お問合せはお気軽にどうぞ!

0258-24-7567

[ 営業時間:8:00~17:00 ]

LINEからもお問い合わせを受付中

line

[ お急ぎの場合はお電話でどうぞ ]

ZOOM
youtube
LINE
メニュー

ブログ

  • 人は、うまく話すことより、どう生きるかがにじみ出る | 2026.04.02

    喜多川泰著『おあとがよろしいようで』を読んで

    久しぶりに喜多川泰さんの本を読みました。最近は小説を読む機会が少し減っていましたが、この本は前から気になっていて、ようやく手に取ることができました。

    読み始めてすぐに感じたのは、やはり喜多川さん独特の、読む人の心をあたためる力です。派手な言葉ではないのに、読み進めるうちにじんわりと心がほぐれていく。そんな感覚がありました。

    今回の物語は、大学生の暖平が落語研究会に入るところから始まります。私は落語にそれほど詳しいわけではありません。けれど、落語が持っている独特のおかしみや、人の心を引き込む力は、なんとなくわかるつもりでいました。だからこそ、この小説の世界にも自然に入っていけたのだと思います。

    同じ演目でも、人が違えばまったく別のものになる

    この本を読んでいて面白かったのは、同じ演目でも、演じる人によってまったく違うものになるということでした。技術だけではない。その人の経験、その人の思い、その人の人間らしさがにじみ出て、ひとつの作品が変わっていく。

    これは落語の世界だけの話ではないのだと思います。私たちの話し方もそうですし、仕事もそうです。同じ商品を扱っていても、同じような説明をしていても、最後に伝わるものは「その人がどう生きてきたか」なのではないか。そんなことを思いました。

    作中に出てくる先輩の碧さんの落語への向き合い方も、とても人間味があって印象的でした。きれいごとではないし、どこか不器用でもある。けれど、だからこそリアルで、そこに惹かれました。人が何かに本気で向き合う姿は、それだけで物語になるのだと感じます。

    緊張してうまくいかなかった自分まで思い出した

    この小説を読みながら、自分自身のこともいろいろ思い出しました。言葉がすらすら出るときもあれば、緊張してしまって、あとから「なんであんな話し方をしてしまったんだろう」と思うこともある。人生の中で、そういう場面は何度かありました。

    うまくやれたことより、むしろ、思うようにいかなかった場面のほうが、後になって自分の中に残っている気がします。でも、この本を読んでいると、そういう不格好な時間も無駄ではなかったと思えてくるのです。

    芸というのは、完成されたものを見せるだけではなく、その人の揺れや迷いや未熟さまでも含めて、人に伝わるものなのかもしれません。だからこそ、心を動かされる。落語という伝統芸能を扱いながら、この小説はとても今の時代にもつながっていると感じました。

    表現の時代だからこそ、最後は人間力なのだと思う

    今は、素人でも何かを発信できる時代です。文章も、写真も、動画も、音声も、少し前なら一部の人に限られていた表現が、誰でも手の届くものになりました。これは本当に面白い時代だと思います。

    けれど、だからこそ最後に問われるのは、人間力なのだとも感じます。どんな道具を使うかより、その人が何を感じ、どう考え、どう生きているか。それが表現の奥行きになっていくのだと思います。

    喜多川さんの小説を読むと、いつもそこに帰っていける気がします。人の弱さも、未熟さも、迷いも否定しない。そのうえで、人が前に進もうとする姿をやさしく照らしてくれる。だから私はこの人の本が好きなのだと、あらためて思いました。

    『おあとがよろしいようで』という題名も、とてもいい。落語の締めの言葉でありながら、どこか人生そのものにも重なって見えます。

    人生の終盤になって、「おあとがよろしいようで」と静かに言えるような生き方ができたらいい。大きな成功や立派な肩書きではなくても、そのときまで自分なりに精一杯、表現し、迷い、誰かと関わりながら生きていけたら、それで十分なのかもしれません。

