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  • 9割しんどい読書が、血肉になるまで | 2026.07.28

    『血肉となる読書 なぜ読むことだけが人生を変えるのか』を読んで

    斎藤幸平さん、小川公代さん、安田登さんの共著『血肉となる読書 なぜ読むことだけが人生を変えるのか』を読んだ。

    題名にある「血肉となる読書」という言葉に、私は強く引かれた。

    本を読むことと、その本が自分の血や肉になることは違う。

    内容を知識として覚えているだけでは、その本を本当に読んだとは言えないのかもしれない。考え方や言葉が自分の中に染み込み、日々の判断や人との向き合い方にまで表れて、初めて本は自分の一部になる。

    しかし、そこまで本を自分の中に取り込むことは、決して簡単ではない。

    本書には「読書の九割はしんどい」という言葉が出てくる。

    私は、この言葉に妙に納得した。

    読書はいつも楽しいわけではない。分からない文章に何度も戻り、著者の考えに違和感を覚え、それでもページを進める。すぐには役に立たず、何を得たのかさえ説明できない本もある。

    それでも、そのしんどさの中にこそ、読書が血肉になるまでの時間があるのではないかと思った。

    読むほどに、自分の未熟さが見えてくる

    私はこれまで、多くの本を読んできた。

    けれども、読み重ねるほど、自分が少しずつ完成に近づいているとは思えない。むしろ、本を読むたびに、自分の未熟さや偏りが、以前よりもはっきり見えるようになった。

    知識が増えれば、人にやさしくなれると思っていた。

    物事を深く考えられるようになれば、もっと穏やかに人と向き合えるとも思っていた。

    しかし実際には、知っていることが増えた分だけ、自分の考えに自信を持ちすぎることもある。相手の話を最後まで聞く前に、すでに自分の中で結論を出してしまうこともある。

    本で得た言葉を、自分を省みるためではなく、知らず知らずのうちに自分を正当化するために使ってしまうことさえある。

    そこに、私の読書の危うさがある。

    私は本を読むことで変わりたいと思っている。

    けれども心のどこかには、自分はすでにかなり分かっていると思いたい気持ちもある。

    新しい考えを受け入れたい自分と、これまでの自分を否定されたくない自分。

    人の意見に耳を傾けたい自分と、自分の考えの正しさを証明したい自分。

    その二つが、読書をするたびに私の中でぶつかっている。

    だから読書は、私にとって単に知識を増やす行為ではない。

    自分の中にある傲慢さ、臆病さ、頑固さに気づき、それでもなお変わろうとするための行為なのだと思う。

    本を読んでも、人間はすぐには変わらない。

    分かったつもりになっても、日常の言葉や態度には、これまで生きてきた自分がそのまま表れる。

    そのたびに私は、本当に読んだのかと自分に問い直す。

    文字を目で追っただけではなかったか。

    理解した気になっただけではなかったか。

    その言葉を、自分に都合のよいところだけ受け取ってはいなかったか。

    読書とは、自分を立派に見せるためのものではない。

    むしろ、自分の中にある見たくない部分を、何度も見せられることなのかもしれない。

    読書は、答えを探すことではない

    本書の中で特に心に残ったのは、読書は問題を解決するための答え探しではない、という考え方だった。

    問いを自分の中に抱えながら、すぐに結論を出そうとせず、本の世界に身を委ねて読む。

    その時間の中で、本の言葉と自分の経験が結びつき、少しずつ化学変化が起こる。その繰り返しによって、読書は知識ではなく、自分の血肉になっていくのだという。

    私はこれまで、本の中に答えを求めることが多かった。

    経営の悩み、人との関わり方、これからの社会、老い、時間、生きる意味。

    何かに迷うたびに、本を開けば進むべき方向が見えるのではないかと思ってきた。

    確かに、一冊の本の中の一つの言葉によって、目の前が急に明るくなることはある。

    しかし、多くの本は簡単な答えを渡してはくれない。

    むしろ、それまで気づかなかった問いを増やしてくる。自分が正しいと思っていたことを揺さぶり、見たくなかった自分の姿まで見せてくる。

    読書とは、答えを得ること以上に、自分の中の常識を揺らすことなのかもしれない。

    分からないまま、考え続ける力

    本書では、簡単に答えが出ない状態に耐える力として「ネガティブ・ケイパビリティ」についても語られていた。

    私たちは、分からないことがあると、すぐに答えを探したくなる。

    白か黒か。
    正しいか間違いか。
    賛成か反対か。

    はっきり分けた方が安心できるからだ。

    しかし、世の中の多くの問題は、二つに分けることができない。人間の感情も、社会の問題も、経営の判断も、簡単な正解があるわけではない。

    分からないまま考え続けること。

    違和感をすぐに消そうとしないこと。

    答えの出ない問いを、自分の中に置き続けること。

    それは苦しいことだが、その苦しさの中でしか見えてこないものもある。

    本を読んでいて、自分の考えと合わない言葉に出会うこともある。

    以前の私なら、「この著者の考え方は違う」と、早い段階で判断してしまったかもしれない。

    しかし本書を読み、自分と違う考えに出会った時こそ、

    「もしかすると、間違っているのは自分の方かもしれない」

    と立ち止まることが大切なのだと思った。

    すぐに賛成する必要はない。
    無理に納得する必要もない。

    ただ、その違和感を抱えながら考えてみる。

    時間がたってから、突然その言葉が腑に落ちることもある。それまで見えなかった景色が、別の経験をしたことで見えてくることもある。

    分からないものをすぐに切り捨てず、自分の中に置いておく。

    その時間もまた、読書の一部なのだと思う。

    漢方薬のように効く本、抗生物質のように効く本

    本書では、人生に変化を与える読書には「漢方薬型」と「抗生物質型」の二種類があると語られていた。

    この表現が、とても面白かった。

    漢方薬型の読書は、読んですぐに劇的な変化が起こるわけではない。

    それでも、いつの間にか物の見方や考え方が少しずつ変わっている。

