ブログ - 五十嵐工業株式会社
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人類は、たまたま今ここにいるだけ | 2026.08.12

斎藤成也さんの『人類はできそこないである 失敗の進化史』を読んだ。
まず、このタイトルに惹かれた。
「人類は700万年かけて、できそこないになった」
人類は進化して、だんだん優秀になり、現在の私たちになった。
そんなふうに、どこかで思い込んでいた私には、かなり刺激的な言葉だった。
でも読み進めるうちに、この「できそこない」という表現が、だんだん違って見えてきた。
進化とは、進歩ではなかった
私たちは「進化」という言葉を聞くと、
より強くなる。
より賢くなる。
より優れた存在になる。そんな上向きの変化をイメージしやすい。
しかし本書では、そうではないという。
退化も進化の一つ。
大きくなることも、小さくなることもある。
複雑になることもあれば、単純になることもある。
つまり、
進化とは、優秀になることではなく、ただ変化すること。
ここがこの本を読む上で、一番大事な入口だったように思う。
「強い者が勝つ」だけではない
ダーウィンの自然淘汰説というと、環境に適したものが生き残り、適さないものが淘汰される、というイメージがある。
しかし本書では、中立進化という考え方も紹介されている。
生存に有利でも不利でもない遺伝子の変化が、偶然広まることがある。
つまり、
「優れていたから残った」とは限らない。
たまたま残った。
たまたま子孫に伝わった。
その積み重ねも進化なのだという。
この「たまたま」という言葉が、私はずっと頭に残った。
耳垢にまで残る「偶然」
本書に出てきた耳垢の話も面白かった。
日本人には乾いた耳垢が多く、ヨーロッパやアフリカでは湿った耳垢が多い。
耳垢が乾いているか湿っているかで、生存にものすごく有利、不利があるとは考えにくい。
それでも地域によって違いが残っている。
こんな身近なことにも、
人類の歴史の偶然が残っている。
そう思うと、進化というものが急に身近に感じられた。
人類は「勝者」ではなく「負け犬」だった?
著者の考え方で特に面白かったのが、
「人類は負け犬だったのではないか」
という見方だ。
人類の祖先は勇敢に森を出て、サバンナへ進出した。
そう語ると格好いい。
けれど、住み慣れた森で十分暮らせるなら、わざわざ危険な場所へ移動する必要はない。
環境の変化や他の集団との競争によって、森にいられなくなり、仕方なく外へ出た。
だからこそ、新しい環境に適応する必要が生まれたのかもしれない。
もしそうなら、
勝ったから進化したのではなく、負けたから変わらざるを得なかった。
この見方はとても面白い。
必要に迫られたから、工夫した
人間は新しいことに挑戦する生物だと言われる。
でも実際には、今の場所で困らず暮らせるなら、わざわざ危険を冒さない。
食べ物がなくなった。
環境が変わった。
居場所を失った。
だから移動する。
だから道具を作る。
だから火を使う。
「必要は発明の母」という言葉があるが、人類の進化そのものも、必要に迫られた結果だったのかもしれない。
二足歩行は、本当に「進歩」だったのか
人類の大きな特徴は直立二足歩行である。
両手が自由になり、道具を使えるようになった。
これは確かに大きな利点だった。
しかし同時に、失ったものもある。
四足歩行より不安定になった。
腰に負担がかかる。
血液を重力に逆らって脳まで送り続けなければならない。
痔や腰痛など、二足歩行と関係する身体的負担も増えた。
つまり、
進化によって何かを得れば、何かを失う。
万能になるわけではない。
ここにも「できそこない」の姿がある。
ビタミンCさえ、自分では作れない
驚いたのが、ビタミンCの話だった。
多くの動物は、体内でビタミンCを作ることができる。
ところが人間や一部の霊長類は、それができない。
祖先のどこかで、ビタミンCを作るための遺伝子の機能を失ってしまったからだという。
普通なら、
「そんな大切な能力を失ったら生き残れないのではないか」
と思う。
でも、食べ物から取れれば生きていける。
だから、そのまま残った。
できないことがあっても、生き残れる。
これもまた進化なのだ。
脳が大きいことが正解とは限らない
フローレス原人の話も興味深かった。
体が小さく、脳も現代人よりかなり小さい。
それでも石器を使い、火を利用していたと考えられている。
一方、ネアンデルタール人は大きな脳を持ち、石器や火を使い、埋葬までしていたとされる。
それでも独立した人類集団としては消えていった。
脳が大きいから生き残る。
知能が高いから勝つ。
そんな単純な話ではない。
ホヤを見ると、脳さえ絶対ではない
以前から面白いと思っていた生物にホヤがある。
ホヤは貝のように見えるが、脊椎動物に近い系統の生物である。
幼生のときには泳ぎ回り、神経系を持つ。
しかし定着して生活するようになると、体の構造が大きく変化する。
俗に「自分の脳を食べてしまう」と言われるほど、神経系も大きく再編される。
動かなくてもよくなれば、動くための機能は必要なくなる。
そう考えると、
脳が大きくなることさえ、進化のゴールではない。
必要なら残り、必要がなければ失われる。
進化とは本当に淡々としている。
人類は連戦連勝でここまで来たのではない
ネアンデルタール人の遺伝子の一部は、今の人類にも残っている。
人類は出会い、争い、混ざり、移動しながら現在まで来た。
アフリカを出た人々も、
「未知の世界を見たい」
という冒険心だけで移動したのではなく、環境の変化や食料不足に押し出された可能性がある。
つまり人類は、
負け、
逃げ、
混ざり、
失い、
偶然を重ねながら、ここまで来た。
そう考えると、
私たちは勝者の子孫というより、生き残った者の子孫なのだ。
日本人も「負けた人々」の子孫かもしれない
日本列島にも、長い時間をかけてさまざまな人々が渡ってきた。
縄文人が暮らし、その後、大陸側から別の集団がやってきて混ざり合っていった。
著者は、ある意味では、
「別の土地で居場所を失った人々が、日本列島へ移動してきたのではないか」
という見方をしている。
それが正しいかどうかは今後の研究もあるだろう。
でも私は、
