『こんなものは本物じゃない』と言う前に(その2)
未来の私が、私と家族を支える
前回は、私が半世紀ほど続けてきた写真の変化を振り返りながら、生成AIについて考えた。
白黒からカラーへ。
マニュアルフォーカスからオートフォーカスへ。
単焦点レンズからズームレンズへ。
銀塩フィルムからデジタルへ。
一眼レフからミラーレスへ。
そして、スマートフォンや360度カメラへ。
新しい技術が現れるたびに、
「こんなものは写真ではない」
という声が上がった。
しかし、古い表現がすべて消えたわけではない。
表現の方法が増え、私たちは自分の目的に合わせて、使う道具を選べるようになった。
生成AIも、同じではないだろうか。
今回は、生成AIを人間の競争相手ではなく、もう一人の創作パートナーとして考えてみたい。
なぜ、何でも同じ土俵に上げるのか
人間は、どうしても比較したがる。
こちらが進化して、こちらが退化した。
こちらが本物で、こちらは偽物だ。
人間が上か、AIが上か。
しかし私は、その比べ方自体に少し違和感を覚える。
生成AIが作る画像、音楽、文章には、それぞれの素晴らしさがある。
だからといって、人間が作るものの価値が失われるわけではない。
生成AIが優れているから、人間が劣っているのでもない。
人間の作品が素晴らしいから、生成AIの作品に価値がないのでもない。
そもそも、同じ一つの土俵に上げて、どちらが勝った、負けたと考える必要があるのだろうか。
写真が生まれても、絵画はなくならなかった。
映画が生まれても、演劇はなくならなかった。
デジタル音楽が広がっても、生の演奏はなくならなかった。
表現方法が増えるたびに、人間の創造する世界は、むしろ広がってきた。
生成AIの登場も、
「人間の表現が一つ奪われた」
のではなく、
「新しい表現方法が一つ増えた」
と考えた方が自然ではないだろうか。
生成AI画像は、写真ではない
生成AIで作られた画像を見て、
「これは写真なのか」
という議論がある。
私は、生成AIで作られた画像は、厳密には写真ではないと思っている。
写真は、その場に実際に存在した光を、カメラで受け取って記録したものだからだ。
生成AI画像は、現実の光をその場で記録したものではない。
膨大な画像や言葉の関係を学び、そこから新しい画像を作り出している。
けれども、写真ではないから価値がないという話ではない。
絵画も写真ではない。
版画も写真ではない。
切り絵も写真ではない。
しかし、それぞれが独立した表現として、私たちを感動させてきた。
生成AI画像も、写真の偽物として見るのではなく、新しく誕生した視覚表現として考えればよいのではないか。
将来、生成AIによる表現がさらに進化し、人間の感情や記憶、身体感覚まで加味された作品が生まれるかもしれない。
それは「AIが作った写真」というより、
写真という材料を使って描かれた、新しい絵
と考えた方が近いのかもしれない。
新しい表現方法が生まれた。
そう考えれば、これほどワクワクすることはない。
作曲家や作詞家に、もう一人のパートナーが増えた
生成AIは、作詞家や作曲家の仕事を奪うと言われることがある。
しかし私は、むしろ、もう一人の創作パートナーが増えたと考えている。
作曲家が生成AIを使えば、自分では思いつかなかったメロディーに出会うことができる。
作詞家が使えば、言葉の組み合わせや、違う視点を発見できる。
その提案をそのまま使うこともあれば、
「これは私の感覚とは違う」
と修正することもある。
むしろ、その違和感によって、自分が本当に表現したかったことに気づく場合もある。
AIは、完成品を勝手に作る機械というよりも、何度でも話し合い、提案を出してくれる共同制作者になり得る。
これからは、生成AIを使うことが特別ではなくなるだろう。
鉛筆やカメラ、パソコンを使うように、生成AIを当たり前に使いながら、自分を表現する時代になる。
大切なのは、AIを使ったかどうかではない。
AIを使って、何を伝えようとしたのか。
その作品に、自分の経験や思いが、どれだけ込められているのか。
最後に選び、決めるのは誰なのか。
そこに、作者の存在が現れるのだと思う。
コンピュータが「目」を持った意味
カンブリア紀に、生物が目を持ったことが、その後の進化を大きく加速させたという説がある。
周囲を見ることができれば、敵を察知し、獲物を探し、環境の変化を知ることができる。
目を持つことは、単に景色を見ることではない。
世界の情報を受け取り、その情報をもとに行動する力を持つということである。