    この本は、落語の小説でありながら、表現すること、生きること、人と向き合うことの面白さをあらためて感じさせてくれる一冊でした。本と対話する楽しさを、もう一度思い出させてくれた一冊でもあります。

    #読書感想文
    #喜多川泰
    #おあとがよろしいようで
    #note投稿
    #本と対話する時間

  • 集中しないことが、人間らしさを守るのかもしれない | 2026.04.01

     

    森博嗣著『集中力はいらない』を読んで

    この本を読んで、私は少し気が楽になりました。
    世の中では、集中することは良いことだと当たり前のように語られます。仕事でも勉強でも、ひとつのことに没頭できる人が優秀だと見られがちです。けれど森博嗣さんは、そこにあえて疑問を投げかけます。

    その視点が、今の私にはとても新鮮で、同時によくわかる気がしました。

    著者は、機械に任せられる仕事なら機械に任せればいい、人間はもっと自由にならなければいけない、と言います。私はこの言葉に強く頷きました。
    AIが広がることで仕事がなくなると不安に思う人は多いですが、私はむしろ、機械に任せられるものを人間が手放せるなら、それは悪いことではないと思っています。人間まで機械のように、速く、正確に、同じことを繰り返す必要はないはずです。

    本来、人間の役割は、決められたことをただこなすことではなく、まだ形になっていないものを感じたり、考えたり、寄り道したりすることにあるのではないか。そんなことを、この本は改めて考えさせてくれました。

    経営も創作も、少し力を抜いた時に見えてくる

    特に印象に残ったのは、本当に新しいものを生み出す人は、一つのことだけに集中しているわけではないという視点です。
    成功した人は、一心不乱にひとつのことをやり抜いたように語られることが多いですが、実際にはそうではないのかもしれません。あらゆるものを見て、関係なさそうなものまで受け取りながら、誰も思いつかなかった発想にたどり着いている。私はそんな気がしました。

    経営も、まさにそうだと思います。
    ひとつの課題だけ見ていれば済む仕事ではありません。市場の流れ、人の気持ち、時代の空気、技術の変化、自分の直感。ばらばらに見えるものを、どこかでつないでいく仕事です。だから、一点だけを見つめる「集中」では拾えないものがある。むしろ、少し頭をゆるめている時のほうが、大事な信号に気づけることがあります。

    著者が、創作をする人ほど旅行を好むと書いていることにも共感しました。
    場所を変える。空気を変える。頭をリラックスさせる。そうすると、考えようとしていたこととは別の場所から、ふっと何かが浮かんでくる。私自身も、旅に出たり、景色の中に身を置いたり、日常から少し離れたりすることの大切さを感じています。集中していない時間は、決して無駄ではなく、むしろ発想を育てる時間なのだと思います。

    比較や反応に流されず、死ぬまで考え続けたい

    もうひとつ、この本で深く心に残ったのは、自信を持ちすぎないこと、自分を賢いと思いこまないことの大切さです。
    自分を低く見るというと、少し後ろ向きに聞こえるかもしれません。けれど著者の言うそれは、卑下ではなく、問題に向き合うための謙虚さなのだと思います。

    年齢を重ねると、経験が増えるぶん、自分なりの答えや型ができてきます。けれどその反面、知らないうちに傲慢さも生まれてしまうのかもしれません。
    「自分はもうわかっている」
    「こういうものだ」
    そう思い始めた瞬間に、人は考えることをやめてしまう。そんな怖さを私は感じました。

    さらに今は、比較と反応の時代でもあります。
    SNSでは、考えているつもりで、実は反応しているだけの時間が増えやすい。著者の言葉は少し辛辣ですが、たしかにそうだと思いました。反応ばかりしていると、自分の中でじっくり考える時間が減っていきます。

