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  • 怒りと欲を抱えたまま、それでも生きる意味を考える | 2026.03.30

    きれいごとでは生きていないという前提

    この本を読んであらためて感じたのは、人間はきれいごとだけでは生きられないのではなく、そもそもきれいごとでは生きていない存在だということでした。

    人はつい、自分はそれなりに善く生きていると思いたくなります。誰かに親切にしたこと、真面目に働いてきたこと、人に迷惑をかけないようにしてきたこと。そうしたことを積み重ねながら、自分なりに誠実に生きてきたつもりでいます。けれどこの本は、そんな自分の見方をかなり厳しく問い直してきます。

    人間の中には、欲や怒りや愚痴の心が常にうごめいている。どんなによい人に見える人でも、その心から完全に自由ではない。仏教でいう三毒の話ですが、これはただ古い教えとして読むのではなく、自分の日々に引き寄せてみると、とても重いものがあります。

    特に心に残ったのは、言葉のことでした。言葉は人を励ますこともできますが、その一方で、人を深く傷つける刃にもなる。しかも厄介なのは、言った本人が気づいていないことも多いということです。私自身も、これまでどれだけ多くの人を言葉で傷つけてきたのだろうかと思わされました。悪気がなくても、正しさのつもりでも、相手の心には痛みとして残ることがある。その現実は軽くありません。

    生きることそのものの重さを思う

    また、人は生きるために、他の命を奪わずにはいられないという話も胸に残りました。肉や魚だけではない、植物もまた命です。さらに今の時代でいえば、森林伐採や環境破壊、便利さの裏で失われていく生き物たちのことまで含めれば、人間は「罪悪を作らずして生きていけない」という言葉の重みが、ただの観念ではなく現実として迫ってきます。

    自分の手で直接何かをしていなくても、社会の仕組みの中で、その一端に加わりながら生きている。そのことを見ないふりはできないと思いました。人間は悪人だから駄目だ、と突き放すための話ではなく、人間がそもそもそういう存在であることを知ったうえで、ではどう生きるのかを考えさせる本なのだと感じます。

    自分を善人と思い込んだままでは見えないものがある。自分の内側にある醜さ、弱さ、愚かさを認めて初めて、人生の意味を問う入り口に立てる。そんな厳しさを持った本でした。

    それでも生きる意味を考えたい

    本書の後半は、阿弥陀仏の本願、そして人間に生まれた唯一の目的へと話が進んでいきます。このあたりは宗教的な話になりますが、私には単なる宗教の勧めというより、東洋哲学として読むことができました。

    人は老い、病み、そして死ぬ。その避けられない現実の中で、何を拠りどころにして生きるのか。何のために生まれてきたのか。その問いは、時代が変わっても消えることのない、人間の根本の問いなのだと思います。

    振り返れば、人生には山も谷もあります。仕事でも家庭でも、うまくいくことばかりではありません。多くの人に囲まれていても、ふとした瞬間にどうしようもない孤独を感じることもある。その姿を、本書では「無人の荒野を一人で行く旅人」と表現していましたが、このたとえはとても印象に残りました。人は結局、自分の人生を自分で引き受けて生きるしかない。その孤独から目をそらさずに見つめることもまた、人生の目的を考える一歩なのだと思います。

    私は、こういう本をたまに読みたくなります。世の中への怒りや不安、自分の心のざわつきが大きくなったとき、いったん立ち止まって、自分を見つめ直したくなるからです。宗教書として読むというより、自分を顧みるための本として読む。そうすると、この本が語っていることは決して遠い話ではなく、日々の自分にそのまま返ってくる問いになります。

    人は怒りと欲を抱えたまま生きていく。きれいごとでは生きていない。その現実をまず認めること。そして、そのうえでなお、生きる意味を考えること。
    この本は、その出発点を静かに、しかし厳しく示してくれる一冊でした。

  • 弱さは、静かに残る | 2026.03.27

    稲垣栄洋 著『雑草はなぜそこに生えているのか』を読んで

    この本を読んで、私は雑草を見る目が少し変わりました。
    これまで雑草というと、どこにでも生えて、踏まれてもたくましく立ち上がるもの、そんなイメージを持っていました。けれどこの本は、その見方を静かに、しかし見事に覆してくれました。

    まず印象に残ったのは、植物にとっても「親離れ」が大切だという話です。
    人間だけでなく、植物もまた、自分で生きていく力を持たなければならない。そんな当たり前のようでいて深い話に、私は強く惹かれました。植物の世界もまた、私たち人間の社会とどこか似ているのだと思いました。

    さらに面白かったのは、いわゆる雑草の多くが、日本古来の植物ではなく、海外から入ってきた帰化植物だということです。
    外国から来た植物がこの土地に根を張り、環境に適応し、日本の風景の一部になっていく。その姿は、人間社会における多様性や共生にもどこか通じるものがあるように感じました。違う場所から来たものが、この土地に馴染み、新しい風景をつくっていく。雑草の話なのに、社会そのものを考えさせられました。

    とくに興味深かったのは、セイヨウタンポポとニホンタンポポの違いです。
    セイヨウタンポポは長い期間花を咲かせ、あちこちに広がっていく。一方でニホンタンポポは、春に花を咲かせたあと、夏になると夏眠に入る。つまり、暑さや競争の激しい季節を、あえて眠るようにやり過ごすのです。
    この話を読んで、ずっと頑張り続けなくてもいいのだと思いました。ずっと咲き続けなくてもいい。自分が力を発揮できる季節に咲けばいい。勝負する時期を見極めることも、生きる知恵なのだと教えられた気がしました。

