人類は、たまたま今ここにいるだけ

斎藤成也さんの『人類はできそこないである 失敗の進化史』を読んだ。
まず、このタイトルに惹かれた。
「人類は700万年かけて、できそこないになった」
人類は進化して、だんだん優秀になり、現在の私たちになった。
そんなふうに、どこかで思い込んでいた私には、かなり刺激的な言葉だった。
でも読み進めるうちに、この「できそこない」という表現が、だんだん違って見えてきた。
進化とは、進歩ではなかった
私たちは「進化」という言葉を聞くと、
より強くなる。
より賢くなる。
より優れた存在になる。
そんな上向きの変化をイメージしやすい。
しかし本書では、そうではないという。
退化も進化の一つ。
大きくなることも、小さくなることもある。
複雑になることもあれば、単純になることもある。
つまり、
進化とは、優秀になることではなく、ただ変化すること。
ここがこの本を読む上で、一番大事な入口だったように思う。
「強い者が勝つ」だけではない
ダーウィンの自然淘汰説というと、環境に適したものが生き残り、適さないものが淘汰される、というイメージがある。
しかし本書では、中立進化という考え方も紹介されている。
生存に有利でも不利でもない遺伝子の変化が、偶然広まることがある。
つまり、
「優れていたから残った」とは限らない。
たまたま残った。
たまたま子孫に伝わった。
その積み重ねも進化なのだという。
この「たまたま」という言葉が、私はずっと頭に残った。
耳垢にまで残る「偶然」
本書に出てきた耳垢の話も面白かった。
日本人には乾いた耳垢が多く、ヨーロッパやアフリカでは湿った耳垢が多い。
耳垢が乾いているか湿っているかで、生存にものすごく有利、不利があるとは考えにくい。
それでも地域によって違いが残っている。
こんな身近なことにも、
人類の歴史の偶然が残っている。
そう思うと、進化というものが急に身近に感じられた。
人類は「勝者」ではなく「負け犬」だった?
著者の考え方で特に面白かったのが、
「人類は負け犬だったのではないか」
という見方だ。
人類の祖先は勇敢に森を出て、サバンナへ進出した。
そう語ると格好いい。
けれど、住み慣れた森で十分暮らせるなら、わざわざ危険な場所へ移動する必要はない。
環境の変化や他の集団との競争によって、森にいられなくなり、仕方なく外へ出た。
だからこそ、新しい環境に適応する必要が生まれたのかもしれない。
もしそうなら、
勝ったから進化したのではなく、負けたから変わらざるを得なかった。
この見方はとても面白い。
必要に迫られたから、工夫した
人間は新しいことに挑戦する生物だと言われる。
でも実際には、今の場所で困らず暮らせるなら、わざわざ危険を冒さない。
食べ物がなくなった。
環境が変わった。
居場所を失った。
だから移動する。
だから道具を作る。
だから火を使う。
「必要は発明の母」という言葉があるが、人類の進化そのものも、必要に迫られた結果だったのかもしれない。
二足歩行は、本当に「進歩」だったのか
人類の大きな特徴は直立二足歩行である。
両手が自由になり、道具を使えるようになった。
これは確かに大きな利点だった。
しかし同時に、失ったものもある。
四足歩行より不安定になった。
腰に負担がかかる。
血液を重力に逆らって脳まで送り続けなければならない。
痔や腰痛など、二足歩行と関係する身体的負担も増えた。
つまり、
進化によって何かを得れば、何かを失う。
万能になるわけではない。
ここにも「できそこない」の姿がある。
ビタミンCさえ、自分では作れない
驚いたのが、ビタミンCの話だった。
多くの動物は、体内でビタミンCを作ることができる。
ところが人間や一部の霊長類は、それができない。
祖先のどこかで、ビタミンCを作るための遺伝子の機能を失ってしまったからだという。
普通なら、
「そんな大切な能力を失ったら生き残れないのではないか」
と思う。
でも、食べ物から取れれば生きていける。
だから、そのまま残った。
できないことがあっても、生き残れる。
これもまた進化なのだ。
脳が大きいことが正解とは限らない
フローレス原人の話も興味深かった。
体が小さく、脳も現代人よりかなり小さい。
それでも石器を使い、火を利用していたと考えられている。
一方、ネアンデルタール人は大きな脳を持ち、石器や火を使い、埋葬までしていたとされる。
それでも独立した人類集団としては消えていった。
脳が大きいから生き残る。
知能が高いから勝つ。
そんな単純な話ではない。
ホヤを見ると、脳さえ絶対ではない
以前から面白いと思っていた生物にホヤがある。
ホヤは貝のように見えるが、脊椎動物に近い系統の生物である。
幼生のときには泳ぎ回り、神経系を持つ。
しかし定着して生活するようになると、体の構造が大きく変化する。
俗に「自分の脳を食べてしまう」と言われるほど、神経系も大きく再編される。
動かなくてもよくなれば、動くための機能は必要なくなる。