    だからこそ私は、この本を読みながら、いかに楽しんで仕事をするか、いかに考える余白を残すかが大事なのだと感じました。
    集中して効率を上げることだけが正しいのではない。楽しい時間を削ってまで、無理に集中する必要はない。人は自然の一部で、常に変化している存在です。今の自分と来月の自分は、きっともう少し違っている。その変化を受け入れながら、固まらずに考え続けることのほうが、ずっと大事なのだと思います。

    本の最後に近いところで語られる、**「凝り固まるのは死んでからでも遅くない」**という考え方も、とても印象に残りました。
    本当にその通りだと思います。人は生きている限り、まだ変われる。まだ考えられる。まだ別の見方ができる。だったら、自分を決めつけず、最後まで考え続けたほうがいい。

    AIの時代になって、ますます人間の役割が問われています。
    正確さや速さでは、これからもっと機械が強くなるでしょう。けれど、寄り道をすること、ぼんやりすること、比較を手放すこと、そして自分の傲慢さを少しずつ溶かしていくこと。そういうものこそ、人間に残された大切な力なのではないか。

    この本は、集中力を否定する本というより、人間らしい思考を取り戻すための本なのだと、私は感じました。

    追伸

    実は『結局集中力が9割』という本も読んでいます。感想文にはしていませんが、脳の構造から集中力を解き明かしていく内容で、それはそれで興味深く読みました。
    ただ、私はどこかで「集中力は良いことだ」と最初から決められているような感じに、少し引っかかっていたのだと思います。だから今回、『集中力はいらない』を読んで、ああ、自分がずっと感じていた違和感はこれだったのか、と腑に落ちるものがありました。

  • 怒りと欲を抱えたまま、それでも生きる意味を考える | 2026.03.30

    きれいごとでは生きていないという前提

    この本を読んであらためて感じたのは、人間はきれいごとだけでは生きられないのではなく、そもそもきれいごとでは生きていない存在だということでした。

    人はつい、自分はそれなりに善く生きていると思いたくなります。誰かに親切にしたこと、真面目に働いてきたこと、人に迷惑をかけないようにしてきたこと。そうしたことを積み重ねながら、自分なりに誠実に生きてきたつもりでいます。けれどこの本は、そんな自分の見方をかなり厳しく問い直してきます。

    人間の中には、欲や怒りや愚痴の心が常にうごめいている。どんなによい人に見える人でも、その心から完全に自由ではない。仏教でいう三毒の話ですが、これはただ古い教えとして読むのではなく、自分の日々に引き寄せてみると、とても重いものがあります。

    特に心に残ったのは、言葉のことでした。言葉は人を励ますこともできますが、その一方で、人を深く傷つける刃にもなる。しかも厄介なのは、言った本人が気づいていないことも多いということです。私自身も、これまでどれだけ多くの人を言葉で傷つけてきたのだろうかと思わされました。悪気がなくても、正しさのつもりでも、相手の心には痛みとして残ることがある。その現実は軽くありません。

    生きることそのものの重さを思う

    また、人は生きるために、他の命を奪わずにはいられないという話も胸に残りました。肉や魚だけではない、植物もまた命です。さらに今の時代でいえば、森林伐採や環境破壊、便利さの裏で失われていく生き物たちのことまで含めれば、人間は「罪悪を作らずして生きていけない」という言葉の重みが、ただの観念ではなく現実として迫ってきます。

    自分の手で直接何かをしていなくても、社会の仕組みの中で、その一端に加わりながら生きている。そのことを見ないふりはできないと思いました。人間は悪人だから駄目だ、と突き放すための話ではなく、人間がそもそもそういう存在であることを知ったうえで、ではどう生きるのかを考えさせる本なのだと感じます。

    自分を善人と思い込んだままでは見えないものがある。自分の内側にある醜さ、弱さ、愚かさを認めて初めて、人生の意味を問う入り口に立てる。そんな厳しさを持った本でした。

    それでも生きる意味を考えたい

    本書の後半は、阿弥陀仏の本願、そして人間に生まれた唯一の目的へと話が進んでいきます。このあたりは宗教的な話になりますが、私には単なる宗教の勧めというより、東洋哲学として読むことができました。

