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“生きづらさ”の正体は? ADHDの真実に触れて考えた進化と社会のズレ | 2025.09.25
『多動脳』 アンデシュ・ハンセン著 久山葉子訳 を読んで
最近、「ADHD(注意欠如・多動症)」という言葉をよく耳にします。
診断される人も増え、子どもから大人まで、多くの人が「自分もそうかもしれない」と感じているのではないでしょうか。私自身、精神科でさまざまな診断名を目にしたり、聞いたりするたびに、こんな疑問が湧いてきました。
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昔は“普通”とされていた人が、今は“病気”になっているのでは?
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社会がストレスに満ちていて、だからこそ増えているのでは?
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もしかして、薬を売るための構造もあるのでは?
そしてもうひとつ。
「ADHD」と言われる特徴は、本当に“悪いこと”なのだろうか? という疑問です。そんな問いを胸に読みはじめたのが、アンデシュ・ハンセン著『多動脳』でした。
「当てはまるかも」が、「それでもいい」に変わった
本の中で挙げられていたADHDの主な特徴──
集中が続かない、すぐ気が散る、じっとしていられない、人の話を最後まで聞けない…。読んでいて、私自身も「これ、ほとんど当てはまるかもしれない」と感じました。
でも本書では、それを「弱点」とするのではなく、「進化の過程で獲得した大切な特性」として捉えているのです。たとえばこんな風に:
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エネルギッシュで、実行力がある
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新しいアイデアにすぐ飛びつける
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直観的で、水平思考ができる
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失敗を引きずらず、逆境にも強い
つまり、ADHD的な脳の使い方こそが、人類が生き残ってきた理由のひとつかもしれない。
これには目から鱗が落ちました。
狩猟民と農耕民、人類はどちらの気質でできている?
とても興味深かったのが、「狩猟民」と「農耕民」の対比です。
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狩猟民:すばやい判断、直観的行動、変化への柔軟な対応
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農耕民:長期計画、ルーチンへの耐性、予測力
現代社会では農耕民的な気質が「望ましい」とされがちですが、実は人類の歴史の大半、私たちは狩猟民だったのです。
本書では「祖先5万人のうち4万9500人は狩猟民だった」と紹介されていました。つまり、“落ち着きがない”“すぐ気が散る”といったADHD的特徴は、かつては生存に不可欠な能力だったのです。
私たちは、ほんの数百年のあいだに、性質とは合わない社会に適応しようとしているのかもしれません。
小さな「いいね!」が脳を支配する?
また、スマホやSNSが与える“報酬”についての話も印象的でした。
犬のしつけに使われる「小さな肉(ごほうび)」の話を引き合いに、人間も小さな報酬にとても弱い存在であるといいます。Facebookの「いいね!」、通知音、タイムラインの更新…。
これらはすべて、脳にドーパミンを分泌させる“デジタル報酬”です。
とくにADHD傾向のある人にとっては、スマホの世界はとても魅力的で、依存しやすい構造をしているのです。これは子どもに限った話ではありません。
「集中できない自分」を責める前に、脳の仕組みがそうなっているという事実を知ることも、大切なのではないでしょうか。
環境を変えるという選択肢
本書には、ADHDを改善するための方法やアドバイスも紹介されていましたが、私はむしろ、「その人に合う環境を選ぶこと」の方が大事なのではないかと思いました。
今の社会が求める「型」に自分を無理やり当てはめるより、
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気質に合う仕事を探す
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暮らす場所を変える
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「自分らしい脳の使い方」を肯定する
そんな選択肢がもっと広がってほしい。
そう感じました。
「普通」じゃないことは、悪いことではない
モーツァルトやエジソン、ダリなど、歴史的に創造的とされてきた人物たちの多くに、ADHDの特性があったという研究も紹介されていました。