    そしてこの本の中で、私が特に心を動かされたのは、「雑草は踏まれても立ち上がる」という言葉は、正確ではないという指摘でした。
    本当の雑草は、踏まれたら踏まれた中で、どうすれば傷を少なくして生きられるかを考えている。わざわざ無駄なエネルギーを使って立ち上がるのではなく、最初から地面に広がるように生きるものもある。
    これは人間にも通じる話だと思いました。私たちはつい、もっと成長しなければならない、もっと強くならなければならない、もっと上を目指さなければならない、と考えがちです。けれど、生きるということは必ずしも立ち上がることばかりではない。環境に合わせながら、傷を少なくし、自分なりのやり方で生き延びることも立派な戦略なのだと思いました。

    また、「ナンバーワンか、オンリーワンか」という話も非常に印象に残りました。
    人間の社会では、オンリーワンが大事だと言われることがあります。けれど植物の世界では、ただきれいごとでは生き残れない。結局は、その場所、その環境の中で勝たなければならない。
    ただし、真正面からすべてと戦うのではなく、棲み分けることで自分の居場所を見つけ、その中でナンバーワンになる。この考え方は、まさに会社経営にも通じると思いました。
    自分たちがどこで戦うのか。どこなら勝てるのか。どの土俵なら力を発揮できるのか。何でも一番を目指すのではなく、自分たちの棲み分けを見つけ、その中で一番になる。これはまさに、ニッチでナンバーワンになるということです。そして、そのナンバーワンが結果としてオンリーワンにもなるのだと思いました。

    植物が「助け合っている」ように見える姿も、道徳ではなく、生きるための戦略だという話にも考えさせられました。
    植物には法律もなければ倫理もありません。それでも互いに関わり合い、全体のバランスの中で生きている。自分だけが得をしようとして生態系を壊せば、結局それは自分にも返ってくる。
    これは会社も社会も同じだと思います。パートナーと支え合いながら、全体の中で自分も生きる。その感覚を植物たちは理屈ではなく、当たり前のように実践しているのだと感じました。

    そして本の終わりの方で語られていた、「教える力より、教えない力が大切だ」という話も心に残りました。
    今はAIを含め、答えをすぐに得られる時代です。けれど、その前に「なぜだろう」と思う力、「面白い」と感じる力、「自分で問いを持つ力」がなければ、本当の学びにはならないのだと思います。
    すぐに正解を与えず、問いが生まれるのを待つこと。これは教育だけでなく、仕事でも、組織でも、上に立つ人間に必要な姿勢なのだと感じました。

    雑草は小さく、目立たず、つい見過ごしてしまう存在です。
    けれど、その一つひとつに驚くほどしたたかな戦略があり、無駄のない生き方があり、ちゃんとした居場所があります。
    この本を読みながら私は、会社も人も、そして水槽の中の魚でさえ、それぞれの世界の中でどう子孫を残し、どう生き延びるかを考えているのだと思いました。
    会社もまた、永続的に残ることが大事です。そのために何を学び、どんな疑問を持ち、どう解決策を見つけていくのか。考える力を持ち続けなければならない。そんなことまで、この一冊の本は雑草を通して教えてくれました。

    道ばたに生えている何気ない草にも、それぞれ生える理由があり、戦略があり、棲み分けがあり、居場所がある。
    そう思うと、これからは雑草を雑に見ることができなくなりそうです。
    この本は、植物の本であると同時に、生き方の本であり、経営の本であり、学び方の本でもありました。
    とても面白く、そして深く考えさせられる一冊でした。

  • 写真は被写体だけでなく、撮る人も写している | 2026.03.26

    ワタナベアニ著『カメラは、撮る人を写しているんだ。』を読んで

    この本は、題名を見た瞬間に引っかかりました。
    「カメラは、撮る人を写しているんだ。」
    なるほど、そうかもしれない。そう思う一方で、どこか哲学的でもあり、写真を長く楽しんできた自分には見過ごせない言葉でした。

    実際に読んでみると、とても面白かったです。
    カメラの技術論や写真の上手下手だけではなく、もっと根っこのところ、つまり「なぜ人は写真を撮るのか」「何が写るのか」「いい写真とは何か」というところまで話が及んでいて、何度も頷きながら読みました。

    私は趣味でずっと写真をやってきました。
    旅に出て撮る、季節を追って撮る、何度も同じ場所へ足を運んで撮る。
    そして今は、撮った写真をインスタに上げたり、リール動画を作ったり、自分なりに言葉や音楽まで添えて楽しんでいます。
    そんな自分にとって、この本は「写真を撮る」という行為を、もう一段深いところから見せてくれる本でした。

    「映え」にも、白と黒があるという話

    特に面白かったのは、「映え」にも白い映えと黒い映えがある、という話です。

    他人から褒められるだろう、うまいと言われるだろう、すごいと思われるだろう。
    そういう気持ちが先に立って撮る写真は“黒い映え”。
    それに対して、自分の中から自然に湧いてきた「撮りたい」という衝動で撮る写真は“白い映え”。

    この表現は、実に言い得て妙だと思いました。

    今は誰でも写真を発信できる時代です。
    スマホでも撮れるし、その場で上げられる。
    評価も反応もすぐ返ってくる。
    だからこそ、つい「見せるための写真」に引っ張られてしまうことがあります。

