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私の「現実」は脳の作品だった―

『ぜんぶ無意識のせい。』(シンプリィライフ著)で自由の定義がひっくり返った

この本を読み終えて、最初に出てきた感想は「いま目の前にある世界の手触りが、少し信用できなくなった」でした。シンプリィライフ著『ぜんぶ無意識のせい。』は、私たちが当たり前に頼っている“現実感”の土台を、静かに、でも確実に揺らしてきます。

冒頭で示されるのは、私たちが知覚している世界は外界をそのまま写したものではなく、脳が受け取った電気信号を材料に組み立てた解釈だ、という見方です。たとえば停車中に隣の車が動くと自分が動いたように感じる錯覚。これは視覚が「事実の提示」ではなく「状況の推定」でもあることを端的に教えてくれます。地球が高速で移動しているのに実感がないのも同様で、私たちは“世界そのもの”ではなく“脳が生成した世界のモデル”を生きている。そう腑に落ちた瞬間、同じ出来事を見ても人によって受け取り方が違うことが、単なる性格差ではなく「世界の立ち上がり方の差」なのだと思えてきました。

読んでいて特に良かったのは、「心」という曖昧な対象を、できるだけ構造として捉え直そうとする姿勢です。私たちはよく「AIには心がない」と言いますが、そもそも心の定義は揺れている。本書はそこをごまかさず、ユングの枠組み(自我と自己)に触れながら、心が単層ではないことを分かりやすく示します。玉ねぎのように層をなす心――外側に知性があり、その内側に感性や本能、さらに深い領域がある、という説明は、私にとってかなり実感的でした。私たちはつい言語化できる部分(知性)だけで自分や他人を判断しがちですが、意思決定の最後の一押しは、本能や感性の“納得”が握っている。理屈を積み上げても、最終的に「こっちだ」と感じる方へ行ってしまうことがあるのは、そのせいなのかもしれません。

さらに、脳を三層で捉える整理(身体を守る領域/感情の領域/思考の領域)は、日常の自分を観察するレンズとして役に立ちました。思考は一番上の階にいるようでいて、下の階――感情や身体の反応――に普通に引っ張られる。ここまで読んでくると、「私は自由意思で選択している」という確信が、思ったより脆いものに見えてきます。本書が提示する核心は、むしろそこからで、意思を絶対視するのではなく「意思は幻想かもしれない」と理解することが、逆に自由への入口になる、という提案でした。意思が幻想だと言われると絶望的に聞こえますが、私はむしろ救われました。自分を責める前に、無意識がどんな脚本を書いているかを点検できるからです。

無意識の「人生脚本」という発想も印象深いところです。人は知らないうちに「自分はきっとこういう人生を送る」と筋書きを書き込み、その筋に沿う選択をしやすくなる。さらに、縁起やバタフライエフェクトを思わせるように、選択は環境や出会い、状況と強く結びついている。自分で選んだと思っていることが、実は“縁”に押し出された結果だった――そう捉えると、過去の出来事の見え方も変わってきます。

記憶の章も納得感がありました。過去の記憶は「事実の保管庫」ではなく、思い出すたびに編集される。私自身、良い記憶は濃くなり、悪い記憶は薄まっていく(あるいは別の形で尖って残る)感覚があります。過去を固定だと思い込むほど、いまの選択肢が狭くなるのかもしれません。時間についての示唆――私たちが“今”と呼ぶものは、すでに起きた出来事を今起きていると解釈しているにすぎないかもしれない――も、単なる奇抜さではなく、「現実=解釈」という主題の延長として読めました。

そして最後に、実践として提示される直観力を高める習慣(遊び心/アートと自然/利他/フロー/ジャーナリング)が、観念を日常へ戻してくれます。とくにジャーナリングは、無意識の脚本を“見える場所に持ち出す”行為だと思いました。頭の中にある限り脚本は脚本のままですが、書けば検討できる。編集もできる。

読み終えて残ったのは、「現実は脳の作品である」という少し怖い結論と同時に、「作品の作り方は更新できる」という静かな希望でした。自由とは、何でも思い通りにする力ではなく、自分を動かしているものを見誤らない力なのかもしれません。では、いまの私の“現実”を形作っている無意識の脚本は、どんな一文から始まっているのでしょう。あなたなら、最初にどの一行を書き換えますか。

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