「心の目で飛べ」――今こそ読みたい『かもめのジョナサン』
「かもめのジョナサン」が今、私に語りかけてくる理由
書店で何気なく手に取った一冊。
それが、リチャード・バック著・五木寛之訳の『かもめのジョナサン』だった。
かつて名を知らぬ者のないベストセラー。
しかし当時の私は、そのタイトルに漂う「自己啓発的な何か」に距離を感じ、読むことなく過ごしていた。
けれど今になってこの本と出会い、私は思う。
なぜもっと早く読まなかったのだろうと同時に、いや、今だからこそ深く響くのだとも。
自分だけの「飛ぶ理由」を求めて
ジョナサンは、ただのかもめではない。
彼は“飛ぶ”ことそのものに美しさと意味を見出した、孤高の存在だ。
ほとんどのかもめが「食べるために飛ぶ」のに対し、
ジョナサンは「飛ぶために飛ぶ」。
食欲や社会の常識から自由になり、空を極めようとする。
その姿は、まるで人生における「意味」を追い求める求道者のようだ。
そして、他者とわかり合えず、理解されず、やがて群れを追われる。
けれどそれでもなお、自分の内なる声に従い続ける。
このストイックな生き様が、まるで哲学者そのものに見えてくる。
目に見える世界の限界と、「心の目」の存在
物語の中で最も心に残ったのは、
ジョナサンが若いかもめに向けて語る次の言葉だった。“きみの目が教えてくれることを信じてはいかんぞ。目に見えるものには、みんな限りがある。きみの心の目で見るんだ。すでに自分が知っているものを探すのだ”(バック, p. 139)
この一節は、現代を生きる私たちに対する明確なメッセージに思える。
目に見える情報、数値、肩書き、評価…。
それらが真実を語っているようでいて、実はとても限定的で脆いものだということ。
私たちが本当に向き合うべきものは、外側にではなく内なる感覚の中にある。
それを「心の目」と呼ぶなら、現代人はどれほどその目を閉じてしまっているだろうか。
神になるという“誤解”と、その行く末
物語の終盤、ジョナサンは伝説となり、彼の言葉は信仰の対象となっていく。
かつて教えを拒んだかもめたちが、今や彼を“神”として崇めるようになってしまう。
ここで私は、五木寛之によるゾーンからのメッセージの中で引かれた、法然や親鸞の比喩に思いを巡らせた。
悟りを開いた者の本来の言葉が、やがて形式や儀式に変質していく――。
思想が信仰に、そして信仰が制度になり、やがて“本質”が失われていくプロセス。
この皮肉な構図は、宗教だけでなく、あらゆる“権威化”の流れに通じている。
私たちは、かもめたちと同じように、自分の心で考えることを放棄し、
「偉人の言葉」や「すでに定められた意味」にすがろうとしてしまう。
飛ぶ理由は、他人には決められない
ジョナサンの旅は、誰かに理解されるためではなかった。
ましてや、神として崇められるためでもない。
彼が求めていたのは、ただ「自分にとっての飛ぶ意味」を極めることだった。
社会に受け入れられずとも、家族にたしなめられても、
自らの魂が向かう方向へと飛び続ける。
その姿は、自由の象徴であると同時に、孤独と向き合う覚悟そのものだ。
「あなたは何のために飛びますか?」
この本は、読むたびに違う顔を見せるのかもしれない。
若いころに読んでいたら、きっと「自由でかっこいい生き方だな」で終わっていただろう。
だが今読むと、その裏にある哲学的な問いが、静かに心に刺さる。
この世界には、無限に情報があるようで、実はとても狭い枠で回っている。
だからこそ、目に見えるものを超え、「自分の心の目」で世界を見つめる力が問われている。
そして私は今、自分に問いかけている。
私は、何のために飛んでいるのだろう?

