ブログ - 五十嵐工業株式会社
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3年前の涙を、今なら言葉にできる | 2026.08.24

3年前、「感動です!」としか書けなかった
2023年12月16日。
私は映画
『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』
を観て、Facebookにこんな投稿をしていました。年末になっていい映画を観ること出来ました!感動です!
今年見た映画のベスト3に入ります^_^先日、その投稿を久しぶりに見つけました。

読んで思わず笑ってしまいました。
短い(笑)。
でも、あの時の感動がこの程度だったわけではありません。
とても心を揺さぶられた映画だったからこそ、「今年見た映画のベスト3」とまで書いたのでしょう。
今振り返ると、あの頃の私は、自分が感じていたことの10分の1も言葉にできていなかったのだと思います。
感動した。
泣いた。
いい映画だった。そこまでは言える。
でも、
「なぜ感動したのか」
「どこで心が動いたのか」
「なぜ、この場面がいつまでも残っているのか」そこから先を、自分の言葉にすることができませんでした。
そして3年後、『あの星が降る丘で、君とまた出会いたい。』へ
そして今回観たのが、その物語の続編・完結編となる
『あの星が降る丘で、君とまた出会いたい。』
です。

3年前にあれだけ心を動かされた作品の続きですから、もちろん期待して映画館へ向かいました。
ところが観終わってみると、私には今回の方がさらに心に残る映画でした。
何度も涙が出ました。
私はやっぱり、こういう素直に泣ける映画が好きなんだと思います。
「ここは泣くところだ」と考えて泣くのではありません。
物語の中へいつの間にか入り込み、登場人物の思いが自分の中にも流れ込んできて、気がつけば涙が出ている。
悲しいからだけではありません。
誰かを思う気持ち。
時間を超えてつながっていく思い。
言葉にできなかった気持ち。
そして、美しい風景や人の表情。いろいろなものが重なった瞬間に、自然と涙が出てくる。
歳を重ねて、涙もろくなったのかもしれません(笑)。
でも、それでいいと思っています。
人のことを思って泣ける。
誰かの人生に自分の人生を重ねて泣ける。
美しいものに心を動かされる。そんな感覚は、何歳になっても失いたくありません。
写真を撮る者として、映像にも見入った
そして今回、物語と同じくらい惹かれたのが、ロケーションと映像の美しさでした。
私は長く写真を撮っていますから、映画を観ていても、つい光や構図、背景、人物の配置を見てしまいます。
この映画には、
「この場面を一枚の写真にしたい」
と思うようなカットが何度もありました。
光の入り方。
空の色。
花や風景。
人物と背景との距離。本当に美しい。
ところが同時に、
「これは映画でしか表現できないな」
と思う場面もたくさんありました。
カメラが動く。
人物が歩く。
風が吹く。
光が変わる。
そこに音楽や声が重なり、時間が流れていく。写真は一瞬を止める表現です。
映画は、その一瞬へ向かっていく時間と、その一瞬が過ぎ去った後まで見せてくれる。
逆に写真には、動かない一枚だからこそ、その前後を観る人に想像してもらえる面白さがある。
写真と映画。
同じ「映像」でも、表現できるものはこんなにも違う。
そんなことまで考えながら観ていました。
3年前の感動は、「言葉になる前」だった
映画を観終わってから、2023年のFacebook投稿をもう一度読み返しました。
なぜ私は、あれほど感動した映画について数行しか書けなかったのだろう。
そこで思ったのです。
感じる力と、言葉にする力は別なのではないか。
心は大きく動いている。
でも、その感情を自分の中から取り出して、
「私はなぜ、ここで泣いたのだろう」
「なぜ、この風景が心に残ったのだろう」
と問いかけなければ、感動は「良かった」「泣いた」「感動した」という言葉の中に収まってしまいます。
3年前の私も、確かに感動していました。
ただ、それはまだ言葉になる前の感動だったのかもしれません。
言葉にすると、自分の中が見えてくる
この数年、私は本を読んだ感想、写真を撮って感じたこと、日々考えたことをnoteに残すようになりました。
最近はAIにも手伝ってもらっています。
でも、AIに感動してもらっているわけではありません。
映画を観て泣くのは私です。
写真を撮りたいと思うのも私。
美しいと感じるのも、何かに引っかかるのも私です。
私は、自分の中に浮かんだ断片的な言葉をAIに投げかけます。
すると、
「なぜ、そう感じたのか」
「本当に言いたかったことは何なのか」
を、もう一度自分で考えることができる。
感動するのは自分。
それを言葉にするところをAIに手伝ってもらう。今の私にとって、AIはそんな存在になっています。
そして文章になったものを読み返すと、
「ああ、自分はこんなことを感じていたんだ」
と、自分自身に気づかされることがあります。
言葉は、誰かに伝えるためだけのものではない。
自分の心の中を見るための鏡でもある。
最近、そんなことを感じています。
映画にも、人生にも続編がある
今回の
『あの星が降る丘で、君とまた出会いたい。』
は、3年前に観た物語の続編でした。でも考えてみれば、この3年間、私自身の人生にも当然「続き」がありました。
本を読んだ。
写真を撮った。
旅をした。
人と出会った。
いろいろなことを考えた。そして少しずつ、自分の中にあるものを言葉にするようになりました。
だから今回、物語の続きを観ながら、3年前とは違うものが見えたのかもしれません。
映画が変わっただけではない。
観ている私自身も、3年前と同じではない。
同じ人間でも、時間が変われば映画の見え方も変わる。
本もそうです。
写真もそうです。
そして人生そのものも、きっとそうなのでしょう。
3年前の涙を、今なら言葉にできる
2023年の私は、
「感動です!今年見た映画のベスト3に入ります^_^」
と書きました。
それで十分だったとも思います。
その時の私が残せた、精いっぱいの言葉です。
そして3年後。
『あの星が降る丘で、君とまた出会いたい。』を観た私は、こんなにも長い文章を書いている(笑)。
どちらが正しいということではありません。
むしろ、3年前の短い投稿が残っていたからこそ、今の自分との違いに気づくことができました。
昔撮った写真を何年か後に見返すと、撮った当時には気づかなかったものが見えてくることがあります。
言葉も同じなのかもしれません。
あの時には書けなかったことが、時間を経て、ようやく言葉になる。
だから、今感じたことを残しておくことには意味がある。
うまく書けなくてもいい。
短くてもいい。