    人は老い、病み、そして死ぬ。その避けられない現実の中で、何を拠りどころにして生きるのか。何のために生まれてきたのか。その問いは、時代が変わっても消えることのない、人間の根本の問いなのだと思います。

    振り返れば、人生には山も谷もあります。仕事でも家庭でも、うまくいくことばかりではありません。多くの人に囲まれていても、ふとした瞬間にどうしようもない孤独を感じることもある。その姿を、本書では「無人の荒野を一人で行く旅人」と表現していましたが、このたとえはとても印象に残りました。人は結局、自分の人生を自分で引き受けて生きるしかない。その孤独から目をそらさずに見つめることもまた、人生の目的を考える一歩なのだと思います。

    私は、こういう本をたまに読みたくなります。世の中への怒りや不安、自分の心のざわつきが大きくなったとき、いったん立ち止まって、自分を見つめ直したくなるからです。宗教書として読むというより、自分を顧みるための本として読む。そうすると、この本が語っていることは決して遠い話ではなく、日々の自分にそのまま返ってくる問いになります。

    人は怒りと欲を抱えたまま生きていく。きれいごとでは生きていない。その現実をまず認めること。そして、そのうえでなお、生きる意味を考えること。
    この本は、その出発点を静かに、しかし厳しく示してくれる一冊でした。

  • 弱さは、静かに残る | 2026.03.27

    稲垣栄洋 著『雑草はなぜそこに生えているのか』を読んで

    この本を読んで、私は雑草を見る目が少し変わりました。
    これまで雑草というと、どこにでも生えて、踏まれてもたくましく立ち上がるもの、そんなイメージを持っていました。けれどこの本は、その見方を静かに、しかし見事に覆してくれました。

    まず印象に残ったのは、植物にとっても「親離れ」が大切だという話です。
    人間だけでなく、植物もまた、自分で生きていく力を持たなければならない。そんな当たり前のようでいて深い話に、私は強く惹かれました。植物の世界もまた、私たち人間の社会とどこか似ているのだと思いました。

    さらに面白かったのは、いわゆる雑草の多くが、日本古来の植物ではなく、海外から入ってきた帰化植物だということです。
    外国から来た植物がこの土地に根を張り、環境に適応し、日本の風景の一部になっていく。その姿は、人間社会における多様性や共生にもどこか通じるものがあるように感じました。違う場所から来たものが、この土地に馴染み、新しい風景をつくっていく。雑草の話なのに、社会そのものを考えさせられました。

    とくに興味深かったのは、セイヨウタンポポとニホンタンポポの違いです。
    セイヨウタンポポは長い期間花を咲かせ、あちこちに広がっていく。一方でニホンタンポポは、春に花を咲かせたあと、夏になると夏眠に入る。つまり、暑さや競争の激しい季節を、あえて眠るようにやり過ごすのです。
    この話を読んで、ずっと頑張り続けなくてもいいのだと思いました。ずっと咲き続けなくてもいい。自分が力を発揮できる季節に咲けばいい。勝負する時期を見極めることも、生きる知恵なのだと教えられた気がしました。

    そしてこの本の中で、私が特に心を動かされたのは、「雑草は踏まれても立ち上がる」という言葉は、正確ではないという指摘でした。
    本当の雑草は、踏まれたら踏まれた中で、どうすれば傷を少なくして生きられるかを考えている。わざわざ無駄なエネルギーを使って立ち上がるのではなく、最初から地面に広がるように生きるものもある。
    これは人間にも通じる話だと思いました。私たちはつい、もっと成長しなければならない、もっと強くならなければならない、もっと上を目指さなければならない、と考えがちです。けれど、生きるということは必ずしも立ち上がることばかりではない。環境に合わせながら、傷を少なくし、自分なりのやり方で生き延びることも立派な戦略なのだと思いました。