そう考えると、
脳が大きくなることさえ、進化のゴールではない。
必要なら残り、必要がなければ失われる。
進化とは本当に淡々としている。
人類は連戦連勝でここまで来たのではない
ネアンデルタール人の遺伝子の一部は、今の人類にも残っている。
人類は出会い、争い、混ざり、移動しながら現在まで来た。
アフリカを出た人々も、
「未知の世界を見たい」
という冒険心だけで移動したのではなく、環境の変化や食料不足に押し出された可能性がある。
つまり人類は、
負け、
逃げ、
混ざり、
失い、
偶然を重ねながら、
ここまで来た。
そう考えると、
私たちは勝者の子孫というより、生き残った者の子孫なのだ。
日本人も「負けた人々」の子孫かもしれない
日本列島にも、長い時間をかけてさまざまな人々が渡ってきた。
縄文人が暮らし、その後、大陸側から別の集団がやってきて混ざり合っていった。
著者は、ある意味では、
「別の土地で居場所を失った人々が、日本列島へ移動してきたのではないか」
という見方をしている。
それが正しいかどうかは今後の研究もあるだろう。
でも私は、
人類の歴史とは、移動と混合の歴史なのだ
ということを改めて感じた。
純粋な人類などいない。
みんな混ざり合いながら今に続いている。
それでも人類は、自分を「特別」だと思ってしまう
ここまで読むと、一つの疑問が出てくる。
なぜ人間は、
「人類は最も優れた生物だ」
と思いたがるのだろう。
知能が高い。
文明を作った。
科学を発展させた。
宇宙へ行った。
確かにすごい。
しかし同じ人類が、戦争をする。
人を傷つける。
民族や宗教や国家の違いで殺し合う。
自然環境を破壊する。
これほど賢くなったのに、
自分たちを滅ぼしかねない行為までしている。
そう考えれば、人類を「進化の完成形」と考える方が不自然なのかもしれない。
「進化の頂点」という考えこそ危ない
この本を読んで、私が一番怖いと思ったのは、
人類が自分たちを過大評価することだった。
「人間は賢い」
「人間は進化している」
「人類はこれからも発展していく」
そう思い込んでいると、本当に危ない。
進化には、人類を残さなければならないという目的などない。
環境が変われば、その環境に適した生物が繁栄する。
人類が適応できなければ、別の生物が繁栄するだけだ。
地球から見れば、
人間がいることに特別な意味などないのかもしれない。
そして、生成AIの時代
ここまで考えると、私はどうしてもChatGPTのような生成AIのことを思う。
もちろんAIは生物ではない。
だから「AIが新しい生物として人類を淘汰する」と単純に言うことはできない。
でも、
文章を書く。
画像を作る。
情報を整理する。
考えることを補助する。
人間だけができると思っていた領域に、AIはどんどん入ってきている。
そこで怖いのはAIそのものではなく、
「人間はAIより優れているから大丈夫だ」
という、人間の傲慢さではないだろうか。
人類が、人類を不要にする世界を作るかもしれない
人間がAIをどう使うのか。
自然とどう付き合うのか。
戦争を続けるのか。
環境を壊し続けるのか。
もし判断を誤り続ければ、
AIに直接淘汰される前に、
人類自身が、人類の住めない世界を作ってしまう。
そんな可能性だってある。
長い地球の歴史から見れば、将来、別の生物が繁栄することも十分あり得る。
もっと長い時間を考えれば、今の私たちには想像もできない新しい生命の形が現れることだってあるかもしれない。
人類だけが未来永劫、地球の主役である保証はどこにもない。
できそこないだと知ることから始まる
だから私は、この本の「できそこない」という言葉を、否定的には受け取らなかった。
むしろ、
人類が自分たちを「できそこない」だと認めることこそ、大切なのではないか。
間違える。
争う。
失敗する。
思い込みもある。
完璧ではない。
それを知っていれば、修正することができる。
AIからも学べる。
自然からも学べる。
他の生物からも学べる。
違う考えを持つ人からも学べる。
人類は、たまたま今ここにいるだけ
人類は700万年間、勝ち続けたから現在まで残ったわけではない。
負け、
逃げ、
失い、
混ざり、
偶然に助けられながら、
たまたま今ここにいる。
この本を読んで、私は人類を見る目が少し変わった。
私たちは進化の頂点ではない。
完成品でもない。
そして、これからも生き残ることが約束されているわけでもない。
だからこそ、
「人類は素晴らしい」と思う前に、「人類はできそこないかもしれない」と考えてみる。
そのくらいの謙虚さが、今の時代には必要なのではないかと思う。
『人類はできそこないである』。
読み始めたときには、刺激的なタイトルだと思った。
けれど読み終えた今は、この言葉が人類への警告のようにも、希望のようにも感じられる。
できそこないだから、まだ変われる。
そして、
人類は、たまたま今ここにいるだけなのだ。