    私自身も、インスタに写真を上げ、動画を作り、言葉を添えている人間ですから、その感覚はよくわかります。
    でも、結局あとで自分の中に残るのは、自分が本当に惹かれて撮った一枚なんですね。
    人からどう見られるかではなく、自分の心がちゃんと動いていたかどうか。
    その違いは、やはり写真に出るのだと思います。

    上手に撮ろうとしすぎると、かえって写真が痩せる。
    理屈や知識が先に立ちすぎると、写真の中から自分がいなくなる。
    そんなことを、この本は改めて教えてくれました。

    同じ場所へ何度も行く意味

    この本には、写真は一瞬のものだという感覚も流れています。
    絵のように時間をかけて描くのではなく、その瞬間にしかない光、その瞬間にしかない空気、その瞬間にしかない表情を切り取る。
    だから面白いし、難しい。
    そして、そこに写真ならではの醍醐味がある。

    私はこの感覚にもとても共感しました。

    同じ場所に何度行っても、同じ写真にはなりません。
    天気も違う。光も違う。風も違う。
    そこに立つ自分の気分も違う。
    だから、同じ景色を見ているようでいて、実は毎回違うものに出会っているのだと思います。

    写真をやっていると、同じ場所へ何度も行きたくなる理由が自分でもよくわかります。
    それは景色を確認しに行くのではなく、また違う表情に会いに行くからなんですね。
    その日、その時、その場所に立ち会わない限り、撮れない写真がある。
    私は昔から、その“立ち会わないと撮れないもの”にいちばん魅力を感じてきました。

    高性能なカメラもいい。
    スマホで気軽に撮れるのもいい。
    どちらが正しいという話ではなく、結局は「自分がその瞬間に心を動かされたか」が大事なのだと思います。
    写真は機材の競争ではなく、出会いの記録なのだと、あらためて思いました。

    いい写真には、その人が写っている

    この本の中で、いちばん印象に残ったのはやはりここです。
    「いい写真には、撮った人が写っている」ということ。

    もちろん、実際に撮影者の顔が写るわけではありません。
    けれど、その人が何に惹かれたのか、何を愛おしいと思ったのか、何に立ち止まったのか、その人のまなざしは確実に写真に残る。
    著者は、カメラには前だけでなく後ろにもレンズがついていて、被写体を撮りながら、実は撮っている人自身も写しているのだ、というようなことを言います。
    これは本当に深い言葉だと思いました。

    私は孫の写真もよく撮ります。
    その時、自分では孫を撮っているつもりです。
    でもこの本を読んで、ああ、そうじゃないんだなと思いました。
    孫を見つめている自分の気持ち、成長をうれしいと思う気持ち、今この瞬間を残したいという願い、そういうものまで写真には写っているのだと。

    そう考えると、写真はただの記録ではありません。
    その時の自分の生き方や、その時の自分の心のありようまで、そっと封じ込めているものなのだと思います。

    誰かの古い家族写真を見た時に、そこに写っていないはずの親の気配や、撮っている人の愛情を感じることがあります。
    あれはきっと、写真の中に“その人”がちゃんと写っているからなのでしょう。

    写真を通して、自分の人生を味わっている

    この本を読んで、私は改めて思いました。
    自分は写真が好きなんだな、と。
    そして、写真に出会えて本当によかったな、と。

    写真は、ただ景色を記録する趣味ではありませんでした。
    旅を深くしてくれた。
    季節に敏感にしてくれた。
    何気ない一瞬を見逃さない目を育ててくれた。
    そして、自分の人生に、確かな楽しみを与えてくれた。

    今はそこに、SNSもあります。
    インスタもあります。
    リール動画もあります。
    しかも、リール動画のBGM音楽までAIを使って、作詞・作曲・編曲し、AIボーカロイドで歌わせるところまで自分なりに楽しめるようになりました。写真に言葉と音を添えて、自分なりの作品としてまとめられる。こんなことができる時代に生きていること自体、私はありがたいと感じています。

    ずっと写真をやってきたこと。
    趣味として続けてきたこと。
    それが今、別の形でも花開いている。
    それはとても幸せなことだと思います。

    そしてもう一つ、この本を読んで強く感じたのは、写真には写真以外の蓄積が必要だということです。
    本を読むこと。
    旅をすること。
    人に会うこと。
    時代のことを考えること。
    歴史や自然や人間のことに心を向けること。
    そういう写真以外の積み重ねが、結局は写真の厚みになるのだと思います。

    だから私は、写真だけをやっていればいいとは思いません。
    読書も好きですし、いろいろなものを見聞きして、自分の中に少しずつ溜めていきたい。
    その蓄積が、ある日一枚の写真の奥行きになって現れる。
    そんな気がしています。

    「カメラは、撮る人を写しているんだ。」
    この言葉は、読み終えてからのほうが、むしろ強く残りました。

    写真を撮るということは、目の前の景色を写しているようでいて、
    本当は、自分が何を愛し、何に心を動かされ、どう生きているのかを写しているのかもしれません。

    そう思うと、ますます写真が好きになります。
    そして、これからも撮り続けたいと思います。
    うまく撮れるかどうかよりも、自分が心から「撮りたい」と思える瞬間に、ちゃんと立ち会いながら。

