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「できない子」ではなく、考え方が違うだけなのかもしれない

『ビジュアル・シンカーの脳』を読んで

テンプル・グランディン著、中尾ゆかり訳の『ビジュアル・シンカーの脳 「絵」で考える人々の世界』を読んだ。

私たちは、人間は言葉を使って考えるものだと思い込んでいる。

しかし、頭の中に鮮明な映像を浮かべながら考える人もいる。形や空間の関係、数字やパターンによって世界を捉える人もいる。音や触覚、身体感覚を通して理解する人もいる。

本書は、言葉ではなく「絵」で考える人々の能力が、現在の教育や社会の中で十分に認められていないことを教えてくれた。

読み進めながら私は、これは一部の特別な人だけの話ではなく、これからの教育、仕事、そしてAIと人間の関係を考える上で、とても重要な問題だと思った。

学校で評価される力だけが、能力ではない

現在の学校教育は、言葉で考える人に有利に作られている。

話を順序立てて説明できる。

文章を読み、決められた時間内に答えを書く。

先生の説明を理解し、試験で正解を出す。

もちろん、これらも大切な能力である。

しかし、人の能力はそれだけではない。

実際の物に触れることで理解する人もいる。

機械を分解し、組み立てながら仕組みを覚える人もいる。

図形や空間を見た瞬間に、その構造や関係を理解する人もいる。

色や形、音や動きから、誰も思いつかなかった発想を生み出す人もいる。

ところが学校では、そうした能力は点数になりにくい。

言葉で説明することが苦手だったり、授業中に落ち着きがなかったりすると、「勉強のできない子」と判断されてしまうことがある。

しかし、本当はできないのではない。

考え方や学び方が違うだけなのかもしれない。

学校の成績が良くないという理由だけで、未来の設計者、技術者、職人、発明家、芸術家になる可能性を失わせているとしたら、それは本人だけでなく、社会全体にとっても大きな損失である。