その時の自分の言葉を残しておけば、何年か後の自分が、その続きを書いてくれるかもしれない。
映画には続編がある。
そして、私たちの人生にも毎日続編がある。3年前に出会った『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』。
そして今回出会った『あの星が降る丘で、君とまた出会いたい。』。
物語の続きを観ながら、私は思いがけず、3年前の自分にも再会しました。
そして、あの時の涙の意味を、今になって少しだけ言葉にできたような気がします。
素直に泣ける映画って、やっぱりいいですね。
そして心が動いたことを、こうして言葉に残すことも、やっぱり面白い。
3年前の感動を上回る、本当にいい映画でした💓
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なぜ生命は、不老不死をやめたのか | 2026.08.20

『植物に死はあるのか 生命の不思議をめぐる一週間』稲垣栄洋 著を読んで
稲垣栄洋さんの本を、また読みました。
以前、『雑草はなぜそこに生えているのか』を読んだとき、普段何気なく見ていた雑草の見え方がすっかり変わりました。
今回の『植物に死はあるのか』も同じでした。
植物についての本を読んでいたはずなのに、いつの間にか、
生きるとは何だろう。
死ぬとは何だろう。
そして「私」とはいったい何なのだろう。そんなところまで考えさせられました。
植物は、なぜ動かないのか
植物が動かない理由。
簡単に言えば、植物は光合成をするからです。
太陽の光を使い、水と二酸化炭素から、自らエネルギー源となる糖を作り出す。
学校で何度も習った光合成です。
でも私は、この本を読んで初めて、
「だから植物は動かなくてもいいのか」
と実感しました。
動物は、自分でエネルギー源を作れません。
草食動物は植物を探し、肉食動物は草食動物を追いかける。
だから動き回らなければならない。
植物は「独立栄養生物」、動物は「従属栄養生物」と呼ばれます。
言葉だけなら昔習ったはずです。
しかし、その意味を考えると驚きます。
動物の世界を支えている根本には、植物が作り出したエネルギーがある。
人間が生態系の頂点にいるような気になっていますが、考え方によっては、植物こそ生命を支える土台なのです。
葉っぱ一枚に、人間の科学はかなわない
私は葉っぱを使った切り絵をすることがあります。
形や葉脈を眺めながら、
「葉っぱはきれいだな」
とはいつも思っていました。
しかし、この本を読んでからは、葉っぱを見る目が変わりました。
この薄い一枚の葉っぱの中で、
太陽の光を受け取り、
水と二酸化炭素を使い、
生命を支えるエネルギーを作っている。しかも副産物として酸素まで生み出している。
人間は高度な科学技術を持っています。
AIも宇宙開発も進んでいます。
それでも植物が当たり前のようにやっている光合成を、そのまま完全に再現することは簡単ではありません。
そう思うと、
私が切り絵に使っている葉っぱ一枚一枚が、とんでもなく高度な生命装置に見えてきました。
そして、さらに驚くことがあります。
落葉樹は、これほど素晴らしい機能を持った葉っぱを、秋になると惜しげもなく落としてしまう。
一年かけて作り、太陽の光を受け、生命を支えてきた葉を、季節が来れば捨てる。
また翌年、新しい葉を作ればいい。
そこには人間にはなかなかできないような、
植物の潔さ
を感じます。
人間は長く使ったもの、築いたもの、覚えたものをなかなか手放せません。
植物は違う。
必要な時には生み出し、役割が終われば手放す。
そしてまた新しく始める。
葉っぱの切り絵をしながら、これから私は形の美しさだけでなく、
「この葉は一年を生き、そして役目を終えてここにある」
ということまで想像するようになると思います。
酸素は、もともと危険な存在だった
もう一つ驚いたのが酸素です。
私たちにとって酸素は、生きるために欠かせないものです。
しかし酸素には強い酸化作用があります。
鉄を錆びさせるのも酸素です。
地球に酸素が増えていった時代、それは多くの生物にとって大きな環境変化だったと考えられています。
ところが生命は、その危険な酸素さえ利用するようになりました。
酸素を使って大量のエネルギーを得る仕組みを取り込んだ。
それが現在、動物や植物の細胞の中で働いているミトコンドリアへとつながっていると考えられています。
さらに植物の祖先は、光合成を行う生物との共生によって葉緑体を手に入れた。
生命の進化は、戦って相手を倒すことだけではない。
異なるものと共生し、取り込み、一緒に生きることも進化だった。
ここにも、生命の面白さを感じました。
植物は「逆立ちした人間」
本の中で特に面白かったのが、
「植物は逆立ちした人間である」
という考え方です。
人間は口から栄養を取り、生殖器官は下半身にあります。
植物は地下の根から水や養分を取り、生殖器官である花を地上の一番目立つところに咲かせます。
しかも、とびきり美しく飾る。
考えてみれば、人間とはまったく逆です。
私たちは植物を見て、
「なぜ動かないのだろう」
と思います。
しかし植物から見れば、
「どうして人間は、あんなに動き回らなければ生きられないのだろう」
と思うかもしれません。
鳥なら、
「なぜ人間は飛べないのか」。
ミツバチなら、
「なぜ人間には紫外線が見えないのか」。
人間はどうしても、自分たちを基準に自然界を見ています。
でも本当は、人間の生き方も数ある生命の形の一つに過ぎません。
大きくなることだけが進化ではない
私たちは進化というと、
より大きく、
より複雑に、
より高度になること、と考えがちです。
しかし、それだけが進化ではありません。
木から草へという進化もある。
木は何年もかけて大きく育ちます。
一方、草は短期間で成長し、花を咲かせ、種を残し、次の世代に生命を渡します。
何千年も生きることだけが成功ではない。
一年で次の世代へ渡すことも、環境変化に対応する立派な戦略です。
長く生きるより、生命をつなぐ。
植物は、そういう進化も選んできました。
ソメイヨシノを見る目も変わった
私は毎年春になると、桜を撮りに出かけます。
そのためソメイヨシノの話は、とても興味深く読みました。
ソメイヨシノは、接ぎ木などによって増やされてきました。
つまり多くの木が、ほぼ同じ遺伝的性質を持つクローンです。
だから気温などの条件が整うと、同じような時期に一斉に花を咲かせる。
私たちが毎年楽しみにしている桜前線も、こうした性質と深く関係しています。
同じ桜を何十年も撮ってきましたが、来年からはまた違った目で見ることになりそうです。
種を作るのは、違うものを生み出すため
植物はクローンでも増えることができます。
それなら全部クローンで増えれば効率がいいようにも思えます。
