「わからない」を抱えられる人が、知性的である

『知性について』内田樹 著を読んで
内田樹さんの本は、これまでも何冊も読んできた。
内田さんは、私の兄と同じくらいの年代である。そのせいか、本を読んでいると、どこか兄から話を聞いているような気持ちになる。
少し厳しく、少しひねりがあり、簡単には答えを渡してくれない。
けれども、読み終える頃には、自分が当然だと思っていたことを、もう一度考え直している。
今回読んだ『知性について』も、そんな一冊だった。
本書は、韓国の読者から寄せられた問いに対して、内田さんが自らの考えを語ったものだという。
日本人だけに向けて書かれた本ではないからこそ、日本人の思考や言葉、教育、そして知性について、少し離れた場所から考える内容になっていた。
そもそも、知性とは何なのだろう。
頭が良いことなのか。
知識が多いことなのか。
論争に勝つことなのか。
自分の意見を明確に言えることなのか。
読み進めるうちに、知性とは、そのどれとも少し違うものではないかと思い始めた。
オリジナルな自分など、どこにもいない
冒頭で内田さんは、自分だけのオリジナルな思想など存在しないという趣旨のことを書いている。
私は、この言葉に強く共感した。
今の自分の考えの中に、自分一人でゼロから生み出したものが、どれほどあるのだろう。
おそらく、ほとんどない。
読んできた本、出会った人、仕事での経験、家族との会話、旅先で見た風景。
そうしたものが少しずつ積み重なり、今の自分をつくっている。
論語には、
「述べて作らず、信じて古を好む」
という言葉がある。
孔子は、自分が説いていることは自分だけの独創ではなく、先人たちの教えを伝えているのだと考えていた。
孔子でさえ、そうだったのかと思う。
しかし、先人の言葉を受け継ぐことは、ただ同じことを繰り返すという意味ではない。
誰の言葉を受け取り、何を残し、どのように自分の経験と結びつけるのか。
そこに、その人なりの考えが生まれる。
オリジナリティとは、誰も考えたことのないことを言うことではないのかもしれない。
受け取った言葉を、自分の人生を通して語り直すことなのだと思う。
言葉にすることで、自分の考えが見えてくる
本書には、私たちは自分の思いを過不足なく表現できたという経験を、ほとんど持たないという話が出てくる。
確かにそうだ。
言いたいことがあったのに、うまく言葉にならない。
後になってから、
「あのとき、こう言えばよかった」
と思うことがある。
反対に、つい言いすぎてしまい、
「あそこまで言う必要はなかった」
と反省することもある。
人は、言い足りないか、言いすぎるかのどちらかで、自分の思いをちょうどよく伝えることは難しい。
最近、私は音声で残した読書メモを、生成AIと対話しながら文章にまとめている。
AIが文章を出しても、そのまま使うわけではない。
「ここまで強く言い切りたいわけではない」
「少し整いすぎていて、自分の感覚とは違う」
「ここには、もっと迷いや引っかかりを残したい」
そんなふうに修正を重ねていく。
すると、自分でも気づいていなかった考えが見えてくることがある。
AIに答えを出してもらうというより、AIが出した文章を読みながら、自分の中にある違和感を探しているのだと思う。
違和感があるということは、自分の中に別の考えがあるということだ。
その輪郭を、少しずつ言葉にしていく。
生成AIは、自分の代わりに考える道具ではなく、自分が何を考えているのかを確かめるための鏡のような存在になっている。
分からないところに印をつける
内田さんは、本の読み方そのものを、本から教えてもらうと書いている。
これも、よく分かる。
一冊の本を読むことで、それまでとは違う読み方を知る。
すると、次の本を読むときに、以前なら見過ごしていたところが見えるようになる。
読書とは、知識を増やすだけではない。
読む自分を、少しずつつくり変えていくことなのだと思う。
本書には、若い著者であっても、仮に自分のメンターだと思って読んでみるという話が出てくる。
そして、自分が共感できるところよりも、自分には理解できないところ、納得できないところに印をつける。
それは、喉に刺さった魚の小骨のように、長く心に残る。
この比喩は、とてもよく分かる。
