わからないままでも、人生は始められる

『ぼくには笑いがわからない』上村裕香 著を読んで
久しぶりに小説を読みました。
上村裕香さんの『ぼくには笑いがわからない』。
題名を見たとき、私は「笑いとは何か」という本質を掘り下げた物語なのだろうと思っていました。
人は、なぜ笑うのか。
何を面白いと感じるのか。
笑いは、理屈で理解できるものなのか。
そんな少し哲学的な問いを、物語の中で解き明かしていく小説を想像していたのです。
しかし、読み進めるうちに、その予想は良い意味で裏切られました。
これは単なる「笑いについての小説」ではありません。
好きな女性から「おもしろい人が好き」と言われた大学生の耕助が、幼なじみの将吉とコンビを組み、M-1を目指していく青春小説です。そこには、夢に向かって進む若者の勢いだけではなく、才能への嫉妬や、自分の実力への不安、評価されることの怖さ、相手に思いが届かないもどかしさが描かれていました。
お笑いという一見華やかな世界の裏側で、何度もネタを作り直し、人前に立ち、笑ってもらえるかどうかもわからないまま勝負する。
今まさに、劇場の楽屋や稽古場、深夜の公園などで、同じように夢と現実の間でもがいている芸人さんがいるのだろう。
そう思いながら読むと、物語の中の人物たちが、急に現実の人間として立ち上がってくるように感じました。
付箋を貼れない小説
私は普段、本を読みながら、気になったところに付箋を貼り、アンダーラインを引きます。
後で読み返したときに、自分がどこに心を動かされたのかを確かめるためです。
しかし、小説はなかなかそうはいきません。
実用書や思想書のように、「ここが大切です」と、一文で答えが書いてあるわけではないからです。
人物が黙ったこと。
一歩を踏み出せなかったこと。
誰かに言えなかったこと。
思いがすれ違ってしまったこと。
そうした、言葉にならない部分にこそ、小説の本質があるように思います。
今回も、付箋やアンダーラインを引く箇所は、それほど多くありませんでした。
それでも読み終えた後、四郎と耕助の気持ちが、何度も頭に浮かんできました。
ページに印をつける代わりに、二人の揺れる気持ちを、今の自分自身に重ねて読んでいたのだと思います。
わからないからこそ、進んでいく耕助
耕助は、笑いがわかりません。
それなのに、お笑いの世界に入り、M-1を目指そうとします。
普通に考えれば、ずいぶん無謀です。
しかし、私はその無謀さを笑うことができませんでした。
むしろ、少しうらやましいとさえ感じました。
耕助は、すべてを理解してから動こうとはしません。
わからないからこそ、その世界へ入っていきます。
理解してから動くのではなく、動きながら理解しようとするのです。
振り返れば、私もこれまで、最初から答えが見えていたことなど、ほとんどありませんでした。
興味を持ったことに一歩踏み出し、失敗したり、恥をかいたり、人に教えてもらったりしながら、少しずつ自分なりの答えを見つけてきました。
歳を重ね、経験が増えると、物事を始める前に結果を予測してしまいます。
「これは難しいだろう」
「今から始めても遅いだろう」
「うまくいかなかったら恥ずかしい」
経験は人を助けてくれますが、同時に、一歩を止める理由にもなります。
耕助の姿を見ながら、私は自分に問いかけていました。
今の私は、まだ、わからないものの中へ入っていけるだろうか。
答えのない場所へ、素直な好奇心だけで踏み出せるだろうか。
耕助の無謀さは、危うく見えながらも、物語を前へ進める力になっています。
他の読者の感想にも、「わかっていない耕助は踏み出し、わかっている四郎は踏み出せない」という、二人の対照的な姿を本作の魅力として捉えるものがありました。
わからないことは、弱さではない。
ときには、わからないからこそ、一歩を踏み出せることもある。
耕助から、そんなことを教えられた気がします。
わかっているからこそ、動けない四郎
一方で、四郎の気持ちも、よくわかります。
四郎は、耕助とは違い、笑いについて考え、漫才をつくる力も持っています。
しかし、わかっているからこそ、自分の限界も見えてしまいます。
何が面白いのか。
何が足りないのか。
自分はどこまで行けるのか。
深く考える人ほど、自分の未熟さにも気づきます。
そして、自分のつくったものを外へ出すことが怖くなります。
それは、私にもよくわかる感情です。
何かをつくり、人に見せるということは、褒められる可能性と同時に、否定される可能性も引き受けることです。
自分の中だけに置いておけば、傷つくことはありません。
しかし、外へ出した瞬間から、それは自分の思いどおりには受け取られなくなります。
良いと思って出したものに、ほとんど反応がないこともあります。
