正解を探す時代に、自分の感想を持つということ

三宅香帆さんの『考察する若者たち』を読んで、これは単なる若者論ではないと感じました。
若い人たちが今、何を面白がり、何に不安を感じ、どんな形で「報われたい」と思っているのか。
その奥にある時代の空気を、かなり鋭く見つめた本だと思いました。
そして読み進めるうちに、これは若者だけの話ではなく、私自身のことでもあると感じました。
AIを使い、SNSを使い、noteを書き、写真を撮り、本を読み、会社経営をしながら時代の変化を見ている自分にも、この本の問いは深く刺さりました。
批評から考察へ、正解を探す時代
この本で一番印象に残ったのは、「批評」から「考察」へという変化です。
昭和や平成のエンタメは、作品を自分なりに読み解き、語り合う「批評」の対象だったように思います。
そこには、正解があるようでない。
人によって見方が違う。
だからこそ面白い。
ところが令和の若者は、映画や漫画、アニメの中に隠された意味や伏線を読み解き、「作者が用意した正解」にたどり着きたいという感覚が強いのだと、この本では語られています。
批評は、自分の解釈を持つこと。
考察は、作者が仕掛けた謎の答えを探すこと。
この違いは、とても大きいと思いました。
今の時代は、正解が見えにくい時代です。
頑張れば報われるとも限らない。
人間関係も複雑で、正しいと思ってしたことが、相手を傷つけることもある。
情報は多いのに、何を信じていいかわからない。
だからこそ、せめて物語の中では、答えにたどり着きたい。
伏線を回収したい。
作者の意図を当てたい。
そして「わかった」という感覚で報われたい。
この気持ちは、私にもよくわかります。
「報われたい」という感覚は、若者だけのものではない
この本を読んで強く感じたのは、若者は決して軽い気持ちでエンタメを消費しているのではないということです。
むしろ、ひとつひとつの体験に意味を求めている。
美術館に行っても、作品をじっと見るだけではなく、スマートフォンで撮影する。
それは単にSNSに上げたいからではなく、その時間を「意味のある時間」として残したいからなのだと思います。
「私はここに来た」
「私はこれを見た」
「私はこの時間を無駄にしなかった」
そんな実感を、写真や記録によって確かめているのかもしれません。
これは、私自身の写真にも通じるところがあります。
私も旅先で写真を撮ります。
ただ綺麗なものを記録しているだけではありません。
その時、自分が何に心を動かされたのか。
なぜその風景に立ち止まったのか。
そこに自分の時間を残しているのだと思います。
若者がスマホで撮ることを、軽く見ることはできない。
そこには、その時代なりの「生きた証」のようなものがあるのだと思いました。
「萌え」から「推し」へ、好きが行動に変わった
平成の「萌え」と、令和の「推し」の違いも、とても面白く読みました。
「萌え」は、対象を好きになる感情に近い。
自分の中に湧いてくる、少し本能的な好きという感覚。
一方で「推し」は、ただ好きなだけではありません。
応援したい。
支えたい。
もっと上に行ってほしい。
自分もその成長に関わっている感覚を持ちたい。
つまり「推し」は、感情であると同時に行動なのだと思います。
これは、現代の若者が自分のアイデンティティを作る方法にもなっているのでしょう。
「私はこの人を推している」
「私はこの作品を応援している」
そう言うことで、自分が何者かを表現する。
昔であれば、趣味はもう少し内側にあるものだったかもしれません。
しかし今は、好きなものを表明することが、自分を表明することにもなっている。
これは会社経営にも通じると感じました。
今のお客様は、ただ商品を買うだけではありません。
その会社の姿勢、考え方、未来への取り組みに共感する。
ある意味で、会社や商品も「推される」存在にならなければならないのだと思います。
五十嵐工業としても、ただカーポートを作るだけではなく、未来の暮らしをどう楽しくするか、どんな空間を提案するかを発信していく必要がある。
この本を読みながら、そんなことも考えました。
転生ものに見る、努力への諦めと希望
転生ものアニメの話も印象的でした。
若者は努力を否定しているわけではない。
むしろ、努力の価値はよくわかっている。
しかし、努力すれば未来が開けるとは思っていない。
ここに、今の時代の切実さがあると思いました。
努力が足りないからできないのではない。
そもそも自分には、努力に耐えるだけの能力や環境や資質がないのではないか。
そう思ってしまう。
だから、転生ものでは「別の能力を持った自分」としてやり直す。
違う世界で、違うスペックで、もう一度スタートする。
これは単なる現実逃避ではなく、「報われる可能性のある場所に立ちたい」という願いなのだと思います。
私はこの部分を読んで、今の若者の自己肯定感の低さというより、社会全体の閉塞感を感じました。
昔は、多少乱暴でも「頑張ればなんとかなる」と言えた時代があったのかもしれません。
しかし今は、情報が多すぎて、失敗例も成功例も見えすぎる。
自分より才能のある人。
自分より若く成功している人。
自分より軽々と結果を出しているように見える人。
そういう情報が毎日流れてくる中で、「自分も努力すればできる」と信じるのは、かえって難しいのかもしれません。
だからこそ、若者が最初から諦めているように見えても、それを責めることはできないと思いました。
アルゴリズムが欲しいものを教えてくれる時代
