「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」家康型で生きるということ― 養老孟司『バカの壁』
「バカの壁」養老孟司著を読んで
―なぜ今、この本を読むのか―
この本を手に取ったのは、「自分がバカだ」と気づいたときに読むべき本だと思ったからだ。
養老孟司は冒頭でこう語る。
「物事は言葉で説明すればわかると思っている人が多い。しかし、言葉でわかることばかりではない」と。
“話せばわかる”“聞けば理解できる”という信仰こそが、実は大きな誤解なのだ。
言葉にできないところにこそ、人間の本質がある。日本人の常識が「雑学」に堕しているという指摘にも、思わずうなずいた。
中でも印象的だったのが「感情の係数」という話。
どんなに理屈で説明しても、相手の心の係数がゼロなら何も伝わらない。
反対に、原理主義的な聞き方をする人は、無限大の理解を示す。
マイナスの係数をもてば、善意で話しても悪意に変換される。
この“係数”こそ、人間らしさであり、AIにはない柔軟で変動的な領域なのだと思った。
また筆者は、情報は固定され、人間のほうが変わり続ける存在だと説く。
『平家物語』や『方丈記』を引用しながら、無常の中にこそ生命があると語る。
豹変は悪口ではない。私自身、座右の銘を「朝礼暮改」としているが、変わるスピードを恐れずに生きることこそ、今の時代に必要な柔軟さだと思う。
「論語」の“朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり”という言葉の解釈も印象深い。
毎年同じ桜を見ても感情は変わる。その変化こそが生の証だ。だから私は、同じ場所に行ってもまた写真を撮る。自分が変わっているからだ。
人間は誰もが個性的な存在であるにもかかわらず、「個性を発揮せよ」と言われながら、同時に「共通了解」を求められる。そこにまた“壁”が生まれる。
専門性が増すほど入力は膨大になるのに、出力は限られていく。
養老はそれを「不健康な状態」と言う。
だからこそ私はnoteで発信し、言語化できない感情は写真で表現するようにしている。
人生の意味についても、筆者の視点は深い。
「自己実現」は自分の内側で完結するものではなく、常に社会との関係性の中で生まれる。
無人島で暮らす人にも意味はある。それは自然という共同体に生きているからだ。
意味は“他者”とのつながりの中に生まれる。
人が生きた証は、発信したもの、残したものの中に息づいていく。
「無意識の発見」という章では、人間の脳が24時間働き続けていることを指摘する。
睡眠を“もったいない”と思うのは、意識の世界だけを信じている証拠だという。
冬眠する熊が天上界と下層界を行き来するように、人間も無意識の世界を旅している。
三分の一を無意識で生きる――それこそが人間たるゆえんなのだ。
そして終盤、筆者はこう語る。
「バカとは思考停止である」。
安易に「わかる」「話せばわかる」「絶対の真理がある」などと思ってしまう姿勢。
そこから“一元論”に落ちていくのは容易だ。
一元論に囚われれば、強固な壁の中に住むことになる。
そこは一見、快適で安心な空間に見える。
しかし、壁の向こう側――自分とは異なる立場、異なる感情、異なる視点を見失う。
そうなれば、当然、話は通じなくなる。
つまり、「わかった」と思った瞬間に、人は“わからなくなる”のだ。
筆者はさらに、「人生は家康型で行け」と結ぶ。
徳川家康の言葉――「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」――を引用しながら、
一歩上がれば遠くが見えるが、その一歩がいかに重いかを語る。
荷を背負いながらも歩みを止めないこと、その地道な努力の中に人間らしい成長がある。
安易に理解しようとせず、ゆっくりと、しかし確実に歩く。
その姿勢こそ、バカの壁を越える唯一の方法ではないかと感じた。
思考を止め、世界を単純化するほど、壁は厚くなる。
それでも私たちは、生きる中で何度も壁にぶつかる。
大切なのは、壁を壊すことではなく、その向こうに“他者”がいると気づくこと。
自分の理解を疑いながら、立ち止まって考える勇気を持つこと。
それこそが、養老孟司のいう「人間的思考」であり、
この本の最後の行――「向こう側のこと、自分と違う立場のことは見えなくなる。当然、話は通じなくなるのです。」――に凝縮されている。
この一文こそ、「バカの壁」というタイトルのすべてを語っているのだと思う。
わかることより、わからないことを受け入れる勇気。
それが今、最も必要な“知の姿勢”なのだ。