逆に、それほど期待していなかったものが、誰かの心に強く届くこともあります。
自分が伝えたかったことと、相手が受け取ったものが、まったく違う場合もあります。
それでも、外へ出さなければ、誰にも届きません。
四郎の迷いや怖さは、若い芸人だけが抱えるものではないと思います。
自分の考えを言葉にする人。
作品を発表する人。
新しい仕事を提案する人。
これまでとは違う道を選ぼうとする人。
何かを人前に差し出そうとするすべての人の中に、四郎のような怖さがあるのではないでしょうか。
私の中にも、耕助のように「まず動いてみよう」と考える自分と、四郎のように「本当にこれでよいのか」と立ち止まる自分がいます。
その二人が、いつも心の中で話し合っているような気がします。
笑いは、世界とつながるための言葉
この物語を読んで、笑いとは、人を笑わせるための技術だけではないのだと思いました。
自分の中にあるものを、相手に届く形へ変える行為なのではないでしょうか。
漫才師は、言葉の順番を考え、間を調整し、相方と呼吸を合わせ、観客の前に立ちます。
しかし、どれほど練習しても、笑ってもらえる保証はありません。
自分では面白いと思った言葉が、まったく届かないこともあるでしょう。
それでも、もう一度ネタを考え、もう一度舞台に立つ。
それは、「自分はここにいる」と、世界に向かって伝える行為のようにも見えます。
「笑いがわからない」と悩みながらも、誰かを笑わせたいと思うこと。
誰かに認められたい、誰かとつながりたいと願うこと。
それは、芸人だけではなく、私たち誰もが持っている気持ちなのではないでしょうか。
人は、自分だけの方法で、この世界との接点を探しています。
ある人は言葉で、ある人は仕事で、ある人は写真で、ある人は笑いで、自分の中にあるものを誰かに届けようとします。
届く保証はなくても、伝えようとする。
そこに、人間の不器用さと愛おしさがあるのだと思います。
私の中にも、四郎と耕助がいる
四郎と耕助は、対照的な人物です。
わからないまま進んでいく耕助。
わかっているからこそ、立ち止まってしまう四郎。
しかし、どちらが正しいということではありません。
耕助の勢いだけでは、周囲が見えなくなることがあります。
四郎の慎重さだけでは、いつまでも舞台に立てないかもしれません。
二人は、お互いに足りない部分を映し出しているように感じました。
そして、それは私自身の中にもある二つの気持ちです。
まだやってみたい。
もっと新しいものを見たい。
知らない世界に入ってみたい。
そう思う一方で、
今さら始めてどうなるのだろう。
人からどう見られるだろう。
失敗したら恥ずかしいのではないか。
そんな気持ちもあります。
それでも最近は、迷いが消えるまで待つのではなく、迷ったまま一歩を出してもよいのではないかと思うようになりました。
人生は、すべてを理解し、成功する確信を得てから始めるものではありません。
わからないまま始め、途中で考え、間違えれば修正する。
それを繰り返すうちに、自分でも想像していなかった場所へたどり着くことがあります。
耕助の一歩と、四郎の迷い。
その両方を抱えたまま進むことが、今の私には一番自然な生き方なのかもしれません。
付箋の数では測れない読書
久しぶりに読んだ小説には、付箋を貼って持ち帰れる明確な答えはありませんでした。
しかし、四郎と耕助の迷いや決断は、読み終えた後も心に残り続けています。
実用書は、考える材料を言葉で渡してくれます。
小説は、登場人物の人生を通して、自分自身を見せてくれます。
今回、私は笑いの本質を知りたくて、この本を開きました。
けれど、最後に考えていたのは、笑いのことだけではありませんでした。
夢を追うこと。
人に認められたいと願うこと。
自分の思いを外へ出すこと。
わからないまま一歩を踏み出すこと。
そして、何歳になっても、自分の中にある好奇心や意地を失わずに生きること。
小説は、直接答えを教えてはくれません。
だからこそ、そこに自分の人生を重ねる余白があります。
久しぶりの小説に、この本を選んだのは、とても贅沢な時間でした。
お笑いという華やかな舞台の裏側にある、泥臭く、ままならず、それでも前に進もうとする人間の姿。
その姿に笑いながら、いつの間にか自分自身のことを考えていました。
私の中にも、耕助がいます。
そして、四郎もいます。
わからない自分と、わかりすぎて動けない自分。
その二人を連れたまま、これからも私は、自分なりの舞台に立ち続けたいと思います。
笑いがわからなくても、舞台には立てる。
誰かに届くかわからなくても、言葉を発することはできる。
付箋の数では測れないものを、この小説は私の中に静かに残してくれました。