「エネルギッシュ」「感情的」「好奇心が強い」「独立心がある」──
そういった性質は、ただの“困った特徴”ではなく、創造性の源なのです。
脳の違いを、「個性」として見つめる社会へ
『多動脳』を読み終えた今、私は少し安心しています。
「当てはまるかもしれない」自分を、前よりもやさしく見つめられるようになったからです。ADHDと呼ばれる特性、自閉症スペクトラム、うつ傾向…。
こうした“違い”を排除するのではなく、人間の多様性として受け入れていく社会を、私たちはつくっていく必要がある。「正常/異常」の線引きを問うのではなく、
「それもひとつの在り方」と言える社会に。そのための第一歩は、知ること、そして考えること。
この本は、そんなきっかけをくれる一冊でした。
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限界は幻想だった。『限界はあなたの頭の中にしかない』を読んで | 2025.09.25
限界は幻想だった。『限界はあなたの頭の中にしかない』を読んで
― 人生の軌道修正は、自分を信じることから始まる ―
「自分を信じる以外、明るい未来はない」
この一文に背中を押されて、本書を手に取りました。
気づけば私たちは、無意識のうちに「この程度が自分の限界だ」と思い込んで生きていることがあります。
でもそれは事実ではなく、ただの幻想。本書は、その“限界という思い込み”を根底から壊してくれました。限界は外にあるのではなく、自分の頭の中にある。
だからこそ、それを壊せるのも、また自分自身なのです。
結果を出すのは、考え方ではなく「行動」
「瞑想よりも、行動が結果を生む」
この言葉にはっとさせられました。いくら考えても、願っても、動かなければ何も始まりません。そして、行動の前提として欠かせないのが**「人間理解」**です。
売るために学ぶのではなく、相手に価値を与えるために学ぶ。
人は誰もが「自分を大事にされたい」と思っている。だからこそ、-
まず相手の話を丁寧に聞くこと
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言葉にできない不安を言語化してあげること
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相手の立場で世界を見ようとすること
これらが、信頼と共感を生み、結果としてビジネスにも人間関係にも良い循環を生むのです。
今あるものを、価値に変える力
「新しいものを生み出すのではなく、既にあるものの“隙間”に眠るチャンスを見つける」
この視点の転換は、非常に実践的でありながら、心にも深く響きました。
私たちはつい「足りないもの」を探しがちですが、実は“すでに持っているもの”をどう活かすかの方が、何倍も大事なんですね。自分の存在を通して価値を生み出す。
それが、働く意味であり、人生の意義なのだと、本書は教えてくれます。
他者に貢献することで、自分の道が見えてくる
「感動されたいなら、まず相手に感動せよ」
「競争より、価値の創造に焦点を当てよう」こうしたメッセージは、ビジネス書でありながら、生き方の指南書のようでもありました。
成功者たちは、競争を超えて、「誰の人生をどうよくできるか?」という視点で動いている。
その視座に立ったとき、自分の存在意義がより鮮明になってくるのです。
最後に:人生を変えるのは、たった一つの“信じる力”
本書は、「あなたはもっとやれる」と繰り返し伝えてくれます。
特別な才能がなくても、資金がなくても、経験が浅くても、人間理解と行動力があれば人生は変えられる。
その信念に、心から勇気をもらいました。自分の人生を変えたいなら、
まずは「自分の中の限界」という幻想から抜け出すこと。この本との出会いが、あなたにとっても「限界の外」に出るきっかけになるかもしれません。
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いつでも休めて、いつでも働ける社会を──少子化対策を“自分ごと”に | 2025.09.23
少子化についての議論は、もう何年も前から続いています。ニュースやコラム、講演会などでさまざまな意見に触れてきたものの、どこかしっくりこない。それは自分の中で腑に落ちる視点が持てなかったからかもしれません。
でも、この本『まちがいだらけの少子化対策』(天野馨南子 著)を読んで、ようやく「これか」と思える感覚が得られました。
出生率の“数字のトリック”に気づかされた
まず冒頭から驚かされたのが、よく耳にする“出生率”の定義についてです。私はずっと「子どもを持つ人が減ったから出生率が低い」と思っていましたが、それは大きな誤解でした。実は、日本の出生率というのは未婚の女性も含めた全女性の平均。つまり、結婚していない人が増えれば増えるほど、当然のようにこの数字は下がるわけです。
さらに、結婚している夫婦が持つ子どもの数自体は、そんなに大きく減っていないことも紹介されています。じゃあ、何が問題なのか?──それは婚姻数が激減していることでした。
「結婚したくない」んじゃなくて「できない」だけ?
