お問合せはお気軽にどうぞ!

0258-24-7567

[ 営業時間:8:00~17:00 ]

LINEからもお問い合わせを受付中

line

[ お急ぎの場合はお電話でどうぞ ]

ZOOM
youtube
LINE
メニュー

本ばっかり読むと、バカになる。

本をたくさん読めば、それだけ賢くなれる。
そんな思い込みを、やさしく、しかし鋭く崩してくれた一冊でした。
読書好きほど耳が痛い。けれど同時に、読むことをもっと自由で軽やかなものにしてくれる本だったと思います。

外山滋比古『乱読のセレンディピティ』を読んで

また一人、すごい人に出会った

外山滋比古さんの『乱読のセレンディピティ』を読んで、私はまた一人、すごい人に出会ったと思った。
著者は私よりずっと上の世代の人だが、こんなにも今の時代に通じることを、こんなにも早い時期から考えていたのかと驚かされた。

本を読むことは良いことだ。
読書は人を賢くする。
たくさん読めば、それだけ人間は深くなる。

私たちはどこかで、そんなふうに信じてきた。
私自身もまた、長いあいだそう思ってきた一人だと思う。
けれどこの本は、その常識を軽やかに、しかし鋭くひっくり返してくる。

その読み味がとても面白かった。
説教くさくない。
むしろ逆説的で、少し意地悪なくらいに本質を突いてくる。
だから読んでいて何度も「耳が痛いなあ」と思った。
でも同時に、「そうか、そういうことだったのか」と深く腑に落ちるところがたくさんあった。

本は、力を入れて読むものではない

この本の中で特に面白かったのは、本は力を入れて読むものではなく、「風のように読む」のがよい、という考え方だった。

普通、読書というと、じっくり読むこと、丁寧に読むこと、ゆっくり味わうことが正しいように言われる。
けれど外山さんは、そういう常識そのものを疑っている。
むしろ、あまり力まず、風のようにさっと読む。
そのほうが、言葉の流れを殺さずに、本来の面白さが入ってくるという。

これは私にとって新鮮だった。
確かに、難しい本や、ありがたい本ほど、「ちゃんと読まなければ」と力が入る。
しかし、その力みがかえって読むことを窮屈にし、面白さを奪ってしまうことがある。
遅く読むことが必ずしも丁寧ではない。
ゆっくり読むことが、かえって意味の流れを止めてしまうこともある。
この指摘は、本当にその通りだと思った。

私自身、読んでいてわからないところに何度もぶつかる。
だが、そのたびに立ち止まりすぎるより、まずは風のように通り過ぎてしまう。
そうしているうちに、ふと一文が無意識の中に残ったり、あとから別の場面でつながったりする。
そういう読み方も、立派な読書なのだと、この本は教えてくれた。

読破したから偉いわけではない

この本には、読書に対する世間の妙な“義理立て”への批判がある。
本を読破した、難しい本を最後まで読んだ、何冊読んだ。
そういうことを私たちはどこかで価値あることのように思ってしまう。
けれど、それがそのまま知的個性につながるわけではない。
むしろ、本に義理立てしすぎると、自分の知的個性はだんだん小さくなる、という。

ここは本当に痛かった。
なぜなら、私にも思い当たるところがあるからだ。

本をたくさん読んだことは、もちろん無駄ではない。
ただ、それがそのまま「自分の頭で考えた」ことになるわけではない。
知識が増えることと、思考が深まることは違う。
そこを混同すると、読んでいるつもりで、実は本に引っ張られているだけになる。

私はかなり本を読んできた。
けれど、たくさん読んだから自分が優れているとは思わない。
むしろ、たくさん読んだからこそ、読書の限界も少しわかってきた気がする。
たくさん読んだ効用をあえて言えば、活字に触れることへの抵抗が少なくなったことくらいだろう。
文字を読み、考えることにストレスを感じにくくなった。
それは確かに大きい。
けれど、人間力そのものとはまた別の話だと、今は思う。

