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  • 私の「現実」は脳の作品だった― | 2025.12.25

    『ぜんぶ無意識のせい。』(シンプリィライフ著)で自由の定義がひっくり返った

    この本を読み終えて、最初に出てきた感想は「いま目の前にある世界の手触りが、少し信用できなくなった」でした。シンプリィライフ著『ぜんぶ無意識のせい。』は、私たちが当たり前に頼っている“現実感”の土台を、静かに、でも確実に揺らしてきます。

    冒頭で示されるのは、私たちが知覚している世界は外界をそのまま写したものではなく、脳が受け取った電気信号を材料に組み立てた解釈だ、という見方です。たとえば停車中に隣の車が動くと自分が動いたように感じる錯覚。これは視覚が「事実の提示」ではなく「状況の推定」でもあることを端的に教えてくれます。地球が高速で移動しているのに実感がないのも同様で、私たちは“世界そのもの”ではなく“脳が生成した世界のモデル”を生きている。そう腑に落ちた瞬間、同じ出来事を見ても人によって受け取り方が違うことが、単なる性格差ではなく「世界の立ち上がり方の差」なのだと思えてきました。

    読んでいて特に良かったのは、「心」という曖昧な対象を、できるだけ構造として捉え直そうとする姿勢です。私たちはよく「AIには心がない」と言いますが、そもそも心の定義は揺れている。本書はそこをごまかさず、ユングの枠組み(自我と自己)に触れながら、心が単層ではないことを分かりやすく示します。玉ねぎのように層をなす心――外側に知性があり、その内側に感性や本能、さらに深い領域がある、という説明は、私にとってかなり実感的でした。私たちはつい言語化できる部分(知性)だけで自分や他人を判断しがちですが、意思決定の最後の一押しは、本能や感性の“納得”が握っている。理屈を積み上げても、最終的に「こっちだ」と感じる方へ行ってしまうことがあるのは、そのせいなのかもしれません。

    さらに、脳を三層で捉える整理(身体を守る領域/感情の領域/思考の領域)は、日常の自分を観察するレンズとして役に立ちました。思考は一番上の階にいるようでいて、下の階――感情や身体の反応――に普通に引っ張られる。ここまで読んでくると、「私は自由意思で選択している」という確信が、思ったより脆いものに見えてきます。本書が提示する核心は、むしろそこからで、意思を絶対視するのではなく「意思は幻想かもしれない」と理解することが、逆に自由への入口になる、という提案でした。意思が幻想だと言われると絶望的に聞こえますが、私はむしろ救われました。自分を責める前に、無意識がどんな脚本を書いているかを点検できるからです。

    無意識の「人生脚本」という発想も印象深いところです。人は知らないうちに「自分はきっとこういう人生を送る」と筋書きを書き込み、その筋に沿う選択をしやすくなる。さらに、縁起やバタフライエフェクトを思わせるように、選択は環境や出会い、状況と強く結びついている。自分で選んだと思っていることが、実は“縁”に押し出された結果だった――そう捉えると、過去の出来事の見え方も変わってきます。

    記憶の章も納得感がありました。過去の記憶は「事実の保管庫」ではなく、思い出すたびに編集される。私自身、良い記憶は濃くなり、悪い記憶は薄まっていく(あるいは別の形で尖って残る)感覚があります。過去を固定だと思い込むほど、いまの選択肢が狭くなるのかもしれません。時間についての示唆――私たちが“今”と呼ぶものは、すでに起きた出来事を今起きていると解釈しているにすぎないかもしれない――も、単なる奇抜さではなく、「現実=解釈」という主題の延長として読めました。

    そして最後に、実践として提示される直観力を高める習慣(遊び心/アートと自然/利他/フロー/ジャーナリング)が、観念を日常へ戻してくれます。とくにジャーナリングは、無意識の脚本を“見える場所に持ち出す”行為だと思いました。頭の中にある限り脚本は脚本のままですが、書けば検討できる。編集もできる。