人類の歴史とは、移動と混合の歴史なのだ
ということを改めて感じた。
純粋な人類などいない。
みんな混ざり合いながら今に続いている。
それでも人類は、自分を「特別」だと思ってしまう
ここまで読むと、一つの疑問が出てくる。
なぜ人間は、
「人類は最も優れた生物だ」
と思いたがるのだろう。
知能が高い。
文明を作った。
科学を発展させた。
宇宙へ行った。
確かにすごい。
しかし同じ人類が、戦争をする。
人を傷つける。
民族や宗教や国家の違いで殺し合う。
自然環境を破壊する。
これほど賢くなったのに、
自分たちを滅ぼしかねない行為までしている。
そう考えれば、人類を「進化の完成形」と考える方が不自然なのかもしれない。
「進化の頂点」という考えこそ危ない
この本を読んで、私が一番怖いと思ったのは、
人類が自分たちを過大評価することだった。
「人間は賢い」
「人間は進化している」
「人類はこれからも発展していく」
そう思い込んでいると、本当に危ない。
進化には、人類を残さなければならないという目的などない。
環境が変われば、その環境に適した生物が繁栄する。
人類が適応できなければ、別の生物が繁栄するだけだ。
地球から見れば、
人間がいることに特別な意味などないのかもしれない。
そして、生成AIの時代
ここまで考えると、私はどうしてもChatGPTのような生成AIのことを思う。
もちろんAIは生物ではない。
だから「AIが新しい生物として人類を淘汰する」と単純に言うことはできない。
でも、
文章を書く。
画像を作る。
情報を整理する。
考えることを補助する。
人間だけができると思っていた領域に、AIはどんどん入ってきている。
そこで怖いのはAIそのものではなく、
「人間はAIより優れているから大丈夫だ」
という、人間の傲慢さではないだろうか。
人類が、人類を不要にする世界を作るかもしれない
人間がAIをどう使うのか。
自然とどう付き合うのか。
戦争を続けるのか。
環境を壊し続けるのか。
もし判断を誤り続ければ、
AIに直接淘汰される前に、
人類自身が、人類の住めない世界を作ってしまう。
そんな可能性だってある。
長い地球の歴史から見れば、将来、別の生物が繁栄することも十分あり得る。
もっと長い時間を考えれば、今の私たちには想像もできない新しい生命の形が現れることだってあるかもしれない。
人類だけが未来永劫、地球の主役である保証はどこにもない。
できそこないだと知ることから始まる
だから私は、この本の「できそこない」という言葉を、否定的には受け取らなかった。
むしろ、
人類が自分たちを「できそこない」だと認めることこそ、大切なのではないか。
間違える。
争う。
失敗する。
思い込みもある。
完璧ではない。
それを知っていれば、修正することができる。
AIからも学べる。
自然からも学べる。
他の生物からも学べる。
違う考えを持つ人からも学べる。
人類は、たまたま今ここにいるだけ
人類は700万年間、勝ち続けたから現在まで残ったわけではない。
負け、
逃げ、
失い、
混ざり、
偶然に助けられながら、たまたま今ここにいる。
この本を読んで、私は人類を見る目が少し変わった。
私たちは進化の頂点ではない。
完成品でもない。
そして、これからも生き残ることが約束されているわけでもない。
だからこそ、
「人類は素晴らしい」と思う前に、「人類はできそこないかもしれない」と考えてみる。
そのくらいの謙虚さが、今の時代には必要なのではないかと思う。
『人類はできそこないである』。
読み始めたときには、刺激的なタイトルだと思った。
けれど読み終えた今は、この言葉が人類への警告のようにも、希望のようにも感じられる。
できそこないだから、まだ変われる。
そして、
人類は、たまたま今ここにいるだけなのだ。
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旅先に、古い自分を置いてくる | 2026.08.10

『こうして無意識は現実になる』タッカー著を読んで
「無意識」というものについて、私はこれまでにもいろいろな本を読んできた。
けれど、読めば読むほど、
無意識とは結局、何なのだろう。
そんな疑問が残る。
自分では意識していないものを、自分で理解しようとしているのだから、そもそも簡単にわかるはずもない。
だから今回も、「もう少しわかるかもしれない」と思いながら、この本を手に取った。
私たちは、世界のすべてを見ているわけではない
本書でまず印象に残ったのは、人は目の前の現実を、そのまま見ているわけではないという話だった。
同じ出来事を見ても、
ある人は希望を感じ、
ある人は不安を感じる。同じ言葉を聞いても、
ある人は励まされたと思い、
別の人は傷ついたと感じる。出来事そのものよりも、自分の中にあるフィルターを通して世界を見ているということだ。
過去の経験、親から言われた言葉、成功や失敗、人間関係、文化、価値観。
そうしたものが積み重なって、自分でも気づかないうちに「見るべきもの」を選んでいる。
そして、その見方から感情が生まれ、感情から行動が生まれ、その行動の積み重ねが現実になる。
さらに、その現実を見て、
「やっぱり自分はこういう人間なんだ」
と思えば、その認識がまた無意識を強くしていく。
本書では、こうした循環を「現実創造ループ」として説明している。
なるほどと思った。
現実を変えたいと思ったとき、私たちはつい外側を変えようとする。
しかし、その前に、
「なぜ私は、この現実をこう見ているのだろう」
と考える必要があるのかもしれない。
感情は、無意識から届く知らせかもしれない
怒ったとき。
不安になったとき。
妙に誰かの言葉が引っかかったとき。私はこれまで、その感情そのものを問題だと思うこともあった。
しかし本書を読むと、感情はむしろ、自分でも見えていない無意識を教えてくれるサインなのだと思えてくる。
なぜ私は腹を立てたのか。
なぜ、この言葉だけが気になったのか。
本当は何を恐れているのか。
そこを少し掘り下げてみると、
「こうあるべきだ」
「失敗してはいけない」
「人からこう見られたい」という、自分でも気づかなかった思い込みが出てくることがある。
問題は、そうした価値観を持つことではない。
昔は必要だった価値観を、今も握りしめ続けていることなのかもしれない。