もう一つ考えさせられたのは、アルゴリズムとプラットフォームの話です。
今は、自分で探す前に、向こうからおすすめが来ます。
Amazonを見れば本がすすめられる。
YouTubeを見れば次の動画が流れる。
SNSを開けば、自分が好きそうな情報がどんどん出てくる。
とても便利です。
しかし便利であるほど、自分が本当に選んでいるのかがわからなくなります。
自分で欲しいと思ったのか。
それとも、欲しいと思わされているのか。
この違いは大きいと思います。
私も日常的にAIを使っています。
調べものもする。
文章も整える。
アイデアも出してもらう。
とてもありがたい存在です。
しかし、AIが出してくれる答えは、どうしても整いすぎていることがあります。
きれいで、わかりやすくて、間違いが少ない。
でも、人間の考えは本来、もっと荒削りです。
迷いもある。
間違いもある。
言葉にならない感情もある。
その荒削りな部分を持ち続けなければ、自分の考えまでアルゴリズムに整えられてしまうのではないか。
そんな危うさも感じました。
本屋は、偶然に出会う場所
この本で、書店の価値について触れられていたところにも深く共感しました。
ネットでは、どうしても自分に近いものがすすめられます。
読みやすそうな本。
関心がありそうな本。
過去の自分に似た本。
しかし本屋に行くと、まったく違う棚が目に入ります。
自分では検索しないジャンル。
今まで関心がなかったテーマ。
題名だけで気になる本。
なぜか手に取ってしまう本。
こういう偶然の出会いは、プラットフォームのおすすめではなかなか起こりません。
私は本を読むことが好きですが、読む前からすべて目的が決まっているわけではありません。
むしろ、目的なく本棚を眺めている時間の中で、自分の中にまだ名前のついていない興味が見つかることがあります。
本屋は、買う場所である前に、自分の興味を発見する場所なのだと思います。
そしてこれは、人生にも経営にも大事なことだと思いました。
効率だけを求めると、偶然は減っていく。
最適化だけを求めると、余白がなくなる。
けれども、新しい発想は、たいてい余白や偶然から生まれる。
本屋という場所は、AI時代だからこそ、ますます意味を持つのかもしれません。
友達より母親へ、そしてAIへ
若者の相談相手の変化も印象的でした。
かつては、悩みや心配事を友達に相談する割合が高かった。
しかし今は、その割合が低くなり、母親に相談する割合が高くなっている。
友達関係はフラットです。
だからこそ気楽な面もありますが、意見が対立すると関係が壊れやすい。
一方で、親子関係にはある種のヒエラルキーがあります。
親の言葉には、正しさのようなものがある。
少なくとも、迷った時に頼れるものとして機能する。
この構造は、AIとの関係にも似ていると本では語られています。
ChatGPTのようなAIは、こちらが質問すれば、整った答えを返してくれます。
否定しすぎない。
怒らない。
すぐに答えてくれる。
しかも、それらしい正解を提示してくれる。
まるで疑似親のような存在です。
私もAIを使っているので、この感覚はよくわかります。
AIはとても頼りになります。
しかし、頼りになるからこそ、自分で迷う力を失ってはいけないとも思います。
答えをもらうことと、考えることは違う。
整った文章を得ることと、自分の感情を見つけることも違う。
AI時代には、むしろ人間の側に「問いを持つ力」が必要になるのだと思います。
若者は弱くなったのではなく、時代に敏感なのだと思う
この本を読んで、若者に対する見方が少し変わりました。
若者は弱くなったのではない。
甘えているのでもない。
むしろ、今の時代の不安定さを、私たちより敏感に受け取っているのだと思います。
正しさはすぐに変わる。
努力は必ず報われるわけではない。
人間関係は壊れやすい。
情報は多すぎる。
おすすめは便利だが、自分の欲求まで作られてしまう。
その中で、少しでも報われたい。
意味のある時間を過ごしたい。
正解に近づきたい。
応援することで自分も生きる意味を感じたい。
これは若者だけの感覚ではなく、現代を生きる多くの人に共通するものだと思います。
自分の感想を持つことは、最後の自由かもしれない
私は本を読んで、こうして感想を書くことを続けています。
それは、自分の考えを残すためでもあります。
同時に、自分が何に心を動かされたのかを確かめるためでもあります。
AIに文章を整えてもらうことはできます。
要約してもらうこともできます。
タイトルを考えてもらうこともできます。
しかし、最初に「ここが気になった」と感じるのは自分です。
違和感を持つのも自分。
引っかかるのも自分。
読みながら過去の経験とつながるのも自分。
会社経営や写真や家族のことに引き寄せて考えるのも自分。
そこにこそ、私の読書の意味があるのだと思います。
正解を早く探す時代だからこそ、自分の感想を持つことが大事になる。
きれいに整った答えよりも、少し荒削りな自分の言葉を大切にしたい。
この本を読んで、そんなことを強く感じました。
若者の考察文化を通して見えてきたのは、令和のエンタメ消費だけではありません。
正解を求めすぎる時代に、人間がどう自分の感覚を取り戻すのかという、大きな問いでした。
私もこれから、AIを使いながらも、AIに考えを預けすぎないようにしたい。
本屋で偶然に出会い、写真で自分の時間を残し、本を読んで自分の言葉を探す。
それが、情報に流されずに生きるための、小さくても大事な抵抗なのかもしれません。