しかし同じ性質のものばかりでは、同じ病気や同じ環境変化に一斉に弱くなる危険があります。
種子から生まれる子どもは、親とまったく同じではありません。
一つ一つ少しずつ違う。
その違いが、環境変化を乗り越える力になる。
つまり生命にとって、
「違う」ということ自体が保険になっている。
これは人間社会にも少し通じる話のように感じました。
みんな同じであることが強いのではない。
違うものがいるからこそ、何かが起きた時に生き延びる可能性が残る。
木の中には、生と死が同居している
巨木の話も印象的でした。
大きな木の幹は、そのすべてが生きているわけではありません。
幹の内部には生命活動を終えた細胞があり、それが構造として木を支えています。
だから大木の真ん中に大きな空洞ができても、外側の生きた組織が機能していれば生き続けることができる。
一本の木の中に、
生きている部分と、死んでいる部分が同時にある。
考えてみれば、人間も同じです。
爪や髪、皮膚の表面など、私たちの体にも死んだ細胞があります。
私たちは「生」と「死」を真逆のものとして考えがちです。
しかし生命というものは、生と死が混ざり合いながら成り立っている。
生きているということの中に、すでに死が組み込まれているのです。
私とは、いったい何なのだろう
私たちの体の細胞は、日々壊され、新しく作られています。
それでも私は、昨日の自分と今日の自分を同じ「私」だと思っています。
子どものころの記憶もあります。
何十年前の経験も残っています。
それでは、
私とは何なのだろう。
体なのか。
脳なのか。
記憶なのか。
それとも、何か受け継がれている情報なのか。
植物の話を読んでいたはずなのに、いつの間にか哲学の世界に入り込んでいました。
がん細胞は「死なない細胞」
この本で、もう一つ考えさせられたのが、がん細胞の話です。
多細胞生物では、全体の秩序を保つため、役割を終えた細胞が死ぬ仕組みがあります。
ところが、そのルールから外れて増殖を続ける細胞がある。
その一つが、がん細胞です。
つまり、
死なないことが、必ずしも生命にとって良いことではない。
ここで私は、不老不死という言葉を別の角度から考えるようになりました。
私たちは死なないことを夢見ます。
しかし生命は、進化の中で逆に「死ぬ」という仕組みを手に入れた。
なぜ生命は、不老不死をやめたのか
単細胞生物の世界では、分裂することで生命が続いていきます。
しかし多細胞生物になると、古い細胞を壊し、新しい細胞に置き換える仕組みが必要になりました。
いわば、
スクラップ・アンド・ビルドです。
さらに個体も、いつまでも生き続けるのではなく、次の世代へ生命を渡して身を引く。
生命は永遠であり続けるために、
個体には限りある命を持たせた。
これは、とても不思議な逆説です。
永遠に続きたいからこそ、一つ一つは死ぬ。
考えれば考えるほど、深い話です。
植物は、死ぬことに執着していない
植物を見ていると、
生きることと死ぬことの境目が、人間ほどはっきりしていないようにも感じます。
種で増える。
枝から増える。
地下茎でつながる。
一つの植物のように見えて、地下ではつながっていることもあります。
いったいどこまでが一つの命なのか。
人間の感覚では簡単に答えられません。
葉っぱもそうです。
春に出て、夏に光合成をし、秋になれば落ちていく。
植物はそれを悲しんではいない。
また次の春に作ればいい。
そう考えると、
生きることにしがみつかない植物の潔さ
を感じます。
最後は、宇宙までつながった
この本は最後に、生命から宇宙へと話が広がっていきます。
私たちの体を作っている炭素や酸素などの元素も、遠い昔の星の活動の中で生み出されました。
星も生まれ、そして死ぬ。
その星の死から生まれた物質で、植物も人間もできている。
そう考えれば、
生まれることも、死ぬことも、
もっと大きな循環の一部なのかもしれません。
私たちは、
「なぜ生きるのか」
「なぜ死ぬのか」
と意味を求めます。
しかし宇宙から見れば、それさえ小さな問いなのかもしれない。
それでも私は思います。
限りがあるからこそ、生命は美しい。
葉っぱを見る目が変わった
この本を読み終えて、一番身近な変化は、葉っぱを見る目が変わったことです。
これまで私は葉っぱを、
形、色、葉脈、光の透け方、
そんな美しさで見ていました。
そして切り絵の材料としても使っています。
しかしこれからは、その一枚の中にある生命の機能まで想像すると思います。
太陽の光を受け、
生命を作り、
酸素を生み出し、
一年働いたあと、
惜しげもなく自ら落ちていく。
そしてまた新しい葉を作る。
捨てることは、終わりではない。
次を始めるための準備でもある。植物を知れば知るほど、人間が自然界の頂点にいるなどという考えが、ずいぶん思い上がったものに感じられてきます。
植物も、動物も、昆虫も、微生物も、
今ここに生きているものは、長い生命の歴史を生き抜いてきた存在です。
優劣など簡単につけられるものではありません。
稲垣栄洋さんの本を読むと、いつも身近な植物の向こう側に、とてつもなく大きな世界が見えてきます。
今回は、一枚の葉っぱから始まり、
生命、生と死、そして宇宙まで行ってしまいました。
本当に深い学びのある一冊でした。
また稲垣さんの本を読みたいと思います。
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脳は「正しさ」より「生き残ること」を選ぶ | 2026.08.18

『本当の教科書 脳科学/脳科学が教える日本社会で賢く生き残る方法』中野信子・ひろゆき 共著を読んで
中野信子さんとひろゆきさんの対談形式で進む本書。
二人の考え方や物事を見る角度は、かなり違う。
ところが、意見を激しくぶつけ合うという感じではない。
それぞれが自分の立場から本音で話し、相手の話を受けながら、さらに違う角度から話を広げていく。
「そこまで言うのか」と思うような辛辣な話も出てくるのだけれど、互いを否定し合うような雰囲気ではない。
むしろ、同じ人間や社会を、違う窓から眺めている。
その会話がとても面白かった。
そして読みながら何度も、
「人間というのは、自分で思っているほど理性的ではないのだな」
と考えさせられた。
人は、やはり「見た目」に左右される
最初からかなり刺激的な話が出てくる。
人が他人を評価するとき、見た目の影響はどうしても避けられないという話だ。
「性格が良さそう」
「信頼できそう」
と思うときも、性格検査をして判断しているわけではない。
顔、表情、声、話し方、雰囲気、愛嬌。
私たちは、そうした限られた情報から瞬間的に相手を判断している。
面白かったのは、美の基準そのものも決して絶対ではないという話だった。
時代によって魅力的だと思われる顔は変わる。