無意識を変える前に、まず無意識に気づく。
この順番が大切なのだと思った。
親や文化から受け取ったものも、自分の中にある
本書には、幼少期の親の言葉や態度が情動記憶として残り、その後の自己認識や人間関係にも影響するという話が出てくる。
考えてみれば、私たちは自分一人だけで「自分」をつくってきたわけではない。
家庭、学校、地域、社会、そして時代。
そこから知らないうちにたくさんの価値観を受け取っている。
文化によっても無意識は違う。
日本では相手の話を聞きながら頷くことが多いが、それが必ずしも「同意」を意味するわけではない。
ヒーロー像一つをとっても、日本では仲間との連帯が強く描かれ、アメリカでは一人で正義を貫く存在として描かれることが多いという。
どちらが正しいという話ではない。
無意識というものは、個人の経験だけではなく、その人が生きてきた文化や時代とも深く結びついている。
グローバルな時代になれば、この違いを知ることはますます大切になるのだろう。
「こうなりたい人」が、私はあまり思い浮かばない
本の中に、
「こういう人になりたいと思う人は誰ですか」
という問いがあった。
考えてみたけれど、私はあまり思い浮かばなかった。
もちろん、素晴らしいと思う人はたくさんいる。
この人の、この考え方はいい。
この生き方には共感する。しかし、人間は誰でも完璧ではない。
一人の人間を丸ごと理想にするよりも、
いろいろな人のいいところを、その都度自分の中に取り入れていけばいい。
私はそんなふうに考えているようだ。
そして、「これだけは絶対に変えない」と決めすぎることにも、少し警戒している。
信念は大切だ。
しかし、強く握りしめすぎれば、それがいつの間にか自分を縛る殻になることもある。
時代も変わる。
環境も変わる。
自分自身も変わる。だから私は、できるだけ柔らかくいたい。
旅先に、古い自分を置いてくる
この本の中で、とても好きな表現があった。
旅行が好きな人なら、
「旅先に古い自分を置いてくる」
という感覚で過ごしてみるのもいいという。
これは面白いと思った。
私は写真を撮るためによく旅に出る。
旅に出れば景色が変わる。
出会う人が変わる。
いつもの生活の時間から少し離れる。そんな場所で、
「この悩みは、本当に持ち帰る必要があるのだろうか」
と考えてみる。
古いこだわり。
誰かに言われた一言。
もう終わった出来事。
自分で勝手につくった不安。全部を持って帰る必要はない。
旅には、新しい景色を見るだけではなく、
古くなった自分を少し置いてくる役割もあるのかもしれない。
次の撮影旅行では、本当に一つくらい置いて帰ってこようと思う。
noteに書くことも、無意識に気づく時間
本書では、思考や感情を書き出す「ジャーナリング」についても触れている。
書くことで、自分の中にあるモヤモヤが言葉になる。
「自分はこんなことを考えていたのか」
と、初めて気づくこともある。
考えてみれば、私がこうして本を読み、心に残ったことや、その時に感じたことをnoteに書き留めていることも、同じなのかもしれない。
本について書いているつもりで、
実はずっと、
自分について書いている。
どの言葉が心に残ったのか。
どこに引っかかったのか。
何に反発したのか。
どこに共感したのか。そこに、その時の自分が表れてくる。
だから、本の感想をnoteに書き留めることは、本の内容を記録するためだけではない。
自分でも気づいていなかった自分を見つける作業でもあるのだと思う。
これからも私は、本を読んで感じたことをnoteに書き留めていきたい。
あとから読み返したとき、そこには本の記録だけではなく、その時々の自分の無意識の一部まで残っているのかもしれない。
「足りない」より「すでにあるもの」へ
もう一つ心に残ったのが、
「欠乏ではなく、充足に目を向ける」
という考え方だった。
私たちはどうしても、
まだできていない。
まだ足りない。
あの人は持っている。という方向へ目を向けてしまう。
特にSNSで多くの人の生活が見える時代では、比較しようと思えば際限なく比較できる。
人と比べれば、どれほど恵まれていても「自分にはないもの」が必ず見つかる。
しかし、自分がすでに持っているもの、できていること、恵まれていることに目を向ければ、世界の見え方は変わってくる。
現実そのものが突然変わるわけではない。
でも、
どの現実を見るかが変わる。
そして、見えるものが変われば、感情も行動も変わっていく。
これもまた、無意識が現実につながっていくということなのだろう。
手放すと、心に余白ができる
この本を通して、何度も出てきたのが「手放す」という考え方だった。
必要のなくなった思い込み。
古いセルフイメージ。
過去へのこだわり。
「こうでなければならない」という考え。それを手放す。
言葉にすれば簡単だが、実際には難しい。
物がいっぱい詰まった部屋では、新しいものを置く場所がない。
心も同じなのかもしれない。
頭の中に古い考えや心配事がいっぱい詰まっていれば、新しい考えが入ってくる余白がなくなる。
一つ手放せば、一つ余白ができる。
その余白から、
「こんなことをやってみようかな」
という気持ちが生まれる。
手放すことは、失うことではなく、新しいものが入ってくる場所をつくることなのだ。
この考えは、とても印象に残った。
いくつになっても、古い殻は脱げる
この本を読み終えても、「無意識とは何か」を完全に理解したとは言えない。
たぶん、これからも別の本を読むだろう。
それでいいと思っている。
今回、一つだけ以前よりはっきりしたことがある。
無意識を書き換えようと力む前に、
まず、
自分の中に何があるのかに気づくこと。
そして、
「これはもう、今の自分には必要ないな」
と思ったものを少しずつ手放していく。
空いた場所には、また新しいものが入ってくる。
自分を変えるというと、大げさな決意が必要なように思える。
しかし実際には、小さな違和感に気づき、小さな思い込みを一つ手放す。
その繰り返しなのかもしれない。
古いセルフイメージの殻を脱ぎながら、
いくつになっても、新しい自分になっていく。
そう考えると、まだまだ自分の中には、自分でも知らない自分がいる。
そして本書の最後にある、
幸せの種は、すでに自分の中にある。
