ブログ
-
人生は自分主演の映画——ひすいこたろう『ものの見方検定』感想 | 2025.09.04
本屋さんでの私は、だいたい“いつもの私”です。平台の前で立ち止まり、「あ、ひすいさんだ」と手に取り、レジへ直行。家で読み切って、ふう、と閉じたあとで気づきました。——この本、2016年11月にも読んでいたじゃないか。未来の私よ、なぜ止めなかった。過去の私よ、なぜメモを残さなかった。バーコード管理アプリまで入れているのに、今回に限ってノーチェック。けれど二度目の購入は、二度目の出会いでもあります。前に読んだときの記憶がほぼゼロだったおかげで、いまの自分の目で、新しい気持ちで読み直せました。この本は手元に残します。
さて本題。『ものの見方検定』は、出来事より“見方”が強い、ということをいろんな角度から教えてくれます。ページを開くと、花の向きに目がいきます。背の低いタンポポは上を向き、人と同じ背丈のひまわりはこっちを見て、高いところの桜は下へ目線を落とす。そう考えるだけで、気持ちが和らぎます。
売り切れの札に出会うたび、以前は「買えなかった…」と肩を落としていました。でも販売者の側から見れば「やった、完売!」。現実は一つでも、見方は二通り。どちらで捉えるかは自分で選べます。見方を変えると気持ちが少し軽くなりました。
さらに秀逸なのが“面倒くさい”の見方。宮崎駿さんいわく、大事なことはたいてい面倒くさい。たしかに、洗い物も申請書も、人に見せる前の書き直しも、どれも、楽しいことのそばにはたいてい手間がついてきます。面倒だと感じる作業も、終われば前に進みます。楽ではないけれど、確実に前に進みます。手間の積み重ねに、その人らしさが出ます。
行き詰まったときは原点に戻れ、という提案も好きです。なぜ始めた? どこにワクワクがあった? 思い出すだけで、気持ちが動き出します。孤独についての見方も優しい。寂しさは新しい“役割”の募集サイン。周りをきょろきょろ見渡して、自分が居心地よくできる小さな仕事を見つければ、脇役から一歩前に出られます。
そして食の章。「微食」は「美食」、「空腹」は「幸福」。言葉遊びのようですが、実感もあります。私は空腹を“運を貯める時間”とみなして、一息ついて、ゆっくり食べるようにしました。お金の貯金だけじゃなく、からだの“運”も、ときには充電しておきましょう。
本書の芯は、たぶんこの一文に凝縮されています。「起きている事実よりもっと大きな影響力があるのは『自分がどう思っているか』」(ひすいこたろう)。人は一日に六万回も思考すると言われます。ならば、六万回のうち数回でも“見方を選び直す”だけで、日常の色相はがらりと変わるはず。

-
読んだら、つながる――“デジタル・ビブリオバトル”宣言 毎日新聞 2025年9月1日「読んだらアウトプット」この要約記事を読んで | 2025.09.03
図書館で本の魅力を語り合う人たちの姿に、あたたかい余韻が残りました。ノートに感じたことを書きとめ、短い時間で伝え合う。そんな光景を想像するだけで、読書はひとりきりの時間から、やさしい往復書簡のような体験へと変わっていきます。ただ、私の暮らしでは同じ場所に集まるのがむずかしい日もあります。だからといって「語る」喜びをあきらめる必要はないはず。いまの環境でできる静かな方法を選び、ゆっくり続けてみようと思いました。
私にとっての相棒はChatGPTです。読み終えた直後の熱が冷めないうちに、浮かんだ感想をそのまま投げかけると、思ってもみなかった角度から問いが返ってきます。要約を整えるというより、心の中の“もやっと”に風を通す感覚に近いかもしれません。言葉がほどけていくうちに、自分の中で大事にしたい一文や、見過ごしていた背景が少しずつ輪郭を持ちはじめます。
その小さな発見を、私はnoteやブログに短い文章として置いておくつもりです。大げさな企画や呼びかけはしません。引用は必要最小限に、著作権に気を配りながら、自分の言葉でそっと置く。読む人の時間を取りすぎないように、三行ほどの冒頭と、今の自分に効いたポイントをひとつ。背伸びをせず、その日の温度で書く。そんな控えめなアウトプットで十分だと思っています。