人間には新しいものを求める「新規性」と、見慣れたものに安心する「親近性」があり、その二つのバランスが、その時代の魅力を作っているのではないかという。
つまり、人間は見た目に左右される。
しかし、その見た目を判断している基準さえ、時代とともに変わっていく。
考えてみれば、人間の評価というのは、かなり曖昧なものなのだ。
そして、単に容姿が整っている人よりも、愛嬌のある人の方が好かれることがあるという話にも納得した。
年齢を重ねるほど、顔そのものより、そこに表れる表情の方が大切になるような気がする。
脳に「努力」と思わせない
私が特に面白かったのは、
自分が何なら自然に頑張れるのかを知る
という話だった。
根性で続けるのではなく、自分が動きやすい環境を作る。
ひろゆきさんは、待ち合わせ場所を書店にすることがあるという。
これは私も昔からよくやってきた。
駅前で待っているだけなら、相手が遅れると少しイライラする。
ところが本屋なら違う。
早く着いても本を見ていればいい。
待たされても苦にならない。
気になる本に出会えば、むしろ時間が足りなくなるくらいだ。
私は本屋での待ち合わせが大好きだ。
これも考えてみれば、
自分の性質を変えるのではなく、自分の性質に合う環境を選んでいる
ということなのだろう。
「自分はこういう人間だから、こうすればできる」
それを知っていることは、意志の強さ以上に大切なのかもしれない。
年を取って、自分のダメさが見えてくる
人間は自分を過大評価しやすいという話も印象に残った。
自分は意思が強い。
自分は頭がいい。
自分は人よりできる。
ところが現実の自分は、それほどでもない。
ひろゆきさんも、自分のダメさ加減が分かるようになったのは年を取ってからだというような話をしている。
これは私もよく分かる。
私も年齢を重ねてからの方が、
「自分はたいした人間ではないな」
「こんなことも分かっていなかったのか」
と思うことが増えた。
若い頃は、できないことがあると、それを克服することばかり考えていたような気がする。
しかし今は、
苦手なことは苦手でいい。
そう思えるようになってきた。
無理に苦手分野で勝負しても、その分野が得意な人の真似にしかならない。
だったら、自分が自然にできること、自分だから続けられることを大切にした方がいい。
AI時代、「頭がいい」とは何だろう
本書には、AI時代についての話も出てくる。
機械が肉体労働を代替し、今度はAIが知的作業まで担い始めた。
こうなると、
知識が多い。
計算が速い。
文章を速く作れる。
そうした能力だけで人間同士を比較する意味は、これから少しずつ変わっていくのだろう。
私は最近、AIを使えば使うほど、
AIと能力勝負をする必要はない
と思うようになっている。
AIが出した答えを、そのまま受け取るのではなく、
「何か違う」
と感じられるか。
自分の経験と照らして考えられるか。
相手が何を感じているかを想像できるか。
そして最後に、自分で決められるか。
そういった力の方が重要になるのではないか。
本書にも、テストの点がいいだけではなく、相手の気持ちを察することのできる人こそ頭がいいのではないか、という話が出てくる。
これから「頭がいい」という言葉の意味自体が変わっていくのかもしれない。
年を取ったら「覚える」より「忘れる」
今回、私が最も心に残ったところの一つが、
忘れる力
についてだった。
私たちは子どもの頃から、
「よく覚えている人は頭がいい」
と思ってきた。
ところが、人間関係では記憶が良すぎることが邪魔になる場合もある。
「あの人は昔、こんなことを言った」
「あのとき、こんなことをされた」
それを何十年も全部覚えていたら、人間関係はどんどん苦しくなる。
人間は長く付き合えば、誰でも相手の嫌なところを見る。
夫婦など、その典型かもしれない。
そこで必要なのが、
水に流すこと。
忘れること。
そして更新すること。
若い頃は「いかに覚えるか」が大切だった。
しかし年を取ったら、
いかに忘れるか
という能力も必要になるのではないだろうか。
これは過去の成功体験についても同じだと思う。
「あの時はこれでうまくいった」
「あのやり方が正しい」
それを忘れられないと、新しいものを受け入れられなくなる。
老いるということは、単に物忘れが増えることではない。
過去の自分を忘れられなくなることの方が怖い。
そんなことまで考えた。
共感することと、理解することは違う
意外だったのは、カウンセラーなど人と接する仕事では、必ずしも共感性が高い人だけが向いているわけではないという話だった。
共感しすぎれば、相手の感情を自分まで背負ってしまう。
大切なのは、相手とまったく同じ感情になることより、
「この人はいま、なぜこう思っているのか」を理解すること
なのかもしれない。
これは仕事だけではなく、日常の人間関係でも同じだろう。
私はあなたと同じ気持ちにはなれない。
けれど、あなたがなぜそう感じているかを考えることはできる。
共感と理解は、似ているようで違う。
この違いは大切だと思った。
人間は、幸せになるために進化したわけではない
さらに面白かったのが、
人間は幸せになるために進化してきたわけではない
という考え方だった。
不安があるから危険に備える。
恐怖があるから逃げる。
不満があるから、もっと良い環境を求める。
生存という観点から見れば、何の不安もなく、いつも満足している生き物が有利だったとは限らない。
だから人間が、
「もっと欲しい」
「まだ足りない」
「この先が心配だ」
と考えてしまうのは、ある意味では自然なのかもしれない。
私はこの話にはかなり納得した。
幸せを求めること自体が悪いわけではない。
ただ、ずっと幸せでいなければならないと思ってしまうことの方が、人間を苦しくするのではないだろうか。
SNSも、何を見るかで変わる
SNSについても、他人の華やかな部分を見すぎることで、自分を不幸だと感じてしまうという話が出てくる。
これはよく言われることだ。
ただ、私はSNSを少し違う使い方で見ている。
私にとってSNSは、
誰かと自分を比較して勝った負けたと考える場所ではない。
写真を通して自分が何を感じたのか。
本を読んで何を考えたのか。
自分の中にあるものを、どう表現するのか。
そういうことを考える場所になっている。
同じSNSでも、
何を見るか、誰を見るか、どう使うかによって、まったく違う道具になる。
情報に振り回されるのではなく、自分に入れる情報をある程度選ぶ。
これも現代社会で賢く生きる一つの方法なのだと思う。
「変わらないこと」は本当に正しいのか
最後に考えさせられたのが、一貫性についてだった。
私たちは、
「あの人は昔から言っていることが変わらない」
という言葉を褒め言葉として使うことが多い。
確かに信念は大切だ。
誠実であることも大切だ。
しかし環境も社会も変わっているのに、