という考えにもつながってくる。
何かを外から足していくことばかりではない。
自分の中にあるものに気づき、もう必要のないものを手放してみる。
無意識とは、少し怖い存在でもあるけれど、
同時に、
これからの自分をつくるための余白でもあるのだと思った。
次の旅では、何を置いて帰ろうか。
そんなことを考えるだけでも、少し心が軽くなる。
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「好き」を貫くことが、生き方のセンスになる | 2026.08.06

『センスいい人がしている80のこと』有川真由美 著を読んで
「センスとは、生まれながらに持っているものだけではなく、後天的に身につけられる。どんな人でも、何歳からでも」
本書の冒頭にあったこの言葉に惹かれた。
センスと聞くと、服装や持ち物、色の組み合わせなど、生まれつき備わった感覚を思い浮かべる。しかし本書を読んでいくと、センスとは見た目だけの問題ではないことが分かってきた。
何を感じ、何を選び、何を手放すのか。
どのような人と付き合い、どのような時間を過ごすのか。センスとは、その人の生きる姿勢そのものなのだと思う。
「好き」は、センスの母
著者は「好きはセンスの母」と書いている。
好きなものを大切にしていると、自分が何を求めているのかが、少しずつはっきりしてくる。
人は人、自分は自分でいいと思える。
なりたい自分に近づいていく。
新しいことにも挑戦したくなる。
毎日の感情を、丁寧に味わえるようになる。そんなふうになれたら素敵だ。
ただし、「好き」を貫くことは簡単ではない。
どんな自分でいたいのか。
どんな暮らしを送りたいのか。自分自身と真剣に向き合い、自分に合わないものを、ときには思い切って手放す覚悟も必要になる。
周囲からどう見られるかではなく、自分の心が本当に喜ぶものを選ぶ。その小さな選択の積み重ねが、自分らしいセンスをつくっていくのだろう。
自分でつくった音楽が、暮らしを豊かにする
私は最近、AIを使って音楽をつくっている。
自分で歌詞を考え、好きな雰囲気の曲をつくり、自分が思い描いた声で歌ってもらう。気がつけば、つくった曲は60曲ほどになった。
以前は、外で誰かの音楽を聴くことが多かった。しかし今は、自分の写真や体験から生まれた曲を聴くことが増えた。
自分の中にあった風景や感情が、言葉になり、音楽になって戻ってくる。それを聴いていると、何でもない日常が少しだけ特別なものになる。
お気に入りの作品や道具を大切に使う。
自分の好きな音楽とともに暮らす。それだけでも、日々の生活に上質なエッセンスが加わり、気持ちが華やぐ。
センスとは、高価なものを持つことではない。自分が本当に気に入ったものを見つけ、その価値を味わえることなのだと思う。
本当のかっこよさは、かっこ悪さの先にある
本書の中で、特に共感した言葉がある。
間違うことがかっこ悪いのではない。間違うことを恐れて挑戦しないほうが、かっこ悪い。
私もそう思う。
傍から見れば、ばかばかしく思われる趣味でも、本人がやりたくて真剣に取り組んでいる姿は美しい。
写真を撮る。
本を読む。
文章を書く。
音楽をつくる。
新しいAIを試してみる。一見すると別々の趣味だが、続けていると、知識や経験の点と点がつながってくる。写真が言葉になり、言葉が音楽になり、本で得た考えが仕事や暮らしにつながっていく。
大人になってからの遊びは、単なる暇つぶしではない。
自分の世界を広げ、新しい自分に出会うための学びでもある。
本当のかっこよさは、かっこ悪く見えることを恐れず、一歩を踏み出した先にあるのだろう。
妻の目を借りて、新しい自分に出会う
服装や持ち物について、私が最も信頼しているのは妻の助言である。
自分一人では選ばなかった服や色も、妻に勧められて試してみると、意外によく馴染むことがある。
自分のことは、自分が一番分かっているようで、実は見えていない。
本書には、感度のいい友人に助言をもらうことも勧められていた。他人の目を借りることで、それまで知らなかった自分の魅力に気づくことがある。
清潔感、姿勢、靴、色づかい。
どれも小さなことに見えるが、その人が自分をどう扱っているかは、自然と外見に表れる。
特に姿勢と心は直結しているという。背筋を少し伸ばすだけでも、気持ちが前向きになることがある。
おしゃれとは、流行を追うことではない。自分はどうありたいのかを、外側から静かに表現することなのだと思う。
人を喜ばせることを楽しむ
本書では、人を喜ばせることもセンスの一つとして語られている。
大げさなおもてなしではなく、相手が心地よく過ごせるように、さりげなく心を配る。
私はこの部分を読んで、デンマークで触れた「ヒュッゲ」を思い出した。
豪華な料理や特別な演出がなくても、気の合う人たちと、心地よい家具や照明の中で、無理のない時間を楽しむ。
デンマークで家具や照明、建築などの美しいデザインが育った背景には、日常の心地よさを大切にする文化があるのかもしれない。
人に喜んでもらうためには、無理をする必要はない。
自分も楽しみながら、相手にも心地よさを渡す。その軽やかさが、おもてなしのセンスなのだろう。
言葉にすることで、感性は磨かれる
著者は、自分の言葉で例え話を考えたり、自然を表す言葉を使ったりすることを勧めている。
例え話の上手な人は、一瞬で相手の中に情景をつくる。聞いた人は、まるで映画や絵画を見るように、その場面を思い浮かべることができる。
人は、自分が持っている言葉によって考える。
だから言葉が増えるほど、見える世界も細やかになっていく。
私は本を読んでも、以前はその感想をうまくまとめることができなかった。今は音声で思ったことを話し、AIの力も借りながら、自分の言葉を探している。
本を読んで終わりにせず、感想を書く。
写真を撮って終わりにせず、そのときの気持ちを言葉や音楽にする。言葉にしようとすることで、自分が何に心を動かされたのかが分かってくる。
年齢を重ねて涙もろくなるのも、喜怒哀楽のさまざまな経験を重ね、物事の背景を感じ取る力や、他人への共感力が高まるからかもしれない。
感性は、言葉によってさらに深くなっていく。
本は、自分と対話するための話し相手
本書には、読んだ本の感想を誰かに伝えてみることも勧められている。