  • わかるより、わからないが増えていく豊かさ | 2026.03.25

    深井龍之介・野村高文 著『視点という教養』を読んで

    視点を増やすことは、変化の時代を生きる力になる

    『視点という教養』を読んで、あらためて感じたのは、世界はひとつの物差しではとても測れないということでした。
    量子力学、仏教、歴史学、宗教学、脳科学、教育。こうして並べると一見別々のテーマのようですが、この本ではそれらがすべて「世界をどう見るか」という一点でつながっていました。

    私は長く仕事をしてきて、今ほど「多面的情報収集」が必要な時代はないと感じています。
    業界の常識も、働く環境も、技術も、お客様の価値観も、想像を超える速さで変わっています。昨日まで通用した見方が、今日はもう通用しない。
    そんな時代に必要なのは、何か一つの正解を握りしめることではなく、視点を増やし続けることなのだと、この本を読んで強く思いました。

    私たちはつい、物事に名前をつけ、分類し、理解したつもりになります。
    けれど本当は、その瞬間にこぼれ落ちるものがある。世界を固定的に理解しようとすればするほど、見えなくなるものがある。
    この本は、そのことを何度も静かに教えてくれました。

    教養とは、知識を増やして賢く見せることではなく、自分が見えていないものの存在に気づくことなのかもしれません。
    本を読み、学べば学ぶほど、自分が無知であることを知らされる。けれど私は、それを不安ではなく、むしろ豊かさだと思っています。
    なぜなら、わからないことが増えるということは、それだけ世界に対する解像度が上がっているということだからです。

    「卒近代」という言葉が、これからの経営と重なった

    この本の中で、私が妙に共感したのが「卒近代」という考え方でした。
    近代は、合理性、効率、進歩、成長を大切にして社会を押し上げてきました。その恩恵は間違いなく大きい。けれどその一方で、人間を数字で測り、減点主義で評価し、失敗しないことばかりが重んじられる社会も生んできたのではないかと思います。

    経営の現場でも、それはよく感じます。
    短期的な利益だけを追えば、もっともらしい答えは出せるかもしれない。けれど、それでは長く続かない。取引先をだまし、従業員を疲弊させ、お客様の思いより会社の都合を優先することが、もし“最適解”になってしまうなら、それはどこかで必ず行き詰まる。
    この本の中で語られていた仏教の視点や、長い時間軸で他者との関係を見る視点は、まさに今の経営に必要なものだと感じました。

    私は以前から、五十嵐工業は単なる製品作りの会社で終わってはいけないと思ってきました。
    製品作りの独自化は、すぐに陳腐化してしまう時代です。だからこそ、物理的なもの作りの会社から、こと作りの会社へ進化したい。
    お客様のまだ想像できない半歩先を提案し、時間や場所を超えた働き方や、メタバースやAIも受け入れながら、新しい建築の形、新しい関わり方、新しい価値をつくっていく。
    この本を読んで、その方向は間違っていないとあらためて思いました。

    「卒近代」とは、近代を否定することではなく、近代の物差しだけでは見きれないものを見ようとする姿勢なのだと思います。
    効率だけではなく関係性を見る。
    利益だけではなく未来を見る。
    競争だけではなく協調を見る。
    それはまさに、五十嵐工業株式会社社長提言書の中で私が大切にしたいと思っている感覚と重なります。

    学ぶほど、問いが増える。それが未来への力になる

    本の中で語られていた仏教の「諸行無常」や「空」という考え方も、とても印象に残りました。
    執着に永遠はない。けれど、それは悲観ではなく、変化の中にこそ可能性があるという考え方でもある。
    この感覚は、これからのものづくりにも、そのまま通じるように思います。

    建築も、住宅も、働き方も、これから大きく変わっていくはずです。
    災害に強く、気候変動に対応し、スクラップ&ビルドではない未来の住宅を考えること。3Dプリンター住宅の可能性に挑み、人とIT・AIが融合する時代にふさわしい仕事の形を探ること。
    そういう挑戦は、今までの延長線の発想だけでは生まれません。
    視点を変え、多面的に考え、まだ見えていない未来を想像する力が必要です。

    また、歴史学の章で語られていた「資料をそのまま信じず、背景や立場を読む」という視点も、今の時代にとても大事だと思いました。
    情報があふれているからこそ、表面だけを見て判断しないこと。
    人の言葉の奥にある思いを想像すること。
    お客様の要望も、言葉に出てきた表面だけではなく、その奥にある本当の願いまで受け取ろうとすること。
    そういう姿勢がなければ、これからの仕事は本当の意味でお客様に寄り添えないのではないかと思います。

    私は、学べば学ぶほど、わからないことが増えていくと感じています。
    けれど、その「わからない」は、決してマイナスではありません。
    問いが増えるということは、まだ可能性があるということです。
    知らないことがあるから、人の声を聞ける。
    見えていないものがあるから、挑戦できる。
    昨日より今日、今日より明日、世界の見え方が少しずつ変わっていく。
    その変化を受け入れ、楽しみながら進むことこそ、これからの時代に必要な教養であり、会社の未来をつくる力でもあるのだと思います。

    『視点という教養』は、単に知識を与えてくれる本ではありませんでした。
    五十嵐工業はこれから何を目指すのか。
    どんな会社でありたいのか。
    なぜ多面的情報収集が必要なのか。
    なぜ人間とIT・AIの融合を受け入れなければならないのか。
    なぜお客様の半歩先を提案する会社を目指したいのか。
    その問いに対して、静かに、しかし確かな光を当ててくれる一冊でした。