    古典や哲学書は、こちらの読書が多いのだと思う。

    読んだ当時はよく分からなかった言葉が、何年もたってから突然よみがえる。

    仕事で迷った時、人との関係に悩んだ時、人生の節目を迎えた時に、

    「あの本に書いてあったのは、このことだったのか」

    と気づく。

    本を閉じた時には、何も起こっていないように見える。

    けれども、種はすでに自分の中にまかれているのだ。

    一方、抗生物質型の読書は、苦しい時や迷っている時に、一つの言葉が強く効いてくる読書である。

    悩みが深くなり、どちらへ進めばよいのか分からなくなった時、一冊の本が出口の方向を照らしてくれることがある。

    ただし、抗生物質型といっても、本がその場ですべてを解決してくれるわけではない。

    本からもらった言葉を、自分の現実に照らし合わせ、自分なりに考え、行動に移して初めて、その言葉は効き始める。

    私にとって、ミヒャエル・エンデの『モモ』は、まさにそのような本だった。

    時間とは何か。
    豊かに生きるとは何か。
    忙しく動き続けることが、本当に人間らしく生きることなのか。

    『モモ』を読むことで、時間に対する私の見方は大きく揺さぶられた。

    「星の時間」に気づけるか

    本書に出てくる「星の時間」という言葉にも、私は引きつけられた。

    あらゆる物や生き物が互いに働きかけ、後にも先にもない出来事が生まれる特別な時間。

    多くの人は、その瞬間が特別な時間だとは気づかない。

    けれども、

    「今は星の時間なのかもしれない」

    と気づく人がいれば、物事も世界も変わっていく。

    人生を振り返ると、あとになって初めて、あの出会い、あの失敗、あの一冊が「星の時間」だったと分かることがある。

    その時には、何でもない出来事に見えていたかもしれない。

    しかし、その出会いを境に、自分の考え方や進む方向が少しずつ変わっていたことに、後から気づく。

    読書も同じなのだと思う。

    読んでいる最中には、その本が自分の人生を変える一冊になるかどうかは分からない。

    けれども何年もたったあと、ふとした場面で、その本の言葉が自分の中から現れることがある。

    その言葉を自分の考えとして語り、自分の判断として使っていることに気づく。

    その時、本は初めて自分の血肉になる。

    本が変わったのではなく、自分が変わった

    だからこそ、古典は一度読んで終わりではない。

    時間を置いて読み返すと、以前とはまったく違う言葉が目に入ってくる。

    本が変わったのではない。

    自分が変わったから、見えるものが変わったのである。

    若い頃には理解できなかった言葉が、年齢を重ね、仕事や人間関係でさまざまな経験をした後では、切実な言葉として胸に入ってくることがある。

    同じ文章なのに、以前とはまったく違う意味を持って迫ってくる。

    本を再読することは、過去の自分と現在の自分の違いを知ることでもあるのだと思う。

    読書の九割は、しんどくていい

    確かに、すべての本が楽しく読めるわけではない。

    途中で眠くなる本もあれば、何度読んでも意味が分からない本もある。最初から最後まで理解できず、読み終えても何が書いてあったのか説明できない本さえある。

    ページを開くことすら重く感じ、何日も同じ場所から進めないこともある。

    それでも、分からないから無駄だったとは限らない。

    分からないまま読んだ一冊が、何年後かに別の本や経験とつながることがある。

    その時、過去にまかれた種が、ようやく芽を出す。

    だから私は、分からない本を読んだ時間も、決して無駄ではなかったと思いたい。

    読書とは、その場ですべてを回収するものではない。

    理解できなかった言葉、心に引っかかった文章、説明できない違和感を、自分の中に残しておくことでもある。

    読書の九割がしんどいとしても、そのしんどさは、理解できない苦しさだけではない。

    自分の考えを揺さぶられるしんどさ。

    これまで信じてきたものを疑うしんどさ。

    自分の未熟さを見せられるしんどさ。

    それでも読み続けた先で、ほんの一割の言葉が、自分の人生を静かに変えることがある。

    その一割に出会うために、九割のしんどさがあるのかもしれない。

    問いを育てるために、私はこれからも読む

    私はこれからも本を読む。

    すぐに役立つ答えを得るためだけではない。

    自分の中に問いをまき、まだ言葉にならない考えを育てるために読む。

    読んだ内容をこうして書き、自分の経験と重ね、時には反論し、時には納得しながら、自分なりの言葉にしていく。

    書くことで初めて、自分が何に引っかかり、何を恐れ、何を信じたいと思っているのかが見えてくる。

    私は本を読んだ後、こうして感想を書くようになった。

    それは、本の内容をきれいにまとめるためだけではない。

    本を通して揺れた自分の心を、自分の言葉で確かめるためである。

    分かったことだけでなく、分からなかったことも書く。

    共感したことだけでなく、違和感を覚えたことも残す。

    そうして初めて、一冊の本と自分の人生がつながっていく。

    読書による変化は、すぐには目に見えない。

    その場では何も変わっていないように感じることもある。

    しかし、本は読んだ後から、ゆっくりと効いてくる。

    何年もかけて考え方を変え、物の見方を変え、人との向き合い方を変えていく。

    読書とは、人生の答えを手に入れることではない。

    人生をかけて考え続ける問いを、自分の中に育てていくことなのだ。

    その問いが、いつの日か私自身の言葉や態度、そして行動になった時、一冊の本は本当に私の血となり、肉となる。

    読書の九割は、確かにしんどい。

    それでも私は、そのしんどさの中に身を置きながら、これからも本を読み続けるのだと思う。

  • 自尊心は、人生の土台だった | 2026.07.27

    『うまくいっている人の考え方 完全版』を読んで

    ジェリー・ミンチントン氏の『うまくいっている人の考え方 完全版』を読み終えて、私は「人生を変えるのは能力や才能ではなく、自分をどう見ているか」という、とてもシンプルでありながら奥深い真理を改めて感じました。

