『こんなものは本物じゃない』と言う前に(その1)

写真の進化から生成AIを考える
今回は、本の感想ではなく、今、私が考えていることを書いてみたい。
生成AIについて考えていた時、ふと、写真の歴史とよく似ているのではないかと思った。
私は、半世紀ほど写真を趣味にしている。
その変化を長い時間の流れの中で俯瞰してみると、新しい技術が登場するたびに、人は戸惑い、否定し、やがて当たり前のものとして受け入れてきたことがよく分かる。
今、生成AIに対して私たちが感じている戸惑いも、写真の世界で何度も繰り返されてきたものと同じではないだろうか。
暗室で写真が浮かび上がった感動
私が写真を始めた頃は、白黒写真だった。
撮影したフィルムを自分で現像し、暗室の中で印画紙に焼き付ける。
現像液の中に白い印画紙を入れると、何もなかった紙の上に、少しずつ画像が浮かび上がってくる。
あの瞬間の感動は、今でも忘れられない。
まるで、自分だけが知っている暗闇の中から、新しい世界が生まれてくるようだった。
結婚したばかりの頃には、自宅の押し入れを改造して暗室を作った。
その後、新しい家を建てた時にも、自分専用の小さな暗室を作った(ところが、物が増えるにつれて、あっという間に物置化し、結局一度も使うことはなかった)。
そうしているうちに、時代は白黒からカラーへと移っていった。
白黒の中には、無限の色があった
カラー写真が広がり始めた時、
「こんなものは写真ではない」
と言う人がいた。
「写真は、白と黒の階調の中に無限の色を感じさせるものだ」
という考え方である。
その気持ちは、私にもよく分かる。
白黒写真には、白と黒だけで世界を表現する強さがある。
実際には色が写っていないからこそ、見る人は、その場の空や花、服、肌の色を想像する。
白と黒の間にある無数の濃淡から、自分の記憶の中にある色を呼び起こす。
見えていない色を、見る人の心の中に生み出す。
それは、白黒写真にしかない、非常に豊かな表現だと思う。
しかし、カラー写真にはカラー写真の力があった。
人に見せた時、細かく説明しなくても、その場の色や雰囲気を直感的に受け取ってもらえる。
頭で考える前に、感覚として伝わる。
だからこそ、カラー写真は多くの人に受け入れられ、写真の世界を大きく広げていったのだと思う。
白黒が優れていて、カラーが劣っているわけではない。
カラーが進化で、白黒が退化したわけでもない。
表現の方法が一つ増えたのである。
オートフォーカスは、写真を簡単にしたのか
その後、カメラにオートフォーカスが登場した。
すると、また、
「機械が勝手にピントを合わせるなんて、けしからん」
「写真は、自分の目と手でピントを合わせるものだ」
という声が聞かれた。
しかし、フィルムの時代は、一枚一枚にお金がかかった。
特にポジフィルムを使う時には、一回シャッターを切るだけでも神経を尖らせた。
ピントは合っているか。
露出は正しいか。
シャッタースピードは適切か。
そうして迷っているうちに、撮りたかった瞬間が過ぎてしまうこともあった。
「あの時だ」
と思った時に、ピント合わせが間に合わず、シャッターを押せないこともあった。
オートフォーカスが登場したことで、ピント合わせの一部をカメラに任せられるようになった。
その分、私は構図や露出、そしてシャッターを切る瞬間に、より意識を向けられるようになった。
機械に任せたから、写真が簡単になったのではない。
機械に任せられる部分が増えたからこそ、人間は別のことを考えられるようになったのである。
これは、今の生成AIにも通じる話ではないだろうか。
「横着なレンズ」と呼ばれたズームレンズ
ズームレンズが登場した時にも、否定的な意見があった。
それまでは、焦点距離の違う単焦点レンズを何本も持ち歩くのが普通だった。
単焦点レンズは軽く、明るく、開放絞りで撮影しやすい。
画質にも優れている。
だから、
「やはり単焦点レンズが一番だ」
という考え方は、私にもよく分かる。
一方で、実際の撮影現場では、
「今、この画角で撮りたい」
と思った瞬間に、レンズを交換している時間がないこともある。
レンズ交換をしている間に、人が動き、光が変わり、景色が失われてしまう。
ズームレンズなら、その場で画角を変え、すぐにシャッターを切ることができる。
それでも当時は、
「一本で何本分もの役割をするなんて、横着なレンズだ」
「そんなレンズを使っていたら、写真が下手になる」
と言う人がいた。
けれども、ズームレンズは写真家を怠けさせるために生まれたのではない。
撮りたいと思った瞬間を逃さず、表現の可能性を広げるために生まれたのだと思う。
銀塩からデジタルへ
写真がフィルムからデジタルに変わった時も、大きな反発があった。
「デジタルなど写真ではない」
「写真は銀塩フィルムで撮るものだ」
「ISO50のフィルムでなければ、本当の階調は出ない」
「スライドフィルムの色こそが写真だ」
そうした強いこだわりを持つ人も多かった。
確かに、フィルム独特の色味や粒子、階調には魅力がある。
私も、その良さを否定するつもりはない。