しかし、読んだ本の話をいつでも聞いてくれる人がいるとは限らない。
だから私は、noteに感想を書いている。
書店を歩いていると、ときどき一冊の本が「私と話しませんか」と呼びかけてくるように感じることがある。
本は、著者の考えを一方的に受け取るものではない。
自分の経験と照らし合わせ、疑問を持ち、ときには反論しながら対話するものなのだと思う。
哲学も、昔は難しくて近寄りがたいものだと思っていた。しかし最近は、唯一の正解を教えてくれるものではなく、自分と相性のよい考え方と対話しながら、生き方に取り入れていくものだと感じている。
複雑で変化の激しい時代だからこそ、自分の判断の軸を持つために、哲学や読書が必要になるのかもしれない。
みんなと仲良くしなくてもいい
本書には「みんなと仲良くしなくてもいい」という話もあった。
子どもの頃は、友達は多いほうがよいと教えられる。大人になってからも、せっかくできた縁だからと、無理につながりを保とうとすることがある。
しかし、人は成長し、立場や価値観も変わっていく。
つながる人が変わるのは、自然なことなのだ。
無理に合わせたり、その場に留まり続けたりするのではなく、自分らしくいられる関係を大切にする。
人と比べない。
人の目だけを基準にしない。その一点を意識するだけでも、生き方だけでなく、暮らしや仕事のセンスも磨かれていくのだと思う。
「なるほど、そう来ましたか」
本書には、ピンチに直面したときの面白い言葉も紹介されていた。
「なるほど、そう来ましたか」
まず大きく呼吸し、少し他人事のようにつぶやいてみる。
困難の真っただ中では、なかなか笑うことなどできない。しかし、少しだけ距離を置いて眺めることができれば、目の前のことに集中できる。
まるでコメディー映画の一場面のように、困難さえも面白がる。
そこまでできれば、ピンチに振り回されるのではなく、自分の側に主導権を取り戻せるのかもしれない。
何でもないことに「ありがとう」と言う。
当たり前の中にある尊さに気づく。
失敗を恐れず、ワクワクすることをやってみる。そうした心の持ち方も、センスの一つなのだ。
迷ったときは、人として美しいほうを選ぶ
センスは、苦しみや無理強いの中から生まれるものではないと著者は言う。
もっと素敵でありたい。
もっと人に喜んでもらいたい。
もっと人生を楽しみたい。そんな前向きな気持ちから、その人らしいセンスが生まれてくる。
誰もが自分だけのセンスを持っているはずなのに、それが隠れているとすれば、他人との比較や、人の目によって、心の自由を奪われているからかもしれない。
センスを磨くとは、見た目を整えることだけではない。
自分の心を健やかに保ち、自分の可能性を信じ、好きなものを大切にしながら生きていくことなのだ。
そして迷ったときには、
人として美しいほうを選ぶ。
「好き」を貫くことは、わがままになることではない。
自分の心に正直になり、自分も周囲の人も心地よくなる生き方を選ぶことだ。
その積み重ねが、その人だけの生き方のセンスになっていくのだと思う。
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時間は平等ではない。70歳で知った「今」の使い方 | 2026.08.05

田坂広志さんの『なぜ、時間を生かせないのか――かけがえのない「人生の時間」に処する十の心得』を読んだ。
この本が出版されたのは2003年だという。
読みながら、何度も思った。
もっと早く、仕事に夢中になっていた時代に読んでおけばよかった、と。
けれども、70歳になった今の私にとって、ビジネスの技術を学ぶための本ではない。これまでの仕事や人生を振り返り、残された時間をどう生きるかを考える本だった。
本には、読むべき時期があるのかもしれない。
若い頃に読んでいたら、仕事の効率を高める本として読んだだろう。しかし今は、「人生の時間をどう生ききるか」という問いとして心に入ってきた。
時間は、本当に平等なのか
私たちはよく、
「時間は誰にでも平等に与えられている」
と言う。
一日は誰にとっても24時間である。その意味では確かに平等だ。
しかし本書は、実際に人が生きる時間は平等ではないと語る。
その違いを生み出すものが、集中力である。
同じ一時間でも、心が散らかったまま過ごす一時間と、何かに深く集中して過ごす一時間では、その密度はまったく違う。
集中力とは、単に机に長時間向かう力ではない。持続力や精神力を含めた「知的体力」なのだと思う。
ただし、集中するためには、退路を断って自分を追い込めばよいわけでもない。
本書で印象に残ったのは、
「深く集中できる人は、深くリラックスできる人でもある」
という考え方だった。
集中とリラックスは反対ではない。
深く休み、心を緩められるからこそ、次の瞬間に深く入り込むことができる。
最高の集中とは、「集中しなければ」と力むことではなく、気がつけば夢中になっていた、という状態なのだろう。
好きになる。
興味を持つ。
楽しむ。
そして夢中になる。
人はそのとき、最も高い力を発揮する。
これは仕事だけではない。読書も写真も同じだ。心から惹かれるものに向かっているとき、時計を見なくても時間は深く流れていく。
知識が価値を失う時代に残るもの
本書が書かれた2003年当時、すでに田坂さんは、情報や知識が社会全体で共有され、知識そのものの価値が下がっていく時代を見据えていた。
インターネットが広がり、今では生成AIが大量の情報や知識を瞬時に示してくれる。
では、その時代に何が価値を持つのか。
それが、「職業的な知恵」だという。
スキル、センス、ノウハウ、勘、洞察力。
これらは、教科書を読んだだけでは身につかない。
資格を取ったからといって、すぐに仕事ができるようになるわけでもない。
長い経験の中で、失敗し、迷い、人と向き合い、心を動かされたときに、少しずつ体に染み込んでいくものである。
本書では、「経験」と「体験」は違うと語られる。
ただ出来事を通過するだけなら経験で終わる。
しかし、その出来事を自分の感覚や感情とともに受け止め、自分の内側に落とし込んだとき、経験は体験になる。
そして、その体験から知恵が生まれる。
専門知識は頭で学べる。
しかし、本当の知恵は、心で感じ、体でつかみ取らなければならない。