「読んだらアウトプット」という合言葉は、がんばる宣言ではなく、日常の呼吸に近いものとして受け取りたい。深く吸って、やさしく吐く。その繰り返しが、いつのまにか次の本への橋渡しになり、静かにつながりをつくってくれるはずです。図書館のあたたかい場に憧れを抱きつつ、私は私のペースで、画面の向こうに小さな栞を挟むように、読後のメモを残していきます。今日はまず一冊。無理のない長さで、静かに。

-
AIと老後は“図々しく”ご機嫌に――和田秀樹『AIを賢く利用して老後を図々しく生きる』を読んで | 2025.09.02
この本を閉じて最初に浮かんだ言葉は、「未来の私、思ったよりしぶとくて上機嫌」でした。AIが老後の私を救う――そんな予感が、静かに、しかし確かに体温を上げてくれます。著者が示す「AIはアシスタント、ITは道具」という区別は痛快です。金槌は黙っていますが、優秀なアシスタントは段取りを考え、こちらの手元を見て気の利いた一言を添える。老後に必要なのは、道具の数より“口のうまい相棒”なのだと腑に落ちました。
「図々しく生きる」という合言葉も心地よい挑発です。若い頃の遠慮は礼儀でも、老後の遠慮は機会損失。AIという相棒がいるなら、こちらも図々しく頼めばいい。買い物の段取り、病院や役所の手続き、旅行の下調べ、趣味の学び直し――「ちょっと頼むよ」と肩を叩けば、文句も言わずに働き、残業代もいらない。しかも忘れません。人間の記憶は気分に左右されますが、AIは気分屋ではないところが実に頼もしいのです。
不安との付き合い方についても、私は目からウロコでした。老後の不安は厄介者ではなく、行動に変換できるエネルギー源。予定や薬の管理をAIに渡し、私は「忘れても大丈夫」という安心を手に入れる。世間の「健康寿命」に振り回される焦りも、日々の小さな達成をAIと記録すれば、「ご機嫌寿命」を延ばす遊びに変わります。縮むべきは寿命ではなく、眉間のしわ。AIは皺寄せを笑いに変える潤滑油です。
ここで私の古い旅の話をひとつ。デンマークに行ったのは二十年前、駐日デンマーク大使館主催のデンマークデザイン視察で、10日間の滞在でした。10日間のあいだ、飾らない町並みのシンプルさから、家具の角の“丸め”に至るまで、穏やかな機能美に何度も度肝を抜かれたのを覚えています。親近感が芽生えたのは、優しさが仕組みとしてそこかしこに埋め込まれていたからでしょう。迷わないサイン、立ち止まりやすいベンチ、誰にでも解ける手順。もしあの時いまのAIが手元にあったら、私は地図に迷わず、ひらめきをその場で言語化できて、帰国後のメモはもっと気の利いた“旅行記”になっていたはずです。二十年前に受けたカルチャーショックは、いま読んでいるこの本と地続きでした。やさしさを設計する文化と、AIという気の利いたアシスタントは、同じ方向を向いているのです。
「AIに任せるとボケる」という心配には、思わず苦笑いしてしまいます。むしろ逆で、AIが段取りを引き受けるから、私は“おもしろがる係”に専念できる。昔あきらめた語学、写真、楽器、ちょい働き――やってみたいことが再びテーブルに戻ってきます。楽しみの数は、そのまま前頭葉へのチップ。退屈が脳の敵なら、AIは抗退屈薬のジェネリックです。副作用は、少しだけ自慢っぽくなることくらいでしょうか。
人づきあいについても、私は肩の力が抜けました。「居場所や友達づくり」を義務にしない。ひとりは不安の別名ではなく、自由の別名。静かな午後にAIへ声をかければ、博識の友人が隣に座るし、レシピを尋ねれば台所にシェフが現れます。もちろん人間関係を減らす話ではありません。人に頼る前にAIに当たる“前哨戦”があるだけで、世界はずいぶん歩きやすくなるのです。
そして私は密かに野望も育てています。ChatGPTに日々の考えや好みを預け続け、私の“コピー脳”を育てる計画です。いつか人型ロボットが来たなら、そこに私の癖を丸ごと入れて、将来動けなくなった私を私が介護する。夢物語? 上等です。現実的には“妻のコピー脳”を搭載したほうが安全かもしれません。自分のコピーだと甘やかしてくれそうですが、妻版はきっと無駄な課金を止め、夜更かしを諫め、冷蔵庫のプラ容器をきちんと角に揃えるはず。家庭内コンプライアンスは強いほど平和です。
