人は、うまく話すことより、どう生きるかがにじみ出る

喜多川泰著『おあとがよろしいようで』を読んで
久しぶりに喜多川泰さんの本を読みました。最近は小説を読む機会が少し減っていましたが、この本は前から気になっていて、ようやく手に取ることができました。
読み始めてすぐに感じたのは、やはり喜多川さん独特の、読む人の心をあたためる力です。派手な言葉ではないのに、読み進めるうちにじんわりと心がほぐれていく。そんな感覚がありました。
今回の物語は、大学生の暖平が落語研究会に入るところから始まります。私は落語にそれほど詳しいわけではありません。けれど、落語が持っている独特のおかしみや、人の心を引き込む力は、なんとなくわかるつもりでいました。だからこそ、この小説の世界にも自然に入っていけたのだと思います。
同じ演目でも、人が違えばまったく別のものになる
この本を読んでいて面白かったのは、同じ演目でも、演じる人によってまったく違うものになるということでした。技術だけではない。その人の経験、その人の思い、その人の人間らしさがにじみ出て、ひとつの作品が変わっていく。
これは落語の世界だけの話ではないのだと思います。私たちの話し方もそうですし、仕事もそうです。同じ商品を扱っていても、同じような説明をしていても、最後に伝わるものは「その人がどう生きてきたか」なのではないか。そんなことを思いました。
作中に出てくる先輩の碧さんの落語への向き合い方も、とても人間味があって印象的でした。きれいごとではないし、どこか不器用でもある。けれど、だからこそリアルで、そこに惹かれました。人が何かに本気で向き合う姿は、それだけで物語になるのだと感じます。
緊張してうまくいかなかった自分まで思い出した
この小説を読みながら、自分自身のこともいろいろ思い出しました。言葉がすらすら出るときもあれば、緊張してしまって、あとから「なんであんな話し方をしてしまったんだろう」と思うこともある。人生の中で、そういう場面は何度かありました。
うまくやれたことより、むしろ、思うようにいかなかった場面のほうが、後になって自分の中に残っている気がします。でも、この本を読んでいると、そういう不格好な時間も無駄ではなかったと思えてくるのです。
芸というのは、完成されたものを見せるだけではなく、その人の揺れや迷いや未熟さまでも含めて、人に伝わるものなのかもしれません。だからこそ、心を動かされる。落語という伝統芸能を扱いながら、この小説はとても今の時代にもつながっていると感じました。
表現の時代だからこそ、最後は人間力なのだと思う
今は、素人でも何かを発信できる時代です。文章も、写真も、動画も、音声も、少し前なら一部の人に限られていた表現が、誰でも手の届くものになりました。これは本当に面白い時代だと思います。
けれど、だからこそ最後に問われるのは、人間力なのだとも感じます。どんな道具を使うかより、その人が何を感じ、どう考え、どう生きているか。それが表現の奥行きになっていくのだと思います。
喜多川さんの小説を読むと、いつもそこに帰っていける気がします。人の弱さも、未熟さも、迷いも否定しない。そのうえで、人が前に進もうとする姿をやさしく照らしてくれる。だから私はこの人の本が好きなのだと、あらためて思いました。
『おあとがよろしいようで』という題名も、とてもいい。落語の締めの言葉でありながら、どこか人生そのものにも重なって見えます。
人生の終盤になって、「おあとがよろしいようで」と静かに言えるような生き方ができたらいい。大きな成功や立派な肩書きではなくても、そのときまで自分なりに精一杯、表現し、迷い、誰かと関わりながら生きていけたら、それで十分なのかもしれません。
この本は、落語の小説でありながら、表現すること、生きること、人と向き合うことの面白さをあらためて感じさせてくれる一冊でした。本と対話する楽しさを、もう一度思い出させてくれた一冊でもあります。
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