長く仕事をしてきた今、この言葉の意味がよく分かる。
仕事の知恵は、成功したときよりも、むしろ失敗したときや、思うようにいかなかったときに身につくことが多い。
真似をするから、自分が見えてくる
本書の中で、特に共感したのが「真似ること」についての話だった。
学ぶことは真似ることだと言われる。
しかし、師匠の表面的な技術だけを真似すれば、それは猿真似になってしまう。
優れた人のやり方を観察し、同じようにやってみる。
けれども、うまくいかない。
さらに観察し、もう一度試してみる。
それでも、どこか違う。
その失敗を繰り返しているうちに、師匠と自分との違いが見えてくる。
真似をする本当の目的は、師匠と同じ人間になることではない。
自分の個性を発見することなのだ。
個性は、一人で自由にしていれば自然に現れるものではない。
異なる個性と出会い、ときに葛藤し、圧倒され、それでも自分なりの方法を探す中で磨かれていく。
写真でも、仕事でも、文章を書くことでも同じだと思う。
優れた作品や技術に憧れ、真似てみる。
しかし同じにはならない。
その「同じにならなさ」の中にこそ、自分だけの感覚や呼吸、スタイルが隠れている。
個性とは、最初から完成した形で自分の中にあるものではない。
他者との格闘を通して、少しずつ磨き出されるものなのだ。
仕事の本当の報酬
本書には、
「仕事の真の報酬は、人間としての成長である」
という言葉がある。
仕事の報酬というと、給与や地位、実績を考えてしまう。
しかし、長い人生を振り返れば、仕事を通して何を得たか以上に、仕事によって自分がどのような人間になったのかが大切なのだろう。
ただし、「成長するために仕事をする」というのとも少し違う。
目の前の仕事に懸命に取り組み、人と向き合い、失敗を受け止める。その結果として、いつの間にか人間が磨かれている。
成長できる場所は、どこか遠くにあるのではない。
「今の環境では成長できない」
「もっと良い場所に行けば変われる」
そう考えることもある。
けれども、私たちは自分に都合よく世界を解釈し、今ここ以外に成長の場があるという幻想を抱きやすい。
本当の学びの場所は、いつも目の前にある。
目の前の仕事。
目の前の人。
目の前で起きている出来事。
そこから何を感じ、何を受け取り、どう自分を変えていくか。
それが問われている。
あるのは、永遠に続く「今」だけ
私たちは何のために学び続けるのだろう。
生き残るためか。
誰かに勝つためか。
社会的に成功するためか。
私たちは強い思想を持たなければ、世間が決めた「成功」の物差しを、知らないうちに自分の人生の物差しにしてしまう。
しかし、人生の成功とは何か。
それは、一人ひとりが考え続けなければならない問いなのだと思う。
本書の最後にある、
「過去はない。未来もない。あるのは永遠に続く今だけである」
という言葉が心に残った。
過去を悔やむことはできる。
未来を心配することもできる。
しかし、私たちが実際に生きられるのは、今この瞬間しかない。
2003年にこの本を読まなかったことを、少し後悔している。
けれども、その後悔に時間を使うのではなく、今この本に出会えたことを大切にしたい。
70歳になったからこそ分かる言葉もある。
仕事を続けてきたからこそ、体に響く言葉もある。
人生の時間を生かすとは、予定を隙間なく埋めることではない。
目の前のものに心を向け、深く感じ、夢中になり、体験から知恵をつかみ取ることなのだろう。
残された時間がどれだけあるかは、誰にも分からない。
だからこそ、時間の長さではなく、時間の深さを大切にしたい。
過去でも未来でもない。
今を生きる。
そして、今を生ききる。
それが、かけがえのない人生の時間を生かすということなのだと思う。
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自分の暮らしを、自分だけの言葉にする | 2026.08.04

――黒田充代著『腎臓Lover』を読んで
この本を手に取ったのは、私自身が胆のうを摘出してから、以前より体の中のことに関心を持つようになったからかもしれない。
肝臓や胆のう、腎臓、子宮、卵巣。
普段はほとんど意識することのない臓器が、私たちの命を黙って支えている。『腎臓Lover』という少し意外な題名にひかれて読み始めたが、本書に書かれていたのは、病気や臓器についての話だけではなかった。
黒田充代さんが、自分の体や家族、友人との別れ、旅先での失敗、何でもない日々の暮らしを、一つ一つ静かに綴った本だった。
著者の一場面と、自分の一場面が重なる
著者は、本書を通して、自分の人生の一場面と読者の一場面が交わり、まだ自分の中に眠っている世界に気づいてもらえたら嬉しい、という趣旨のことを書いている。
読み進めていると、著者の記憶と私自身の記憶が、何度も重なった。
親しい友人から、ひょっこりメールが届く。
しかし、その後間もなく、その人は亡くなってしまう。年齢を重ねるにつれて、友人や家族との別れが少しずつ増えてくる。若い頃には遠い出来事のように感じていた死が、いつの間にか、自分の日常のすぐ近くにあるものとなる。
悲しみに慣れることはない。
ただ、悲しみを抱えながら暮らすことを、少しずつ覚えていくのかもしれない。無理に忘れるのではなく、自分の中で時間をかけて受け止め、消化していく。
それも、年齢を重ねるということなのだろう。
何もない一日にある、静かな幸福
若い頃は、何かを成し遂げなければならないと思っていた。
仕事で結果を出すこと。
人から認められること。
新しい場所へ行き、新しい経験をすること。しかし年齢を重ねると、何でもない一日や、何も起こらない時間こそが、軽やかで素敵なものだったのだと、じんわり気づく。
朝、無事に目を覚ます。
食事をする。
家族と言葉を交わす。
好きな本を読む。
静かに一日を終える。若い頃には退屈に見えた時間が、今ではありがたい。
幸福とは、激しく輝くものばかりではない。むしろ最後に残るのは、音を立てずに心の中へ広がっていく、静かな幸福なのかもしれない。
何のために生きてきたのか、その答えが分からなくてもよい。
自分にとって何が大切なのか。
どのような時間に心が安らぐのか。それが少しでも分かっていれば、人は自分の人生を静かに歩いていけるのではないだろうか。