    読み終えて残ったのは、「現実は脳の作品である」という少し怖い結論と同時に、「作品の作り方は更新できる」という静かな希望でした。自由とは、何でも思い通りにする力ではなく、自分を動かしているものを見誤らない力なのかもしれません。では、いまの私の“現実”を形作っている無意識の脚本は、どんな一文から始まっているのでしょう。あなたなら、最初にどの一行を書き換えますか。

  • 今日、何をアップデートする? | 2025.12.24

    「ゲームチェンジ」大前研一|“答えのない時代”をどう生きるか

    最近読んだ、大前研一さんの『ゲームチェンジ』。
    まさにタイトル通り、現代は“新しい局面”に入ったんだと実感させられる一冊でした。

    世界は今「無極化」の時代

    特に印象に残ったのが、「世界は“多極化”ではなく、“無極化”の時代に突入した」という言葉。
    今やどの国のリーダーも「自国ファースト」の姿勢が目立ちます。

    正直なところ、僕自身も「自分の国を第一に考えてくれる」リーダーには魅力を感じることがあります。
    特に混沌とした時代には、“強いリーダー”が頼もしく見えるものです。

    ただ、過去の日本を振り返ってみると、内閣支持率が高いときに「世の中が良くなった」と実感したことは、正直あまりありません。
    むしろ支持率が低いときの方が、さまざまな意見がブレーキとなって、結果的にうまくいったケースもあるように思います。
    だから僕は、「支持率」というより「期待率」と表現する方が、政治を見つめるうえで本質を捉えているんじゃないかと考えています。

    観光立国という視点に納得

    そしてもう一つ共感したのが、日本にとって「観光」がいかに重要かという話。
    2024年には、訪日外国人の国別ランキングで韓国が1位になったそうです。

    メディアではマナーの話題ばかりが取り上げられがちですが、実際には近隣諸国からの観光客が多く来てくれていることに驚きました。
    僕自身、「日本のマナーを理解してから来てよ」と言いたくなることもありますが、そもそも“おもてなし”ってこちらが相手の文化をどれだけ理解しているかにも関わってくるんじゃないかと感じました。

    たとえば僕が旅先で、その土地の人に「○○から来てくれたんですね」「○○って、あの○○が有名ですよね」なんて声をかけられると、一気に心がほぐれて、その町の印象がすごく良くなるんです。
    こうした温かいコミュニケーションが、また訪れたいと思わせてくれるんですよね。

    佐渡島の例に驚き

    わが県の佐渡島も、本の中で紹介されていました。
    これまでに5〜6回しか訪れたことはありませんが、同じ県民としてその魅力は十分感じています。
    ただ、やはり交通の便がネック。

    大前さんは「寺泊〜赤泊に橋をかければいい」という、大胆な発想を提案していて驚きました。
    直線距離で40km、中国や香港では同程度の橋がすでに実現しているそうです。

    観光は、その土地に人が来ない限り成り立ちません。
    モノづくりと違って移転できない産業だからこそ、地域活性の柱としてもっと注目されるべきだと強く思いました。

    教育の話が一番刺さった

    そして最後に、大前さんが「日本が衰退している最大の理由は教育にある」と語っていた点には、深く共感しました。

    特に「知識の詰め込み」や「暗記中心」の学習指導要領が、いまだに変わらず続いているという現状。
    これが原因で、社会に出てから“勉強嫌いな人”を量産している。
    これは僕自身の実感でもあります。

    最近は「リスキリング」や「リスニング」など、大人になってからの学び直しが話題になっていますが、そもそも“学ぶことって楽しいこと”のはず。
    ワクワクするために、知識を深めたり、現地に足を運んで歴史を体感したりする。
    そんな「探究する姿勢」こそ、これからの教育に求められるものじゃないでしょうか。

    まとめ:変わることを恐れず、学び続ける

    この本を読んで、「変化することを恐れず、柔軟に学び続ける姿勢」がいかに大切かを改めて実感しました。
    世界も日本も、そして自分自身も、常に“ゲームチェンジ”の只中にいる。

    これからも日々、考え続け、学び続け、時代の波を自分なりに乗りこなしていきたいと思います。

    🔸あなたは、この“答えのない時代”をどう生き抜いていきますか?