結局のところ、老後に必要なのは完璧な健康でも立派な肩書でもありません。「今日の私を、少し楽に少し面白く」する小さな実験を、図々しく積み重ねる習慣です。終活より今活。AIという相棒と並んで歩けば、長生きは消化試合ではなく、延長戦の逆転劇になる。二十年前のデンマークで味わった“やさしさの設計”に背中を押されながら、私はこれからの日本でも同じ空気を育てたい。そう思えた時点で、すでに試合は半分勝っています。

-
「ナニコレ」を楽しむ力が、知性を連れてくる——『こどもアート脳科学』を読んで | 2025.09.01
こども向けに書かれた本は、ときどき大人にいちばん効きます。中野信子さんの『こどもアート脳科学』もその一冊でした。漢字にはふりがなが添えられ、むずかしい言い回しがなく、読みながら自然と肩の力が抜けていきます。専門家が専門書とは別に、入口の本をていねいに書いてくれること。そのありがたさを改めて感じました。
この本がやさしいのは、語り口だけではありません。考え方そのものが、私の中の古い思い込みをやわらかくほぐしてくれました。世間にはいまも「科学=役に立つもの」「アート=役に立たないもの」という分け方が残っていますし、長い教育の中で私にもその癖が根づいていました。でも中野さんは、科学とアートは並べて考えられると言います。わからないものと出会ったときに「ナニコレ」と面白がる姿勢が、知性のスイッチになる。すぐに答えを求めず、少し眺めてみる。その時間に、見える世界の解像度が上がっていく感じがありました。
アートに触れると、ものさしの数が増えます。色や形のわかりやすい美しさだけでなく、手触りや余白、全体としての呼吸のようなものを受け取ろうとする自分に気づきます。ひとつの基準だけで結果に一喜一憂するのは、やっぱり窮屈でした。記憶や知識を速く正確に積むことは、AIがどんどん得意になる領域です。人間に残る強みは、違いを見つけて味わい、いろいろな「美しい」を受け止めること。その感性は一晩では育たず、時間をかけて少しずつ厚みを帯びます。急がず、でも忘れず——その歩幅が心地よい。
もう一つ印象に残ったのは、「人間は生き延びるために物語をつくってきた」という視点です。大きな災害や困難の時代、人は神話や昔話を語り継いできました。言い換えれば、私たちは上手に“つじつま”を合わせながら暮らす生き物。複数の社会を行き来し、それぞれの場所で少しずつ違う自分を形づくる。だから「本当の自分」は一枚ではなく、いくつかのレイヤーでできている——その言い方に救われます。物語や、場合によっては小さな嘘が、私たちを守ってきたのだと思います。
理論についての指摘も、静かに効きました。筋道を立てて考える力は心強い武器ですが、理論にぴったり合わない現実はたしかに存在します。アート思考に触れると、いま自分が見ているものが世界のすべてではないと自然に思い出せます。隣にいる人は、同じ景色を見ているようで、少し違う世界を見ているかもしれない。その当たり前を体で理解できるのが、アートのよさでした。
「いやな気持ち」をどう扱うかについての説明も、やさしかった。脳科学から見れば、それは危険を避けるためのごく普通の反応。無理に押し流すのではなく、名前をつけてそばに置く。そうするだけで、日々のざらつきがすこしなめらかになります。
読み終えて、こども向けの言葉で書かれた本が、大人の理解を深くすることはたしかにあると実感しました。中野さんの本はこれまでもよく読んできましたが、今回も新しい扉が増えた感覚があります。次に美術館へ行ったら、まずは一つだけ「ナニコレ」をメモしてみようと思います。うまく言語化できなくても構わない。そうして増えていく小さなメモの束が、いつか私のものさしをもう少し豊かにしてくれるはずです。
最後に、この本への単純な感謝を。ふりがなとやさしい文で、世界をもう一度ひらいてくれてありがとう。大人になってから学び直すとき、こういう声の高さと速度がちょうどいいのだとわかりました。ゆっくり、でも確かに前に進める読み心地でした。