    本書では何度も「自尊心」という言葉が登場します。

    自尊心とは、自分を過大評価することでも、自信満々になることでもありません。

    「自分には価値がある」と静かに認められる心の状態です。

    私はこれまで数多くの自己啓発書を読んできましたが、この本は単なる前向き思考を勧める本ではありませんでした。

    その根底には、人間の心理や哲学が流れていました。

    特に印象に残ったのは、人を馬鹿にする人への考え方です。

    相手を傷つけることで優越感を得ようとする人は、自分自身の心に問題を抱えている。

    だから言い返す必要はない。

    微笑んで、その場を離れればいい。

    この考え方はとても新鮮でした。

    私自身も経営をしていると、さまざまな意見や批判を受けます。

    以前なら反論したくなることもありました。

    しかし今は、「建設的な批判はありがたく受け入れ、人身攻撃には反応しない」という姿勢のほうが、自分の心を守り、成長にもつながるのだと思えるようになりました。

    また、「異文化を知ることで自分を知る」という言葉にも深く共感しました。

    私は写真撮影が趣味で全国を旅しています。

    同じ日本でも地域ごとに風景も文化も人も違います。

    その土地を歩き、その空気に触れるたびに、自分自身の価値観が少しずつ広がっていくことを感じています。

    旅は景色を見るだけではなく、自分を見つめ直す時間でもあるのです。

    そして、もう一つ心に残ったのが「心の中の静かな場所を見つける」という考え方でした。

    目を閉じて静かに座る。

    禅にも通じるこの時間は、答えを外に探すのではなく、自分の内側に探す時間なのだと思いました。

    AIが瞬時に答えを出してくれる時代になりました。

    便利になればなるほど、人は外から情報を集めることに夢中になります。

    しかし、自分は本当はどう考えているのか。

    本当に望んでいることは何なのか。

    その答えは、AIでもインターネットでもなく、自分の心の静かな場所にしかありません。

    さらに本書は、「人生は不公平だ」と嘆く時間があるなら、「今できること」に集中したほうが人生は良くなると教えてくれます。

    私はこの言葉に大きくうなずきました。

    会社経営でも写真でも読書でも、思い通りにならないことは数え切れません。

    しかし、その不公平さを嘆いても現実は変わりません。

    それよりも、一つひとつの選択を大切にし、自分ができることを積み重ねるほうが、未来は確実に変わっていきます。

    読み終えて感じたのは、この本は「成功する方法」を教える本ではなく、「幸せに生きる土台」を教えてくれる本だということです。

    考え方が変われば、行動が変わる。

    行動が変われば、人間関係が変わる。

    そして人生そのものが少しずつ変わっていく。

    そのすべての出発点が、自尊心なのだと私は理解しました。

    これからも私は、自分を必要以上に責めず、人とも比べず、今ある幸せに目を向けながら、一歩ずつ前へ進んでいきたいと思います。

    AI時代だからこそ、最後に人生を決めるのは「考え方」であり、「自分をどう信じるか」なのだと、この一冊が静かに教えてくれました。

  • 幸せは、「いる」から始まる | 2026.07.24

    感情を消すのではなく、感情を知る|『感情は、すぐに脳をジャックする』を読んで

     

