脳はミュージアムだったーー『脳から見るミュージアム』を読んで考えたこと
『脳から見るミュージアム アートは人を耕す』(中野信子・熊澤弘)を読んで、「脳科学者の中野信子さんが、どうしてこんなにアートを語れるんだろう?」という興味から手に取った一冊が、私の美術館との向き合い方を大きく変えてくれました。
本書では、人間は太古の時代から貝殻を飾りに使ったり、縄文土器や火焔土器のような「美」を感じさせるものをつくってきた、と語られています。
生きるために必要だから、というよりも、「きれいだと思うからつくる」という行為が、そもそも人間の特徴なのだと。
その延長線上に、いまのミュージアムがあります。作品や資料が並ぶその場所は、人類の記憶をしまっておく“脳”のような存在だという視点が、とても印象的でした。
「何も生み出さないもの」をなぜ残すのか
同時に、本書はこんな問いも投げかけてきます。
一見すると何も生み出していないように見えるものを、どうしてわざわざ集めて、ミュージアムにしてまで保存しているのだろう?
たしかに、ミュージアムは直接お金を生み出す場所ではありませんし、なくても毎日の生活は回っていくように見えます。
それでも、たくさんの人とお金と時間をかけて、作品を収集し、保管し、展示し続けている。
中野さんは、その意味を「脳」にたとえます。
脳もまた、ボーッとしているときですらフル稼働していて、人間のエネルギーのかなりの割合を使っています。それなのに、すぐに“成果”が見えるわけではありません。
最近の研究では、人類の脳の容積は3万年前と比べて少し小さくなっているという話も出てくるそうです。生き延びるために必要な機能以外から、少しずつ削られていくように。
もし社会の中で「見えにくいけれど大事なもの」をどんどんカットしていったら、脳が縮むように、国や人類の豊かさそのものもやせ細ってしまうのかもしれません。
「問をたてながら観る」という、鑑賞のヒント
本書の中でとても好きになった言葉が、「問をたてながら観る」という鑑賞のしかたです。
私たちは学校で、美術をこんなふうに習ってきました。
誰が、いつ、どこで描いた作品か
どんな時代背景があるのか
どの美術史上の流れに位置づけられるのか
もちろんこれも大切なのですが、気づけば「この画家知っている」「この作品は有名だ」といったレッテルで作品を見てしまいがちです。
そうではなくて、
私はこの作品のどこに目がいったんだろう
なぜここが好き/なんとなく苦手だと感じるんだろう
どうして作者はこんな表現を選んだのかな
と、子どものような素朴な問いを、自分の中に立ち上げながら観てみること。
そうすると、美術館で過ごす時間が、知識の確認ではなく「自分の感性と対話する時間」になっていく気がします。
これからの美術教育は、感性を押しつぶさないように、むしろ育てていく方向に変わっていくといいな、とあらためて思いました。
倫理ではなく「美意識」で考えてみる
今回一番心に響いたのは、行動の基準についての話でした。
中野さんは、「行動の規範を“正しい/正しくない”ではなく、“美しい振る舞い/醜い振る舞い”で考えてみる」という提案をしています。
自分の欲を少し節制してみることや、相手を思って品よく振る舞おうとすること。
それを「倫理だから守るべき」と言われると、どこか“お勉強”のように感じてしまいますが、
それって、美しいかな? それとも、ちょっと醜いかな?
と自分に問いかけてみると、すっとお腹のあたりに落ちてくる感じがあります。
正直なところ、「みんなで倫理観を学びましょう」という言葉に、私はずっと少しだけ違和感がありました。
頭では大事だとわかっているのに、どこか窮屈なような、壁を作られてしまうような感覚があったからです。
そこで出てきたのが、「美意識」ということばです。
私たちがこれまで出会ってきたアートや、風景や、人のふるまいが、「美の記憶」として心のどこかに残っている。
その一つ一つが、これから自分がどう振る舞うかを考えるときの、静かな物差しになってくれるーー。
この考え方に触れたとき、今まで言葉にならなかったモヤモヤに、ようやく名前がついたような気がしました。
「倫理を学ばなきゃ」と力むのではなく、自分の中の美意識を少しずつ耕していくこと。それなら、私も続けていけそうだなと思えたのです。
何度でも生まれ変わるために、美術館へ行きたい
中野さんは、アートは10年後、50年後、100年先の社会の安定のためにも必要だと語ります。
美を持たない種族より、美を持っている種族のほうが、生き残る可能性が高いのではないか、と。
そう考えると、「役に立たない」と見えてしまいがちなアートやミュージアムも、私たちが人間らしく生き続けるために、実はとても大事な場所なのだと感じます。
同じ美術館に何度行っても、そのたびに違う問いを持って作品の前に立てば、
人は何度でも、少しずつ生まれ変わっていけるのかもしれません。
この本は、そんなふうにアートと向き合っていくための、私にとっての「道しるべ」になりました。
次にミュージアムへ行くとき、あなたはどんな小さな「問い」をひとつだけ持って、作品の前に立ってみたいですか?