自分で買った本には、重みがある

外山さんは、本は買って読むべきだとも言う。
借りてきた本や、もらった本より、自分のお金で選んで買った本のほうが重い意味を持つ。
これも非常によくわかる。

自分で選び、自分で買い、自分で読んでみる。
その結果、「これは違ったな」と思うこともある。
しかし、その失敗も含めて自分の読書になる。
誰かに与えられた本ではなく、自分の目で見て、自分の手で選んだ本だからこそ、その一冊は自分にとって意味を持つのだと思う。

私はあまり人に本を勧めない。
それは、勧められた側が窮屈になることを、自分自身がよく知っているからだ。
勧められると、かえって読みたくなくなる。
逆に、禁じられると読みたくなる。
この人間のへそ曲がりなところも含めて、読書とは自由であるべきなのだろう。

だから「この本は良いから読みなさい」という善意は、ときに逆効果になる。
本好きの側がそのことを自覚していないと、読書の喜びを伝えるつもりが、逆に本嫌いを増やしてしまう。
この本には、そういう厳しい指摘もあって、そこもまた胸に刺さった。

学校が本嫌いを育ててしまうこともある

学校教育では、長いあいだ「本を読みなさい」が善意として語られてきた。
だが、それが本当に読書好きな人を育ててきたのかというと、疑わしい面もある。

宿題がある。
感想文がある。
読書記録がある。
推薦図書がある。
そこにはいつも「良いことだから読みなさい」がつきまとう。
しかし、それは読むことを自由な楽しみから、義務や評価の対象に変えてしまう。

私も、子どもの頃から、読書はどこか“良いこと”として押しつけられてきた感覚がある。
だからこそ、今になってこの本を読み、なるほどそうだったのかと思った。
読むことは本来、もっと自由で、もっと自発的なものだったはずなのだ。

本のありがたみを教えようとするほど、本の窮屈さだけが残る。
これはなかなか鋭い逆説だと思う。

読書メタボという、耳の痛い言葉

この本で一番ショックだったのは、「読書メタボリック症候群」というような考え方だった。
つまり、知識を詰め込みすぎることで、頭が肥満状態になるというのである。

知識は役に立つ。
だが、消化しきれない知識は、思考を助けるどころか邪魔をする。
頭の中が知識でいっぱいになると、かえって頭が働かなくなる。
そのうちに、ものが見えなくなる。
これは本当に鋭い言葉だと思った。

知識は借り物である。
それに対して思考は自力である。
この対比には、私はとても納得した。

本を読んで、何かを知った。
何か賢くなった気がする。
これは誰にでもあることだと思う。
だが、それは借金が増えているだけかもしれない。
しかも、知識の借金は返済しなくてよいから、気分だけはよくなる。
そこに落とし穴がある。

私自身も、きっとどこかでそういう錯覚に陥っていた。
本を読んでいることに、少し安心し、少し満足し、少し自分を認めていた。
けれど、本当に問われるのは、その知識が自分の生き方にどうつながっているかだ。
そこにつながらなければ、ただ頭の中に情報が溜まっているだけかもしれない。

忘れることは、衰えではない

この本の大きな発見の一つは、「忘却」を肯定していることだった。
私たちは、忘れることを悪いことのように考えがちである。
歳をとって忘れやすくなると、不安にもなる。
けれど外山さんは、忘れることこそ頭の働きを支える大切な作用だと言う。

これには深くうなずいた。
忘却は、頭の中の清掃であり、新陳代謝なのだ。
忘れられないことのほうが、むしろ危うい。
覚えておかなくてもいいことまで溜め込んでいたら、頭は重くなり、自由に動けなくなる。

歳をとるほど、私は「いかに覚えるか」より「いかに手放すか」のほうが大事になる気がしている。
全部覚えていようとしない。
本当に心に残ったものだけを、そっと残す。
そのために私は、感想をメモしたり、noteに書いたりするのだと思う。

全部を保存するためではない。
心に触れた火種だけを残すためである。
それで十分なのだろう。

忘れない人が優秀、とは限らない

この本を読んで面白かったのは、忘れない人が必ずしも優秀ではない、という逆説だった。
私たちは、よく覚えている人を優秀だと考えがちである。
しかしそれは、裏返せば忘却が弱い人なのかもしれないという。

これはなるほどと思った。
記憶ばかりが強く、頭の中の整理ができないと、余計なものまで残り続ける。
それでは苦しい。
人間が自然に生きていくためには、ある程度、忘れる力が必要なのだ。