    佐渡島庸平さん、石川善樹さんの『感情は、すぐに脳をジャックする』を読んだ。

    私はこれまで、感情に振り回されないためには、できるだけ冷静になり、感情を抑えることが大切なのだと思っていた。

    特に仕事では、怒りや不安を表に出さず、理性的に判断することが求められる。

    しかし、この本を読んで気づいた。

    感情は、消そうとして消えるものではない。

    どれほど理性的な人でも、感情は一瞬で脳を支配する。

    大切なのは、感情をなくすことではなく、自分の中に今どのような感情が起きているのかを知ることなのだ。

    人間は、自分では理性的に判断しているつもりでも、実際には先に感情が動き、その後から理屈をつけていることが多いという。

    怒っている時には、相手が悪いと思う。

    不安な時には、何を見ても悪い方向に考えてしまう。

    感情が変われば、同じ出来事でも見え方が変わる。

    つまり、感情によって認知が歪められれば、入ってくる情報も、その後に出ていく言葉や行動も歪んでしまう。

    これは仕事でも、人間関係でも、文章を書く時でも同じだと思う。

    怒りの奥には、別の感情がある

    本書を読みながら、特に考えさせられたのは「怒り」についてだった。

    怒りは、単独で突然生まれるものではない。

    その前には、期待、不安、恐れ、驚き、寂しさなど、別の感情が隠れている。

    例えば、相手に対して腹が立った時、本当は、

    「こうしてほしかった」

    「一緒に良い結果を出したかった」

    「分かってもらえると思っていた」

    という期待があったのかもしれない。

    その期待が満たされなかった結果として、怒りが表に出てくる。

    そう考えると、怒りをそのまま相手にぶつけるのではなく、自分が何を期待していたのかを伝えた方が、ずっと建設的である。

    「どうしてできないのか」と責めるよりも、

    「私はこういう結果を一緒に出したかった」

    と伝える。

    怒りの奥にある感情を言葉にできれば、相手との関係も、自分自身の行動も変わってくるのだと思う。

    感情にも、解像度がある

    この本では、感情を理解するには、感情に関する言葉や概念を豊かに持つことが大切だと書かれている。

    最近は、うれしい時も、驚いた時も、困った時も、すべてを「やばい」という一言で表すことがある。

    しかし、それでは自分の中で何が起きているのかを細かく捉えることができない。

    不安なのか。

    悲しいのか。

    悔しいのか。

    寂しいのか。

    期待しているのか。

    それとも、ただ驚いているのか。

    感情を細かく言葉にできるほど、自分の内面を客観的に見ることができる。

    本書で紹介されている「感情の輪」も興味深かった。

    喜び、信頼、恐れ、驚き、悲しみ、嫌悪、怒り、期待。

    それらの基本的な感情が混ざり合うことで、愛、後悔、警戒、楽観など、さらに複雑な感情が生まれる。

    私たちは一つの感情だけで生きているのではない。

    うれしいけれど不安。

    腹が立つけれど寂しい。

    期待しているからこそ怖い。

    そうした複雑な感情を、無理に一つに決めつけなくてもよいのだ。

    「諦める」とは、明らかにすること

    本書には仏教的な考え方も多く登場する。

    その中で印象に残ったのが、「諦める」という言葉である。

    現在では、諦めるというと、途中で投げ出すことや、希望を捨てることのように捉えられる。

    しかし仏教では、「諦める」とは「明らかにする」という意味だという。

    現実をよく見て、今起きていることを、そのまま受け入れる。

    ネガティブな感情は、無理に避けるのではなく、

    「自分は今、悲しい」

    「自分は今、不安だ」

    と認める。

    一方で、喜びや成功などのポジティブな感情にも執着しすぎない。

    良い感情も悪い感情も、ずっと続くものではない。

    感情は移り変わっていく。

    それを理解することが、諸行無常を受け入れることにもつながるのだと思う。

    感情を否定せず、しかし感情に居座らせない。

    認知し、受け入れ、その上で次の行動を選ぶ。

    この「認知、容認、選択」という流れは、日常の中でも実践できる考え方だと思った。

    驚きから、新しいものが生まれる

    感情の中でも、「驚き」についての話が特に面白かった。

    どのような感情にも、その直前には驚きがあるという。

    予想と違った。

    思っていたより良かった。

    まさか、そんなことが起こるとは思わなかった。

    人は、自分の当たり前が外れた瞬間に驚く。

    そして、新しいものを生み出そうとする時には、驚きが必ず伴うという。

    本書では、「では」で話す人よりも、「とは」で話す人の方が驚きを生みやすいと書かれている。

    「次は何をするのではなく、そもそも仕事とは何だろう」

    「良い会社とは何だろう」

    「幸せとは何だろう」

    「人間にしかできないこととは何だろう」

    「とは」という問いは、分かっているつもりになっていた物事を、もう一度考え直させる。

    これは私が日頃から考えている、ものづくりからことづくりへ、ということにもつながる。

    製品をただ作るのではなく、その製品によって、お客様の感情がどう動くのか。

    便利になった。

    安心した。

    家族との時間が増えた。

    思い描いていた空間が現実になった。

    人は物そのものだけでなく、その物によって生まれる感情に価値を感じている。

    これからの仕事には、機能や価格だけでなく、人の心にどのような波を起こすのかという視点が、ますます大切になるのだろう。

    感謝は、伝えるものではなく、伝わるもの

    「感謝は伝えるものではなく、伝わるもの」という言葉も心に残った。

    私たちは「感謝を伝えなければ」と考える。

    もちろん、ありがとうと言葉にすることは大切である。

    しかし、感謝を伝えたことで、相手にも感謝を返してほしいと思った瞬間、それは見返りを求める行為になる。

    感謝されたいと思わず、自分の中に感謝がある。

    その人の態度や行動から、自然に相手へ伝わっていく。

    それが本当の感謝なのかもしれない。

    日常の当たり前を、当たり前のまま通り過ぎないことも大切だ。

    家族が一緒にいること。

    社員が働いてくれていること。

    お客様が声をかけてくださること。

    本を読めること。

    写真を撮りに出かけられること。

    その一つ一つは、本当は決して当たり前ではない。

    幸せは、「いる」から始まる

    本書の終盤に出てくる、「いる・する・なる」という考え方は、最も印象に残った部分の一つだった。

    私たちはいつも、何をするかを考えている。

    何を成し遂げるか。

    何者になるか。

    どう成長するか。

    どう成功するか。

    しかし、犬や猫は、何者かになろうとはしていない。

    何かを成し遂げようともしていない。

    ただ、そこにいる。

    生きるために、そこに居続けている。

    人間も、最初から「する」や「なる」を求めすぎなくてもよいのではないか。

    まず一緒にいる。

    夫婦でいる。

    家族でいる。

    仲間でいる。

    その時間を重ねる中から、自然に何かをするようになり、何者かになっていく。

    幸せとは、何かを手に入れた先にあるものではなく、今ここにいることを感じられる状態なのかもしれない。

    私は会社経営でも、写真でも、読書でも、どうしても次に何をするかを考える。

    新しいことを始めたい。

    もっと良くしたい。

    未来を作りたい。

    それ自体は悪いことではない。

    ただ、ときには「する」を手放して、今ここにいる自分を確かめる時間も必要なのだろう。

    感情は、邪魔者ではなかった

    この本を読んで、感情に対する見方が少し変わった。

    怒り、不安、悲しみ、嫉妬、寂しさ。

    私たちは、ネガティブな感情を悪いものとして排除しようとする。

    しかし感情は、自分の内面から届く知らせなのだ。

    怒りの奥に期待があり、不安の奥に大切にしたいものがある。

    悲しみの奥には、失いたくなかったものがある。

    感情を知ることは、自分が何を大切にしているのかを知ることでもある。

    感情に脳をジャックされないためには、感情を押さえ込むのではなく、

    「私は今、何を感じているのだろう」

    と、一度立ち止まること。

    感情を明らかにし、受け入れ、その上で自分の行動を選ぶ。

    これは一度覚えればできる技術ではなく、日々、自分の内面を見る練習なのだと思う。

    感情を知れば、他人にも少しやさしくなれる。

    自分にも、少しやさしくなれる。

    そして、何かをすることや、何者かになることを急がず、まず今ここにいることを大切にできる。

    感情は、人生を邪魔するものではなかった。

    感情を知ることこそ、自分の人生を、自分の手に取り戻すことなのだと思った。

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  • 「生きがい」を求めない若者は、本当に冷めているのか | 2026.07.22