    わかることを急ぎすぎない。
    わからないことの中にこそ、未来への入口がある。
    そう思えたことが、この本を読んで得た一番大きな収穫だったように思います。
    そしてこれからも五十嵐工業は、変化を恐れず、多くの視点を受け入れながら、物作りからこと作りへ、そして未来の建築へと歩みを進めていきたい。
    そんな思いを、あらためて強くした一冊でした。


  • 何度も閉じて、また開いた『荘子の哲学』 | 2026.03.16

    この本を手に取ったきっかけは、帯の赤文字だった。
    「考えるな!感じろ!」
    その勢いのある言葉に背中を押され、「斉物論編を読み解く」という一文にも惹かれた。荘子は難しい、という先入観はあったが、理屈で構えすぎず、まずは感覚で入っていけばいいのかもしれない。そんな気持ちで読み始めた。

    けれど、実際はそう簡単ではなかった。
    感じる前に、まず**「???」**が立ちはだかった。
    数ページ読んでは止まり、また戻る。少しわかった気がしたかと思えば、次のページでまたわからなくなる。そんなことを何度も繰り返した。結局この本は、二カ月ほどかけて、数ページで投げ出し、また挑む、という読み方になった。

    でも今は、それでよかったと思っている。
    すらすら読める本ではないからこそ、こういう向き合い方になった。そして、その難解さそのものが、この本の面白さでもあったのだと思う。

    帯の言葉に惹かれて読み始めた

    「考えるな!感じろ!」という言葉は、いかにも荘子らしい自由さと軽やかさを感じさせた。難しい本でも、頭で理解しきろうとする前に、まず何かを感じてみればいい。そんなふうに背中を押された気がした。

    ところが、実際に読んでみると、感じるどころではない。
    世界の始まりはあるのかないのか、知るとは何か、言葉で表せる知と表せない知とは何なのか。問いが次々に現れ、そのたびに自分の頭がかき回される。わかったつもりになった直後に、またわからなくなる。まるで霧の中を歩いているような読書だった。

    それでも不思議と、本を閉じて終わりにはならなかった。
    難しいのに、気になる。わからないのに、また開きたくなる。そこに、この本の引力があったのだと思う。

    わからないのに、なぜか離れられなかった

    この本を読んでいて何度も思ったのは、人は言葉で世界を整理し、理解しようとするけれど、その言葉や理性だけでは届かないものがたしかにある、ということだった。

    知識として頭に入ることと、自分の中で腑に落ちることは違う。
    言葉で説明できることと、日々の感覚として知っていることも違う。
    本書は、その違いを何度も突きつけてくる。だから簡単に「わかった」と言えないし、逆にそこがこの本の深さでもあるのだろう。

    私たちは普段、説明できることだけで生きているわけではない。自然の中で、社会の中で、説明しきれないものを前提にしながら日々を過ごしている。そう考えると、「わからないこと」がただの不足や欠点ではなくなる。むしろ、わからないまま抱えておくことにも意味があるのだと思えてくる。

    今回の読書は、まさにそんな時間だった。
    理解しきれない。けれど、何も残らなかったわけではない。
    むしろ、すぐにわからなかったからこそ、心のどこかに引っかかり続けている。そういう本との出会いは、案外貴重なのかもしれない。

    たまには、こんな読書もいいと思った

    正直に言えば、私は『荘子の哲学』を「理解できた」と胸を張って言えるわけではない。まだ入口に立っただけなのだろう。けれど、この難しい本に二カ月かけて向き合い、何度も閉じてはまた開いた自分は、少しくらい褒めてもいいと思っている。

    すぐに答えをくれない本。
    簡単には理解した気にさせてくれない本。
    だからこそ、自分の読み方や考え方まで試される本。

    そういう本に出会うと、読書はただ情報を得るためのものではなくなる。わかったことを増やすだけでなく、わからないことに耐える力も少し育ててくれる。効率のよい読書ではなかったかもしれないが、こういう時間は決して無駄ではないと思う。

    たまには、こんな読書もいい。
    むしろ、こういう読書があるからこそ、本を読む面白さは深くなるのかもしれない。今はまだ霧の中にいるようでも、これから別の本を読み、別の経験を重ねたあとに、もう一度この本を開いたら、また違う景色が見える気がする。

    『荘子の哲学』は、私にとって、すっきり理解できた一冊ではなかった。
    けれど、何度も閉じて、また開いたという、その読書の時間そのものが、すでにこの本から受け取った大切なものだったように思う。

  • 本ばっかり読むと、バカになる。 | 2026.03.12

    本をたくさん読めば、それだけ賢くなれる。
    そんな思い込みを、やさしく、しかし鋭く崩してくれた一冊でした。
    読書好きほど耳が痛い。けれど同時に、読むことをもっと自由で軽やかなものにしてくれる本だったと思います。

    外山滋比古『乱読のセレンディピティ』を読んで

    また一人、すごい人に出会った

    外山滋比古さんの『乱読のセレンディピティ』を読んで、私はまた一人、すごい人に出会ったと思った。
    著者は私よりずっと上の世代の人だが、こんなにも今の時代に通じることを、こんなにも早い時期から考えていたのかと驚かされた。