しかも睡眠は、その忘却を助ける。
夜のあいだに頭が整理され、朝には少しきれいになっている。
この考え方は、今の私にはとても実感がある。
若い頃よりも、朝の頭のすっきりした感じが大事に思える。
夜いくら考えてもまとまらないことが、朝になると少し見えてくることがある。
年を重ねるほど朝が大切になるというのも、よくわかる。

おしゃべりは、知的な行為なのだ

この本には、耳や会話の大切さについての話も出てくる。
これもとても面白かった。

私たちはどうしても、書かれた言葉のほうに価値を置きがちである。
文字で残っているもの、文章として整っているもののほうが上だと考えがちだ。
けれど、話すことはその人の頭の働きそのものを反映する。
飾れない。
その場で考えて、その場で言葉にしなければならない。
だからこそ、話すことには独特の知性がある。

この感覚は私にもある。
趣味の会でも、例会のあとにみんなで話をしている時間がとても楽しい。
その時間があるから気持ちが軽くなる。
足取りまで軽くなる。
ストレスが抜け、まだまだやれる気になる。
そういう経験を私は何度もしてきた。

ただの雑談ではないのだろう。
会話の中で、頭の中が整理され、心も整っている。
本だけでは得られないものが、おしゃべりにはある。
これはとても大事なことだと思う。

散歩や写真が、頭をきれいにしてくれる

外山さんは散歩の効用も語っていた。
私は散歩というより、写真を撮りながら自然の中を歩くことが好きである。
野山を歩き、光を見て、風を感じ、草花や景色と向き合う。
その時間は、本を読んで得た知識を思い出している時間ではない。
むしろ頭が空っぽになっていく時間である。

その空っぽの中に、思いがけない発見が入ってくる。
これこそ、セレンディピティなのかもしれない。

本ばかり読んでいると、頭の中に借り物の言葉が増えていく。
けれど自然の中に立つと、自分の五感が戻ってくる。
風の冷たさ、空の広さ、光の角度、土の匂い。
そういうものに触れていると、頭の中の余分な知識が少しずつ落ちていく感じがする。
私は写真が趣味で本当によかったと思う。
読書とは別の場所で、頭をきれいにしてくれる時間があるからだ。

本を読むだけでは、生きる力にならない

この本が何度も教えてくれるのは、読書そのものが目的ではないということだ。
本を読むことは大事だが、それが生きる力につながらなければ意味が薄い。
読んだ知識が、自分の判断や行動や人との関わりに結びついてこそ、本は生きてくる。

新しい文化を作る志につながらない教養は不毛だ。
独立独歩を妨げるような教養は捨てなくてはならない。
このあたりの言葉も、とても厳しいが、その通りだと思う。

読書によって知識は得られる。
でも、知識だけで人間は変わらない。
本を読んでいるだけで、自分が前に進んでいるような気になるのは危ない。
そこには快適な錯覚がある。
私はそれを、この本によって改めて見せられた気がした。

AI時代だからこそ、なおさら響く

この本のすごさは、今の時代に読んでもまったく古く感じないどころか、むしろ今だからこそ強く響くところにある。
本を読めば賢くなる、知識をたくさん持てば価値がある、という近代的な考え方を、外山さんはかなり早い時期から疑っていた。

今はAIがある。
検索すれば情報はすぐ出てくる。
知識を蓄えるだけなら、人間より機械のほうが速い。
そうなると、これまでのように「知っていること」そのものをありがたがる時代ではなくなっていく。

では人間に何が残るのか。
それは、知識をどう組み合わせるか。
どう忘れるか。
どう話すか。
どう感じるか。
どう生き方に変えるか。
そこなのだろうと思う。

この本は、そのことをAI以前の段階ですでに示していた。
だから私はとても驚いたし、感心した。

少しだけ、自分のことも書いておきたい

こういうことを書くのは少し蛇足かもしれないが、私は時々、人からこんなふうに見られているのではないかと思うことがある。
まさしく“論語読みの論語知らず”で、こんなに本を読んでいるのにデリカシーがないね、とか、読書してます感を出しすぎだとか、私は知っていますよという空気が鼻につくとか、そんなふうに受け取られているのではないか、と。
実際、そういう危うさは自分の中にもあるのだと思う。だからこそ、この本の言葉が耳に痛かった。

