9割しんどい読書が、血肉になるまで

『血肉となる読書 なぜ読むことだけが人生を変えるのか』を読んで
斎藤幸平さん、小川公代さん、安田登さんの共著『血肉となる読書 なぜ読むことだけが人生を変えるのか』を読んだ。
題名にある「血肉となる読書」という言葉に、私は強く引かれた。
本を読むことと、その本が自分の血や肉になることは違う。
内容を知識として覚えているだけでは、その本を本当に読んだとは言えないのかもしれない。考え方や言葉が自分の中に染み込み、日々の判断や人との向き合い方にまで表れて、初めて本は自分の一部になる。
しかし、そこまで本を自分の中に取り込むことは、決して簡単ではない。
本書には「読書の九割はしんどい」という言葉が出てくる。
私は、この言葉に妙に納得した。
読書はいつも楽しいわけではない。分からない文章に何度も戻り、著者の考えに違和感を覚え、それでもページを進める。すぐには役に立たず、何を得たのかさえ説明できない本もある。
それでも、そのしんどさの中にこそ、読書が血肉になるまでの時間があるのではないかと思った。
読むほどに、自分の未熟さが見えてくる
私はこれまで、多くの本を読んできた。
けれども、読み重ねるほど、自分が少しずつ完成に近づいているとは思えない。むしろ、本を読むたびに、自分の未熟さや偏りが、以前よりもはっきり見えるようになった。
知識が増えれば、人にやさしくなれると思っていた。
物事を深く考えられるようになれば、もっと穏やかに人と向き合えるとも思っていた。
しかし実際には、知っていることが増えた分だけ、自分の考えに自信を持ちすぎることもある。相手の話を最後まで聞く前に、すでに自分の中で結論を出してしまうこともある。
本で得た言葉を、自分を省みるためではなく、知らず知らずのうちに自分を正当化するために使ってしまうことさえある。
そこに、私の読書の危うさがある。
私は本を読むことで変わりたいと思っている。
けれども心のどこかには、自分はすでにかなり分かっていると思いたい気持ちもある。
新しい考えを受け入れたい自分と、これまでの自分を否定されたくない自分。
人の意見に耳を傾けたい自分と、自分の考えの正しさを証明したい自分。
その二つが、読書をするたびに私の中でぶつかっている。
だから読書は、私にとって単に知識を増やす行為ではない。
自分の中にある傲慢さ、臆病さ、頑固さに気づき、それでもなお変わろうとするための行為なのだと思う。
本を読んでも、人間はすぐには変わらない。
分かったつもりになっても、日常の言葉や態度には、これまで生きてきた自分がそのまま表れる。
そのたびに私は、本当に読んだのかと自分に問い直す。
文字を目で追っただけではなかったか。
理解した気になっただけではなかったか。
その言葉を、自分に都合のよいところだけ受け取ってはいなかったか。
読書とは、自分を立派に見せるためのものではない。
むしろ、自分の中にある見たくない部分を、何度も見せられることなのかもしれない。
読書は、答えを探すことではない
本書の中で特に心に残ったのは、読書は問題を解決するための答え探しではない、という考え方だった。
問いを自分の中に抱えながら、すぐに結論を出そうとせず、本の世界に身を委ねて読む。
その時間の中で、本の言葉と自分の経験が結びつき、少しずつ化学変化が起こる。その繰り返しによって、読書は知識ではなく、自分の血肉になっていくのだという。
私はこれまで、本の中に答えを求めることが多かった。
経営の悩み、人との関わり方、これからの社会、老い、時間、生きる意味。
何かに迷うたびに、本を開けば進むべき方向が見えるのではないかと思ってきた。
確かに、一冊の本の中の一つの言葉によって、目の前が急に明るくなることはある。
しかし、多くの本は簡単な答えを渡してはくれない。
むしろ、それまで気づかなかった問いを増やしてくる。自分が正しいと思っていたことを揺さぶり、見たくなかった自分の姿まで見せてくる。
読書とは、答えを得ること以上に、自分の中の常識を揺らすことなのかもしれない。
分からないまま、考え続ける力
本書では、簡単に答えが出ない状態に耐える力として「ネガティブ・ケイパビリティ」についても語られていた。
私たちは、分からないことがあると、すぐに答えを探したくなる。
白か黒か。
正しいか間違いか。
賛成か反対か。
はっきり分けた方が安心できるからだ。
しかし、世の中の多くの問題は、二つに分けることができない。人間の感情も、社会の問題も、経営の判断も、簡単な正解があるわけではない。
分からないまま考え続けること。
違和感をすぐに消そうとしないこと。
答えの出ない問いを、自分の中に置き続けること。
それは苦しいことだが、その苦しさの中でしか見えてこないものもある。
本を読んでいて、自分の考えと合わない言葉に出会うこともある。
以前の私なら、「この著者の考え方は違う」と、早い段階で判断してしまったかもしれない。
しかし本書を読み、自分と違う考えに出会った時こそ、
「もしかすると、間違っているのは自分の方かもしれない」
と立ち止まることが大切なのだと思った。
すぐに賛成する必要はない。
無理に納得する必要もない。
ただ、その違和感を抱えながら考えてみる。
時間がたってから、突然その言葉が腑に落ちることもある。それまで見えなかった景色が、別の経験をしたことで見えてくることもある。
分からないものをすぐに切り捨てず、自分の中に置いておく。
その時間もまた、読書の一部なのだと思う。
漢方薬のように効く本、抗生物質のように効く本
本書では、人生に変化を与える読書には「漢方薬型」と「抗生物質型」の二種類があると語られていた。