    本を読むことは良いことだ。
    読書は人を賢くする。
    たくさん読めば、それだけ人間は深くなる。

    私たちはどこかで、そんなふうに信じてきた。
    私自身もまた、長いあいだそう思ってきた一人だと思う。
    けれどこの本は、その常識を軽やかに、しかし鋭くひっくり返してくる。

    その読み味がとても面白かった。
    説教くさくない。
    むしろ逆説的で、少し意地悪なくらいに本質を突いてくる。
    だから読んでいて何度も「耳が痛いなあ」と思った。
    でも同時に、「そうか、そういうことだったのか」と深く腑に落ちるところがたくさんあった。

    本は、力を入れて読むものではない

    この本の中で特に面白かったのは、本は力を入れて読むものではなく、「風のように読む」のがよい、という考え方だった。

    普通、読書というと、じっくり読むこと、丁寧に読むこと、ゆっくり味わうことが正しいように言われる。
    けれど外山さんは、そういう常識そのものを疑っている。
    むしろ、あまり力まず、風のようにさっと読む。
    そのほうが、言葉の流れを殺さずに、本来の面白さが入ってくるという。

    これは私にとって新鮮だった。
    確かに、難しい本や、ありがたい本ほど、「ちゃんと読まなければ」と力が入る。
    しかし、その力みがかえって読むことを窮屈にし、面白さを奪ってしまうことがある。
    遅く読むことが必ずしも丁寧ではない。
    ゆっくり読むことが、かえって意味の流れを止めてしまうこともある。
    この指摘は、本当にその通りだと思った。

    私自身、読んでいてわからないところに何度もぶつかる。
    だが、そのたびに立ち止まりすぎるより、まずは風のように通り過ぎてしまう。
    そうしているうちに、ふと一文が無意識の中に残ったり、あとから別の場面でつながったりする。
    そういう読み方も、立派な読書なのだと、この本は教えてくれた。

    読破したから偉いわけではない

    この本には、読書に対する世間の妙な“義理立て”への批判がある。
    本を読破した、難しい本を最後まで読んだ、何冊読んだ。
    そういうことを私たちはどこかで価値あることのように思ってしまう。
    けれど、それがそのまま知的個性につながるわけではない。
    むしろ、本に義理立てしすぎると、自分の知的個性はだんだん小さくなる、という。

    ここは本当に痛かった。
    なぜなら、私にも思い当たるところがあるからだ。

    本をたくさん読んだことは、もちろん無駄ではない。
    ただ、それがそのまま「自分の頭で考えた」ことになるわけではない。
    知識が増えることと、思考が深まることは違う。
    そこを混同すると、読んでいるつもりで、実は本に引っ張られているだけになる。

    私はかなり本を読んできた。
    けれど、たくさん読んだから自分が優れているとは思わない。
    むしろ、たくさん読んだからこそ、読書の限界も少しわかってきた気がする。
    たくさん読んだ効用をあえて言えば、活字に触れることへの抵抗が少なくなったことくらいだろう。
    文字を読み、考えることにストレスを感じにくくなった。
    それは確かに大きい。
    けれど、人間力そのものとはまた別の話だと、今は思う。

    自分で買った本には、重みがある

    外山さんは、本は買って読むべきだとも言う。
    借りてきた本や、もらった本より、自分のお金で選んで買った本のほうが重い意味を持つ。
    これも非常によくわかる。

    自分で選び、自分で買い、自分で読んでみる。
    その結果、「これは違ったな」と思うこともある。
    しかし、その失敗も含めて自分の読書になる。
    誰かに与えられた本ではなく、自分の目で見て、自分の手で選んだ本だからこそ、その一冊は自分にとって意味を持つのだと思う。

    私はあまり人に本を勧めない。
    それは、勧められた側が窮屈になることを、自分自身がよく知っているからだ。
    勧められると、かえって読みたくなくなる。
    逆に、禁じられると読みたくなる。
    この人間のへそ曲がりなところも含めて、読書とは自由であるべきなのだろう。

    だから「この本は良いから読みなさい」という善意は、ときに逆効果になる。
    本好きの側がそのことを自覚していないと、読書の喜びを伝えるつもりが、逆に本嫌いを増やしてしまう。
    この本には、そういう厳しい指摘もあって、そこもまた胸に刺さった。

    学校が本嫌いを育ててしまうこともある

    学校教育では、長いあいだ「本を読みなさい」が善意として語られてきた。
    だが、それが本当に読書好きな人を育ててきたのかというと、疑わしい面もある。

    宿題がある。
    感想文がある。
    読書記録がある。
    推薦図書がある。
    そこにはいつも「良いことだから読みなさい」がつきまとう。
    しかし、それは読むことを自由な楽しみから、義務や評価の対象に変えてしまう。

    私も、子どもの頃から、読書はどこか“良いこと”として押しつけられてきた感覚がある。
    だからこそ、今になってこの本を読み、なるほどそうだったのかと思った。
    読むことは本来、もっと自由で、もっと自発的なものだったはずなのだ。

    本のありがたみを教えようとするほど、本の窮屈さだけが残る。
    これはなかなか鋭い逆説だと思う。

    読書メタボという、耳の痛い言葉

    この本で一番ショックだったのは、「読書メタボリック症候群」というような考え方だった。
    つまり、知識を詰め込みすぎることで、頭が肥満状態になるというのである。

    知識は役に立つ。
    だが、消化しきれない知識は、思考を助けるどころか邪魔をする。
    頭の中が知識でいっぱいになると、かえって頭が働かなくなる。
    そのうちに、ものが見えなくなる。
    これは本当に鋭い言葉だと思った。