興味深かったのは、「若者は結婚したがらない」というイメージもまた誤解であること。実際には、多くの人が「いずれは結婚したい」と考えている。なのに、現実には結婚できない。そこには、経済的な不安や働き方の厳しさといった障壁があることが見えてきます。
だったら、「結婚したいけど難しい」と感じている人の気持ちに寄り添う政策が必要なはずです。もう、“自己責任”で片付けられる時代じゃない。今こそ、社会全体で「どうすればそれを実現できるのか」を真剣に考えるタイミングだと感じました。
私たち世代こそ、価値観をアップデートする必要がある
この本を読み進めながら感じたのは、「家庭」や「子育て」の理想像が、私たちの育った時代から大きく変わっているということ。それなのに、政策を決める側や企業のトップが、古い価値観のままで動いていたら、少子化対策なんてうまくいくわけがありません。
私自身、経営者という立場にいますが、正直この本を読んでかなり反省しました。制度を整えるだけでは足りない。**働く環境の土台から見直さなければ、どんな政策も「絵に描いた餅」**だと痛感しました。
働き方改革は、「育児」も「介護」も前提にして
印象的だったのが、専業主婦世帯よりも共働き世帯の方が子どもの数が多いというデータ。これは、世帯所得が関係していると推測できますが、それと同時に「専業主婦=育児に専念できる理想形」という思い込みも見直す必要があるのでは?と感じました。
そもそも“専業”という概念があまり好きではありません。誰もが、家事やケア労働を担っている。会社に勤めていようが、フリーランスだろうが、親の介護や子育ては生活の一部です。
私は、自分の会社で定年制を10年前に廃止し、「いつでも働けて、いつでも休める」ような家族的経営を目指してきました。人間の脳は、年齢や性別に関係なく、柔軟に働き続けられるはず。これからは、育児も介護も前提にした職場環境が当たり前になってほしいと思います。
「思い込み」を捨てて、次の一歩を
読み終えて一番強く感じたのは、日本社会における少子化の議論が、あまりにも「思い込み」に縛られていたということ。出生率の数字、結婚の意欲、理想の家族像、専業主婦という言葉の扱い…どれも、「本当にそうなの?」と問い直すことで、新しい視点が得られるのだと学びました。
私も経営者の端くれとして、社会の一部として、こうした知識をもとに思索を続けていきたい。少子化対策を「他人ごと」にせず、自分の言葉と行動で関わっていくことが、未来への責任なんじゃないかと思います。

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0から1を生み出すために――若者リーダーに感動して | 2025.09.17
今回の参院選で安野貴博さんに注目し、『はじめる力』を読んだ。まず胸を打ったのは、現状を楽しみながら更新していく若い当事者性だ。彼の言葉と行動には、現代という環境をよく読み解き、スピードと実証で社会を動かす設計図が見える。もしこの視座が行政に本格導入されていたら――とつい想像してしまうほどだ。
本書が教えてくれる「はじめる」とは、気合や根性の合図ではない。人生の選択肢を増やすために、小さな実験を重ねる技術だ。いきなり正解を当てにいくのではなく、日常の中で「いつもと違うこと」を一つ差し込む。通い慣れた道を一本ずらす、本屋で未知の棚に立つ、ふと旅に出る――その小さなズレが世界の解像度を上げる。試す→学ぶ→次を試す、という短いループを増やすほど、0は1に近づいていく。
AIへの解釈も腑に落ちた。AIは人間の意思決定を奪う装置ではなく、意思を汲み取り作業を代行する伴走者だ。ロボティクス、エネルギー、バイオのような複雑な領域ほど、その加速効果は大きい。進化の速度に置いていかれる不安は確かにあるが、同時にAIは“デジタルに疎い人”を助けるインターフェースにもなりうる。だからこそ、使いこなすかどうかが新しい分岐点になる。