自分だけが何十年前とまったく同じ考え方でいることは、本当に正しいのだろうか。
新しいことを知ったなら、考えを変えてもいい。
間違っていたと思えば、方向を変えてもいい。
昨日言ったことと今日言っていることが違っても、
そこに新しい経験や学びがあるのなら、それは必ずしも悪いことではない。
むしろ、
変われることも、生き残る力なのだ。
「正しく生きる」より「生き延びる」
この本には、
「それは少し極端ではないか」
「本当にそうなのだろうか」
と思う話もいくつもあった。
けれど、それが面白かった。
中野信子さんとひろゆきさんが、それぞれ違った視点から率直に語っている。
片方が正解で、片方が間違いという対談ではない。
一つの話題を別々の方向から眺めているから、
読んでいるこちらも、
「では、自分はどう考えるのだろう」
と立ち止まることになる。
結局、賢く生きるということは、
何でも知っていることでも、
いつも正しいことを言うことでもないのかもしれない。
自分の弱さを知る。
自分の性質を知る。
時には忘れる。
新しいものに合わせて更新する。
周囲の人や環境とうまく付き合う。
そして、ときには自分が信じてきた「正しさ」さえ疑ってみる。
考えてみれば、人間の脳は何万年もの間、
「正しく生きるため」ではなく、「何とか生き残るため」に変化してきた。
そう考えると、
正しさだけに縛られず、
もっと柔らかく、
時にはしなやかに考えを変えながら生きていく。
それも一つの知性なのかもしれない。
そんなことを考えさせられた、
本音の多い、なかなか面白い一冊だった。
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人類は、たまたま今ここにいるだけ | 2026.08.12

斎藤成也さんの『人類はできそこないである 失敗の進化史』を読んだ。
まず、このタイトルに惹かれた。
「人類は700万年かけて、できそこないになった」
人類は進化して、だんだん優秀になり、現在の私たちになった。
そんなふうに、どこかで思い込んでいた私には、かなり刺激的な言葉だった。
でも読み進めるうちに、この「できそこない」という表現が、だんだん違って見えてきた。
進化とは、進歩ではなかった
私たちは「進化」という言葉を聞くと、
より強くなる。
より賢くなる。
より優れた存在になる。そんな上向きの変化をイメージしやすい。
しかし本書では、そうではないという。
退化も進化の一つ。
大きくなることも、小さくなることもある。
複雑になることもあれば、単純になることもある。
つまり、
進化とは、優秀になることではなく、ただ変化すること。
ここがこの本を読む上で、一番大事な入口だったように思う。
「強い者が勝つ」だけではない
ダーウィンの自然淘汰説というと、環境に適したものが生き残り、適さないものが淘汰される、というイメージがある。
しかし本書では、中立進化という考え方も紹介されている。
生存に有利でも不利でもない遺伝子の変化が、偶然広まることがある。
つまり、
「優れていたから残った」とは限らない。
たまたま残った。
たまたま子孫に伝わった。
その積み重ねも進化なのだという。
この「たまたま」という言葉が、私はずっと頭に残った。
耳垢にまで残る「偶然」
本書に出てきた耳垢の話も面白かった。
日本人には乾いた耳垢が多く、ヨーロッパやアフリカでは湿った耳垢が多い。
耳垢が乾いているか湿っているかで、生存にものすごく有利、不利があるとは考えにくい。
それでも地域によって違いが残っている。
こんな身近なことにも、
人類の歴史の偶然が残っている。
そう思うと、進化というものが急に身近に感じられた。
人類は「勝者」ではなく「負け犬」だった?
著者の考え方で特に面白かったのが、
「人類は負け犬だったのではないか」
という見方だ。
人類の祖先は勇敢に森を出て、サバンナへ進出した。
そう語ると格好いい。
けれど、住み慣れた森で十分暮らせるなら、わざわざ危険な場所へ移動する必要はない。
環境の変化や他の集団との競争によって、森にいられなくなり、仕方なく外へ出た。
だからこそ、新しい環境に適応する必要が生まれたのかもしれない。
もしそうなら、
勝ったから進化したのではなく、負けたから変わらざるを得なかった。
この見方はとても面白い。
必要に迫られたから、工夫した
人間は新しいことに挑戦する生物だと言われる。
でも実際には、今の場所で困らず暮らせるなら、わざわざ危険を冒さない。
食べ物がなくなった。
環境が変わった。
居場所を失った。
だから移動する。
だから道具を作る。
だから火を使う。
「必要は発明の母」という言葉があるが、人類の進化そのものも、必要に迫られた結果だったのかもしれない。
二足歩行は、本当に「進歩」だったのか
人類の大きな特徴は直立二足歩行である。
両手が自由になり、道具を使えるようになった。
これは確かに大きな利点だった。
しかし同時に、失ったものもある。
四足歩行より不安定になった。
腰に負担がかかる。
血液を重力に逆らって脳まで送り続けなければならない。
痔や腰痛など、二足歩行と関係する身体的負担も増えた。
つまり、
進化によって何かを得れば、何かを失う。
万能になるわけではない。
ここにも「できそこない」の姿がある。
ビタミンCさえ、自分では作れない
驚いたのが、ビタミンCの話だった。
多くの動物は、体内でビタミンCを作ることができる。
ところが人間や一部の霊長類は、それができない。
祖先のどこかで、ビタミンCを作るための遺伝子の機能を失ってしまったからだという。
普通なら、
「そんな大切な能力を失ったら生き残れないのではないか」
と思う。
でも、食べ物から取れれば生きていける。
だから、そのまま残った。
できないことがあっても、生き残れる。
これもまた進化なのだ。
脳が大きいことが正解とは限らない
フローレス原人の話も興味深かった。
体が小さく、脳も現代人よりかなり小さい。
それでも石器を使い、火を利用していたと考えられている。
一方、ネアンデルタール人は大きな脳を持ち、石器や火を使い、埋葬までしていたとされる。
それでも独立した人類集団としては消えていった。
脳が大きいから生き残る。
知能が高いから勝つ。
そんな単純な話ではない。
ホヤを見ると、脳さえ絶対ではない
以前から面白いと思っていた生物にホヤがある。
ホヤは貝のように見えるが、脊椎動物に近い系統の生物である。
幼生のときには泳ぎ回り、神経系を持つ。
しかし定着して生活するようになると、体の構造が大きく変化する。
俗に「自分の脳を食べてしまう」と言われるほど、神経系も大きく再編される。
動かなくてもよくなれば、動くための機能は必要なくなる。
そう考えると、
脳が大きくなることさえ、進化のゴールではない。
必要なら残り、必要がなければ失われる。