  • 老害を笑うつもりで、少し自分を見てしまった! | 2025.12.23

    『老害の人』を読んで

    ――老害は他人事なのか、それとも未来の自分なのか

    この本を手に取った理由は、実に率直なものだった。
    自分はもう、誰が見ても「老人」と言われる年代にいる。そして同時に、「老害」と呼ばれる側にいてもおかしくない年齢でもある。だからこそ、どんな態度や振る舞いが老害と受け取られるのかを、きちんと知っておきたいと思った。

    本当は、もっと他人事として、少し距離を置きながら面白可笑しく読めると思っていた。
    しかし実際に描かれている人物たちは、私より10歳以上年上の世代が中心で、生活環境や立場も少し違っていた。
    そのため、共感しきれない部分もあり、結果として「やはり他人事」として読んでしまったところが正直な感想だ。

    それでも、私の趣味である写真の会の仲間は同世代が多く、「これは確かにあるな」と思える場面も少なくなかった。
    五人の主人公たちの思考や行動は、それぞれが生きてきた時代や環境を色濃く反映しており、良くも悪くも「そうなってしまうのは仕方がない」と感じる部分がある。同時に、これからの自分の姿を重ねて考えると、多くの気づきを与えてくれた。

    ちょうど本を読んだ時期に、私自身も入院治療を経験した。
    肉体の弱さを知ると、心まで引きずられるように弱くなる。その感覚を身をもって知った今、登場人物たちの不安や執着が、以前よりも現実味をもって迫ってきた。

    戸田福太郎が会社の会長となり、毎日会社に通って自分の居場所を確保しようとする姿は、決して特別な話ではない。
    「最後まで何らかの形で社会と関わり、役に立っていたい」という思いは、私自身にも十分あり得るものだと感じた。だからこそ、今からでも学び続ける姿勢を忘れないでいたいと思えた。

    吉田夫婦の趣味の押し売り――見てほしい、わかってほしいという欲求の表れにも、強く頷かされた。
    今はSNSという発表の場がいくらでもある時代だ。使い方次第では、SNSは高齢者の承認欲求や孤立感を救う手段にもなり得るのではないかと思う。

    春子の死にたがりや無気力な状態は、決して高齢者だけの問題ではない。
    人は誰でも、物事がうまくいかなくなると、自分で自分を追い込み、投げやりになってしまう。年齢を問わず起こり得る心の動きだ。それでも春子が毎回食事を完食している描写に、体はちゃんと生きようとしているという、静かな力強さを感じた。

    村井サキのクレーマー的な行動には、「こういう人、確かにいる」と思わず苦笑した。
    そして、こういう人ほど自分を老害だとは思っていない。その点が一番難しいのだろう。
    多くの役職や立場を終えても、「自分が言ってやらなければ」「指導しなければ」という思考が抜けない姿は、どこか自分自身の鏡のようにも感じられ、静かに反省させられた。

    ここまで読んできて、最後に一つ強く思ったことがある。
    誰でも毎年一歳ずつ年を重ねていく。もし年を重ねること自体が老害なのだとしたら、老害は一歳から始まっていることになる。
    しかし、年齢を重ねただけで、誰かの害になる人間になるわけではない。

    人はどうしても、物事をわかりやすくするためにラベルを貼りたがる生き物だ。
    「老害」という言葉を使うことで、自分をその外側に置き、安心しようとしてはいないだろうか。
    この本を読み終えた今、老害を他人事として切り分けること自体が、少し違うのではないかと感じている。

