「捨てるために働く」から抜け出したい
「労働が罪」という挑発に、まず“現実”が追いついてきた
『労働なき世界:労働だけが罪であり、余暇だけが世界を救う』――タイトルからして衝撃的だった。労働が罪? さすがに言い過ぎだろう、と思いながら読み始めたのに、読み進めるほど「笑えない」と感じた。
なぜなら、私たちは“必要だから作る”のではなく、“売るために作りすぎて、捨てる”社会に深く入り込んでいるからだ。食料も、服も、日用品も、広告も。捨てられる前提の生産のために、労働も資源も化石燃料も積み上がっていく。気候変動の話になると「それっぽい処方箋」が並ぶのに、肝心の“作りすぎ”には触れないまま、という違和感も残る。
労働は「富を生む」より「富を移す」ゲームになっていないか
著者の主張で刺さったのは、「無意味な労働の多くは、富を生むのではなく、都合よく富を移すためにある」という見立てだ。営業や社内政治、手続き、評価制度――もちろん全部が悪だとは言えない。けれど現代は、「良いものをつくる」より「大したことのないものを、良さそうに見せる」方向にエネルギーが吸い取られていないか。
さらに著者は、実力主義が“金=道徳”の顔をして人を裁く構造も暴く。金がないと、まるで努力も価値もないかのように見られる。でも、現実には家事やケアのように高度で社会に不可欠な仕事が、十分に金に換算されていない。エッセンシャルな仕事ほど「活躍していない」と扱われる倒錯。ここは、強い言葉の本だけれど、見ないふりをしにくい痛点だと思った。
余暇は“生産性のため”じゃない。まず「無意味」を削るためにある
著者はニートを称賛するような調子で、「稼ぐことは後ろめたいくらいでいい」とも言う。ここは正直、私は全面賛同できない。社会や会社は、明日の支払いも現場の責任もある。
ただ一方で、私が賛同したのは「過剰な労働は、人類や社会を良くしない」という一点だ。人は“にんじん”がなくても、意味のある貢献をしたくなる。誰かと食卓を囲む喜び、招く側の満足、助け合いの手触り。そういうものは、稼ぐための競争からは生まれにくい。
だから私の結論はこうなる。「労働ゼロ」を夢見るより、まず“捨てるための生産”と“意味のない手続き”を減らすこと。余暇は生産性を上げる道具ではなく、人間の感性とやさしさを正しく循環させるための土台だ。
この本は常識外れに見える。でも、常識の側がすでに無理をしている時代に入っているのだと思う。読後、私は「働き方を変える」より先に、「何のための仕事か」をもう一度問い直したくなった