印象的だったのは**「失敗の質」**という見方だ。成功率1%の世界でも、裏には99回の挑戦がある。大切なのは失敗を避けることではなく、学びが最大化されるように設計すること。小さなアウトプットで素早く検証し、手応えが出たら中くらいに、大きく――このスケールアップの階段を、意識的に上る。選挙ポスター貼りにゲーム性を持ち込んだエピソードは、まさにこの設計思想の実演で、既存の枠に遊び心を差し込み、行動総量を増やしている。
**リーダーとは「適切にリスクを取る存在」**という定義にも深く頷いた。人はそもそも分かり合えない――だから期待値は控えめに。一方で、対話は「善意が前提」と仮定して受け止める。テキストだけに依存せず、声・表情・図解・プロトタイプなど複数の伝達路を用意する。ほんの少しの工夫が、合意形成の速度と質を一気に変える。安野さんの“AIあんの”の発想に、私は行政や産業の現場で試してみたい具体策の芽をいくつも見つけた。
読み終えて、私自身の実践の骨子が定まった。
1)打席数を増やす(毎日ひとつ“いつもと違うこと”を足す)。
2)中間ゴールを刻む(1週間・1か月・3か月の検証マイル)。
3)失敗ログを残す(学びを資産化し、次の実験の燃料に)。
4)AIに任せる領域を明確化し、意思決定は人が握る。
5)遊び心で行動設計をする(仕組みに楽しさを埋め込む)。『はじめる力』は、勇気を鼓舞する自己啓発ではなく、行動を設計する実務書として手元に置きたい。未来は遠くにある目標ではなく、今日の小さな実験の総和としてしか現れない。だから、はじめる。たとえば今この瞬間、あなたと私がそれぞれ一つだけ“違うこと”を選べば、もう世界は少し変わっている。

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「出会いを制す発信術:ポジティブライティングと情報の資産化」 | 2025.09.12
『非言語を言語化せよ』(長倉顕太)を読み、いちばん強く残ったのは「頭(情報空間)と身体(物理空間)を切り離さない」という当たり前でいて実践が難しい原則でした。読んで知ったことを体で試し、その体験を言葉にして発信する。発信が新たな人と情報を呼び込み、また次の体験を促す。この往復運動を止めないかぎり、思考と身体は少しずつ同期し、扱える世界は広がっていく。自由自在に生きるとは、結局この循環を自分のリズムで回せるかどうかだと感じました。
その循環のキモとして提示されるのが「言葉の目盛り」です。喜びを0か10でしか語れないと、世界は粗く、非言語の微細な揺れが拾えません。0から10までの中間が細かく刻めるほど、同じ景色でもまるで解像度が違って見えてくる。ここで必要になるのは、拙速なアウトプットよりもまずインプットの質を変えること。現実を生きた比喩と感情の運動に満ちた小説を、しかもベストセラーの安全地帯ではなく、自分の感度を揺さぶる周辺から掘る。何を食べるかが身体をつくるように、何を読むか・観るか・聴くかが「感じる身体」を作り替えていく。インプットは栄養であり、言葉の目盛りを細くする鍛錬でもあるのだと思います。
同時に、発信の態度も問われます。自己承認に溺れれば、言葉は自分を飾る仮面に変わる。出会いをつくるための言葉が、出会いを閉ざす言葉になってしまう。だからこそ「ポジティブライティング」に徹する、という宣言には現実的な重みがありました。嫌な出来事を即座に撒き散らせば、引き寄せられてくるのは同質のノイズです。ネガティブは内省のノートで発酵させ、公に出す言葉は他者への招待状にする。発信先の風景は、選ぶ言葉の品位で決まるのだと改めて思います。
さらに心に残ったのは「情報の資産化」と「誰が売るか」の視点です。点としての投稿を、線や面に育てていく意識を持つこと。日々の観察、試行、記録、編集を重ねてアーカイブ化し、人格=人間力と結びついた信用として積み上げていく。いま目先のメリットがなく見える営み――美術館での沈黙、街の匂いを嗅いで歩く散策、音楽に身を浸す時間、写真の失敗作の検討――は、非言語を浴びるための必要経費であり、将来の解像度と信頼残高を増やす投資です。理解しやすいものばかりを追うと、感受性の筋肉は細る。感じることを先に、理解は後から追いつかせる。その順序を日々取り戻すことが、私の課題だと腑に落ちました。