失敗も、いつか自分の物語になる
本書を読みながら、私自身の旅先での失敗も思い出した。
自分では正しいと思っていたことが、実は間違っていた。自分の判断や言動によって、せっかくの旅行を台無しにしてしまったように感じる。
そのときは本当に落ち込む。
なぜ、あんなことをしたのか。
もっと違う言い方ができなかったのか。
せっかくの時間を無駄にしたのではないか。私はよく、年を取ったら、もっと恥をかいてもよいと言っている。しかし、実際に失敗すれば、やはり心は傷つく。
それでも長い時間が過ぎると、その失敗も一つの思い出に変わっていく。
成功したことだけが人生ではない。
間違えたこと、遠回りしたこと、落ち込んだこと、逃げ出したくなったこと。それらも含めて、自分の人生だったと思える日が来る。
失敗を無理に忘れるのでも、いつまでも自分を責め続けるのでもない。
少しずつ自分の中で消化し、自分の物語の一部として受け入れていく。それが大切なのだと思う。
体と向き合うことは、人生と向き合うこと
本書には、腎臓移植をめぐる体験をはじめ、子宮や卵巣の摘出、父親の死、家族の病気など、簡単には言葉にできない出来事も綴られている。
病気は、誰にでも起こり得る。
昨日まで当たり前に動いていた体が、ある日突然、自分の思いどおりにならなくなる。
私も胆のうを摘出してから、自分の体を以前より身近に感じるようになった。
体は自分のものでありながら、自分の意思だけでは動かせない。目に見えないところで、多くの臓器が休むことなく働き、今日まで命をつないでくれている。
失って初めて、その存在の大きさに気づくこともある。
病気や手術について書くことは、単なる治療の記録ではない。
自分が何を恐れ、何に支えられ、何を大切にして生きてきたのかを見つめ直すことなのだと思う。
機微の風景を言葉にする
今回、この感想文の題名を、
「自分の暮らしを、自分だけの言葉にする」
とした。
本書を読んで強く感じたのは、日々の出来事を言葉にすることで、自分の心の細かな動きが見えてくるということだった。
うれしかった。
悲しかった。
悔しかった。
恥ずかしかった。それだけでは、自分が何を感じていたのか、まだ十分には分からない。
なぜうれしかったのか。
何が悲しかったのか。
本当は誰に何を伝えたかったのか。言葉を探しながら書いていると、自分でも気づいていなかった感情が、少しずつ姿を現す。
それは、心の中にある機微の風景を言葉にすることなのだと思う。
感情は、はっきりと一つの形を持っているわけではない。
喜びの中に寂しさがあり、悲しみの中にも温かさが残っている。光の加減によって表情を変える風景のように、心も絶えず揺れ動いている。
その微妙な揺れを、自分だけの言葉ですくい上げる。
言葉は、自分の奥底を映してくれる鏡なのだと思う。
言葉にできないものも、大切にしたい
私は写真を撮る。
写真には、一瞬の光、空気、距離、沈黙、その場に立った人にしか分からない感覚が写り込む。
しかし、その写真を言葉で説明しようとすると、もともと写真の中にあった何かが、だんだん薄まっていくように感じることがある。
言葉にした瞬間、見る人が自由に感じる余白を狭めてしまうこともある。
一方で、言葉にすることで初めて、自分がなぜその場所に立ち、なぜその瞬間にシャッターを切ったのかが分かることもある。
写真は、外の世界に向けた自分のまなざしである。
言葉は、自分の内側へ向けた鏡である。
写真だけでは見えない自分が、言葉によって見えてくる。言葉だけでは伝えられない空気が、写真の中に残る。
だから私は、写真と言葉、その両方で表現していきたい。
言葉にできるものを、丁寧に言葉にする。
そして、どうしても言葉では表せないものは、無理に説明せず、そのまま大切に残しておく。
すべてを言葉にする必要はない。
言葉にならない感情や、説明できない美しさも、確かに自分の人生の中に存在している。
自分の暮らしを、自分だけの言葉にする。
そして、言葉にならない機微の風景にも、静かに目を向けていく。
その二つを大切にすることで、私はこれからも、自分の人生を自分なりの方法で残していきたいと思う。
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頭の中の独り言を、温泉に沈める | 2026.08.03

『右脳温泉―すべてが輝き始める幸福脳への招待状』を読んで
「右脳温泉」というタイトルに惹かれて、この本を手に取った。
右脳と左脳という言葉はよく聞く。左脳は言葉や論理を扱い、右脳は芸術やイメージを得意とする。そんな大まかな知識は持っていた。
しかし、その右脳を「温泉」と表現したところが面白い。
著者の岡田信光さんは、72歳のときに「右脳回帰」を果たしたという。
それは、まるで温かい湯に毎日どっぷりと浸かっているような、大きな安心感と意識の変化に包まれる状態らしい。
喜び、幸福、安心、感謝、直感、気づき。
それらが心の奥から、温泉のようにこんこんと湧き出してくる。
私も70歳を迎えた今、この感覚には大変興味を持った。
頭の中で吠え続ける「自動思考」
本書で特に印象に残ったのが、「自動思考」という言葉だった。
私たちの頭の中には、頼んでもいないのに、さまざまな言葉が浮かんでくる。
「あのとき、ああすればよかった」
「あの人は、なぜ分かってくれないのか」
「失敗したらどうしよう」
「自分は間違っているのではないか」
気がつけば、同じ考えが頭の中を何度も回っている。
いわゆる「ぐるぐる思考」である。
脳には、ぼんやりしているときにも経験や記憶を整理し、自分自身や他人との関係について考える働きがある。これは一般にデフォルト・モード・ネットワークと呼ばれている。
本来は必要な働きなのだろう。
しかし、過去の失敗や不安、怒りに結びつくと、解決策が見つからないまま、同じ思考だけが何度も再生されてしまう。
著者は、この自動思考を生み出す存在を、よく吠える「番犬くん」として表現している。
番犬くんは、私たちを危険から守ろうとしている。
だから、番犬くんそのものが悪いわけではない。
けれども、一度吠え始めると、怒りや不安、恐れ、嫉妬まで呼び起こし、自分自身を苦しめてしまう。
若い頃の私も、この番犬くんをずいぶん吠えさせていたように思う。