    知識は借り物である。
    それに対して思考は自力である。
    この対比には、私はとても納得した。

    本を読んで、何かを知った。
    何か賢くなった気がする。
    これは誰にでもあることだと思う。
    だが、それは借金が増えているだけかもしれない。
    しかも、知識の借金は返済しなくてよいから、気分だけはよくなる。
    そこに落とし穴がある。

    私自身も、きっとどこかでそういう錯覚に陥っていた。
    本を読んでいることに、少し安心し、少し満足し、少し自分を認めていた。
    けれど、本当に問われるのは、その知識が自分の生き方にどうつながっているかだ。
    そこにつながらなければ、ただ頭の中に情報が溜まっているだけかもしれない。

    忘れることは、衰えではない

    この本の大きな発見の一つは、「忘却」を肯定していることだった。
    私たちは、忘れることを悪いことのように考えがちである。
    歳をとって忘れやすくなると、不安にもなる。
    けれど外山さんは、忘れることこそ頭の働きを支える大切な作用だと言う。

    これには深くうなずいた。
    忘却は、頭の中の清掃であり、新陳代謝なのだ。
    忘れられないことのほうが、むしろ危うい。
    覚えておかなくてもいいことまで溜め込んでいたら、頭は重くなり、自由に動けなくなる。

    歳をとるほど、私は「いかに覚えるか」より「いかに手放すか」のほうが大事になる気がしている。
    全部覚えていようとしない。
    本当に心に残ったものだけを、そっと残す。
    そのために私は、感想をメモしたり、noteに書いたりするのだと思う。

    全部を保存するためではない。
    心に触れた火種だけを残すためである。
    それで十分なのだろう。

    忘れない人が優秀、とは限らない

    この本を読んで面白かったのは、忘れない人が必ずしも優秀ではない、という逆説だった。
    私たちは、よく覚えている人を優秀だと考えがちである。
    しかしそれは、裏返せば忘却が弱い人なのかもしれないという。

    これはなるほどと思った。
    記憶ばかりが強く、頭の中の整理ができないと、余計なものまで残り続ける。
    それでは苦しい。
    人間が自然に生きていくためには、ある程度、忘れる力が必要なのだ。

    しかも睡眠は、その忘却を助ける。
    夜のあいだに頭が整理され、朝には少しきれいになっている。
    この考え方は、今の私にはとても実感がある。
    若い頃よりも、朝の頭のすっきりした感じが大事に思える。
    夜いくら考えてもまとまらないことが、朝になると少し見えてくることがある。
    年を重ねるほど朝が大切になるというのも、よくわかる。

    おしゃべりは、知的な行為なのだ

    この本には、耳や会話の大切さについての話も出てくる。
    これもとても面白かった。

    私たちはどうしても、書かれた言葉のほうに価値を置きがちである。
    文字で残っているもの、文章として整っているもののほうが上だと考えがちだ。
    けれど、話すことはその人の頭の働きそのものを反映する。
    飾れない。
    その場で考えて、その場で言葉にしなければならない。
    だからこそ、話すことには独特の知性がある。

    この感覚は私にもある。
    趣味の会でも、例会のあとにみんなで話をしている時間がとても楽しい。
    その時間があるから気持ちが軽くなる。
    足取りまで軽くなる。
    ストレスが抜け、まだまだやれる気になる。
    そういう経験を私は何度もしてきた。

    ただの雑談ではないのだろう。
    会話の中で、頭の中が整理され、心も整っている。
    本だけでは得られないものが、おしゃべりにはある。
    これはとても大事なことだと思う。

    散歩や写真が、頭をきれいにしてくれる

    外山さんは散歩の効用も語っていた。
    私は散歩というより、写真を撮りながら自然の中を歩くことが好きである。
    野山を歩き、光を見て、風を感じ、草花や景色と向き合う。
    その時間は、本を読んで得た知識を思い出している時間ではない。
    むしろ頭が空っぽになっていく時間である。

    その空っぽの中に、思いがけない発見が入ってくる。
    これこそ、セレンディピティなのかもしれない。

    本ばかり読んでいると、頭の中に借り物の言葉が増えていく。
    けれど自然の中に立つと、自分の五感が戻ってくる。
    風の冷たさ、空の広さ、光の角度、土の匂い。
    そういうものに触れていると、頭の中の余分な知識が少しずつ落ちていく感じがする。
    私は写真が趣味で本当によかったと思う。
    読書とは別の場所で、頭をきれいにしてくれる時間があるからだ。

    本を読むだけでは、生きる力にならない

    この本が何度も教えてくれるのは、読書そのものが目的ではないということだ。
    本を読むことは大事だが、それが生きる力につながらなければ意味が薄い。
    読んだ知識が、自分の判断や行動や人との関わりに結びついてこそ、本は生きてくる。

    新しい文化を作る志につながらない教養は不毛だ。
    独立独歩を妨げるような教養は捨てなくてはならない。
    このあたりの言葉も、とても厳しいが、その通りだと思う。

    読書によって知識は得られる。
    でも、知識だけで人間は変わらない。
    本を読んでいるだけで、自分が前に進んでいるような気になるのは危ない。
    そこには快適な錯覚がある。
    私はそれを、この本によって改めて見せられた気がした。