結局、良い出会いが私たちを作ります。人とも、本とも、音楽や映画とも。だから出会いを呼ぶ言葉を選び、出会いに耐える身体を育て、出会いを次につなぐ発信を続ける。今日も一つ、非言語の揺らぎに身を開き、たった数行でも言語にして外へ出す。その小さな循環を回し続けることが、私の仕事であり、学びであり、生き方になる――本書はそう背中を押してくれました。さて、今日は何を浴び、どんな言葉で世界に招待状を出そうか。

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「そう来たか、と笑える生き方――『情報場を自由に泳ぐ』を読んで」 | 2025.09.11
本を読み終えて「情報場を自由に泳ぐ」というタイトルの意味をゆっくりと考えてみました。確かに私たちは、日々無数の情報の海に浸かって生きています。ニュースやSNSや人からの言葉、そして過去の記憶や未来の想像もすべて情報の一部です。その中で溺れることもあれば、逆に軽やかに泳げることもある。要は受け止め方や、どの波に身を委ねるかでまるで違う景色が見えてくるということを、この本は改めて気づかせてくれました。
ちょうどこれまでのチャットのやり取りとも重なります。私は「トランサーフィン」の考え方を知って、現実は一つではなく無限の可能性が並んでいると学びました。つまり、未来をつくるのではなく、どの可能性に同調するかを選ぶのだという考えです。私はそれを理屈で理解するというより、日々の体験の中で自然と感じているような気がします。例えば、花畑を撮影しようと出かけたのに花は咲いていなかった、雨が降ってきた、そんなことは写真をやっていれば当たり前にある。でもその瞬間に「人が撮らない風景に出会えた」「この状況をどう楽しもうか」と考えると、むしろ心が躍ってくる。これはまさに「情報場を自由に泳ぐ」ことに似ているなと思います。
失敗や不意打ちも同じです。名古屋出張で往路のチケットだけ予約して帰りの分を忘れていたことがありましたが、その時私は笑ってしまいました。「そう来たか」と。帰りの便にキャンセルが出て運よく帰れましたが、たとえ帰れなくても空港で一晩過ごすのも楽しそうだし、もう一泊して観光するのもいい。そういうふうに考えると、失敗が失敗ではなくなる。むしろ「掲示」として現れてくる。世界が私に「こういう体験をしてみなさい」と差し出している気がして、面白くて仕方ないのです。
私は若い頃に母を亡くし、父も一人で生き抜く姿を見てきました。そして妻の病気という現実にも直面しました。その時は確かに心が暗くなり、生きる希望を失いかけました。でも今では、もし妻を失って一人で生きている自分がいるとしても、それはもう一人の自分からの声だと受け止めています。「今やっておくべきことをやれ」と。亡くなった両親や縁あった人々が、今も私に声をかけているようにも思える。そう考えると、全ての経験が重荷ではなく支えになっていきます。
だから私は、過去を悔やむ時間や未来を悲観する時間をもったいないと感じています。今、この瞬間、自分の思いを言葉にして受け止めてもらえることが楽しい。その「今が楽しい時間の連続」こそが、生きているという実感です。そして「情報場を自由に泳ぐ」という本が伝えているのも、同じことなのではないかと感じます。情報は無限にあるけれど、どの波に自分を乗せるかは自分が選べる。逆に言えば、どの情報も受け入れて「まあいいか」と軽く受け止めれば、それは次の楽しみや創造のきっかけになる。
私は座右の銘のようなものを持つ気はありません。むしろ持たないからこそ、柔軟でいられるのだと思っています。けれども「逆に考えてください」という言葉なら、ちょっとした合図のように心に響きます。起こった出来事に「そう来たか」と微笑みながら、逆から眺めてみる。すると失敗も不意打ちも、全部が笑いのネタやワクワクに変わってしまう。情報場を泳ぐとは、そういうふうに世界を遊び場に変えることなのだと、今の自分は理解しています。

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