仕事でも家庭でも、
「なぜ分からないのか」
「どうして言ったとおりにできないのか」
と、相手を責めることがあった。
しかし、その言葉によって最も苦しくなっていたのは、相手ではなく自分だったのかもしれない。
思考は「私」そのものではない
本書を読みながら、最も大切だと思ったのは、
思考は私の中に起こるが、思考そのものが私ではない
ということだった。
私たちは、自分の頭に浮かんだ考えを、すぐに事実だと思ってしまう。
「嫌われているに違いない」
「自分にはできない」
「あの人は間違っている」
しかし、それは事実ではなく、過去の経験や価値観、思い込みから生まれた、一つの反応にすぎないことも多い。
本書では、こうした思考の土台にある信念や思い込みを「ビリーフ」と呼んでいる。
過去に傷ついた経験があれば、「もう傷つきたくない」という思いが生まれる。
失敗を強く責められた経験があれば、「失敗してはいけない」という信念が残る。
そのビリーフが刺激されるたびに、番犬くんが吠え、自動思考が始まる。
大切なのは、無理に思考を消そうとすることではない。
「ああ、また頭の中で番犬が吠えているな」
と、一歩引いて眺めることなのだと思う。
湧いてきた考えに、すぐ反応しない。
正しい、間違っていると、すぐに判断しない。
ただ、そこにあることに気づく。
それだけでも、思考に振り回される時間は少しずつ短くなるのではないだろうか。
比べる左脳、つなげる右脳
著者は、左脳の基本的な働きを「相対意識」や「分離意識」と表現している。
良いか悪いか。
正しいか間違いか。
成功か失敗か。
優れているか劣っているか。
私たちは物事を比較し、分類することで、社会生活を成り立たせている。
計画を立て、問題を整理し、言葉を使って人に伝えるには、この働きが欠かせない。
一方、右脳は、物事を分けるよりも、全体として受け取ろうとする。
自分と他人を完全に切り離さず、すべてがつながっている感覚を持つ。
そこには、喜び、共感、直感、気づき、無条件の愛といったものがあるという。
ただし私は、この右脳と左脳の説明を、脳の機能を厳密に二分した科学的説明というより、心の状態を理解するための比喩として読んだ。
左脳が悪く、右脳が良いということではない。
論理も言葉も、仕事や生活には欠かせない。
問題は、比較や判断ばかりが強くなり、心の中の番犬が吠え続けてしまうことなのだろう。
必要なときには左脳に働いてもらう。
しかし、普段は右脳温泉に浸かるように、安心や喜び、直感を大切にする。
そのバランスが重要なのだと思う。
頭ではなく、腹で感じる
本書には、左脳と右脳に加えて、「腑脳さん」という存在も登場する。
「腑に落ちる」
「腹を決める」
「腹の底から感じる」
昔から日本語には、頭だけでは説明できない感覚を、腹で表現する言葉が多い。
理屈では正しいと分かっていても、どうしても納得できないことがある。
反対に、理由はうまく説明できなくても、
「こちらへ進んだ方がいい」
と感じることもある。
著者は、こうした身体感覚や生命の感覚を「腑脳さん」と表現している。
私も会社経営やものづくりの中で、最後は理屈だけでは決められない場面を何度も経験してきた。
数字や条件を検討したうえで、それでも最後は、
「こちらの方がワクワクする」
「この人となら一緒に仕事ができる」
という感覚で決めることがある。
それは単なる思いつきではなく、これまでの経験が身体の中で統合された結果なのかもしれない。
宇宙意識という考え方
本書の後半では、魂や宇宙意識についても語られる。
ここまで来ると、かなりスピリチュアルな世界に入っていく。
また、「人間が観測するまで現実は存在しない」という量子力学の説明については、そのまま私たちの日常や意識の問題に当てはめることには慎重でありたい。
量子力学の「観測」は、必ずしも人間の心や意識だけを意味するものではないからだ。
それでも私は、
人間も宇宙から切り離された存在ではなく、大きな自然の一部である
という感覚には共感する。
私たちの身体をつくる物質も、遠い昔に宇宙で生まれたものだ。
呼吸をし、水を飲み、食べ物をいただき、太陽の光を受けて生きている。
そう考えれば、自分だけの力で生きている人など、誰もいない。
「自分」と「他人」を分けすぎず、生命全体のつながりを感じることは、決して不思議なことではないと思う。
私たちは、本来愛される子どものまま
本書にあった、
「私たちの本質は、本来愛される子どものままなのだ」
という言葉も心に残った。
年齢を重ね、肩書を持ち、責任を背負うほど、人は自分を守ろうとする。
否定されたくない。
失敗したくない。
弱い人間だと思われたくない。
そうして、頭の中の番犬を何度も吠えさせる。
けれども、その奥には、ただ認めてほしい、分かってほしい、愛してほしいという、子どものような気持ちが残っているのかもしれない。
他人を許せないとき、そこには相手に対する否定的な思い込みが残っている。
しかし、その思い込みに気づくことができれば、すぐに許せなくても、少なくとも自分の苦しみの正体は見えてくる。
私も、右脳温泉に浸かってみたい
自動思考を完全に止めることは、簡単ではない。
私も今でも、頭の中で考えがぐるぐる回ることがある。
会社のこと。
家族のこと。
過去の失敗。
これからの不安。
けれども、考えが浮かぶことと、その考えに従うことは別である。
頭の中で番犬が吠え始めたら、
「また守ろうとしてくれているのだな」
と気づけばいい。
そして、少し呼吸を整え、目の前にあるものを見る。
人の話を聞く。
風景を眺める。
写真を撮る。
本を読む。
孫と過ごす。
その瞬間、思考の外側にある世界が、少しずつ見えてくる。
右脳温泉とは、何も考えなくなることではないのだろう。
思考だけを自分だと思わず、喜びや安心、直感、身体感覚にも居場所を与えることなのだと思う。
頭の中の独り言から、ほんの少し離れてみる。
すると、今まで当たり前だと思っていた日常が、少し違って見えてくる。
湯気の向こうから、すべてが静かに輝き始める。
私もこれから、頭の中の番犬をなだめながら、ゆっくりと「右脳温泉」に浸かってみたいと思う。
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