一番長い本を選んだ日。

― 岡崎の旅にて ―
人生を変えるきっかけは、案外こんな単純な発想から始まるのかもしれません。
今回の旅で、一番訪れたかった場所が岡崎城でした。
その理由は、半世紀前にあります。
20歳の成人式の日、私は高熱を出し、式に出席することができませんでした。
布団の中で、「このまま大人になったら、自分は薄っぺらい大人になってしまうのではないか。」
そんな漠然とした不安を抱え、風邪が治ると本屋へ向かいました。
「自分を鍛えるなら、一番長い本を読もう。」
今思えば、本当に単純な発想でした。
何を読めばいいのか分からない。
だったら、一番長い本を読み切れば、自分も少しは成長できるのではないか。
そんな思いで手に取ったのが、山岡宗八さんの『徳川家康』全26巻でした。
当時の私は、読書好きでも歴史好きでもありません。
正直、苦労しながら約2年かけて読み終えました。
でも最後の一冊を閉じた時の達成感は、今でも忘れられません。
そして半世紀を経た今、はっきりと言えることがあります。
あの単純な発想こそが、私の人生のターニングポイントでした。
『徳川家康』を読み終えたことで、「最後までやり遂げられた」という自信が生まれました。
その自信が次の一冊へと背中を押し、歴史への興味も一気に広がりました。
それまでなら手に取ることもなかった分厚い本にも挑戦できるようになり、井上ひさしさんの『吉里吉里人』も読むことができました。
振り返れば、私が本を読むようになったのは、本が好きだったからではありません。
「読めた」という小さな成功体験が、次の一冊を呼び、その積み重ねが今の私をつくってくれたのです。
だから今でも、「趣味は読書です」と胸を張って言うことはできません。
家に帰れば、妻からこんな一言が飛んできます。
「本をあれだけ読んでいるのに、その態度、その言い方なの?」
その言葉に、「確かにそうだな」と思う自分がいます。
本を読んだからといって、人間が立派になるわけではありません。
知識が増えれば、自分の考えが正しいと思い込み、人を否定したり、傲慢になってしまうことだってあります。
だから私は、本を読む量ではなく、本を読んだ結果として、少しでも穏やかな人間になれているかを大切にしたいと思っています。
私がこれまで出会って、「この人は素敵だな」「物腰が柔らかく、話し方が穏やかだな」と感じた方は、不思議と読書をよくされる方でした。
でも、その人たちは読んだ本の数を語りません。
知識をひけらかすこともありません。
相手の話をよく聞き、自分の考えを押しつけることもしません。
本当に読書から学んだ人とは、知識の多い人ではなく、人への優しさや謙虚さを身につけた人なのだと思います。
私も、そんな人間になりたい。
だから今でも、本を読み続けています。
それ以来、本は私にとって好奇心の窓口になりました。
歴史、科学、経営、心理学、小説…。
ジャンルを問わず本を読むたびに、新しい世界が広がり、自分では経験できない人生を歩かせてもらっています。
そして今は、AIという新しい相棒を得て、本から学んだことや、自分が感じたことを文章にまとめ、多くの方へ届けられる時代になりました。
昔は、小説家や作家だけが文章を世の中へ届けることができました。
でも今は、誰もが自分の人生や思いを、自分の言葉で発信できる時代です。
本を読み、考え、写真を撮り、文章を書く。
この楽しみが、私の人生をさらに豊かにしてくれています。
そんな読書人生の原点となった家康誕生の城、岡崎城。
ようやく念願が叶いました。
家康という人物は、信長や秀吉に比べると、世間では決して華やかな評価ばかりではありません。
「狸親父」「何を考えているのか分からない」「運が良かっただけ」。
そんな評価を耳にすることもあります。
しかし私は少し違う見方をしています。
幼い頃から人質として生き、多くの武将の興亡を見つめ、運の巡り合わせや人の心を観察しながら生き抜いてきた人物。
戦に勝つことよりも、「どうすれば長く続く国をつくれるか」を考え続けた人だったのではないでしょうか。
会社経営も同じです。
一時的な成功よりも、続けることの方が何倍も難しい。
時代を読み、人を見て、焦らず判断する。
私は家康から、会社経営の「継続する力」を学びました。
もちろん、歴史上の人物を崇拝するつもりはありません。
家康も一人の人間です。
良いところもあれば、弱さや迷い、非情な決断もあったでしょう。
だからこそ、人間として学ぶ価値があるのだと思っています。
今回の旅は、台風が近づく中での旅でもありました。
「こんな日に出掛けるの?」
そう思われても仕方ありません。
でも私は、どうしても雨の形原温泉あじさいの里を撮影したかったのです。
雨粒をまとった紫陽花は、晴れの日とはまったく違う表情を見せてくれました。
あの日だからこそ出会えた景色がありました。
そんな少し常識外れな私に、文句ひとつ言わず付き合ってくれた妻には、本当に感謝しています。
おかげで思い描いていた写真も撮ることができ、忘れられない岡崎の旅になりました。
次は、青空の下の岡崎城にも会いに行きたいと思っています。
そして岡崎城の展示施設では、360°映像で岡崎城周辺を鳥になったような視点で飛ぶ映像を体験しました。
歴史を「見る」のではなく、「体験する」。
その展示に、とても感動しました。
その瞬間、私は思いました。
「こんな空間を自分もつくりたい。」
写真、360°映像、点群データ、そしてメタバース。
現実で感じた感動を、その場へ行けない人にも届けられる空間。
そんな世界を、いつか自分の手でつくってみたいと思っています。
20歳の私が選んだ「一番長い本」。
その時は、人生を変える一冊になるとは思ってもいませんでした。
でも半世紀を経た今、その単純な選択が、読書、写真、会社経営、そして未来への挑戦へとつながっていることに気づきます。
振り返れば、この旅は岡崎城を訪ねる旅ではありませんでした。
20歳の自分に会いに行く旅であり、これからの自分をもう一度見つめ直す旅だったのだと思います。
そして20歳のあの日、本屋で『徳川家康』を手に取った自分に、こう伝えたいのです。
「あの日、一番長い本を選んでくれて、ありがとう。」