    また、「ナンバーワンか、オンリーワンか」という話も非常に印象に残りました。
    人間の社会では、オンリーワンが大事だと言われることがあります。けれど植物の世界では、ただきれいごとでは生き残れない。結局は、その場所、その環境の中で勝たなければならない。
    ただし、真正面からすべてと戦うのではなく、棲み分けることで自分の居場所を見つけ、その中でナンバーワンになる。この考え方は、まさに会社経営にも通じると思いました。
    自分たちがどこで戦うのか。どこなら勝てるのか。どの土俵なら力を発揮できるのか。何でも一番を目指すのではなく、自分たちの棲み分けを見つけ、その中で一番になる。これはまさに、ニッチでナンバーワンになるということです。そして、そのナンバーワンが結果としてオンリーワンにもなるのだと思いました。

    植物が「助け合っている」ように見える姿も、道徳ではなく、生きるための戦略だという話にも考えさせられました。
    植物には法律もなければ倫理もありません。それでも互いに関わり合い、全体のバランスの中で生きている。自分だけが得をしようとして生態系を壊せば、結局それは自分にも返ってくる。
    これは会社も社会も同じだと思います。パートナーと支え合いながら、全体の中で自分も生きる。その感覚を植物たちは理屈ではなく、当たり前のように実践しているのだと感じました。

    そして本の終わりの方で語られていた、「教える力より、教えない力が大切だ」という話も心に残りました。
    今はAIを含め、答えをすぐに得られる時代です。けれど、その前に「なぜだろう」と思う力、「面白い」と感じる力、「自分で問いを持つ力」がなければ、本当の学びにはならないのだと思います。
    すぐに正解を与えず、問いが生まれるのを待つこと。これは教育だけでなく、仕事でも、組織でも、上に立つ人間に必要な姿勢なのだと感じました。

    雑草は小さく、目立たず、つい見過ごしてしまう存在です。
    けれど、その一つひとつに驚くほどしたたかな戦略があり、無駄のない生き方があり、ちゃんとした居場所があります。
    この本を読みながら私は、会社も人も、そして水槽の中の魚でさえ、それぞれの世界の中でどう子孫を残し、どう生き延びるかを考えているのだと思いました。
    会社もまた、永続的に残ることが大事です。そのために何を学び、どんな疑問を持ち、どう解決策を見つけていくのか。考える力を持ち続けなければならない。そんなことまで、この一冊の本は雑草を通して教えてくれました。

    道ばたに生えている何気ない草にも、それぞれ生える理由があり、戦略があり、棲み分けがあり、居場所がある。
    そう思うと、これからは雑草を雑に見ることができなくなりそうです。
    この本は、植物の本であると同時に、生き方の本であり、経営の本であり、学び方の本でもありました。
    とても面白く、そして深く考えさせられる一冊でした。

  • 写真は被写体だけでなく、撮る人も写している | 2026.03.26

    ワタナベアニ著『カメラは、撮る人を写しているんだ。』を読んで

    この本は、題名を見た瞬間に引っかかりました。
    「カメラは、撮る人を写しているんだ。」
    なるほど、そうかもしれない。そう思う一方で、どこか哲学的でもあり、写真を長く楽しんできた自分には見過ごせない言葉でした。

    実際に読んでみると、とても面白かったです。
    カメラの技術論や写真の上手下手だけではなく、もっと根っこのところ、つまり「なぜ人は写真を撮るのか」「何が写るのか」「いい写真とは何か」というところまで話が及んでいて、何度も頷きながら読みました。

    私は趣味でずっと写真をやってきました。
    旅に出て撮る、季節を追って撮る、何度も同じ場所へ足を運んで撮る。
    そして今は、撮った写真をインスタに上げたり、リール動画を作ったり、自分なりに言葉や音楽まで添えて楽しんでいます。
    そんな自分にとって、この本は「写真を撮る」という行為を、もう一段深いところから見せてくれる本でした。