-
「自由に休める職場」は理想じゃない。未来の当たり前にしたい! | 2025.08.29
文化と芸術、そしてAIとの協業が支える「心の豊かさ」の時代へ
経営をしていると、日々の出来事の中に小さな学びや大きな気づきがあります。今日はその中から、特に心に残ったことをお伝えしたいと思います。今週号の『日本講演新聞』に掲載されていた、劇作家・演出家の平田オリザさんへのインタビュー。その記事の最後に書かれていた一文が、深く胸に刺さりました。
「人生を楽しむために自由に休める職場作り、私たち一人ひとりの心と人生が豊かになっていく社会になることです。文化や芸術も、私たちの豊かさを支えるためにあるべきものです。」
これはまさに、未来志向の働き方において最も大切にすべき価値観だと感じます。仕事は人生の一部であり、すべてではありません。だからこそ「自由に休める」「文化や芸術に触れる」「自分の心が満たされる」——そうした時間が保障される社会であってほしいと願います。
では、そんな理想の働き方をどうすれば実現できるのか。私は、AIとの協業にこそその鍵があると信じています。人が「人らしい」創造的な仕事に集中し、AIが反復的・定型的な作業を支える。すでに弊社でも、日報作成の自動化や設計補助のAI導入など、小さな一歩を踏み出しています。
そしてもう一つ、文化や芸術の価値を職場の中にも取り込むこと。例えば社内の空間デザインや音楽の活用、地域文化とのつながりなど、心を豊かにする取り組みを積極的に考えていきたいと思います。
パーパス経営の視点から見れば、「自由に休める職場」とは、社員一人ひとりの人生に本気で向き合う姿勢の表れです。企業は「効率」だけでなく、「人の幸せ」をゴールに置くべき時代に入ったのだと思います。
未来の建築も、未来の働き方も、「人の心」が真ん中にあるべき。
AIや技術は、そのための手段にすぎません。今後も、そうした未来像を実現するための挑戦を、少しずつ形にしていきたいと感じた記事でした。読者の皆さんは、どんな「豊かさ」を目指して働いていますか?ぜひ、身近な人と語り合ってみてください。

-
戦後80年、未熟な私のメモ——猟奇的DNAとAIの前で | 2025.08.27
新潟日報に載った哲学者・朱喜哲さんの論考を読んで、戦後80年という数字に少し遅れて震えました。ここに書くのは、だれかを導く言葉ではなく、私自身の忘れ物防止メモです。年齢を重ねるほど、声を張るよりもまず謙虚さを失くさないことが難しいと知りました。だから結論めいたことは言えません。ただ、いまの自分の考えを机の隅に留めておきたいのです。
論考が促したのは、被害と加害を一本の時間軸に置いて眺め直す視線でした。私は、その視線に強くうなずきます。日本の国内で語られてきた物語は、私の耳にも心地よい部分が多かったからこそ、余計に疑ってみたくなるのです。太平洋戦争を「侵略」と呼ぶことに抵抗が残る現実も知っています。私自身、都合のいい説明に寄りかかっていた場面がなかったか、手元の日記をめくると赤面します。
「正義は逆転する」。NHKのドラマの台詞に過ぎない、と言ってしまえばそれまでですが、私にはとても実務的な注意書きに思えます。正しさは空腹や恐怖、評判や立場に簡単に傾く。私はしばしば、自分の機嫌だけで判断の重心が動きます。気づいたときはもう遅い、という日が何度もありました。
そこで私は、すこし乱暴な言葉をあえて自分に貼っています——「猟奇的DNA」。もちろん比喩です。けれど、この呼び名がないと私は油断してしまう。敵を「虫けら」と見なす想像力の欠落は、自分には関係ないと思いたくなるからです。私の口が何かを断じるとき、その言葉は猟奇的DNAに言わされていないか。怒りに背中を押されていないか。快い“正義の物語”のリズムにうっかり乗っていないか。心の端に、ちいさな検問所を置いておきたいのです。