    『仕事に「生きがい」はいりません』を読んで

    金間大輔・酒井崇匡著
    『仕事に「生きがい」はいりません 30年の調査データが明かすZ世代のリアル』を読んだ。

    この本を読みながら、今の若者は仕事に対して冷めているのではなく、傷つかず、無理をせず、自分の心を守りながら生きようとしているのではないかと思った。

    「認められたい。しかし目立ちたくない」
    「個性を生かしたい。しかし注目されたくない」
    「給料は高い方がいい。しかし頑張りすぎたくない」

    一見すると矛盾しているように見える。

    しかし、SNSによって常に誰かと比較され、発言すれば評価され、ときには批判される環境で育ってきたことを考えれば、この感覚も理解できる。

    私たちの世代は、仕事には責任があり、努力すれば報われ、苦労の先に成長があると教えられてきた。

    仕事に生きがいを持つことは良いことであり、熱意を持って働く人ほど評価される時代でもあった。

    ところが、今の若者が求める「安定」は、単に給料が保証されていることではない。

    感情の起伏が少なく、無理を強いられず、自分のペースで少しずつ成長できる環境である。

    本書では、良い給料と気楽さが両立するなら、仕事にやりがいや面白さはなくてもよいと考える若者が増えていることが紹介されている。

    責任の重い仕事を任されたい人も、以前より減っているという。

    これを意欲がないと切り捨てるのは簡単だ。

    しかし、考えてみれば、私たち上の世代が「仕事は人生そのものだ」と言い続け、長時間労働や過度な責任を当たり前にしてきた結果でもあるのではないだろうか。

    若者は、私たちがつくってきた働き方を見て、「そこまではしたくない」と判断しているのかもしれない。

    一方で、すべての若者が仕事から距離を置いているわけでもない。

    大変でも、好きなことや意味を感じられる仕事に没頭する人もいる。

    ただし、それは会社への忠誠心や出世のためではなく、仕事そのものを一種の趣味のように楽しんでいる。

    同じハードワークでも、上から与えられた苦労と、自分で選んだ没頭では意味が違うのである。

    本書で特に考えさせられたのは、Z世代の問題が、若者だけの問題ではないという点だった。

    社員旅行を嫌がる割合は、若者より上の世代の方が高い。

    感情を表に出さなくなった傾向も、若者だけでなく全世代に広がっている。

    若者は時代の空気を最も敏感に映す鏡なのだと思う。

    私がさらに気になったのは、日本人の「他人を信用しない」という傾向である。

    日本人は協調性が高く、思いやりのある国民だといわれる。

    しかし実際には、心から信頼して協力しているのではなく、協力しなければ仲間外れにされる、後で何を言われるか分からないという不安から同調している場合もある。

    コロナ禍で起きた他県ナンバーへの嫌がらせや、過剰なマスク警察も、同調圧力の一つの表れだったのではないか。

    表面では皆と同じ行動をしながら、心の中では他人を信用していない。

    自分で何とかする「自助」が大前提となり、身近な人同士で支え合う「共助」が弱くなり、最後には行政などの「公助」に頼る。

    この構図は、若者だけでなく、日本社会全体の課題だと思う。

    そして今、「気軽に感情を共有できる相手」として、対話型AIの存在が大きくなっている。

    AIは否定せず、話を遮らず、こちらの都合のよい時間に応答してくれる。

    人間関係で傷つくことを恐れる若者にとって、AIが安心して話せる相手になるのは、不思議なことではない。

    私自身もAIと対話しながら考えを整理することが増えている。

    ただ、AIとなら話せるのに、隣にいる人間とは本音を話せない社会になってしまったとしたら、それは少し寂しい。

    この本を読んで、「今どきの若者は」と簡単に決めつけてはいけないと改めて思った。

    若者の価値観は、突然生まれたものではない。

    私たち上の世代がつくってきた会社、家庭、教育、社会を見ながら形成されてきたものである。

    仕事に生きがいを求めないことは、人生に生きがいがないということではない。

    仕事以外の家族、趣味、友人、自分の時間に生きがいを置くことも、一つの生き方である。

    会社が若者に生きがいを与えようとするよりも、安心して働ける場所をつくり、本人が大切にしたいものを尊重する。

    そのうえで、仕事の中に思いがけない面白さや、人に必要とされる喜びを発見してもらう。

    生きがいは、会社が押しつけるものではない。

    働いていく中で、本人が後から見つけるものなのかもしれない。

    若者が変わったのではなく、社会が変わり、その変化を若者が最も早く受け取っている。

    この本はZ世代を知るための本であると同時に、私たち日本人全体の働き方、人とのつながり方、そして信頼のあり方を考え直す一冊だった。

  • 人生は、いただいたものでできている | 2026.07.21

    喜多川泰著『いただきます。人生が変わる「守衛室の師匠」の教え』を読んで

    喜多川泰さんの本は、これまでにも何冊も読んできた。

    そのたびに、自分は何のために生まれてきたのか、何のために生きていくのかという、普段は心の奥にしまっている問いを静かに差し出される。

    今回読んだ『いただきます。人生が変わる「守衛室の師匠」の教え』も、まさに喜多川ワールドに満ちた一冊だった。

    読み終えたとき、私はもう一度、自分の人生を真剣に考えてみたいと思った。

    小説なので、物語の内容にはあまり触れないでおきたい。

    登場人物が誰と出会い、何を教えられ、どのように変わっていくのか。それは、実際に読んだ人がそれぞれの人生と重ねながら感じるものだと思うからだ。

    同じ本を読んでも、心に残る言葉は人によって違う。

    そして同じ人であっても、読む年齢や置かれている状況によって、見えてくる景色は変わる。

    今の私に強く残ったのは、「いただきます」という言葉だった。

    私たちは、何をいただいて生きているのか

    「いただきます」は、食事の前に口にする言葉である。

    しかし、この本を読みながら考えていると、私たちがいただいているのは、目の前の食べ物だけではないことに気づかされる。

    動物や植物の命。

    食べ物を育てた人の時間。

    運んだ人、販売した人、調理した人の働き。

    大地や水、太陽の光。

    そして、遠い昔から今日まで受け継がれてきた無数の命。

