窓を開けるように、生き方を整える――『「そうじ力」ですべてうまくいく』と老子から考える「徳」と習慣
近年、「掃除」が自己啓発や運気アップの文脈で語られる場面が増えました。
舛田光洋さんの『「そうじ力」ですべてうまくいく』も、その代表的な一冊です。
掃除を通して「運をよくする」「人生を好転させる」といったメッセージには、正直なところ少し懐疑も感じつつ、それでも心に引っかかる部分があり、考えさせられる読書でした。
「部屋=自分」? 掃除で心が切り替わるという発想
著者は、「部屋を通して自分の現状を見て、心を変える」ことができると説きます。
部屋が変われば、心が変わる
心が変われば、行動が変わる
行動が変われば、人生が変わる
リビングは人間でいう心臓、トイレは感謝と謙虚さ、ガラス窓には対人関係、キッチンは愛の生産工場――。
部屋のあちこちに意味づけをすることで、「掃除=自分と向き合う時間」という構図が見えてきます。
「なんとなくモノを所有していると、人生も『なんとなく』になってしまう」という指摘には、耳の痛さも感じました。必要かどうか、好きかどうかを基準にモノを選ぶというのはシンプルですが、実際にやろうとすると迷いが出ます。そこにこそ、自分の価値観や怖れがあらわれるのかもしれません。
「そうじ=徳積み」への違和感と、それでも残る共感
本書を読みながら、私が一番ひっかかったのは、「掃除をすれば運がよくなる」「徳が積める」といったニュアンスが前面に出ている点でした。
掃除をがんばる
→ いいエネルギーが集まる
→ だから運がよくなる、成功する
この直線的な図式には、どうしても少し身構えてしまいます。
「掃除している自分」をアピールしたくなった瞬間、それはもう純粋な徳ではなく、「見せたい自分」「評価されたい自分」が入ってくるのではないか、と感じるからです。
一方で、まったく否定しきれない共感もあります。
汚れた部屋にいると気分が重くなり、片づいた空間にいると肩の力が抜ける。換気をすると頭がすっきりし、水回りを磨くと自分もシャキッとする――。こうした体感レベルの変化までは、「スピリチュアルだから」と切り捨てることもできません。
つまり私にとっての「そうじ力」は、
ご利益的な「徳積み」には疑問を覚えつつも、心身への影響そのものは確かにある、という微妙なバランスの上にあります。
倫理観を整える「装置」としての掃除
本書の中で私が納得したのは、「掃除=倫理観を整える行為」という側面です。
何を残し、何を捨てるかを決める
自分が使った場所を、自分で元に戻す
怒りやモヤモヤを、拭き掃除や換気という形で外に流す
これらは「いい人になるための儀式」というより、
自分の内側を点検し、調律するための習慣として理解すると、すっと入ってきます。
とくに「無念無想でただ拭く」というあり方は、老子の言う自然体の姿にも少しつながるように感じました。頭の中で正しさや成果を計算するのではなく、いま目の前の汚れをただ取る。そのシンプルさの中に、倫理観の根っこがある――そんな感覚です。
老子の視点から見た「そうじ力」
読みながら思い出したのが、老子の
上徳は徳とせず、下徳は徳を失う
という趣旨の言葉です。
本当に徳のある人は「徳を積もう」と意識しない。逆に「徳を積もう」と意識して動くと、それはもう下位の徳になる、という考え方です。
この視点から見ると、
「掃除をすれば運が上がるから、みんなやるべきだ」という発想は、どこかで徳を“広報”してしまう危うさを含んでいるように感じます。
では、どう捉えればいいのか。
私は、次のように少し意味をずらして受け取るのがしっくりきました。
× 運を上げるために掃除する
○ 今ここを気持ちよく生きるために、自然に掃除に手が伸びる状態を目指す
老子的な感覚で言えば、掃除は「しなければならない修行」ではなく、
自分の感覚が素直になった結果として、自然とやってしまう行為であってほしいのだと思います。
まとめ――「運気アップ」よりも、「今の自分の状態を映す鏡」として
本書に書かれているような「エネルギー」「運気」といった言葉には、少し距離を置きたい気持ちもあります。それでも、部屋の状態が自分の状態を映す鏡になる、という視点は、やはり無視できないものがありました。
なんとなく置いてあるモノ
なんとなく閉め切ったままの窓
なんとなく見て見ぬふりをしている汚れ
これらをひとつずつ見直していくことは、「なんとなくの人生」から一歩抜け出していくプロセスなのかもしれません。
まずは完璧を目指さず、
「今日は窓を開けてみる」「水回りだけ磨いてみる」
といった小さなそうじから、自分なりの「そうじ力」を試してみるのがちょうどいい。そんなふうに感じた一冊でした。