進化とは本当に淡々としている。
人類は連戦連勝でここまで来たのではない
ネアンデルタール人の遺伝子の一部は、今の人類にも残っている。
人類は出会い、争い、混ざり、移動しながら現在まで来た。
アフリカを出た人々も、
「未知の世界を見たい」
という冒険心だけで移動したのではなく、環境の変化や食料不足に押し出された可能性がある。
つまり人類は、
負け、
逃げ、
混ざり、
失い、
偶然を重ねながら、ここまで来た。
そう考えると、
私たちは勝者の子孫というより、生き残った者の子孫なのだ。
日本人も「負けた人々」の子孫かもしれない
日本列島にも、長い時間をかけてさまざまな人々が渡ってきた。
縄文人が暮らし、その後、大陸側から別の集団がやってきて混ざり合っていった。
著者は、ある意味では、
「別の土地で居場所を失った人々が、日本列島へ移動してきたのではないか」
という見方をしている。
それが正しいかどうかは今後の研究もあるだろう。
でも私は、
人類の歴史とは、移動と混合の歴史なのだ
ということを改めて感じた。
純粋な人類などいない。
みんな混ざり合いながら今に続いている。
それでも人類は、自分を「特別」だと思ってしまう
ここまで読むと、一つの疑問が出てくる。
なぜ人間は、
「人類は最も優れた生物だ」
と思いたがるのだろう。
知能が高い。
文明を作った。
科学を発展させた。
宇宙へ行った。
確かにすごい。
しかし同じ人類が、戦争をする。
人を傷つける。
民族や宗教や国家の違いで殺し合う。
自然環境を破壊する。
これほど賢くなったのに、
自分たちを滅ぼしかねない行為までしている。
そう考えれば、人類を「進化の完成形」と考える方が不自然なのかもしれない。
「進化の頂点」という考えこそ危ない
この本を読んで、私が一番怖いと思ったのは、
人類が自分たちを過大評価することだった。
「人間は賢い」
「人間は進化している」
「人類はこれからも発展していく」
そう思い込んでいると、本当に危ない。
進化には、人類を残さなければならないという目的などない。
環境が変われば、その環境に適した生物が繁栄する。
人類が適応できなければ、別の生物が繁栄するだけだ。
地球から見れば、
人間がいることに特別な意味などないのかもしれない。
そして、生成AIの時代
ここまで考えると、私はどうしてもChatGPTのような生成AIのことを思う。
もちろんAIは生物ではない。
だから「AIが新しい生物として人類を淘汰する」と単純に言うことはできない。
でも、
文章を書く。
画像を作る。
情報を整理する。
考えることを補助する。
人間だけができると思っていた領域に、AIはどんどん入ってきている。
そこで怖いのはAIそのものではなく、
「人間はAIより優れているから大丈夫だ」
という、人間の傲慢さではないだろうか。
人類が、人類を不要にする世界を作るかもしれない
人間がAIをどう使うのか。
自然とどう付き合うのか。
戦争を続けるのか。
環境を壊し続けるのか。
もし判断を誤り続ければ、
AIに直接淘汰される前に、
人類自身が、人類の住めない世界を作ってしまう。
そんな可能性だってある。
長い地球の歴史から見れば、将来、別の生物が繁栄することも十分あり得る。
もっと長い時間を考えれば、今の私たちには想像もできない新しい生命の形が現れることだってあるかもしれない。
人類だけが未来永劫、地球の主役である保証はどこにもない。
できそこないだと知ることから始まる
だから私は、この本の「できそこない」という言葉を、否定的には受け取らなかった。
むしろ、
人類が自分たちを「できそこない」だと認めることこそ、大切なのではないか。
間違える。
争う。
失敗する。
思い込みもある。
完璧ではない。
それを知っていれば、修正することができる。
AIからも学べる。
自然からも学べる。
他の生物からも学べる。
違う考えを持つ人からも学べる。
人類は、たまたま今ここにいるだけ
人類は700万年間、勝ち続けたから現在まで残ったわけではない。
負け、
逃げ、
失い、
混ざり、
偶然に助けられながら、たまたま今ここにいる。
この本を読んで、私は人類を見る目が少し変わった。
私たちは進化の頂点ではない。
完成品でもない。
そして、これからも生き残ることが約束されているわけでもない。
だからこそ、
「人類は素晴らしい」と思う前に、「人類はできそこないかもしれない」と考えてみる。
そのくらいの謙虚さが、今の時代には必要なのではないかと思う。
『人類はできそこないである』。
読み始めたときには、刺激的なタイトルだと思った。
けれど読み終えた今は、この言葉が人類への警告のようにも、希望のようにも感じられる。
できそこないだから、まだ変われる。
そして、
人類は、たまたま今ここにいるだけなのだ。
-
旅先に、古い自分を置いてくる | 2026.08.10

『こうして無意識は現実になる』タッカー著を読んで
「無意識」というものについて、私はこれまでにもいろいろな本を読んできた。
けれど、読めば読むほど、
無意識とは結局、何なのだろう。
そんな疑問が残る。
自分では意識していないものを、自分で理解しようとしているのだから、そもそも簡単にわかるはずもない。
だから今回も、「もう少しわかるかもしれない」と思いながら、この本を手に取った。
私たちは、世界のすべてを見ているわけではない
本書でまず印象に残ったのは、人は目の前の現実を、そのまま見ているわけではないという話だった。
同じ出来事を見ても、
ある人は希望を感じ、
ある人は不安を感じる。同じ言葉を聞いても、
ある人は励まされたと思い、
別の人は傷ついたと感じる。出来事そのものよりも、自分の中にあるフィルターを通して世界を見ているということだ。
過去の経験、親から言われた言葉、成功や失敗、人間関係、文化、価値観。
そうしたものが積み重なって、自分でも気づかないうちに「見るべきもの」を選んでいる。
そして、その見方から感情が生まれ、感情から行動が生まれ、その行動の積み重ねが現実になる。
さらに、その現実を見て、
「やっぱり自分はこういう人間なんだ」
と思えば、その認識がまた無意識を強くしていく。
本書では、こうした循環を「現実創造ループ」として説明している。
なるほどと思った。
現実を変えたいと思ったとき、私たちはつい外側を変えようとする。
しかし、その前に、
「なぜ私は、この現実をこう見ているのだろう」
と考える必要があるのかもしれない。
感情は、無意識から届く知らせかもしれない
怒ったとき。
不安になったとき。
妙に誰かの言葉が引っかかったとき。私はこれまで、その感情そのものを問題だと思うこともあった。
しかし本書を読むと、感情はむしろ、自分でも見えていない無意識を教えてくれるサインなのだと思えてくる。
なぜ私は腹を立てたのか。