この表現が、とても面白かった。
漢方薬型の読書は、読んですぐに劇的な変化が起こるわけではない。
それでも、いつの間にか物の見方や考え方が少しずつ変わっている。
古典や哲学書は、こちらの読書が多いのだと思う。
読んだ当時はよく分からなかった言葉が、何年もたってから突然よみがえる。
仕事で迷った時、人との関係に悩んだ時、人生の節目を迎えた時に、
「あの本に書いてあったのは、このことだったのか」
と気づく。
本を閉じた時には、何も起こっていないように見える。
けれども、種はすでに自分の中にまかれているのだ。
一方、抗生物質型の読書は、苦しい時や迷っている時に、一つの言葉が強く効いてくる読書である。
悩みが深くなり、どちらへ進めばよいのか分からなくなった時、一冊の本が出口の方向を照らしてくれることがある。
ただし、抗生物質型といっても、本がその場ですべてを解決してくれるわけではない。
本からもらった言葉を、自分の現実に照らし合わせ、自分なりに考え、行動に移して初めて、その言葉は効き始める。
私にとって、ミヒャエル・エンデの『モモ』は、まさにそのような本だった。
時間とは何か。
豊かに生きるとは何か。
忙しく動き続けることが、本当に人間らしく生きることなのか。
『モモ』を読むことで、時間に対する私の見方は大きく揺さぶられた。
「星の時間」に気づけるか
本書に出てくる「星の時間」という言葉にも、私は引きつけられた。
あらゆる物や生き物が互いに働きかけ、後にも先にもない出来事が生まれる特別な時間。
多くの人は、その瞬間が特別な時間だとは気づかない。
けれども、
「今は星の時間なのかもしれない」
と気づく人がいれば、物事も世界も変わっていく。
人生を振り返ると、あとになって初めて、あの出会い、あの失敗、あの一冊が「星の時間」だったと分かることがある。
その時には、何でもない出来事に見えていたかもしれない。
しかし、その出会いを境に、自分の考え方や進む方向が少しずつ変わっていたことに、後から気づく。
読書も同じなのだと思う。
読んでいる最中には、その本が自分の人生を変える一冊になるかどうかは分からない。
けれども何年もたったあと、ふとした場面で、その本の言葉が自分の中から現れることがある。
その言葉を自分の考えとして語り、自分の判断として使っていることに気づく。
その時、本は初めて自分の血肉になる。
本が変わったのではなく、自分が変わった
だからこそ、古典は一度読んで終わりではない。
時間を置いて読み返すと、以前とはまったく違う言葉が目に入ってくる。
本が変わったのではない。
自分が変わったから、見えるものが変わったのである。
若い頃には理解できなかった言葉が、年齢を重ね、仕事や人間関係でさまざまな経験をした後では、切実な言葉として胸に入ってくることがある。
同じ文章なのに、以前とはまったく違う意味を持って迫ってくる。
本を再読することは、過去の自分と現在の自分の違いを知ることでもあるのだと思う。
読書の九割は、しんどくていい
確かに、すべての本が楽しく読めるわけではない。
途中で眠くなる本もあれば、何度読んでも意味が分からない本もある。最初から最後まで理解できず、読み終えても何が書いてあったのか説明できない本さえある。
ページを開くことすら重く感じ、何日も同じ場所から進めないこともある。
それでも、分からないから無駄だったとは限らない。
分からないまま読んだ一冊が、何年後かに別の本や経験とつながることがある。
その時、過去にまかれた種が、ようやく芽を出す。
だから私は、分からない本を読んだ時間も、決して無駄ではなかったと思いたい。
読書とは、その場ですべてを回収するものではない。
理解できなかった言葉、心に引っかかった文章、説明できない違和感を、自分の中に残しておくことでもある。
読書の九割がしんどいとしても、そのしんどさは、理解できない苦しさだけではない。
自分の考えを揺さぶられるしんどさ。
これまで信じてきたものを疑うしんどさ。
自分の未熟さを見せられるしんどさ。
それでも読み続けた先で、ほんの一割の言葉が、自分の人生を静かに変えることがある。
その一割に出会うために、九割のしんどさがあるのかもしれない。
問いを育てるために、私はこれからも読む
私はこれからも本を読む。
すぐに役立つ答えを得るためだけではない。
自分の中に問いをまき、まだ言葉にならない考えを育てるために読む。
読んだ内容をこうして書き、自分の経験と重ね、時には反論し、時には納得しながら、自分なりの言葉にしていく。
書くことで初めて、自分が何に引っかかり、何を恐れ、何を信じたいと思っているのかが見えてくる。
私は本を読んだ後、こうして感想を書くようになった。
それは、本の内容をきれいにまとめるためだけではない。
本を通して揺れた自分の心を、自分の言葉で確かめるためである。
分かったことだけでなく、分からなかったことも書く。
共感したことだけでなく、違和感を覚えたことも残す。
そうして初めて、一冊の本と自分の人生がつながっていく。
読書による変化は、すぐには目に見えない。
その場では何も変わっていないように感じることもある。
しかし、本は読んだ後から、ゆっくりと効いてくる。
何年もかけて考え方を変え、物の見方を変え、人との向き合い方を変えていく。
読書とは、人生の答えを手に入れることではない。
人生をかけて考え続ける問いを、自分の中に育てていくことなのだ。
その問いが、いつの日か私自身の言葉や態度、そして行動になった時、一冊の本は本当に私の血となり、肉となる。
読書の九割は、確かにしんどい。
それでも私は、そのしんどさの中に身を置きながら、これからも本を読み続けるのだと思う。
