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分かったようで、分からない。それでも考え続ける

國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』を読み終えて、最初に浮かんだ感想は、「面白かった」よりも「疲れた」でした。

もちろん、つまらなかったという意味ではありません。むしろ逆です。

ページをめくるたびに立ち止まり、考え、少し分かった気になり、また分からなくなる。その繰り返しでした。自分の中にすっと落ちてくる部分もあれば、何度考えてもつかみ切れない部分もありました。

本を読み終えたのに、何かを理解したというより、いくつもの問いを渡されたような気がします。

私たちは、本当に忙しいのだろうか

現代人は忙しい。

私自身も、仕事をし、本を読み、写真を撮り、文章を書き、次に何をしようかと常に考えています。何もしていない時間は少ないと思います。

しかし本書を読みながら、本当に私は忙しいのだろうかと考えました。

もしかすると、暇であることや退屈であることを感じないように、予定や情報や行動で時間を埋めているだけなのかもしれません。

テレビを見たり、スマートフォンを眺めたり、買い物をしたり、どこかへ出かけたりする。本人は楽しんでいるつもりでも、その行為が本当に自分の望んだものなのか、それとも退屈から逃げるための気晴らしなのかは、簡単には分かりません。

パスカルの「ウサギ狩り」の話は、とても印象に残りました。

人はウサギが欲しいのではなく、ウサギを追いかけている間、退屈を忘れられることを求めている。

そう考えると、私たちが何かを欲しがる時、その物自体が欲しいのか、それとも欲しがっている自分でいたいのか、分からなくなります。

私たちは退屈の反対に、楽しさや幸福を置いているつもりですが、実際には穏やかな幸福よりも、強い刺激や興奮を求めているのかもしれません。

昨日と今日を区別してくれる何か。

それが楽しい出来事であれ、腹の立つ出来事であれ、何も起きないよりはいい。人間には、そんな危ういところがあるように思います。

浪費は満足し、消費は終わらない

本書の中で、私が比較的理解しやすかったのは、「浪費」と「消費」の違いでした。

浪費とは、物を十分に受け取り、楽しみ、満足すること。

消費とは、物そのものではなく、そこに付けられた意味や記号を追い続けること。

この違いは、とても大きいと思いました。

おいしい料理を時間をかけて味わい、満足する。それは浪費です。しかし、評判の店に行ったという事実や、珍しい料理を食べたという記号だけを次々に求めれば、満足することはありません。

写真も同じかもしれません。

風景と向き合い、光を待ち、シャッターを切る時間そのものを楽しめれば、それは豊かな浪費です。

しかし、有名な撮影地へ行った、珍しい写真を撮った、「いいね」がたくさん付いたという記号ばかりを追えば、終わりのない消費になります。

もちろん、私はSNSで写真を発表しますし、多くの人に見てもらえればうれしい。それ自体を否定するつもりはありません。

ただ、撮影している時の感動よりも、撮影後の評価の方が大きくなっていないか。時々、自分に問い直す必要はあると思いました。

本についても同じです。

何冊読んだかを誇ることと、一冊の本を十分に味わうことは違います。読書量は一つの結果でしかなく、冊数が増えるほど考えが深くなるとは限りません。

この本は、簡単に読み終えて次へ進むことを許してくれませんでした。

そういう意味では、私はこの本を消費できなかったのだと思います。

生物によって、流れる時間が違う

特に面白かったのは、「環世界」の話でした。

人間も動物も、同じ世界を生きているように見えます。しかし実際には、それぞれが自分の感覚でつくられた、異なる世界を生きています。

人間には一瞬にしか見えない動きが、ある生物にはゆっくり見える。逆に、人間が変化として認識できる時間も、別の生物には一つのまとまりとしてしか感じられない。

野球選手が時速150キロを超える球を「止まって見えた」と表現することがあります。それも訓練によって、普段とは違う時間の世界を獲得したということなのかもしれません。

写真撮影にも、似たことがあります。

肉眼では一瞬で消える水しぶきを高速シャッターで止めれば、水滴一粒一粒が見えます。逆に長時間露光を使えば、流れる水や雲や光の軌跡が、肉眼とは違う時間の形として現れます。