しかし、今ではフィルムの現像を行うラボも少なくなり、写真の中心はほとんどデジタルへ移った。
さらに、写真を発表する場所も変化した。
以前は、印画紙に焼き付け、額に入れて展示することが、写真発表の中心だった。
今ではInstagramをはじめ、スマートフォンやパソコンの画面で写真を見る機会が圧倒的に増えている。
紙に焼いた時の階調や質感だけを追求しても、画面上では十分に伝わらないこともある。
だからこそ今は、画質だけでなく、
「なぜ、そこに立ったのか」
「なぜ、その瞬間にシャッターを切ったのか」
という、撮影する人の経験や感情が、より重要になっているように思う。
一眼レフからミラーレスへ
一眼レフからミラーレスへ変わった時にも、
「ミラーレスは本当のカメラではない」
という声があった。
しかし、ミラーレスカメラの手ブレ補正は、本当にすごい。
以前なら三脚がなければ難しかった遅いシャッタースピードでも、手持ちで撮れるようになった。
場合によっては、花火でさえ手持ちで撮影できる。
これは、単にカメラが便利になったという話ではない。
「こんな写真を撮ってみたい」
という人間の願いを、技術が形にした結果だと思う。
一眼レフには一眼レフの良さがあり、ミラーレスにはミラーレスの良さがある。
どちらが本物で、どちらが偽物という話ではない。
撮影する人に、新しい選択肢が加わったのである。
スマートフォンは写真ではないのか
そして今は、スマートフォンで誰もが気軽に写真を撮る時代になった。
すると今度は、
「スマートフォンで撮ったものは写真ではない」
「写真を趣味にするなら、高級な一眼カメラを使うべきだ」
という声が出てくる。
カメラの価格は高くなり、60万円、100万円もする機種がある。
高性能なカメラやレンズが素晴らしいことは間違いない。
しかし、高価な機材を使わなければ写真にならないわけではない。
ローアングルで撮りたい時には、スマートフォンが便利なこともある。
棒を使えば、今までカメラを置けなかった場所から撮影することもできる。
私は現在、360度カメラも使っている。
一度に周囲すべてを記録し、後から視点を選ぶことができる。
以前には想像もできなかった表現方法である。
大切なのは、どの機材が一番優れているかではない。
自分が表現したいものに合わせて、道具を選べることだと思う。
新しい技術は、表現を奪うのではない
写真の半世紀を振り返ると、新しいものが登場するたびに、同じ言葉が繰り返されてきた。
白黒からカラーへ。
マニュアルフォーカスからオートフォーカスへ。
単焦点レンズからズームレンズへ。
銀塩フィルムからデジタルへ。
一眼レフからミラーレスへ。
高級カメラからスマートフォンや360度カメラへ。
そのたびに、
「こんなものは写真ではない」
と言う人が現れた。
しかし、新しい技術によって古い表現が完全になくなったわけではない。
今でも白黒写真はある。
フィルムを愛する人もいる。
単焦点レンズを使う人もいる。
新しい技術は、以前のものを消したのではない。
表現の選択肢を増やしたのである。
理解できないものを、否定しない
人は、自分が扱えないものや、自分の理解を超えたものに対して、否定的になりやすい。
自分が長年身につけてきた技術を、機械が簡単に行うようになると、自分の価値を否定されたように感じることもある。
しかし、新しい技術を拒み続けていたら、次の時代を楽しむことはできない。
新しいものが出てきたら、まず触ってみる。
使ってみる。
自分の表現に取り入れられるかを考えてみる。
新しい道具は、多くの人が、
「こんなことができたらいい」
と思い続けた結果として生まれてきたものでもある。
だから私は、新しいものを最初から否定する理由は一つもないと思っている。
これは、半世紀にわたって写真の変化を経験してきた、私自身の人生の実感である。
そして今、生成AIが現れた
現在、生成AIが作った画像に対して、
「これは写真ではない」
「人間が作っていないものに価値はない」
という声がある。
確かに、生成AIが作った画像は、カメラで現実の光を記録した写真ではない。
しかし、それならば、無理に写真と同じ土俵に上げて比べる必要はないのではないか。
絵画と写真が別の表現として共存してきたように、生成AI画像も、新しく生まれた別の表現方法と考えればよい。
生成AIが作る画像、文章、音楽には、生成AIならではの素晴らしさがある。
同時に、人間が自分の身体で感じ、経験し、迷いながら作る作品にも、変わらない価値がある。
どちらが進化し、どちらが退化したという話ではない。
人間の表現の世界に、新しい方法が一つ加わったのである。
写真の歴史を長く見てきたからこそ、私は今、生成AIを脅威よりも、新しい表現の入口として見ている。
新しい道具を否定するのではなく、それをどう使い、自分の思いや感性をどう表現するか。
そう考えれば、これほどワクワクする時代はないと思う。
次回の「その2」では、生成AIを人間の競争相手ではなく、もう一人の創作パートナーとして考えてみたい。