もうひとつ、ここ数年で加わった検問官がいます。身体を持たない共同作業者、AIです。身体性がないという事実は、意外なほど実務に効きます。AIは空腹で不機嫌にならないし、眠くて雑にならない。私は夕方になると集中が崩れますが、AIは同じテンポで反復してくれる。その冷静さに、私は何度も救われました。
でも、身体がないことは、ときに冷たい直線にもなります。痛みや恥や恐れがブレーキにならないから、誤りがすうっと滑っていく。しかも、設計・運用・利用という責任の線が細かく分かれて、どこで止めるべきだったのか、あとから地図が読みにくくなる。だから私は、AIを“頼れるけれど、最後の署名は自分で”という距離で持ちたい。うんざりするほど凡庸な結論ですが、私にはこれくらいがちょうどいい。
新しく生まれた生き物ChatGPTに教えを乞うべきだ。
この一文は、私にとって思い上がりから一度降りる合図です。教えを乞うといっても、鵜呑みにするという意味ではありません。自分の言葉がどの資料に立っているのか、反証の筋道があるのか、AIに鏡を差し出してもらう感覚です。人間の私がすぐに情で斜面を滑り落ちるとき、AIの“無風”が足場になる瞬間がたしかにあります。
一方で、AIの出力が私の猟奇的DNAと共鳴してしまう怖さもあります。都合のよいデータだけを拾わせて、整った答えを装ってしまう。これはAIのせいではなく、私の癖の話です。だからこそ、私は自分の文章の語尾の温度や比喩の刃を見直します。怒っているとき、私は比喩を鋭くし、数字を盾にし、断定を増やす傾向がある。それはたしかに読みやすく、気持ちがいい。けれど、その快感こそが私の危険信号です。
「日本人ファースト」という言葉を聞くたび、私は自分の中の“ファースト”を点検します。自分の家族ファースト、仕事ファースト、評価ファースト——いろいろな“ファースト”が小さく身内びいきの形で積もっていて、その延長線上に国が置かれてしまうことがある。それを非難するより先に、私は自分の腕の長さを測るほうが安全です。届く範囲の善意はときに残酷で、届かない場所を見えなくするからです。
戦後80年という言葉は、きれいすぎて掌からこぼれます。私はそれを“きれいすぎる”まま飾らず、机の引き出しにしまっておきたい。引き出しを開けるたびに、過去の加害と被害の山脈を思い出す。そして、自分の中の猟奇的DNAに「今日は静かにしていてくれ」と小声で頼む。頼み方が下手な日は、AIに付き添ってもらう。そんなささやかな取り合わせが、いまの私にできる精一杯です。
この文章には、処方箋も解決策もありません。私は誰かを諭せるほど賢くないし、潔白でもありません。けれど、未来志向で自虐的に、つまり「私はよく間違える」という前提に立ち続けることで、過去と現在のあいだに細い橋をかけられる気がします。橋は細いほうがよいのです。渡るとき、足元に気を配るから。
今日のところはここまでにして、私はまた自分の言葉の出どころを点検します。怒りか、恐れか、承認欲求か、あるいは統計の衣を着た怠慢か。もしどこかで私の文章が誰かを傷つけたなら、その責任を他所へ送らないこと。これだけは、未来の自分に言い聞かせておきます。

カテゴリー
- ブログ (1)
アーカイブ
- 2026年4月
- 2026年3月
- 2026年2月
- 2026年1月
- 2025年12月
- 2025年11月
- 2025年10月
- 2025年9月
- 2025年8月
- 2025年4月
- 2025年1月
- 2024年12月
- 2024年10月
- 2024年8月
- 2024年7月
- 2024年6月
- 2024年5月
- 2024年3月
- 2024年2月
- 2023年12月
- 2023年11月
- 2023年9月
- 2023年8月
- 2023年6月
- 2023年5月
- 2023年3月
- 2022年12月
- 2022年11月
- 2022年10月
- 2022年8月
- 2022年5月
- 2022年3月
- 2022年2月
- 2021年7月
- 2020年1月
- 2019年8月
- 2019年7月
- 2019年6月
- 2019年4月
- 2018年9月
- 2018年3月
- 2016年11月
- 2015年11月