写真は、人間が普段見ている環世界の外側を、少しだけ見せてくれるものなのかもしれません。

しかし、ここで大切なのは、カメラを使えば真実が見えるということではありません。

人間は、人間に見える世界しか見ていない。

さらに同じ人間でも、学者、職人、芸術家、子ども、高齢者では、見えているものが違います。

建築に関わる人には、建物の構造や納まりが見える。植物学者には、道端の草の違いが見える。写真家には、光の向きや色の変化が見える。

専門性を持つということは、新しい環世界を獲得することなのだと思います。

盲導犬の話も印象的でした。

犬は犬の世界を生きながら、訓練によって人間の世界を理解し、人間を導く。

それは単に命令に従っているのではなく、二つの環世界を移動しているということなのでしょう。

人間も学ぶことによって、今まで見えなかった世界へ移動できます。

本を読む意味も、そこにあるのかもしれません。

自由だからこそ、人間は退屈する

動物は、それぞれの環世界に強く結びついて生きています。

一方で人間は、ある環世界から別の環世界へ移動できます。仕事の世界、家庭の世界、趣味の世界、宗教の世界、科学の世界、芸術の世界へと、かなり自由に行き来できます。

この自由は、人間のすばらしい能力です。

しかし、その自由があるからこそ、私たちは一つの世界に完全には没頭できず、退屈するのだと本書は語ります。

これは分かったようで、まだ完全には分かりません。

何か一つの対象に取りさらわれ、夢中になっている時、人は退屈しません。

本を読んでいる時、写真を撮っている時、物を作っている時、私は退屈していないと思います。

しかし、夢中であることと、自由であることは同じではありません。

何かに完全に取りさらわれれば、退屈は消える。その代わり、別の世界へ移動する自由は弱くなる。

自由でいることと、退屈しないことは、両立しにくいのでしょうか。

ここは今も私の中では、まだ答えが出ていません。

考えなければならなくなった時、退屈は消える

本書を読みながら、最も心に残ったのは、「思考せざるを得なくなった時、人は考える」ということでした。

普段、私たちは慣れた環世界の中で生きています。

決まった習慣、決まった考え方、決まった人間関係の中では、それほど深く考えなくても生活できます。

しかし、そこへ予想外のものが入り込んでくる。

自分の常識では理解できない出来事、受け入れたくない意見、これまでの方法が通用しない変化。そうした「不法侵入者」が現れると、私たちは習慣を変えるか、考え方を変えるかを迫られます。

その時、人は初めて本気で考える。

考えることは、楽しいことばかりではありません。

それまで信じていたものが揺らぎ、自分の矛盾に気づき、自分の無知を認めなければならない。だから人間は、本当は考えたくないのかもしれません。

分かりやすい答えや、気持ちのよい言葉や、自分を肯定してくれる情報だけを受け取りたくなるのも、そのためでしょう。

しかし、考えることを避け続ければ、私たちは用意された気晴らしや消費の中を回り続けるだけになります。

そう考えると、分からない本を読むことにも意味があります。

読んですぐに役に立つ本ではなく、自分の中へ不法侵入してきて、今までの考え方を揺らす本。

この『暇と退屈の倫理学』は、私にとってまさにそのような本でした。

楽しむとは、受け取ること

「楽しむこと」と「考えること」は、別の行為のように感じます。

楽しむ時には考えず、考える時には苦しむ。

私はどこかで、そう思っていたのかもしれません。

しかし本書では、楽しむことも考えることも、何かを受け取る行為であると語られます。

料理を味わう。音楽を聴く。写真を見る。自然の中を歩く。本を読む。

ただ情報として通り過ぎさせるのではなく、立ち止まり、自分の中に受け入れる。

本当に楽しむためには、受け取る余裕が必要です。

これは、今の社会にとってかなり難しいことだと思います。

次々と情報が流れ、新しいものが現れ、すぐに感想や答えを求められる。受け取る前に、次のものへ移ってしまいます。

私自身も、読み終えた本をすぐにまとめようとします。

しかし、すぐに言葉にならない本があってもいい。

何年かたって、突然一つの言葉が腑に落ちることもあります。過去に読んだ本の意味が、自分の経験によって、後から分かることもあります。

本を読むとは、その場で理解することだけではなく、自分の中に分からないものを残しておくことなのかもしれません。

分からないまま、持ち続ける

この本を読み終えて、私は「暇」と「退屈」を説明できるようになったわけではありません。

むしろ、読む前より簡単には言えなくなりました。

暇だから退屈するわけでもない。

忙しいから退屈していないわけでもない。

楽しんでいるから自由だとも限らず、自由だから幸福だとも限らない。

この本は、私が無意識に使っていた言葉の意味を、一度壊してしまいました。

だから疲れたのだと思います。

それでも、この疲れは嫌な疲れではありません。

本と対話しながら、分かったり、疑ったり、反論したり、また戻ったりする。その時間そのものが、この本を楽しむことだったのでしょう。

考えることは、効率が悪い。

すぐに答えが出ない。

時には何も得られなかったように感じる。

しかし、分からないものを分からないまま持ち続けることも、人間にしかできない豊かさなのかもしれません。

この本がいつか自分の中でストンと落ちる時が来るのか、それとも最後まで分からないままなのかは分かりません。

ただ、何年か後にもう一度読みたいと思います。

その時の私は、今とは違う環世界を生き、今とは違う時間を見ているはずです。

そして、同じ本を読みながら、まったく違うことを感じるのでしょう。

それもまた、読書の楽しみなのだと思います。

 

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