    「映え」にも、白と黒があるという話

    特に面白かったのは、「映え」にも白い映えと黒い映えがある、という話です。

    他人から褒められるだろう、うまいと言われるだろう、すごいと思われるだろう。
    そういう気持ちが先に立って撮る写真は“黒い映え”。
    それに対して、自分の中から自然に湧いてきた「撮りたい」という衝動で撮る写真は“白い映え”。

    この表現は、実に言い得て妙だと思いました。

    今は誰でも写真を発信できる時代です。
    スマホでも撮れるし、その場で上げられる。
    評価も反応もすぐ返ってくる。
    だからこそ、つい「見せるための写真」に引っ張られてしまうことがあります。

    私自身も、インスタに写真を上げ、動画を作り、言葉を添えている人間ですから、その感覚はよくわかります。
    でも、結局あとで自分の中に残るのは、自分が本当に惹かれて撮った一枚なんですね。
    人からどう見られるかではなく、自分の心がちゃんと動いていたかどうか。
    その違いは、やはり写真に出るのだと思います。

    上手に撮ろうとしすぎると、かえって写真が痩せる。
    理屈や知識が先に立ちすぎると、写真の中から自分がいなくなる。
    そんなことを、この本は改めて教えてくれました。

    同じ場所へ何度も行く意味

    この本には、写真は一瞬のものだという感覚も流れています。
    絵のように時間をかけて描くのではなく、その瞬間にしかない光、その瞬間にしかない空気、その瞬間にしかない表情を切り取る。
    だから面白いし、難しい。
    そして、そこに写真ならではの醍醐味がある。

    私はこの感覚にもとても共感しました。

    同じ場所に何度行っても、同じ写真にはなりません。
    天気も違う。光も違う。風も違う。
    そこに立つ自分の気分も違う。
    だから、同じ景色を見ているようでいて、実は毎回違うものに出会っているのだと思います。

    写真をやっていると、同じ場所へ何度も行きたくなる理由が自分でもよくわかります。
    それは景色を確認しに行くのではなく、また違う表情に会いに行くからなんですね。
    その日、その時、その場所に立ち会わない限り、撮れない写真がある。
    私は昔から、その“立ち会わないと撮れないもの”にいちばん魅力を感じてきました。

    高性能なカメラもいい。
    スマホで気軽に撮れるのもいい。
    どちらが正しいという話ではなく、結局は「自分がその瞬間に心を動かされたか」が大事なのだと思います。
    写真は機材の競争ではなく、出会いの記録なのだと、あらためて思いました。

    いい写真には、その人が写っている

    この本の中で、いちばん印象に残ったのはやはりここです。
    「いい写真には、撮った人が写っている」ということ。

    もちろん、実際に撮影者の顔が写るわけではありません。
    けれど、その人が何に惹かれたのか、何を愛おしいと思ったのか、何に立ち止まったのか、その人のまなざしは確実に写真に残る。
    著者は、カメラには前だけでなく後ろにもレンズがついていて、被写体を撮りながら、実は撮っている人自身も写しているのだ、というようなことを言います。
    これは本当に深い言葉だと思いました。

    私は孫の写真もよく撮ります。
    その時、自分では孫を撮っているつもりです。
    でもこの本を読んで、ああ、そうじゃないんだなと思いました。
    孫を見つめている自分の気持ち、成長をうれしいと思う気持ち、今この瞬間を残したいという願い、そういうものまで写真には写っているのだと。

    そう考えると、写真はただの記録ではありません。
    その時の自分の生き方や、その時の自分の心のありようまで、そっと封じ込めているものなのだと思います。

    誰かの古い家族写真を見た時に、そこに写っていないはずの親の気配や、撮っている人の愛情を感じることがあります。
    あれはきっと、写真の中に“その人”がちゃんと写っているからなのでしょう。

    写真を通して、自分の人生を味わっている

    この本を読んで、私は改めて思いました。
    自分は写真が好きなんだな、と。
    そして、写真に出会えて本当によかったな、と。

    写真は、ただ景色を記録する趣味ではありませんでした。
    旅を深くしてくれた。
    季節に敏感にしてくれた。
    何気ない一瞬を見逃さない目を育ててくれた。
    そして、自分の人生に、確かな楽しみを与えてくれた。