    大切なのは年齢ではなく、今の自分をどう見つめ、どう振る舞うか。
    その問いを、静かに、しかし確かに突きつけてくる一冊だった。

  • 脳はミュージアムだったーー『脳から見るミュージアム』を読んで考えたこと | 2025.12.11

    『脳から見るミュージアム アートは人を耕す』(中野信子・熊澤弘)を読んで、「脳科学者の中野信子さんが、どうしてこんなにアートを語れるんだろう?」という興味から手に取った一冊が、私の美術館との向き合い方を大きく変えてくれました。

    本書では、人間は太古の時代から貝殻を飾りに使ったり、縄文土器や火焔土器のような「美」を感じさせるものをつくってきた、と語られています。
    生きるために必要だから、というよりも、「きれいだと思うからつくる」という行為が、そもそも人間の特徴なのだと。

    その延長線上に、いまのミュージアムがあります。作品や資料が並ぶその場所は、人類の記憶をしまっておく“脳”のような存在だという視点が、とても印象的でした。

    「何も生み出さないもの」をなぜ残すのか

    同時に、本書はこんな問いも投げかけてきます。

    一見すると何も生み出していないように見えるものを、どうしてわざわざ集めて、ミュージアムにしてまで保存しているのだろう?

    たしかに、ミュージアムは直接お金を生み出す場所ではありませんし、なくても毎日の生活は回っていくように見えます。
    それでも、たくさんの人とお金と時間をかけて、作品を収集し、保管し、展示し続けている。

    中野さんは、その意味を「脳」にたとえます。
    脳もまた、ボーッとしているときですらフル稼働していて、人間のエネルギーのかなりの割合を使っています。それなのに、すぐに“成果”が見えるわけではありません。

    最近の研究では、人類の脳の容積は3万年前と比べて少し小さくなっているという話も出てくるそうです。生き延びるために必要な機能以外から、少しずつ削られていくように。
    もし社会の中で「見えにくいけれど大事なもの」をどんどんカットしていったら、脳が縮むように、国や人類の豊かさそのものもやせ細ってしまうのかもしれません。

    「問をたてながら観る」という、鑑賞のヒント

    本書の中でとても好きになった言葉が、「問をたてながら観る」という鑑賞のしかたです。

    私たちは学校で、美術をこんなふうに習ってきました。

    誰が、いつ、どこで描いた作品か

    どんな時代背景があるのか

    どの美術史上の流れに位置づけられるのか

    もちろんこれも大切なのですが、気づけば「この画家知っている」「この作品は有名だ」といったレッテルで作品を見てしまいがちです。

    そうではなくて、

    私はこの作品のどこに目がいったんだろう

    なぜここが好き/なんとなく苦手だと感じるんだろう

    どうして作者はこんな表現を選んだのかな

    と、子どものような素朴な問いを、自分の中に立ち上げながら観てみること。
    そうすると、美術館で過ごす時間が、知識の確認ではなく「自分の感性と対話する時間」になっていく気がします。

    これからの美術教育は、感性を押しつぶさないように、むしろ育てていく方向に変わっていくといいな、とあらためて思いました。

    倫理ではなく「美意識」で考えてみる

    今回一番心に響いたのは、行動の基準についての話でした。

    中野さんは、「行動の規範を“正しい/正しくない”ではなく、“美しい振る舞い/醜い振る舞い”で考えてみる」という提案をしています。

    自分の欲を少し節制してみることや、相手を思って品よく振る舞おうとすること。
    それを「倫理だから守るべき」と言われると、どこか“お勉強”のように感じてしまいますが、

    それって、美しいかな? それとも、ちょっと醜いかな?