    私たちは、自分一人の力で生きているのではない。

    誰かの命をいただき、誰かの思いや時間をいただき、数え切れないほどのつながりの中で今日を生きている。

    それを完全に理解したとは、とても言えない。

    「分かった」と言ってしまうことさえ、おこがましいように思う。

    それほど「いただきます」という言葉には、深く、広く、簡単には消化し切れないものが込められている。

    すべてのものが、自分の師匠になる

    物語には、若者に大切なことを伝える「師匠」が登場する。

    私は以前から、世の中にあるすべてのものが、自分の師匠になり得ると思っている。

    師匠とは、必ずしも年上の人ではない。

    地位の高い人でも、有名な人でも、特別な肩書を持つ人でもない。

    道端に生えている草も、転がっている石も、自分の見方次第では師匠になる。

    生まれたばかりの孫からも、私は多くのことを教えられる。

    まだ言葉を話せない子どもが見ている世界は、私が想像するよりも、はるかに豊かで新鮮なのかもしれない。

    若い人の考え方に驚かされることもある。

    何気なく出会った人の一言によって、それまでの自分の思い込みに気づくこともある。

    人は、置かれた環境や出会った人によって、少しずつ考え方を変えていく。

    だからこそ、自分が知っている世界だけがすべてだと思ってはいけない。

    この年齢になっても、知らないことはたくさんある。

    学べば学ぶほど、自分はまだ何も知らない素人なのだという気持ちは、むしろ強くなっていく。

    私に見えている世界は、きっと世界のほんの一部分にすぎない。

    そのことを忘れずにいたい。

    過去を後悔しないために、今を生きる

    私はこれまでの人生を振り返って、それほど大きな後悔はない。

    もちろん、失敗も間違いもたくさんあった。

    周囲から見れば、「あの判断は間違っていた」と言われることもあるだろう。

    それでも、自分なりにその時々を一生懸命考え、選び、行動してきた。

    そして後になってから、その出来事の意味を自分なりに解釈し直してきた。

    だから、「あの時やっておけばよかった」「あの時こうしていれば」と、過去に立ち止まり続けることが少ないのだと思う。

    私が一番避けたいのは、やらなかったことを後悔する人生である。

    正しかったかどうかは、すぐには分からない。

    それでも、その時の自分が本気で考えて選んだ道なら、そこからまた学び直せばいい。

    大切なのは、誰かの人生をお手本にして、その通りに生きることではない。

    誰かと同じになろうとしすぎれば、かえって自分を見失ってしまう。

    出会った人から学びながらも、最後は自分の人生を自分で引き受ける。

    そのために、今を一生懸命生きる。

    この本を読みながら、私は自分がこれまで大切にしてきたことを、あらためて確認することができた。

    命のバトンを、次の人へ

    本の中には、私の暮らす新潟県長岡市に関係する学生や、懐かしい方言も登場する。

    その言葉に触れるたび、物語が急に身近なものになり、心が温かくなった。

    人は、自分が生きてきた証しを、形あるものだけで残すのではない。

    誰かに伝えた言葉。

    誰かに示した姿勢。

    誰かを励ました記憶。

    そうしたものもまた、命のバトンとして次の人へ渡っていく。

    私たちは、多くの人からさまざまなものをいただいて、ここまで生きてきた。

    そしていつか、自分がいただいてきたものを、次の誰かへ渡していく。

    知識だけではない。

    考え方や優しさ、生きる勇気も手渡していくことができる。

    「いただきます」は、ただ食事を始めるための言葉ではない。

    命を受け取る言葉であり、つながりに気づく言葉であり、自分もまた次へ何かを渡していく覚悟の言葉なのかもしれない。

    読み終えたあと、心が温かくなると同時に、深い場所を静かに揺さぶられた。

    久しぶりに、誰かに心から勧めたいと思える本に出会った。

    私たちの人生は、これまでに「いただいたもの」でできている。

    だからこそ、今日という一日も、当たり前だと思わずに受け取りたい。

    そしていつか、自分も誰かから「いただきました」と思ってもらえるようなものを、静かに手渡していきたい。

  • 「できない子」ではなく、考え方が違うだけなのかもしれない | 2026.07.17

    『ビジュアル・シンカーの脳』を読んで

    テンプル・グランディン著、中尾ゆかり訳の『ビジュアル・シンカーの脳 「絵」で考える人々の世界』を読んだ。

    私たちは、人間は言葉を使って考えるものだと思い込んでいる。

    しかし、頭の中に鮮明な映像を浮かべながら考える人もいる。形や空間の関係、数字やパターンによって世界を捉える人もいる。音や触覚、身体感覚を通して理解する人もいる。

    本書は、言葉ではなく「絵」で考える人々の能力が、現在の教育や社会の中で十分に認められていないことを教えてくれた。

    読み進めながら私は、これは一部の特別な人だけの話ではなく、これからの教育、仕事、そしてAIと人間の関係を考える上で、とても重要な問題だと思った。

    学校で評価される力だけが、能力ではない

    現在の学校教育は、言葉で考える人に有利に作られている。

    話を順序立てて説明できる。

    文章を読み、決められた時間内に答えを書く。

    先生の説明を理解し、試験で正解を出す。

    もちろん、これらも大切な能力である。

    しかし、人の能力はそれだけではない。

    実際の物に触れることで理解する人もいる。

    機械を分解し、組み立てながら仕組みを覚える人もいる。

    図形や空間を見た瞬間に、その構造や関係を理解する人もいる。

    色や形、音や動きから、誰も思いつかなかった発想を生み出す人もいる。

    ところが学校では、そうした能力は点数になりにくい。

    言葉で説明することが苦手だったり、授業中に落ち着きがなかったりすると、「勉強のできない子」と判断されてしまうことがある。

    しかし、本当はできないのではない。

    考え方や学び方が違うだけなのかもしれない。

    学校の成績が良くないという理由だけで、未来の設計者、技術者、職人、発明家、芸術家になる可能性を失わせているとしたら、それは本人だけでなく、社会全体にとっても大きな損失である。