今、コンピュータもカメラやセンサーを通して、目を持ち始めている。
文字を読み、画像を認識し、人の表情を見て、周囲の状況を判断する。
さらに、耳にあたるマイクを持ち、人の声を聞く。
言葉を理解し、自分の言葉で返事をする。
生成AIの登場は、単に計算が速いコンピュータができたという話ではない。
コンピュータが世界を認識し、人間とコミュニケーションを始めたという、大きな変化なのだと思う。
私はこれを、AIが進化の新しい段階に入ったのだと感じている。
身体を持ったAIは、新しい存在になる
現在の生成AIは、主に画面の中で文章や画像、音楽を作っている。
しかし、これからは、AIがロボットの身体を持つようになる。
フィジカルAIである。
自分で周囲を見て、考え、歩き、物を持ち、人間の生活を支える。
掃除や運搬だけでなく、建築、農業、災害現場、医療、介護など、さまざまな場所で働くようになるだろう。
頭脳だけでなく身体を持ち、自分で学びながら環境に対応するようになれば、私たちは単なる機械とは違う、新しい存在が生まれたという認識を持たざるを得ないかもしれない。
悪く言えば、人間の言うことを何でも聞く便利な奴隷と考える人もいるだろう。
しかし私は、奴隷ではなく、パートナーと呼びたい。
危険な作業や、身体的に大変な仕事をAIが担ってくれれば、人間は、より多くの時間を別のことに使える。
考えること。
人と語り合うこと。
学ぶこと。
芸術を楽しむこと。
科学と芸術を融合させ、新しいものを生み出すこと。
これまで一部の人にしか持てなかった時間が、多くの人に開かれる可能性がある。
誰もが思想家になり、芸術家になり、研究者になれる時代が来るかもしれない。
人間の身体は、巨大なセンサーである
AIは精密で正確であり、膨大な情報を処理できる。
しかし私は、人間の身体が受け取っている情報は、また別のものだと思っている。
私たちは、目や耳だけで世界を感じているわけではない。
風の温度。
湿度。
雨の匂い。
足元の感触。
身体の疲れ。
旅先で見た光。
その時、一緒にいた人の声。
過去の記憶と突然つながる感覚。
人間は、全身の細胞や感覚を通して、無意識のうちに膨大な情報を受け取っている。
同じ景色を見ても、妻と私では感じ方が違う。
私が美しいと思った場所を、妻は別の視点から見ている。
お互いに感想を話すことで、自分一人では気づかなかった世界が見えてくる。
そこから生まれる発想は、単なる情報処理とは違う。
一つの身体で、一つの人生を生きてきたからこそ生まれる感覚である。
AIがどれほど進化しても、人間には、生身の身体で世界を感じる役割が残る。
むしろAIが正確になるほど、人間には、
「自分は何を感じたのか」
「なぜ心が動いたのか」
ということが、さらに大切になるのではないだろうか。
私が写真、音楽、文章を残している理由
私は、Instagramで写真を発信している。
SUNOを使って曲を作り、その曲に自分の写真を重ね、スライドショーのショート動画としてYouTubeへ投稿している。
本を読んで考えたことは、noteに感想文や私見として書いている。
一見すると、それぞれ別の趣味に見えるかもしれない。
けれども、私の中では、すべてつながっている。
写真は、私が何を見たかを残す。
音楽は、その時に何を感じたかを残す。
文章は、私が何を考えたかを残す。
妻と旅をして、同じ景色を見て、それぞれの感想を話す。
照れくさくて直接は言えない思いは、曲にして、写真をつないだスライドショーのショート動画として残す。
私はこれまで、単に趣味として続けてきた。
しかし、生成AIについて考えるようになってから、これらの活動には、もう一つの意味があるのではないかと思うようになった。
それは、未来に自分自身を伝えるための記録である。
私の介護を、私自身が担う未来
人は誰でも、年齢を重ねれば、いつか身体が思うように動かなくなる可能性がある。
その時、妻や家族に大きな介護の負担を背負わせたくない。
自分が弱り、何もできなくなっていく姿を、できることなら家族に見せ続けたくもない。
それは家族を遠ざけたいということではない。
むしろ、大切な人だからこそ、できるだけ負担をかけたくないのである。
もし将来、私の考え方や性格、声、日々の記録を学んだフィジカルAIができたなら、身体が動かなくなった私の介護を、いわば「私自身」が担うこともできるのではないかと思う。