    と自分に問いかけてみると、すっとお腹のあたりに落ちてくる感じがあります。

    正直なところ、「みんなで倫理観を学びましょう」という言葉に、私はずっと少しだけ違和感がありました。
    頭では大事だとわかっているのに、どこか窮屈なような、壁を作られてしまうような感覚があったからです。

    そこで出てきたのが、「美意識」ということばです。
    私たちがこれまで出会ってきたアートや、風景や、人のふるまいが、「美の記憶」として心のどこかに残っている。
    その一つ一つが、これから自分がどう振る舞うかを考えるときの、静かな物差しになってくれるーー。

    この考え方に触れたとき、今まで言葉にならなかったモヤモヤに、ようやく名前がついたような気がしました。
    「倫理を学ばなきゃ」と力むのではなく、自分の中の美意識を少しずつ耕していくこと。それなら、私も続けていけそうだなと思えたのです。

    何度でも生まれ変わるために、美術館へ行きたい

    中野さんは、アートは10年後、50年後、100年先の社会の安定のためにも必要だと語ります。
    美を持たない種族より、美を持っている種族のほうが、生き残る可能性が高いのではないか、と。

    そう考えると、「役に立たない」と見えてしまいがちなアートやミュージアムも、私たちが人間らしく生き続けるために、実はとても大事な場所なのだと感じます。

    同じ美術館に何度行っても、そのたびに違う問いを持って作品の前に立てば、
    人は何度でも、少しずつ生まれ変わっていけるのかもしれません。

    この本は、そんなふうにアートと向き合っていくための、私にとっての「道しるべ」になりました。
    次にミュージアムへ行くとき、あなたはどんな小さな「問い」をひとつだけ持って、作品の前に立ってみたいですか?

  • 「あなたは私、私はあなた」——スピリチュアル本が教えてくれた、心の見つめ方 | 2025.12.09

    『人類は1人から始まった』を読んで気づいた、“自分の心と向き合う”という課題

    J.VISION著『人類は1人から始まった』は、スピリチュアル系の本ではありますが、読みながら何度も立ち止まって考えさせられる一冊でした。

    本の根底に流れている問いは、とてもシンプルです。
    「私たち人間は、自分がどこから来たのかも、今なぜここにいるのかも分からない。」
    この当たり前すぎて見過ごしてしまう問いを、あえて真正面から考えよう、と著者は促してきます。

    ソクラテスの「無知の知」の話も出てきます。
    自分は何も知らない、という出発点に立てるかどうか。
    歳を重ねるほど、この言葉の重さをひしひしと感じるようになりました。

    情報の海に溺れそうな私たちと、「自分で考える力」の不足

    本を読みながら、何度も思い当たったのは、私たち人間の弱さです。

    すぐ誰かの悪口を言ってしまう(口に出さなくても、心の中で)

    不都合なことは「敵」のせいにしてしまう

    自分を安全圏に留めるために、都合よく「敵」を作り出す

    著者は、「自分で考える力」「自分の心で感じ取る力」が圧倒的に足りない、と指摘します。
    今の時代、私たちは“わかりすぎるほどの情報の海”の中にいます。耳障りのいい言葉はいくらでも流れてきますが、自分の中に湧いた疑問を放置してはいけない——これは私自身、常々自分に言い聞かせてきたことでもあります。

    AIと共に生きると決めたからこそ、なおさら「自分で深く考えること」には頑固でいたい。
    誰かの“用意されたゴール”に便乗するのではなく、自分で問い、自分で確かめていきたいのです。

    「心が主で、肉体が従う」というメッセージの痛み

    本の中で、特に胸に刺さったのが
    「私たちは心の存在なのだ。心が主で、肉体はそれに従っているだけ」
    という考え方でした。

    「体が病気になるのは、あなたの心に従った結果に過ぎない」という一文は、来週から入院する予定のある自分には、とても耳の痛い言葉でした。

    もちろん、病気には医学的な原因もありますし、何もかもを“心のせい”にして自分を責めるつもりはありません。ただ、
    「自分の心の在り方が、今の自分の生き方や身体の使い方に影響しているのではないか」
    と静かに振り返るきっかけにはなりました。

    「心を変えない限り、同じ人生が続く」というメッセージにも、深くうなずかされました。
    現実を変えようとする前に、まず自分の心と向き合うこと。
    この順番を、私はずっと逆にしていたのかもしれません。