現実と結びついたとき、学ぶ意味が生まれる

本書の中で特に印象に残ったのは、子どもが考え方を理解し、自分の中に取り入れるためには、現実世界の作業や趣味と結びつけることが大切だという話だった。

計算問題だけを見せられても興味を持てない子が、物を作る中で長さや角度を学ぶことがある。

理科の言葉を覚えることが苦手でも、植物を育てたり、虫を観察したりする中で、生き物の仕組みに夢中になることもある。

パソコンやゲームが好きな子も、それを単なる遊びとして止めさせるのではなく、プログラミングや映像、音楽、デザインへの入り口にできるかもしれない。

大人が教えたいことから始めるのではない。

子どもがすでに興味を持っているものから、学びにつなげていく。

それが本来の教育ではないだろうか。

「絵で考える」にも違いがある

本書では、視覚思考者には大きく二つのタイプがあると説明されている。

一つは、物を写真のような具体的なイメージで考える「物体視覚思考者」。

画家、デザイナー、建築家、発明家などに向く傾向があるという。

もう一つは、形の配置、法則、パターン、抽象的な関係で考える「空間視覚思考者」。

数学者、科学者、物理学者、プログラマーなどに向く傾向がある。

同じ「絵で考える人」であっても、その見え方や得意分野は同じではない。

具体的な物の姿を鮮明に思い浮かべる人もいれば、空間の関係や法則を瞬時に捉える人もいる。

そして、その考えを言葉にして伝える人も必要である。

どれか一つの能力だけで、社会が成り立つわけではない。

本書で紹介されていた宇宙服の例が、とても分かりやすかった。

宇宙服は、構造や数値を考える技術者だけでは作れない。素材を扱い、人間の身体に合わせて実際に縫い上げる人の具体的な感覚も必要になる。

異なる考え方を持つ人たちが力を持ち寄ることで、初めて新しいものが生まれる。

言葉を得ることで、見えなくなるもの

幼い子どもは、誰もが視覚的な情報に強く頼っているという。

やがて言葉を覚え、年齢とともに、言語によって記憶し考える割合が増えていく。

それは人間が社会で生きるために必要な成長である。

しかし、言葉が増えることで、もともと持っていた鮮明なイメージや感覚が、言葉に覆われてしまうこともあるという。

私は孫を見ていても、子どもは大人とはまったく違う角度から物を見ていると感じる。

大人が見過ごしてしまう小さな虫、石の形、雲の動き、葉っぱの色に夢中になる。

大人にとっては意味のない物でも、子どもにとっては大発見である。

そこで大人がすぐに正解を教えたり、「そんなものを見ていないで」と興味を止めたりすれば、せっかく芽生えた感覚を失わせてしまうかもしれない。

子どもに必要なのは、いつも答えを教える人ではない。

その子が何を見ているのかを一緒に見て、興味を伸ばす手助けをする人なのだと思う。

深く集中できることを、欠点にしない

一つのことに深くのめり込み、周囲の音が聞こえなくなるほど集中する子がいる。

人との会話が得意ではなかったり、集団行動にうまくなじめなかったりすることもある。

これまでの社会では、そのような特徴を欠点として捉えることが多かった。

しかし、世界を変えるような発明や表現は、そうした極端な集中力から生まれることもある。

本書では、自閉スペクトラム症やサヴァン症候群についても触れられている。

サヴァン症候群の人の中には、音楽、記憶、計算、言語、絵画など、限られた分野で驚くほど高い能力を示す人がいる。

もちろん、発達特性があれば、必ず特別な才能を持っているという単純な話ではない。

大切なのは、人と違うところをすぐに直そうとするのではなく、その人が何に強く反応し、何になら集中できるのかをよく見ることである。

人付き合いが苦手な人が、人と人をつなぐ新しい仕組みを生み出すこともある。

話すことが苦手な人が、絵や音楽、設計、プログラムによって、自分の考えを表現することもある。

欠点に見えていたものが、見方を変えれば、新しい発想の出発点になるのかもしれない。

動物は、言葉以外の世界を生きている

本書には、動物の知能についても多く書かれていた。

中でも、タコと鳥の脳の話はとても面白かった。

タコは腕にも大きな神経の集まりを持ち、吸盤を細かく制御する。記憶し、学習し、遊び、工夫しながら貝を開くこともできるという。

鳥は体を軽く保ちながら飛ばなければならないため、小さな脳の中に高い処理能力を詰め込んでいる。

その脳は、小さな電子チップに多くの機能を詰め込んだスマートフォンのようなものだという説明が、とても分かりやすかった。

カラスが道具を使ったり、人間の顔を覚えたりするのも、決して偶然ではない。

鳥が恐竜から進化した生き物だと考えると、私たちは今も、空を飛ぶ恐竜を身近に見ていることになる。

動物は人間のような言葉を持たない。

だからといって、知性がないわけではない。

視覚、嗅覚、聴覚、触覚などを使い、人間とは異なる方法で世界を理解している。

言葉で説明できることだけが、理解ではない。

この考えは、動物を見る目だけでなく、人間同士を見る目も変えてくれる。

これから残るのは、ビジュアル認知のできる人の仕事

この本を読みながら、私は、これから人間に残る仕事について考えた。

AIは膨大な言葉を読み、文章を書き、計算し、画像や音楽を作り、図面まで描くようになった。

これまで学校で高く評価されてきた、知識を覚え、正確な答えを早く出す能力は、今後ますますAIが得意とする分野になっていくだろう。

その一方で、これから特に必要とされるのは、ビジュアル認知のできる人たちではないかと思う。

それは、単に絵が上手な人という意味ではない。

目の前にある物の形や構造、空間の関係を捉え、頭の中で動かし、まだ存在していない姿を想像できる人である。

小さな変化や違和感に気づく人。

いくつもの情報を一つの場面として結びつける人。

言葉や数値には表れていない危険や可能性を感じ取る人。

相手の表情や動き、周囲の環境を見ながら、状況に合わせて判断できる人。

そして、AIが出した答えを現実の世界に照らし合わせ、「本当にこれでよいのか」と考え直せる人である。

AIは、過去に蓄積された膨大な情報から、素早く答えを作る。

しかし、現実世界は、いつも過去のデータどおりに動くわけではない。

その場の空気、光、音、匂い、手触り、人の感情など、言葉だけでは説明しきれない情報が無数に存在している。

人間は、それらを五感で受け取り、全体の状況として認識する。

これから人間に残る仕事とは、AIより速く答えを出すことではない。

AIが出した答えを、現実の中で確かめること。

そこにある違和感を見つけること。

まだ言葉になっていない問題や可能性を発見すること。

そして、AIの答えを、人間が生きる世界に合う形へと作り直すことなのだと思う。

だからこそ、今の教育で見過ごされがちな、物をよく見る子、手を動かすことが好きな子、形や空間に強い子、一つのことに深く没頭する子を、大切に育てなければならない。

その子たちは、これからのAI時代にこそ必要になる人なのかもしれない。

AI時代だからこそ、人間を同じ形にしない

これからAIは、文章を書き、画像を作り、計算し、情報を整理するところまで、ますます進化していく。

そのような時代に、すべての子どもに同じ内容を、同じ方法で教え、同じ試験で順位をつける教育を続けてよいのだろうか。

人間には、それぞれ異なる知性がある。

言葉が得意な人。

絵で考える人。

音で感じる人。

手を動かして理解する人。

人と人の間をつなぐ人。

自然の小さな変化に気づく人。

一つのことを深く掘り下げる人。

これらの違いを、同じ尺度だけで優劣に分ける必要はない。

むしろ、AIと伴走する時代には、人間を同じ形にそろえるのではなく、それぞれの違いを見つけ、組み合わせていく力が重要になる。

AIが人間と同じようになるのを待つのではない。

人間が、AIにはない自分たちの多様な認知能力を、もう一度見つめ直す時なのだと思う。

教えるより、まずよく見る

この本を読んで、私は教育とは何かを改めて考えた。

教育というと、何かを教えることだと思ってしまう。

しかし、本当に必要なのは、まず相手をよく見ることなのではないか。

この子は、何を面白がっているのか。

何をしているときに表情が変わるのか。

どんな方法なら理解できるのか。

その興味を次の学びにつなげるために、大人は何ができるのか。

孫を見るときにも、若い人と接するときにも、すぐに自分の考えを教えるのではなく、相手がどのように世界を見ているのかを知ろうとすることが大切なのだと思う。

「この人はできない」と判断する前に、こちらの教え方や伝え方が、その人に合っていない可能性を考える。

それだけでも、人の見方は大きく変わる。

言葉で考える人も、絵で考える人も必要である。

人間だけでなく、動物にもそれぞれの知覚と知性がある。

そしてAIもまた、人間とは違う方法で情報を処理している。

これからの社会に必要なのは、どれか一つの考え方だけを正解にすることではない。

違う考え方が存在することを認め、それぞれの力を持ち寄ることである。

「できない子」なのではない。

まだ、その子に合った学びの入り口を、大人が見つけられていないだけなのかもしれない。

そして、その子が持っている、言葉にはできない「見える力」こそが、AI時代の未来をつくる力になるのかもしれない。

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