    今はそこに、SNSもあります。
    インスタもあります。
    リール動画もあります。
    しかも、リール動画のBGM音楽までAIを使って、作詞・作曲・編曲し、AIボーカロイドで歌わせるところまで自分なりに楽しめるようになりました。写真に言葉と音を添えて、自分なりの作品としてまとめられる。こんなことができる時代に生きていること自体、私はありがたいと感じています。

    ずっと写真をやってきたこと。
    趣味として続けてきたこと。
    それが今、別の形でも花開いている。
    それはとても幸せなことだと思います。

    そしてもう一つ、この本を読んで強く感じたのは、写真には写真以外の蓄積が必要だということです。
    本を読むこと。
    旅をすること。
    人に会うこと。
    時代のことを考えること。
    歴史や自然や人間のことに心を向けること。
    そういう写真以外の積み重ねが、結局は写真の厚みになるのだと思います。

    だから私は、写真だけをやっていればいいとは思いません。
    読書も好きですし、いろいろなものを見聞きして、自分の中に少しずつ溜めていきたい。
    その蓄積が、ある日一枚の写真の奥行きになって現れる。
    そんな気がしています。

    「カメラは、撮る人を写しているんだ。」
    この言葉は、読み終えてからのほうが、むしろ強く残りました。

    写真を撮るということは、目の前の景色を写しているようでいて、
    本当は、自分が何を愛し、何に心を動かされ、どう生きているのかを写しているのかもしれません。

    そう思うと、ますます写真が好きになります。
    そして、これからも撮り続けたいと思います。
    うまく撮れるかどうかよりも、自分が心から「撮りたい」と思える瞬間に、ちゃんと立ち会いながら。

  • わかるより、わからないが増えていく豊かさ | 2026.03.25

    深井龍之介・野村高文 著『視点という教養』を読んで

    視点を増やすことは、変化の時代を生きる力になる

    『視点という教養』を読んで、あらためて感じたのは、世界はひとつの物差しではとても測れないということでした。
    量子力学、仏教、歴史学、宗教学、脳科学、教育。こうして並べると一見別々のテーマのようですが、この本ではそれらがすべて「世界をどう見るか」という一点でつながっていました。

    私は長く仕事をしてきて、今ほど「多面的情報収集」が必要な時代はないと感じています。
    業界の常識も、働く環境も、技術も、お客様の価値観も、想像を超える速さで変わっています。昨日まで通用した見方が、今日はもう通用しない。
    そんな時代に必要なのは、何か一つの正解を握りしめることではなく、視点を増やし続けることなのだと、この本を読んで強く思いました。

    私たちはつい、物事に名前をつけ、分類し、理解したつもりになります。
    けれど本当は、その瞬間にこぼれ落ちるものがある。世界を固定的に理解しようとすればするほど、見えなくなるものがある。
    この本は、そのことを何度も静かに教えてくれました。

    教養とは、知識を増やして賢く見せることではなく、自分が見えていないものの存在に気づくことなのかもしれません。
    本を読み、学べば学ぶほど、自分が無知であることを知らされる。けれど私は、それを不安ではなく、むしろ豊かさだと思っています。
    なぜなら、わからないことが増えるということは、それだけ世界に対する解像度が上がっているということだからです。

    「卒近代」という言葉が、これからの経営と重なった

    この本の中で、私が妙に共感したのが「卒近代」という考え方でした。
    近代は、合理性、効率、進歩、成長を大切にして社会を押し上げてきました。その恩恵は間違いなく大きい。けれどその一方で、人間を数字で測り、減点主義で評価し、失敗しないことばかりが重んじられる社会も生んできたのではないかと思います。