なぜ、この言葉だけが気になったのか。
本当は何を恐れているのか。
そこを少し掘り下げてみると、
「こうあるべきだ」
「失敗してはいけない」
「人からこう見られたい」という、自分でも気づかなかった思い込みが出てくることがある。
問題は、そうした価値観を持つことではない。
昔は必要だった価値観を、今も握りしめ続けていることなのかもしれない。
無意識を変える前に、まず無意識に気づく。
この順番が大切なのだと思った。
親や文化から受け取ったものも、自分の中にある
本書には、幼少期の親の言葉や態度が情動記憶として残り、その後の自己認識や人間関係にも影響するという話が出てくる。
考えてみれば、私たちは自分一人だけで「自分」をつくってきたわけではない。
家庭、学校、地域、社会、そして時代。
そこから知らないうちにたくさんの価値観を受け取っている。
文化によっても無意識は違う。
日本では相手の話を聞きながら頷くことが多いが、それが必ずしも「同意」を意味するわけではない。
ヒーロー像一つをとっても、日本では仲間との連帯が強く描かれ、アメリカでは一人で正義を貫く存在として描かれることが多いという。
どちらが正しいという話ではない。
無意識というものは、個人の経験だけではなく、その人が生きてきた文化や時代とも深く結びついている。
グローバルな時代になれば、この違いを知ることはますます大切になるのだろう。
「こうなりたい人」が、私はあまり思い浮かばない
本の中に、
「こういう人になりたいと思う人は誰ですか」
という問いがあった。
考えてみたけれど、私はあまり思い浮かばなかった。
もちろん、素晴らしいと思う人はたくさんいる。
この人の、この考え方はいい。
この生き方には共感する。しかし、人間は誰でも完璧ではない。
一人の人間を丸ごと理想にするよりも、
いろいろな人のいいところを、その都度自分の中に取り入れていけばいい。
私はそんなふうに考えているようだ。
そして、「これだけは絶対に変えない」と決めすぎることにも、少し警戒している。
信念は大切だ。
しかし、強く握りしめすぎれば、それがいつの間にか自分を縛る殻になることもある。
時代も変わる。
環境も変わる。
自分自身も変わる。だから私は、できるだけ柔らかくいたい。
旅先に、古い自分を置いてくる
この本の中で、とても好きな表現があった。
旅行が好きな人なら、
「旅先に古い自分を置いてくる」
という感覚で過ごしてみるのもいいという。
これは面白いと思った。
私は写真を撮るためによく旅に出る。
旅に出れば景色が変わる。
出会う人が変わる。
いつもの生活の時間から少し離れる。そんな場所で、
「この悩みは、本当に持ち帰る必要があるのだろうか」
と考えてみる。
古いこだわり。
誰かに言われた一言。
もう終わった出来事。
自分で勝手につくった不安。全部を持って帰る必要はない。
旅には、新しい景色を見るだけではなく、
古くなった自分を少し置いてくる役割もあるのかもしれない。
次の撮影旅行では、本当に一つくらい置いて帰ってこようと思う。
noteに書くことも、無意識に気づく時間
本書では、思考や感情を書き出す「ジャーナリング」についても触れている。
書くことで、自分の中にあるモヤモヤが言葉になる。
「自分はこんなことを考えていたのか」
と、初めて気づくこともある。
考えてみれば、私がこうして本を読み、心に残ったことや、その時に感じたことをnoteに書き留めていることも、同じなのかもしれない。
本について書いているつもりで、
実はずっと、
自分について書いている。
どの言葉が心に残ったのか。
どこに引っかかったのか。
何に反発したのか。
どこに共感したのか。そこに、その時の自分が表れてくる。
だから、本の感想をnoteに書き留めることは、本の内容を記録するためだけではない。
自分でも気づいていなかった自分を見つける作業でもあるのだと思う。
これからも私は、本を読んで感じたことをnoteに書き留めていきたい。
あとから読み返したとき、そこには本の記録だけではなく、その時々の自分の無意識の一部まで残っているのかもしれない。
「足りない」より「すでにあるもの」へ
もう一つ心に残ったのが、
「欠乏ではなく、充足に目を向ける」
という考え方だった。
私たちはどうしても、
まだできていない。
まだ足りない。
あの人は持っている。という方向へ目を向けてしまう。
特にSNSで多くの人の生活が見える時代では、比較しようと思えば際限なく比較できる。
人と比べれば、どれほど恵まれていても「自分にはないもの」が必ず見つかる。
しかし、自分がすでに持っているもの、できていること、恵まれていることに目を向ければ、世界の見え方は変わってくる。
現実そのものが突然変わるわけではない。
でも、
どの現実を見るかが変わる。
そして、見えるものが変われば、感情も行動も変わっていく。
これもまた、無意識が現実につながっていくということなのだろう。
手放すと、心に余白ができる
この本を通して、何度も出てきたのが「手放す」という考え方だった。
必要のなくなった思い込み。
古いセルフイメージ。
過去へのこだわり。
「こうでなければならない」という考え。それを手放す。
言葉にすれば簡単だが、実際には難しい。
物がいっぱい詰まった部屋では、新しいものを置く場所がない。
心も同じなのかもしれない。
頭の中に古い考えや心配事がいっぱい詰まっていれば、新しい考えが入ってくる余白がなくなる。
一つ手放せば、一つ余白ができる。
その余白から、
「こんなことをやってみようかな」
という気持ちが生まれる。
手放すことは、失うことではなく、新しいものが入ってくる場所をつくることなのだ。
この考えは、とても印象に残った。
いくつになっても、古い殻は脱げる
この本を読み終えても、「無意識とは何か」を完全に理解したとは言えない。
たぶん、これからも別の本を読むだろう。
それでいいと思っている。
今回、一つだけ以前よりはっきりしたことがある。
無意識を書き換えようと力む前に、
まず、
自分の中に何があるのかに気づくこと。
そして、
「これはもう、今の自分には必要ないな」
と思ったものを少しずつ手放していく。
空いた場所には、また新しいものが入ってくる。
自分を変えるというと、大げさな決意が必要なように思える。
しかし実際には、小さな違和感に気づき、小さな思い込みを一つ手放す。
その繰り返しなのかもしれない。
古いセルフイメージの殻を脱ぎながら、
いくつになっても、新しい自分になっていく。
そう考えると、まだまだ自分の中には、自分でも知らない自分がいる。
そして本書の最後にある、
幸せの種は、すでに自分の中にある。
という考えにもつながってくる。
何かを外から足していくことばかりではない。
自分の中にあるものに気づき、もう必要のないものを手放してみる。