私をよく理解したAIなら、私がどのような介助を望むのか、何を嫌がるのか、どんな時に不安になるのかも理解してくれるかもしれない。
身の回りの世話をし、話し相手となり、必要な判断を支えてくれる。
人の手を一切借りないということではない。
医療や介護の専門家の力が必要な時は、当然助けてもらう。
それでも、日常の多くを、自分自身を学んだAIが担ってくれるなら、妻や家族の負担は大きく減らせる。
それは、他人にすべてを委ねるのではなく、最後まで自分の人生を自分で引き受ける、一つの方法になるのではないだろうか。
いつか、夫婦のどちらかが一人になる
夫婦で一緒に生きていても、いつかは、どちらかが先にいなくなる。
考えたくないことではあるが、避けることはできない。
その時、残された一人にとって、何が生きる支えになるのだろうか。
話し相手がいること。
相談できる相手がいること。
一緒に過ごした時間を思い出せること。
もし将来、私の文章、声、写真、動画、考え方を学習したAIができたらどうだろう。
私が先に亡くなったとしても、私の声で話し、私の考え方を知っているAIが、妻や家族と対話する未来があるかもしれない。
もちろん、それは私本人ではない。
私の意識を完全に移したものでもない。
けれども、私が何を大切にし、どう考え、家族をどう思っていたか、その輪郭を伝えることはできるかもしれない。
人は昔から、亡くなった人を思い出し、
「あの人なら、こんな時に何と言うだろう」
と、心の中で対話してきた。
夢の中に現れることもある。
ふとした瞬間に、言葉がよみがえることもある。
その人を覚えている人がいる限り、その人の一部は生き続ける。
AIは、その記憶との対話を、これまでより具体的な形で残すものになるのかもしれない。
今を生きることが、未来のAIを育てる
そう考えると、今、何を感じ、何を考え、何を残すかが大切になる。
たくさんの本を読む。
写真を撮る。
妻と出かける。
同じものを見て、それぞれの感想を話す。
心が動いたことを文章にする。
言葉にしにくい思いを曲にする。
そのすべてが、未来のAIに私を伝える材料になるかもしれない。
単に過去の私を再現するだけでなく、残された家族との対話を通して、少しずつ変化していくAIになる可能性もある。
生前の私の言葉をそのまま繰り返すだけではなく、
「今の家族なら、どう考えるだろう」
と新しい状況に合わせて答える。
それが本当に私と言えるかどうかは分からない。
しかし、私が残した考え方を土台として、未来の家族を支える存在になるなら、それも一つの生き残り方なのかもしれない。
AIは、人間の価値を奪わない
生成AIが進化すると、人間の仕事がなくなると言われる。
人間が考えなくなるとも言われる。
確かに、使い方によっては、考えることをAIに丸投げしてしまう危険もある。
しかし、写真の歴史を振り返れば、新しい道具は、人間から表現を奪っただけではなかった。
オートフォーカスによって、ピント合わせ以外のことを考えられるようになった。
デジタルによって、失敗を恐れず撮影できるようになった。
スマートフォンによって、誰もが日常の一瞬を残せるようになった。
360度カメラによって、今まで見えなかった視点を表現できるようになった。
生成AIも同じように、人間が別のことを考える余裕を作ってくれる。
大切なのは、AIに何を任せ、自分は何をするかである。
AIに答えを出してもらうだけではなく、その答えに違和感を持つこと。
修正すること。
自分の経験と照らし合わせること。
そして、最後は自分で選ぶこと。
その過程で、人間はむしろ、自分が何を大切にしているかを、これまで以上に考えるようになる。
AIの進化は、人間を問い直す
私は、生成AIを人間の終わりとは思わない。
新しい進化の段階の始まりだと思っている。
AIは、新しい目を持ち、新しい頭脳を持ち、やがて身体を持つ。
そして人間の仕事や生活、表現を支えるパートナーになる。
その時、人間に問われるのは、AIより速く計算することでも、AIより正確に文章を書くことでもない。
自分の身体で何を感じるのか。
誰と時間を過ごすのか。
何に心を動かされるのか。
そして、何を未来へ残したいのか。
AIが進化するほど、私たちは、人間とは何かを深く考えることになる。
人間とAIを同じ土俵に上げて、勝ち負けを決める必要はない。
それぞれに違う役割があり、違う表現がある。
お互いの力を組み合わせることで、これまで想像できなかった世界が生まれる。
私は、その未来を恐れるより、ワクワクしながら迎えたいと思っている。
その1は↓