    経営の現場でも、それはよく感じます。
    短期的な利益だけを追えば、もっともらしい答えは出せるかもしれない。けれど、それでは長く続かない。取引先をだまし、従業員を疲弊させ、お客様の思いより会社の都合を優先することが、もし“最適解”になってしまうなら、それはどこかで必ず行き詰まる。
    この本の中で語られていた仏教の視点や、長い時間軸で他者との関係を見る視点は、まさに今の経営に必要なものだと感じました。

    私は以前から、五十嵐工業は単なる製品作りの会社で終わってはいけないと思ってきました。
    製品作りの独自化は、すぐに陳腐化してしまう時代です。だからこそ、物理的なもの作りの会社から、こと作りの会社へ進化したい。
    お客様のまだ想像できない半歩先を提案し、時間や場所を超えた働き方や、メタバースやAIも受け入れながら、新しい建築の形、新しい関わり方、新しい価値をつくっていく。
    この本を読んで、その方向は間違っていないとあらためて思いました。

    「卒近代」とは、近代を否定することではなく、近代の物差しだけでは見きれないものを見ようとする姿勢なのだと思います。
    効率だけではなく関係性を見る。
    利益だけではなく未来を見る。
    競争だけではなく協調を見る。
    それはまさに、五十嵐工業株式会社社長提言書の中で私が大切にしたいと思っている感覚と重なります。

    学ぶほど、問いが増える。それが未来への力になる

    本の中で語られていた仏教の「諸行無常」や「空」という考え方も、とても印象に残りました。
    執着に永遠はない。けれど、それは悲観ではなく、変化の中にこそ可能性があるという考え方でもある。
    この感覚は、これからのものづくりにも、そのまま通じるように思います。

    建築も、住宅も、働き方も、これから大きく変わっていくはずです。
    災害に強く、気候変動に対応し、スクラップ&ビルドではない未来の住宅を考えること。3Dプリンター住宅の可能性に挑み、人とIT・AIが融合する時代にふさわしい仕事の形を探ること。
    そういう挑戦は、今までの延長線の発想だけでは生まれません。
    視点を変え、多面的に考え、まだ見えていない未来を想像する力が必要です。

    また、歴史学の章で語られていた「資料をそのまま信じず、背景や立場を読む」という視点も、今の時代にとても大事だと思いました。
    情報があふれているからこそ、表面だけを見て判断しないこと。
    人の言葉の奥にある思いを想像すること。
    お客様の要望も、言葉に出てきた表面だけではなく、その奥にある本当の願いまで受け取ろうとすること。
    そういう姿勢がなければ、これからの仕事は本当の意味でお客様に寄り添えないのではないかと思います。

    私は、学べば学ぶほど、わからないことが増えていくと感じています。
    けれど、その「わからない」は、決してマイナスではありません。
    問いが増えるということは、まだ可能性があるということです。
    知らないことがあるから、人の声を聞ける。
    見えていないものがあるから、挑戦できる。
    昨日より今日、今日より明日、世界の見え方が少しずつ変わっていく。
    その変化を受け入れ、楽しみながら進むことこそ、これからの時代に必要な教養であり、会社の未来をつくる力でもあるのだと思います。

    『視点という教養』は、単に知識を与えてくれる本ではありませんでした。
    五十嵐工業はこれから何を目指すのか。
    どんな会社でありたいのか。
    なぜ多面的情報収集が必要なのか。
    なぜ人間とIT・AIの融合を受け入れなければならないのか。
    なぜお客様の半歩先を提案する会社を目指したいのか。
    その問いに対して、静かに、しかし確かな光を当ててくれる一冊でした。

    わかることを急ぎすぎない。
    わからないことの中にこそ、未来への入口がある。
    そう思えたことが、この本を読んで得た一番大きな収穫だったように思います。
    そしてこれからも五十嵐工業は、変化を恐れず、多くの視点を受け入れながら、物作りからこと作りへ、そして未来の建築へと歩みを進めていきたい。
    そんな思いを、あらためて強くした一冊でした。


PAGETOP