本を読んでいて、
「何を言っているのか、よく分からない」
と思うことがある。
以前は、分からない本に出会うと、自分には関係がないと思って本を閉じていた。
しかし今は、分からない部分の方が、その後も長く残ることがある。
何年もたって、別の本を読んだとき。
仕事で新しい経験をしたとき。
誰かの話を聞いたとき。
突然、昔は理解できなかった言葉が、自分の中に入ってくる。
本は、読んだときにすべて理解する必要はない。
分からないものを、分からないまま自分の中に置いておける。
それも、読書の大きな価値なのだと思う。
周囲を黙らせる人は、知性的ではない
本書の中で、最も心に残ったのは、知性的な人についての話だった。
頭が良く、知識もあり、弁も立つ。
しかし、その人が話し始めると、周りの人が黙り込んでしまう。
誰も新しいアイデアを言わなくなり、その場の思考が止まってしまう。
そういう人は、知性的な人ではないと内田さんは言う。
これは、会社の会議でもよく起こり得ることだと思う。
社長や上司が、最初から答えを持っているように話し続ければ、周囲は意見を言わなくなる。
何かを提案しても否定される。
反対すれば面倒なことになる。
どうせ結論は決まっている。
そう思われた瞬間、会議は対話の場ではなく、誰か一人の話を聞く場になる。
それでは、組織全体の知性は働かない。
本書では、知性は個人が所有するものではなく、集団の中で立ち上がるものとして語られている。
中世ヨーロッパの共同利用地である「コモン」のように、誰か一人が独占するものではない。
皆が言葉を持ち寄り、そこから新しい考えが生まれる。
そう考えると、本当に知性的な人とは、自分の賢さを見せる人ではないのだろう。
他人が話せる余白をつくる人。
まだ言葉になっていない考えを引き出す人。
自分とは違う意見が出ても、すぐに否定しない人。
政治討論やテレビの議論を見ていると、自分の意見を途切れなく話し続ける人がいる。
知識は豊富で、話も分かりやすい。
けれども、他の人の言葉が入る隙間がない。
そういう姿を見ると、この人は知識が多いかもしれないが、本当に知性的なのだろうかと思う。
知性とは、たくさん話せることではない。
その場にいる人たちが、話す前よりも少し深く考えられる状態をつくることなのだと思う。
読者にも肺活量がある
本書の中で、特に面白かった表現がある。
「読者の肺活量」である。
分かりやすい内容なら、文章が多少長くても読者はついていける。
しかし、難しい話を長い文章で書くと、読者は息が続かなくなる。
だから短い文を入れ、息継ぎをさせなければならない。
意味の分からない文章を耐えて読み続けられる限度を、内田さんは肺活量にたとえている。
なるほどと思った。
そして、その肺活量は、訓練によって増やすことができるという。
本当に分からない本を、投げ出さずに少しずつ読み続ける。
すると、以前なら数ページで疲れていた本を、少し長く読めるようになる。
意味が分からなくても、すぐに拒絶せずにいられるようになる。
これは、本に限った話ではない。
自分とは違う意見を聞くときにも、肺活量が必要なのだと思う。
すぐに、
「それは違う」
「そんな考えはおかしい」
と言わずに、相手の話を最後まで聞く。
自分の理解を超える考えに、少しの間耐えてみる。
知性とは、分からないものをすぐに排除しない力でもあるのだろう。
知的興奮は、身体を生き返らせる
私は、本を読んでいて、
「あ、そうか」
と思わず立ち上がりたくなる瞬間が好きだ。
何かが一本につながったとき。
仕事のアイデアが浮かんだとき。
今まで考えていたことに、言葉が与えられたとき。
急に誰かに話したくなる。
メモを取りたくなる。
実際に何かを始めたくなる。
内田さんは、知的に興奮すると、心臓がどきどきしたり、深いため息が出たり、お腹が空いたり、トイレに行きたくなったりすると書いている。
知的興奮は、頭の中だけで起きるものではない。
身体全体が反応する。
「知的に興奮すると、身体が生き始める」
という表現が、とても印象に残った。
分からないから読むのをやめようとするのは、脳の合理的な判断である。
しかし身体の方は、
「よく分からないけれど、なぜか続きを読みたい」
と感じることがある。