    現実と結びついたとき、学ぶ意味が生まれる

    本書の中で特に印象に残ったのは、子どもが考え方を理解し、自分の中に取り入れるためには、現実世界の作業や趣味と結びつけることが大切だという話だった。

    計算問題だけを見せられても興味を持てない子が、物を作る中で長さや角度を学ぶことがある。

    理科の言葉を覚えることが苦手でも、植物を育てたり、虫を観察したりする中で、生き物の仕組みに夢中になることもある。

    パソコンやゲームが好きな子も、それを単なる遊びとして止めさせるのではなく、プログラミングや映像、音楽、デザインへの入り口にできるかもしれない。

    大人が教えたいことから始めるのではない。

    子どもがすでに興味を持っているものから、学びにつなげていく。

    それが本来の教育ではないだろうか。

    「絵で考える」にも違いがある

    本書では、視覚思考者には大きく二つのタイプがあると説明されている。

    一つは、物を写真のような具体的なイメージで考える「物体視覚思考者」。

    画家、デザイナー、建築家、発明家などに向く傾向があるという。

    もう一つは、形の配置、法則、パターン、抽象的な関係で考える「空間視覚思考者」。

    数学者、科学者、物理学者、プログラマーなどに向く傾向がある。

    同じ「絵で考える人」であっても、その見え方や得意分野は同じではない。

    具体的な物の姿を鮮明に思い浮かべる人もいれば、空間の関係や法則を瞬時に捉える人もいる。

    そして、その考えを言葉にして伝える人も必要である。

    どれか一つの能力だけで、社会が成り立つわけではない。

    本書で紹介されていた宇宙服の例が、とても分かりやすかった。

    宇宙服は、構造や数値を考える技術者だけでは作れない。素材を扱い、人間の身体に合わせて実際に縫い上げる人の具体的な感覚も必要になる。

    異なる考え方を持つ人たちが力を持ち寄ることで、初めて新しいものが生まれる。

    言葉を得ることで、見えなくなるもの

    幼い子どもは、誰もが視覚的な情報に強く頼っているという。

    やがて言葉を覚え、年齢とともに、言語によって記憶し考える割合が増えていく。

    それは人間が社会で生きるために必要な成長である。

    しかし、言葉が増えることで、もともと持っていた鮮明なイメージや感覚が、言葉に覆われてしまうこともあるという。

    私は孫を見ていても、子どもは大人とはまったく違う角度から物を見ていると感じる。

    大人が見過ごしてしまう小さな虫、石の形、雲の動き、葉っぱの色に夢中になる。

    大人にとっては意味のない物でも、子どもにとっては大発見である。

    そこで大人がすぐに正解を教えたり、「そんなものを見ていないで」と興味を止めたりすれば、せっかく芽生えた感覚を失わせてしまうかもしれない。

    子どもに必要なのは、いつも答えを教える人ではない。

    その子が何を見ているのかを一緒に見て、興味を伸ばす手助けをする人なのだと思う。

    深く集中できることを、欠点にしない

    一つのことに深くのめり込み、周囲の音が聞こえなくなるほど集中する子がいる。

    人との会話が得意ではなかったり、集団行動にうまくなじめなかったりすることもある。

    これまでの社会では、そのような特徴を欠点として捉えることが多かった。

    しかし、世界を変えるような発明や表現は、そうした極端な集中力から生まれることもある。

    本書では、自閉スペクトラム症やサヴァン症候群についても触れられている。

    サヴァン症候群の人の中には、音楽、記憶、計算、言語、絵画など、限られた分野で驚くほど高い能力を示す人がいる。

    もちろん、発達特性があれば、必ず特別な才能を持っているという単純な話ではない。

    大切なのは、人と違うところをすぐに直そうとするのではなく、その人が何に強く反応し、何になら集中できるのかをよく見ることである。

    人付き合いが苦手な人が、人と人をつなぐ新しい仕組みを生み出すこともある。

    話すことが苦手な人が、絵や音楽、設計、プログラムによって、自分の考えを表現することもある。

    欠点に見えていたものが、見方を変えれば、新しい発想の出発点になるのかもしれない。

    動物は、言葉以外の世界を生きている

    本書には、動物の知能についても多く書かれていた。

    中でも、タコと鳥の脳の話はとても面白かった。

    タコは腕にも大きな神経の集まりを持ち、吸盤を細かく制御する。記憶し、学習し、遊び、工夫しながら貝を開くこともできるという。

    鳥は体を軽く保ちながら飛ばなければならないため、小さな脳の中に高い処理能力を詰め込んでいる。

    その脳は、小さな電子チップに多くの機能を詰め込んだスマートフォンのようなものだという説明が、とても分かりやすかった。

    カラスが道具を使ったり、人間の顔を覚えたりするのも、決して偶然ではない。

    鳥が恐竜から進化した生き物だと考えると、私たちは今も、空を飛ぶ恐竜を身近に見ていることになる。

    動物は人間のような言葉を持たない。