けれど一方で、私にとって読書は、ただ知識を増やすためのものではない。
むしろ、ストレスを溜めないための、ほとんど唯一の方法でもある。
本を読み、心に引っかかったことをこうして書き出し、発信する。そうすることで、抱え込みすぎたものを少し外に出し、忘却へと渡していく。
私にとって発信は、覚えるためだけではなく、忘れるためでもあるのだ。

そして、経営者のはしくれとして考えても、私はこれがとても大切な仕事だと思っている。
ただ情報を集めるのではなく、それを自分の中で咀嚼し、少しでも言葉にして外に渡すこと。
本を読み、考え、忘れ、また考える。
その繰り返しの中でしか、自分の頭も、人との関わり方も、磨かれていかないのではないかと思っている。

私自身への反省でもあった

この本を読んでいて、結局いちばん考えさせられたのは自分のことである。
私は本を読むことが好きだ。
でも、その読書がどこかで“読んでいる自分”を支えるためのものになっていなかったか。
知識を得ているつもりになり、思考している気になっていなかったか。
そこを何度も問い直された。

さらに、読めない人にとっては、本を読んでいる人を見ること自体がストレスになることもあるのだろうと思った。
自分にとってワクワクする行為が、別の人には重たく見えることもある。
そこにも気づかされた。

だから本好きであることを、あまり自慢げに語るのは違うのだろう。
読むことそのものではなく、そこから何を感じ、どう軽くなり、どう人にやさしくなれるか。
本当に大事なのは、そこなのだと思う。

それでも私は、本を読む

ここまで読むと、まるで読書を否定しているように見えるかもしれない。
けれど、そうではない。
この本もまた、読書の中から出会った一冊である。
しかも私に新しい発見を与えてくれた。
だからやはり、読書には大きな意味がある。

ただし、それは“たくさん読むこと”の価値ではない。
“どう読むか”“どう忘れるか”“どう生きるか”を含めた読書の価値だと思う。

本に支配されない。
知識に溺れない。
読み終えたあと、少し頭が軽くなり、少し生き方が柔らかくなる。
そんな読書でありたい。

風のように読む。
面白いものを自由に読む。
失敗も恐れず、自分で選ぶ。
全部覚えようとせず、心に残るものだけを拾う。
そして、読んだことを生きる力につなげていく。
この本は、そんな読書のあり方を、私に改めて教えてくれた。

そして今、私はもう一つ、少し皮肉なことも感じている。
私はこの感想文に、自分なりの切実な思いを込めた。
本を読まない人にこそ届けたいと思って書いている。
本ばかり読んで賢くなったつもりになる危うさ。
知識を詰め込むだけでは、人は自由にも深くもなれないこと。
忘れること、話すこと、歩くこと、生きることのほうが、よほど大事だということ。
そういうことを、本をあまり読まない人にも届けたいと思っている。

けれど、その相手ほど、きっとこの文章を読まない。
読む前からスルーする。
文字の多さを見ただけで閉じてしまう。
その現実を思うと、何とも言えない気持ちにもなる。
届けたい相手にほど届かない。
そのもどかしさもまた、読書や発信にまつわる現実なのだと思う。

それでも、私は書く。
読まれないかもしれない。
届かないかもしれない。
それでも、自分が本を読んで受け取ったものを、自分の言葉で社会に返していく。
それは、読書家の見栄ではなく、経営者のはしくれとしての仕事でもあると思っている。
人が読むか読まないかを先に決めつけるのではなく、まず差し出す。
考えたことを、言葉にして外へ置く。
その中から、たった一人でも、何かを受け取ってくれる人がいれば、それで意味がある。

本を読みすぎて知識バカになるのではなく、
本をきっかけにして、自分の頭で考え、自分の言葉で話し、自分の足で動ける人間でいたい。
そして、読まない人にも届く言葉とは何かを、これからも考え続けたい。
そんな宿題まで渡してくれた一冊だった。

最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。
感謝を込めて。

PAGETOP