていない。
ただ、そこにいる。
生きるために、そこに居続けている。
人間も、最初から「する」や「なる」を求めすぎなくてもよいのではないか。
まず一緒にいる。
夫婦でいる。
家族でいる。
仲間でいる。
その時間を重ねる中から、自然に何かをするようになり、何者かになっていく。
幸せとは、何かを手に入れた先にあるものではなく、今ここにいることを感じられる状態なのかもしれない。
私は会社経営でも、写真でも、読書でも、どうしても次に何をするかを考える。
新しいことを始めたい。
もっと良くしたい。
未来を作りたい。
それ自体は悪いことではない。
ただ、ときには「する」を手放して、今ここにいる自分を確かめる時間も必要なのだろう。
感情は、邪魔者ではなかった
この本を読んで、感情に対する見方が少し変わった。
怒り、不安、悲しみ、嫉妬、寂しさ。
私たちは、ネガティブな感情を悪いものとして排除しようとする。
しかし感情は、自分の内面から届く知らせなのだ。
怒りの奥に期待があり、不安の奥に大切にしたいものがある。
悲しみの奥には、失いたくなかったものがある。
感情を知ることは、自分が何を大切にしているのかを知ることでもある。
感情に脳をジャックされないためには、感情を押さえ込むのではなく、
「私は今、何を感じているのだろう」
と、一度立ち止まること。
感情を明らかにし、受け入れ、その上で自分の行動を選ぶ。
これは一度覚えればできる技術ではなく、日々、自分の内面を見る練習なのだと思う。
感情を知れば、他人にも少しやさしくなれる。
自分にも、少しやさしくなれる。
そして、何かをすることや、何者かになることを急がず、まず今ここにいることを大切にできる。
感情は、人生を邪魔するものではなかった。
感情を知ることこそ、自分の人生を、自分の手に取り戻すことなのだと思った。
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「生きがい」を求めない若者は、本当に冷めているのか | 2026.07.22

『仕事に「生きがい」はいりません』を読んで
金間大輔・酒井崇匡著
『仕事に「生きがい」はいりません 30年の調査データが明かすZ世代のリアル』を読んだ。この本を読みながら、今の若者は仕事に対して冷めているのではなく、傷つかず、無理をせず、自分の心を守りながら生きようとしているのではないかと思った。
「認められたい。しかし目立ちたくない」
「個性を生かしたい。しかし注目されたくない」
「給料は高い方がいい。しかし頑張りすぎたくない」一見すると矛盾しているように見える。
しかし、SNSによって常に誰かと比較され、発言すれば評価され、ときには批判される環境で育ってきたことを考えれば、この感覚も理解できる。
私たちの世代は、仕事には責任があり、努力すれば報われ、苦労の先に成長があると教えられてきた。
仕事に生きがいを持つことは良いことであり、熱意を持って働く人ほど評価される時代でもあった。
ところが、今の若者が求める「安定」は、単に給料が保証されていることではない。
感情の起伏が少なく、無理を強いられず、自分のペースで少しずつ成長できる環境である。
本書では、良い給料と気楽さが両立するなら、仕事にやりがいや面白さはなくてもよいと考える若者が増えていることが紹介されている。
責任の重い仕事を任されたい人も、以前より減っているという。
これを意欲がないと切り捨てるのは簡単だ。
しかし、考えてみれば、私たち上の世代が「仕事は人生そのものだ」と言い続け、長時間労働や過度な責任を当たり前にしてきた結果でもあるのではないだろうか。
若者は、私たちがつくってきた働き方を見て、「そこまではしたくない」と判断しているのかもしれない。
一方で、すべての若者が仕事から距離を置いているわけでもない。
大変でも、好きなことや意味を感じられる仕事に没頭する人もいる。
ただし、それは会社への忠誠心や出世のためではなく、仕事そのものを一種の趣味のように楽しんでいる。
同じハードワークでも、上から与えられた苦労と、自分で選んだ没頭では意味が違うのである。
本書で特に考えさせられたのは、Z世代の問題が、若者だけの問題ではないという点だった。
社員旅行を嫌がる割合は、若者より上の世代の方が高い。
感情を表に出さなくなった傾向も、若者だけでなく全世代に広がっている。
若者は時代の空気を最も敏感に映す鏡なのだと思う。
私がさらに気になったのは、日本人の「他人を信用しない」という傾向である。
日本人は協調性が高く、思いやりのある国民だといわれる。
しかし実際には、心から信頼して協力しているのではなく、協力しなければ仲間外れにされる、後で何を言われるか分からないという不安から同調している場合もある。
コロナ禍で起きた他県ナンバーへの嫌がらせや、過剰なマスク警察も、同調圧力の一つの表れだったのではないか。
表面では皆と同じ行動をしながら、心の中では他人を信用していない。
自分で何とかする「自助」が大前提となり、身近な人同士で支え合う「共助」が弱くなり、最後には行政などの「公助」に頼る。
この構図は、若者だけでなく、日本社会全体の課題だと思う。
そして今、「気軽に感情を共有できる相手」として、対話型AIの存在が大きくなっている。
AIは否定せず、話を遮らず、こちらの都合のよい時間に応答してくれる。
人間関係で傷つくことを恐れる若者にとって、AIが安心して話せる相手になるのは、不思議なことではない。
私自身もAIと対話しながら考えを整理することが増えている。
ただ、AIとなら話せるのに、隣にいる人間とは本音を話せない社会になってしまったとしたら、それは少し寂しい。
この本を読んで、「今どきの若者は」と簡単に決めつけてはいけないと改めて思った。
若者の価値観は、突然生まれたものではない。
私たち上の世代がつくってきた会社、家庭、教育、社会を見ながら形成されてきたものである。
仕事に生きがいを求めないことは、人生に生きがいがないということではない。
仕事以外の家族、趣味、友人、自分の時間に生きがいを置くことも、一つの生き方である。
会社が若者に生きがいを与えようとするよりも、安心して働ける場所をつくり、本人が大切にしたいものを尊重する。
そのうえで、仕事の中に思いがけない面白さや、人に必要とされる喜びを発見してもらう。
生きがいは、会社が押しつけるものではない。
働いていく中で、本人が後から見つけるものなのかもしれない。
若者が変わったのではなく、社会が変わり、その変化を若者が最も早く受け取っている。
この本はZ世代を知るための本であると同時に、私たち日本人全体の働き方、人とのつながり方、そして信頼のあり方を考え直す一冊だった。
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