    AI時代だからこそ、なおさら響く

    この本のすごさは、今の時代に読んでもまったく古く感じないどころか、むしろ今だからこそ強く響くところにある。
    本を読めば賢くなる、知識をたくさん持てば価値がある、という近代的な考え方を、外山さんはかなり早い時期から疑っていた。

    今はAIがある。
    検索すれば情報はすぐ出てくる。
    知識を蓄えるだけなら、人間より機械のほうが速い。
    そうなると、これまでのように「知っていること」そのものをありがたがる時代ではなくなっていく。

    では人間に何が残るのか。
    それは、知識をどう組み合わせるか。
    どう忘れるか。
    どう話すか。
    どう感じるか。
    どう生き方に変えるか。
    そこなのだろうと思う。

    この本は、そのことをAI以前の段階ですでに示していた。
    だから私はとても驚いたし、感心した。

    少しだけ、自分のことも書いておきたい

    こういうことを書くのは少し蛇足かもしれないが、私は時々、人からこんなふうに見られているのではないかと思うことがある。
    まさしく“論語読みの論語知らず”で、こんなに本を読んでいるのにデリカシーがないね、とか、読書してます感を出しすぎだとか、私は知っていますよという空気が鼻につくとか、そんなふうに受け取られているのではないか、と。
    実際、そういう危うさは自分の中にもあるのだと思う。だからこそ、この本の言葉が耳に痛かった。

    けれど一方で、私にとって読書は、ただ知識を増やすためのものではない。
    むしろ、ストレスを溜めないための、ほとんど唯一の方法でもある。
    本を読み、心に引っかかったことをこうして書き出し、発信する。そうすることで、抱え込みすぎたものを少し外に出し、忘却へと渡していく。
    私にとって発信は、覚えるためだけではなく、忘れるためでもあるのだ。

    そして、経営者のはしくれとして考えても、私はこれがとても大切な仕事だと思っている。
    ただ情報を集めるのではなく、それを自分の中で咀嚼し、少しでも言葉にして外に渡すこと。
    本を読み、考え、忘れ、また考える。
    その繰り返しの中でしか、自分の頭も、人との関わり方も、磨かれていかないのではないかと思っている。

    私自身への反省でもあった

    この本を読んでいて、結局いちばん考えさせられたのは自分のことである。
    私は本を読むことが好きだ。
    でも、その読書がどこかで“読んでいる自分”を支えるためのものになっていなかったか。
    知識を得ているつもりになり、思考している気になっていなかったか。
    そこを何度も問い直された。

    さらに、読めない人にとっては、本を読んでいる人を見ること自体がストレスになることもあるのだろうと思った。
    自分にとってワクワクする行為が、別の人には重たく見えることもある。
    そこにも気づかされた。

    だから本好きであることを、あまり自慢げに語るのは違うのだろう。
    読むことそのものではなく、そこから何を感じ、どう軽くなり、どう人にやさしくなれるか。
    本当に大事なのは、そこなのだと思う。

    それでも私は、本を読む

    ここまで読むと、まるで読書を否定しているように見えるかもしれない。
    けれど、そうではない。
    この本もまた、読書の中から出会った一冊である。
    しかも私に新しい発見を与えてくれた。
    だからやはり、読書には大きな意味がある。

    ただし、それは“たくさん読むこと”の価値ではない。
    “どう読むか”“どう忘れるか”“どう生きるか”を含めた読書の価値だと思う。

    本に支配されない。
    知識に溺れない。
    読み終えたあと、少し頭が軽くなり、少し生き方が柔らかくなる。
    そんな読書でありたい。

    風のように読む。
    面白いものを自由に読む。
    失敗も恐れず、自分で選ぶ。
    全部覚えようとせず、心に残るものだけを拾う。
    そして、読んだことを生きる力につなげていく。
    この本は、そんな読書のあり方を、私に改めて教えてくれた。

    そして今、私はもう一つ、少し皮肉なことも感じている。
    私はこの感想文に、自分なりの切実な思いを込めた。
    本を読まない人にこそ届けたいと思って書いている。
    本ばかり読んで賢くなったつもりになる危うさ。
    知識を詰め込むだけでは、人は自由にも深くもなれないこと。
    忘れること、話すこと、歩くこと、生きることのほうが、よほど大事だということ。
    そういうことを、本をあまり読まない人にも届けたいと思っている。

    けれど、その相手ほど、きっとこの文章を読まない。
    読む前からスルーする。
    文字の多さを見ただけで閉じてしまう。
    その現実を思うと、何とも言えない気持ちにもなる。
    届けたい相手にほど届かない。
    そのもどかしさもまた、読書や発信にまつわる現実なのだと思う。

    それでも、私は書く。
    読まれないかもしれない。
    届かないかもしれない。
    それでも、自分が本を読んで受け取ったものを、自分の言葉で社会に返していく。
    それは、読書家の見栄ではなく、経営者のはしくれとしての仕事でもあると思っている。
    人が読むか読まないかを先に決めつけるのではなく、まず差し出す。
    考えたことを、言葉にして外へ置く。
    その中から、たった一人でも、何かを受け取ってくれる人がいれば、それで意味がある。

    本を読みすぎて知識バカになるのではなく、
    本をきっかけにして、自分の頭で考え、自分の言葉で話し、自分の足で動ける人間でいたい。
    そして、読まない人にも届く言葉とは何かを、これからも考え続けたい。
    そんな宿題まで渡してくれた一冊だった。

    最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。
    感謝を込めて。

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