    だからといって、知性がないわけではない。

    視覚、嗅覚、聴覚、触覚などを使い、人間とは異なる方法で世界を理解している。

    言葉で説明できることだけが、理解ではない。

    この考えは、動物を見る目だけでなく、人間同士を見る目も変えてくれる。

    これから残るのは、ビジュアル認知のできる人の仕事

    この本を読みながら、私は、これから人間に残る仕事について考えた。

    AIは膨大な言葉を読み、文章を書き、計算し、画像や音楽を作り、図面まで描くようになった。

    これまで学校で高く評価されてきた、知識を覚え、正確な答えを早く出す能力は、今後ますますAIが得意とする分野になっていくだろう。

    その一方で、これから特に必要とされるのは、ビジュアル認知のできる人たちではないかと思う。

    それは、単に絵が上手な人という意味ではない。

    目の前にある物の形や構造、空間の関係を捉え、頭の中で動かし、まだ存在していない姿を想像できる人である。

    小さな変化や違和感に気づく人。

    いくつもの情報を一つの場面として結びつける人。

    言葉や数値には表れていない危険や可能性を感じ取る人。

    相手の表情や動き、周囲の環境を見ながら、状況に合わせて判断できる人。

    そして、AIが出した答えを現実の世界に照らし合わせ、「本当にこれでよいのか」と考え直せる人である。

    AIは、過去に蓄積された膨大な情報から、素早く答えを作る。

    しかし、現実世界は、いつも過去のデータどおりに動くわけではない。

    その場の空気、光、音、匂い、手触り、人の感情など、言葉だけでは説明しきれない情報が無数に存在している。

    人間は、それらを五感で受け取り、全体の状況として認識する。

    これから人間に残る仕事とは、AIより速く答えを出すことではない。

    AIが出した答えを、現実の中で確かめること。

    そこにある違和感を見つけること。

    まだ言葉になっていない問題や可能性を発見すること。

    そして、AIの答えを、人間が生きる世界に合う形へと作り直すことなのだと思う。

    だからこそ、今の教育で見過ごされがちな、物をよく見る子、手を動かすことが好きな子、形や空間に強い子、一つのことに深く没頭する子を、大切に育てなければならない。

    その子たちは、これからのAI時代にこそ必要になる人なのかもしれない。

    AI時代だからこそ、人間を同じ形にしない

    これからAIは、文章を書き、画像を作り、計算し、情報を整理するところまで、ますます進化していく。

    そのような時代に、すべての子どもに同じ内容を、同じ方法で教え、同じ試験で順位をつける教育を続けてよいのだろうか。

    人間には、それぞれ異なる知性がある。

    言葉が得意な人。

    絵で考える人。

    音で感じる人。

    手を動かして理解する人。

    人と人の間をつなぐ人。

    自然の小さな変化に気づく人。

    一つのことを深く掘り下げる人。

    これらの違いを、同じ尺度だけで優劣に分ける必要はない。

    むしろ、AIと伴走する時代には、人間を同じ形にそろえるのではなく、それぞれの違いを見つけ、組み合わせていく力が重要になる。

    AIが人間と同じようになるのを待つのではない。

    人間が、AIにはない自分たちの多様な認知能力を、もう一度見つめ直す時なのだと思う。

    教えるより、まずよく見る

    この本を読んで、私は教育とは何かを改めて考えた。

    教育というと、何かを教えることだと思ってしまう。

    しかし、本当に必要なのは、まず相手をよく見ることなのではないか。

    この子は、何を面白がっているのか。

    何をしているときに表情が変わるのか。

    どんな方法なら理解できるのか。

    その興味を次の学びにつなげるために、大人は何ができるのか。

    孫を見るときにも、若い人と接するときにも、すぐに自分の考えを教えるのではなく、相手がどのように世界を見ているのかを知ろうとすることが大切なのだと思う。

    「この人はできない」と判断する前に、こちらの教え方や伝え方が、その人に合っていない可能性を考える。

    それだけでも、人の見方は大きく変わる。

    言葉で考える人も、絵で考える人も必要である。

    人間だけでなく、動物にもそれぞれの知覚と知性がある。

    そしてAIもまた、人間とは違う方法で情報を処理している。

    これからの社会に必要なのは、どれか一つの考え方だけを正解にすることではない。

    違う考え方が存在することを認め、それぞれの力を持ち寄ることである。

    「できない子」なのではない。

    まだ、その子に合った学びの入り口を、大人が見つけられていないだけなのかもしれない。

    そして、その子が持っている、言葉にはできない「見える力」こそが、AI時代の未来をつくる力になるのかもしれない。

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