大雪だけど、雪国がもっと好きになった
今年の雪国は、久しぶりの大雪だ。玄関前と車庫前の除雪が、毎日の「朝晩の用事」になった。雪の降らない土地の人から見れば、きっと驚く日課だろう。でも雪国に住む私たちは、それを当たり前として暮らしている。不思議なものだ。
若い頃は、雪が積もるたびに「またか…」と気が重くなった。スコップを握る手にも、どこか反発が混じっていた気がする。ところがこの頃は、少し感覚が変わってきた。歳を重ねたからこそ、雪の重さだけでなく、自分の体の調子や呼吸の荒さにも敏感になる。だから無理はしない。だけど、ほどよく汗をかくことが「運動しよう」と頑張らなくてもできていると思うと、妙な達成感が生まれる瞬間がある。
ここをこう抜けば道が通る、ここをもう少し落とせば見た目が整う――そんな小さな完成が、体に覚えこませていく。気づけば、雪と向き合うコツも、道具の使い方も、自然に体が思い出す。しんどいのに、少し気持ちいい。終わったあとに、道がスッと通っているのを見るだけで、「よし」と思える。
誰かが踏み固めた雪道、誰かが整えてくれた通り道。そこを通ると、私たちは自然に得をするし、感謝も湧く。だから「雪国の人はみんな優しくて、ボランティア精神がある」と言われることもある。でも実際は、もっと静かな動機があるのかもしれない。やっている側は「いいことをしている」と意識しているばかりではない。気づけば体が勝手に動き、「ここをきれいにしたい」と思ってしまう。利他でも自己満足でもなく、ただ自然とそうしている――そんな状態こそ、私は“上徳”に近いのではないかと感じる。
もちろん、文明の助けも大きい。長岡の融雪道路のように、水が出て雪が消えていく景色を見ると、「生活は確かに良くなっている」と実感する。昔は「雪を退ける」しかなかったのに、今は「雪が消えていく」場面がある。進歩だ。ただ、それでも自然は、こちらの都合通りにはいかない。朝に必死で雪を退けても、昼には同じくらい積もっていることがある。まるで賽の河原だ。
効率や成果だけで見れば、無駄に思える人もいるだろう。でも、リセットされ、また同じことをする――そこにこそ、何か大切な意味が潜んでいる気がする。結果が残らないからこそ、「今日を丁寧にやる」しかない。そう考えると、雪かきは修行というより、心の整え方のひとつにも見えてくる。
そして、ここが私の中で最近いちばん大きい。効率や成果を求められる仕事の感覚で見れば、除雪はかなり非効率で、成果もあまり期待できない。だって、きれいにしても、また同じ状態に戻るのだから。どこか家事にも似ている。洗ってもまた汚れる、片づけてもまた散らかる。それでも人はやる。やらないと暮らしが回らないから、という理由もあるけれど、私はそれだけじゃない気がしている。繰り返しの中で、自分の心の置きどころを探したり、今日の自分を確かめたりできる。だからこの作業は、忙しさの中で置き去りになりがちな「哲学する心」の糧になっているのだと思う。
雪は一年の彩りをいったん消し去り、世界を真っ白なキャンバスにする。青空がのぞく晴天の日、その白と青の対比は言い知れない。雪国の贅沢とは、もしかしたら「リセットされる感覚」そのものなのかもしれない。苦労は確かにある。けれど、あと二ヶ月もすれば、この大雪も消えてしまう。消えると知っているから、今の苦労も、どこか季節の一部として抱えられる。
私はこの雪国が好きだ。雪に包まれた室内で、時間を長いスパンで眺め直し、自分の考えをまとめ、振り返る。除雪の一心不乱さは、小さな瞑想にも似ている。作業に集中しているうちに、余計な雑念が薄れ、体力だけでなく気持ちまでスッと軽くなる気がする。
危険なことを避けながら、雪と楽しく付き合う。雪の厳しさに学び、雪の美しさに感動し、雪を愛でる――大雪の冬は、私に「自然と一緒に生きるって、悪くない」と思わせてくれる季節だ。

