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わかりやすさの裏側で、思考が痩せていく

私たちは言葉を“使っている”つもりでいます。けれど『いつもの言葉を哲学する』(古田徹也)を読み終えたとき、むしろ言葉のほうが、私たちの世界の見え方を“決めている”のだと感じました。言葉は自分の意思を伝えるための手段であり、効率よく情報を処理するためのツール——私はどこかでそう捉えていました。ところが本書は、言葉とはそんな外部的なものではなく、私たちの「世界の見え方」そのものをつくってしまう存在なのだと、静かに、しかし鋭く突きつけてきます。

著者は、私たちの日常に転がっているありふれた言葉を一つずつ丁寧に拾い上げ、手のひらで裏返しながら、その手触りを確認するように考え抜いていきます。そのあまりにも誠実な姿勢は、読み進めるこちらの呼吸まで変えてしまうような、心地よい緊張感に満ちていました。

※以下、本書の議論に沿って「健常者/障害者」という言葉を用います。

たとえば、冒頭で語られるオノマトペの話は非常に象徴的です。「サラサラ」「ズシン」「じわっ」といった言葉は、単に意味を伝えるだけではありません。それらは音や触感、あるいはその場の気配といった、いわば「言語の外側」にあるものと密接に結びついています。説明というプロセスを飛び越えて、直接体に届くこれらの言葉は、私たちの感覚そのものの通路になっているのです。日本語が持つこの豊かな感覚の回路を知ることは、自分の体が世界をどう受け止めているかを再発見するような、新鮮な驚きがありました。

また、本書を読んでいて思わず深く頷いたのが、「健常者/障害者」という区分の捉え直しです。私たちは無意識のうちに、健常者は自立しており、障害者は誰かに頼って生きているという「常識」を抱きがちです。けれど著者は、その構図を鮮やかに逆転させて見せます。健常者はただ、依存先が社会の中に無数に分散されているからこそ、一つひとつの依存が目立たず、結果として「何にも依存していない」と錯覚できているに過ぎない。一方で障害者は、依存先が特定の場所に限られているために、その依存だけが浮き彫りになってしまう。ここには、言葉が勝手に作り上げてしまう「虚像」の怖さがあります。ラベルを貼ることは説明の一助にはなりますが、いつの間にかそれが相手の輪郭を固定し、生身の人間としての広がりを奪ってしまうのです。

この「言葉による単純化」への危惧は、現代のコミュニケーション、特にSNSの在り方にも通じています。語彙を「わかりやすく」整えることは、一見すると親切なようですが、そこには大きな落とし穴があります。言葉が単純になれば表現が痩せ、表現が痩せれば、私たちの思考そのものも痩せていってしまう。全体主義が常に「わかりやすい言葉」を好んできたという指摘は、短く強い言い切りが称賛される現代のネット空間への、重い警告のように響きます。

「論破」や「〇〇界隈」といった便利な型に思考を委ねた瞬間、世界が持っていた多様な色彩は、一気に単色のラベリングに回収されてしまいます。わかった気になればなるほど、実は世界を狭くしているのではないか。そんな不安が、著者の言葉を通して形になっていきます。

それは「流暢さ」への信仰についても同じです。瞬時に言葉を返し、淀みなく議論を整理する技術は、現代社会では「賢さ」の象徴とされます。ただ、そのスピード感は、本来対話に必要な「聞く余白」を奪ってしまうものでもあります。相手の言葉が自分の中で育つ前に、効率という刃で刈り取ってしまう。話し手と聞き手が「一緒に言葉を持つ」ためには、うまく言い切れない時間や、重苦しい沈黙、何度も繰り返される言い直しこそが必要なのだと、著者は教えてくれます。

本書の終盤で語られる、新潟の「コロナ」という会社のエピソードも忘れられません。病名や地名の呼び方は、単なる情報伝達の記号ではありません。それは誰かの生活や誇りに直結し、時には深く突き刺さる刃にもなります。水俣病のように、地名を含めることが歴史の風化を防ぐために不可欠な場合であっても、その言葉が運んでしまう痛みに無自覚であってはならない。言葉には正確さだけでなく、その「届き方」まで含めた重い責任が伴うのです。

コロナ禍で見られた「自粛要請」や「自粛の解禁」という表現のねじれについても、改めて考えさせられました。本来、自らの意思で行うはずの「自粛」が、公権力によって「解禁」されるものとして扱われる。そこでは言葉が公共空間の空気を固定し、現実を動かすスイッチとして機能していました。言葉はもはや説明ではなく、私たちの行動を規定する「装置」と化していたのです。

結局のところ、この本が私たちに手渡してくれるのは、「正しい言葉を選べ」という単純な道徳ではありません。むしろ、言葉に急かされ、言葉に流されやすい時代だからこそ、一度立ち止まって考え続けるための「作法」なのだと思います。

一度放たれた言葉は二度と戻りません。特に文字として残るSNSでは、前後の文脈が剥がれ落ち、意図しない形で誰かを傷つけることも日常茶飯事です。だからこそ私は、投稿ボタンを押す前の一呼吸を大切にしたい。わかりやすさに安易に寄りかからず、ラベルで人を型にはめず、沈黙の中に宿る意味を置き去りにしない。そんな、当たり前だけれど忘れがちな誠実さを、もう一度自分の手元に取り戻す——そのための静かな指針を、この一冊から受け取りました。

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