理屈では説明できなくても、勢いで先へ進んでしまう。
この「つい読んでしまう」という感覚が、本を読むうえでは大切なのだと思う。
知性とは、すべてを理解してから動くことではない。
分からないものに心を動かされ、身体ごと近づいていくことなのかもしれない。
母国語の檻から外へ出る
外国語を学ぶことについても、興味深い話があった。
外国語を学ぶ喜びとは、単に別の言葉を使えるようになることではない。
「母国語の檻から外へ出ること」だという。
私たちは、日本語で考えている。
日本語で説明できるものを、現実だと思っている。
しかし、日本語だけで考えていると、日本語の中にある価値観や思考の癖から、なかなか自由になれない。
別の言語に触れることで、世界には異なる物事の捉え方があることを知る。
同じ出来事でも、言葉が変われば見え方も変わる。
母国語の檻から出るということは、自分が慣れ親しんだ考え方の外に出ることでもあるのだろう。
自分の業界の常識。
自分の世代の価値観。
これまで正しいと思ってきた判断基準。
その外側に、別の世界があるかもしれないと考える。
それもまた、知性を広げることなのだと思う。
論争に勝っても、人は成長しない
内田さんは、論争をしないという。
論争によって本当に学問的に成長できるのであれば、朝から晩まで他人に喧嘩を売っている人が、最も成長しているはずである。
しかし、実際はそうではない。
論争では、自分の正しさを証明することが目的になりやすい。
相手の言葉から学ぶよりも、相手の弱点を探すようになる。
論争に勝っても、自分の考えが深まるとは限らない。
これは、インターネット上のやり取りを見てもよく分かる。
誰が正しいか。
誰が間違っているか。
どちらが勝ったか。
そんなことばかりが注目される。
けれども、勝ち負けを決めることと、物事を深く考えることは、まったく別である。
自分の仮説は間違っているかもしれない。
そう言える人の方が、科学的であり、知性的であるという。
知性とは、間違えないことではない。
自分が間違っている可能性を、いつも少し残しておくことなのだ。
心と直感に従う勇気
本書の終盤では、心と直感に従う勇気について語られていた。
自分の心に従おうとすると、外からも内からも反対の声が聞こえる。
「そんなことをしても無駄だ」
「誰もやっていない」
「失敗したらどうする」
「恥ずかしくないのか」
新しいことを始めるとき、周囲から理解されないこともある。
特に、誰もやっていないことをやろうとすると、賛同者より先に、反対する人が現れる。
だから必要なのは、正解を知ることではなく、自分の心と直感に従う勇気なのだろう。
現代の社会では、子どもたちに「孤立に耐えなさい」と教えることは少なくなった。
それよりも、
仲間をつくりなさい。
集団から外れないようにしなさい。
できるだけ多くの人に合わせなさい。
そう教える。
もちろん、仲間は大切である。
しかし、多数派であることと、正しいことは同じではない。
誰も賛成してくれないときに、それでも自分で考え続けられるか。
少数派であることに耐えられるか。
孤立する恐怖に負けず、自分の直感を信じられるか。
それも、知性の一部なのだと思う。
知性とは、他人の知性を動かす力
この本を読み終えて、知性についての見方が変わった。
知性とは、頭の中に多くの知識を蓄えることではない。
難しい言葉を使うことでもない。
議論に勝つことでもない。
自分の正しさを言い切ることでもない。
分からないものを、分からないまま抱えておくこと。
自分の考えが間違っている可能性を認めること。
他人の言葉に耳を傾けること。
そして、自分一人が賢く見えるのではなく、周囲の人たちが考え始める場をつくること。
それが、本当の知性なのではないか。
本を読んで、自分の意見を強くするだけでは足りない。
他人の話を聞けるようになること。
自分の言葉を少し控え、相手が考える余白をつくること。
自分とは違う考えを、すぐに排除しないこと。
知性とは、自分一人の能力ではない。
人と人との間に生まれ、互いの考えを動かしていくものなのだと思う。
そして本は、その知性を静かに育ててくれる。
答えを教えてくれるからではない。
すぐには答えの出ない問いを、自分の中に残してくれるからである。