    「あなたは私、私はあなた」——赦しという、いちばん難しいテーマ

    本書が繰り返し語るのが、「赦し」の重要性です。
    私たち人間は、赦せない人を探す天才であり、敵を作り出すようにできている。だから戦争はなくならないし、過去の過ちから学べない——著者の言葉は、とても厳しいものです。

    他人のせいにする

    他人の粗探しをする

    誰かを「悪人」に仕立てる

    これらはすべて、自分を守るための「罪悪感の投影」であり、恐怖から生まれた自己防衛なのだといいます。
    「あなたが嫌う人は、あなたの外にはいない。すべてはあなたの心の中で起きていること」
    この指摘は、ぐうの音も出ないほどでした。

    印象的だったのは、「あなたは私、私はあなた」という視点です。
    これがないと、「私は私」「あなたはあなた」という、エゴで物事を切り取る世界になってしまう。
    実際、私もずっと「私は私!」で生きてきました。
    だからこそ、心優しい人ほど生きづらくなり、世界全体がギスギスしてしまうのかもしれません。

    これからは、「あなたは私」という視点を、少しずつでも持ってみたい。
    赦せないとき、心は地獄にいるようなもの——その表現が、妙にリアルに感じられました。

    「本当の愛」と「謙虚さ」、そして自分の鼻くそ

    著者は、私たちはまだ「本当の愛」を知らないと言います。
    本当の愛には、謙虚さと、素直に他者から学ぼうとする姿勢が必要だと。

    歳を重ねるごとに態度は大きくなり、聞く耳を持たない“老害”に自分もなっているかもしれない——この部分は、笑えない自己反省でした。
    語れるとしたら「エゴの愛」「条件付きの愛」ばかり。
    それに気づくこと自体が、すでに一歩なのかもしれません。

    極めつけは、「自分の鼻くそを他人に擦り付けて生きてきたようなものだ」という表現。
    他人の心ばかり覗いて、怒ったり嘆いたりしてきた自分が、初めて「自分の心をちゃんと見よう」と思えた瞬間でした。

    おわりに:これからは「自分の心」ともっと話をしてみる

    『人類は1人から始まった』は、宗教観や宇宙観を語りつつも、最後はとても個人的な問いに戻ってきます。
    「あなたは、自分の心ときちんと向き合っていますか?」
    と。

    この本を読み終えて感じたのは、
    他人を変えることも、世界を一気に変えることもできないけれど、
    「自分の心の捉え方」は、いつでも変えることができるということでした。

    嫌な人をどう意味づけるのか

    起きた出来事をどう受け取るのか

    赦すのか、赦さないままでいるのか

    その選択は、すべて自分の心に委ねられています。
    だからこそ、これからは「自分との会話」をもっと大事にしていきたい。
    この本は、そんなこれからの生き方の方向を、静かに指し示してくれた一冊でした。

    あなたは最近、「自分の心」とゆっくり話をする時間を持てていますか?

  • 窓を開けるように、生き方を整える――『「そうじ力」ですべてうまくいく』と老子から考える「徳」と習慣 | 2025.12.08

    近年、「掃除」が自己啓発や運気アップの文脈で語られる場面が増えました。
    舛田光洋さんの『「そうじ力」ですべてうまくいく』も、その代表的な一冊です。

    掃除を通して「運をよくする」「人生を好転させる」といったメッセージには、正直なところ少し懐疑も感じつつ、それでも心に引っかかる部分があり、考えさせられる読書でした。

    「部屋=自分」? 掃除で心が切り替わるという発想

    著者は、「部屋を通して自分の現状を見て、心を変える」ことができると説きます。

    部屋が変われば、心が変わる

    心が変われば、行動が変わる

    行動が変われば、人生が変わる

    リビングは人間でいう心臓、トイレは感謝と謙虚さ、ガラス窓には対人関係、キッチンは愛の生産工場――。
    部屋のあちこちに意味づけをすることで、「掃除=自分と向き合う時間」という構図が見えてきます。

