20年越しに刺さった一冊『ダッセン』
出会いは曖昧、でも“縁”ははっきり残った
長岡秀貴さんの『ダッセン』は、正直「どこで出会ったのか」をよく覚えていません。
それでも手元に残っていたのは、私の中にどこか「教育」というテーマへの引っかかりがあったからだと思います。
読み始めたのに、途中で一度なくしました。探しても見つからず、「ああ、この本とは縁がなかったのかもしれない」と、いったん区切りをつけました。
ところが、ある日ふっと棚の上から出てきて、何事もなかったように手元に戻ってきた。そこで私は、「本って、こういうことがある」と妙に納得したんです。
本との縁は、こちらが握りしめるものではなく、向こうから“戻ってくる”ことがある。そんな感覚から、この読書は始まりました。
映画が先、本が後…でも、理解は深まった
私は今年、映画『サムライフ』をAmazonプライムで先に観ました。
だから最初は「映画の後追いで本を読む」つもりだったのですが、実際は逆で、映画はこの本の“その後”を描いた作品でした。
順番があべこべになったぶん、読み終えたときに「ああ、そういうことだったのか」と全体がつながりました。
映画で見た場面が、本を読んだことで“背景が増える”感じです。理解が後から追いつくのが、むしろ気持ちよかった。
なお題名については、映画化のタイミングの表紙に「(脱・先生)」と書かれていることを、読みながら思い出しました。
それに加えて私は、カタカナの『ダッセン』という響きから、**「決まった道や型から一度離れてみる」**というニュアンスも重ねて受け取りました。ここは本に書かれている説明ではなく、読んでいる私の側に生まれた感覚です。
読後に残ったのは、静かな前向きさだった
物語の中心にあるのは、「人と同じようにできない」「枠に収まれない」子ども時代の苦しさでした。
けれど暗さだけではなく、本人が自分をどこか冷静に見ているところが印象に残りました。自分の行動も、学校の理不尽さも、「これでいいのか」と考える目が消えていない。だからこそ、先生との出会いが“叱って直す”ではなく、“人生の向きが変わる出会い”になっていくのだと思いました。
私は、長岡さんのようなやんちゃな子ども時代ではありません。
それでも読み進めるうちに、「自分も似た空気を見たことがある」「こういう大人がそばにいたら違ったかもしれない」と思う場面が何度もありました。
そして、子どもや孫が身近になってから、教育の話が「社会の話」ではなく「未来の話」に変わった――この感覚とも重なりました。
昔のやり方のままでは苦しくなる子がいる。だからこそ、寄り添える場所や大人が必要になる。読みながら、そういう当たり前のことを、改めて現実として受け取った気がします。
20年前の本なのに、今の自分にちゃんと届いた。
本は、読む人の“今”に合わせて意味が変わって見えることがある。今回はそれを体験しました。
そして最後に、こう思います。生き辛さの殆どは人間関係だと言われています。言葉を持ったことで、私たちは進化した部分もある。けれど同時に、言葉のせいで、他の生物より劣っているように感じる瞬間もあります。自分の信念を相手に伝えることのむつかしさも、年々強く感じます。だからこそ本は、言葉に振り回されがちな私たちを、もう一度言葉で助けてくれるものとして存在している――そのことを改めて感じました。