    「なんとなくモノを所有していると、人生も『なんとなく』になってしまう」という指摘には、耳の痛さも感じました。必要かどうか、好きかどうかを基準にモノを選ぶというのはシンプルですが、実際にやろうとすると迷いが出ます。そこにこそ、自分の価値観や怖れがあらわれるのかもしれません。

    「そうじ=徳積み」への違和感と、それでも残る共感

    本書を読みながら、私が一番ひっかかったのは、「掃除をすれば運がよくなる」「徳が積める」といったニュアンスが前面に出ている点でした。

    掃除をがんばる
    → いいエネルギーが集まる
    → だから運がよくなる、成功する

    この直線的な図式には、どうしても少し身構えてしまいます。
    「掃除している自分」をアピールしたくなった瞬間、それはもう純粋な徳ではなく、「見せたい自分」「評価されたい自分」が入ってくるのではないか、と感じるからです。

    一方で、まったく否定しきれない共感もあります。
    汚れた部屋にいると気分が重くなり、片づいた空間にいると肩の力が抜ける。換気をすると頭がすっきりし、水回りを磨くと自分もシャキッとする――。こうした体感レベルの変化までは、「スピリチュアルだから」と切り捨てることもできません。

    つまり私にとっての「そうじ力」は、
    ご利益的な「徳積み」には疑問を覚えつつも、心身への影響そのものは確かにある、という微妙なバランスの上にあります。

    倫理観を整える「装置」としての掃除

    本書の中で私が納得したのは、「掃除=倫理観を整える行為」という側面です。

    何を残し、何を捨てるかを決める

    自分が使った場所を、自分で元に戻す

    怒りやモヤモヤを、拭き掃除や換気という形で外に流す

    これらは「いい人になるための儀式」というより、
    自分の内側を点検し、調律するための習慣として理解すると、すっと入ってきます。

    とくに「無念無想でただ拭く」というあり方は、老子の言う自然体の姿にも少しつながるように感じました。頭の中で正しさや成果を計算するのではなく、いま目の前の汚れをただ取る。そのシンプルさの中に、倫理観の根っこがある――そんな感覚です。

    老子の視点から見た「そうじ力」

    読みながら思い出したのが、老子の

    上徳は徳とせず、下徳は徳を失う

    という趣旨の言葉です。
    本当に徳のある人は「徳を積もう」と意識しない。逆に「徳を積もう」と意識して動くと、それはもう下位の徳になる、という考え方です。

    この視点から見ると、
    「掃除をすれば運が上がるから、みんなやるべきだ」という発想は、どこかで徳を“広報”してしまう危うさを含んでいるように感じます。

    では、どう捉えればいいのか。
    私は、次のように少し意味をずらして受け取るのがしっくりきました。

    × 運を上げるために掃除する

    ○ 今ここを気持ちよく生きるために、自然に掃除に手が伸びる状態を目指す

    老子的な感覚で言えば、掃除は「しなければならない修行」ではなく、
    自分の感覚が素直になった結果として、自然とやってしまう行為であってほしいのだと思います。

    まとめ――「運気アップ」よりも、「今の自分の状態を映す鏡」として

    本書に書かれているような「エネルギー」「運気」といった言葉には、少し距離を置きたい気持ちもあります。それでも、部屋の状態が自分の状態を映す鏡になる、という視点は、やはり無視できないものがありました。

    なんとなく置いてあるモノ

    なんとなく閉め切ったままの窓

    なんとなく見て見ぬふりをしている汚れ

    これらをひとつずつ見直していくことは、「なんとなくの人生」から一歩抜け出していくプロセスなのかもしれません。

    まずは完璧を目指さず、
    「今日は窓を開けてみる」「水回りだけ磨いてみる」
    といった小さなそうじから、自分なりの「そうじ力」を試してみるのがちょうどいい。そんなふうに感じた一冊でした。

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