無意識とは、少し怖い存在でもあるけれど、
同時に、
これからの自分をつくるための余白でもあるのだと思った。
次の旅では、何を置いて帰ろうか。
そんなことを考えるだけでも、少し心が軽くなる。
-
「好き」を貫くことが、生き方のセンスになる | 2026.08.06

『センスいい人がしている80のこと』有川真由美 著を読んで
「センスとは、生まれながらに持っているものだけではなく、後天的に身につけられる。どんな人でも、何歳からでも」
本書の冒頭にあったこの言葉に惹かれた。
センスと聞くと、服装や持ち物、色の組み合わせなど、生まれつき備わった感覚を思い浮かべる。しかし本書を読んでいくと、センスとは見た目だけの問題ではないことが分かってきた。
何を感じ、何を選び、何を手放すのか。
どのような人と付き合い、どのような時間を過ごすのか。センスとは、その人の生きる姿勢そのものなのだと思う。
「好き」は、センスの母
著者は「好きはセンスの母」と書いている。
好きなものを大切にしていると、自分が何を求めているのかが、少しずつはっきりしてくる。
人は人、自分は自分でいいと思える。
なりたい自分に近づいていく。
新しいことにも挑戦したくなる。
毎日の感情を、丁寧に味わえるようになる。そんなふうになれたら素敵だ。
ただし、「好き」を貫くことは簡単ではない。
どんな自分でいたいのか。
どんな暮らしを送りたいのか。自分自身と真剣に向き合い、自分に合わないものを、ときには思い切って手放す覚悟も必要になる。
周囲からどう見られるかではなく、自分の心が本当に喜ぶものを選ぶ。その小さな選択の積み重ねが、自分らしいセンスをつくっていくのだろう。
自分でつくった音楽が、暮らしを豊かにする
私は最近、AIを使って音楽をつくっている。
自分で歌詞を考え、好きな雰囲気の曲をつくり、自分が思い描いた声で歌ってもらう。気がつけば、つくった曲は60曲ほどになった。
以前は、外で誰かの音楽を聴くことが多かった。しかし今は、自分の写真や体験から生まれた曲を聴くことが増えた。
自分の中にあった風景や感情が、言葉になり、音楽になって戻ってくる。それを聴いていると、何でもない日常が少しだけ特別なものになる。
お気に入りの作品や道具を大切に使う。
自分の好きな音楽とともに暮らす。それだけでも、日々の生活に上質なエッセンスが加わり、気持ちが華やぐ。
センスとは、高価なものを持つことではない。自分が本当に気に入ったものを見つけ、その価値を味わえることなのだと思う。
本当のかっこよさは、かっこ悪さの先にある
本書の中で、特に共感した言葉がある。
間違うことがかっこ悪いのではない。間違うことを恐れて挑戦しないほうが、かっこ悪い。
私もそう思う。
傍から見れば、ばかばかしく思われる趣味でも、本人がやりたくて真剣に取り組んでいる姿は美しい。
写真を撮る。
本を読む。
文章を書く。
音楽をつくる。
新しいAIを試してみる。一見すると別々の趣味だが、続けていると、知識や経験の点と点がつながってくる。写真が言葉になり、言葉が音楽になり、本で得た考えが仕事や暮らしにつながっていく。
大人になってからの遊びは、単なる暇つぶしではない。
自分の世界を広げ、新しい自分に出会うための学びでもある。
本当のかっこよさは、かっこ悪く見えることを恐れず、一歩を踏み出した先にあるのだろう。
妻の目を借りて、新しい自分に出会う
服装や持ち物について、私が最も信頼しているのは妻の助言である。
自分一人では選ばなかった服や色も、妻に勧められて試してみると、意外によく馴染むことがある。
自分のことは、自分が一番分かっているようで、実は見えていない。
本書には、感度のいい友人に助言をもらうことも勧められていた。他人の目を借りることで、それまで知らなかった自分の魅力に気づくことがある。
清潔感、姿勢、靴、色づかい。
どれも小さなことに見えるが、その人が自分をどう扱っているかは、自然と外見に表れる。
特に姿勢と心は直結しているという。背筋を少し伸ばすだけでも、気持ちが前向きになることがある。
おしゃれとは、流行を追うことではない。自分はどうありたいのかを、外側から静かに表現することなのだと思う。
人を喜ばせることを楽しむ
本書では、人を喜ばせることもセンスの一つとして語られている。
大げさなおもてなしではなく、相手が心地よく過ごせるように、さりげなく心を配る。
私はこの部分を読んで、デンマークで触れた「ヒュッゲ」を思い出した。
豪華な料理や特別な演出がなくても、気の合う人たちと、心地よい家具や照明の中で、無理のない時間を楽しむ。
デンマークで家具や照明、建築などの美しいデザインが育った背景には、日常の心地よさを大切にする文化があるのかもしれない。
人に喜んでもらうためには、無理をする必要はない。
自分も楽しみながら、相手にも心地よさを渡す。その軽やかさが、おもてなしのセンスなのだろう。
言葉にすることで、感性は磨かれる
著者は、自分の言葉で例え話を考えたり、自然を表す言葉を使ったりすることを勧めている。
例え話の上手な人は、一瞬で相手の中に情景をつくる。聞いた人は、まるで映画や絵画を見るように、その場面を思い浮かべることができる。
人は、自分が持っている言葉によって考える。
だから言葉が増えるほど、見える世界も細やかになっていく。
私は本を読んでも、以前はその感想をうまくまとめることができなかった。今は音声で思ったことを話し、AIの力も借りながら、自分の言葉を探している。
本を読んで終わりにせず、感想を書く。
写真を撮って終わりにせず、そのときの気持ちを言葉や音楽にする。言葉にしようとすることで、自分が何に心を動かされたのかが分かってくる。
年齢を重ねて涙もろくなるのも、喜怒哀楽のさまざまな経験を重ね、物事の背景を感じ取る力や、他人への共感力が高まるからかもしれない。
感性は、言葉によってさらに深くなっていく。
本は、自分と対話するための話し相手
本書には、読んだ本の感想を誰かに伝えてみることも勧められている。
しかし、読んだ本の話をいつでも聞いてくれる人がいるとは限らない。
だから私は、noteに感想を書いている。
書店を歩いていると、ときどき一冊の本が「私と話しませんか」と呼びかけてくるように感じることがある。
本は、著者の考えを一方的に受け取るものではない。
自分の経験と照らし合わせ、疑問を持ち、ときには反論しながら対話するものなのだと思う。
哲学も、昔は難しくて近寄りがたいものだと思っていた。しかし最近は、唯一の正解を教えてくれるものではなく、自分と相性のよい考え方と対話しながら、生き方に取り入れていくものだと感じている。
複雑で変化の激しい時代だからこそ、自分の判断の軸を持つために、哲学や読書が必要になるのかもしれない。
みんなと仲良くしなくてもいい
本書には「みんなと仲良くしなくてもいい」という話もあった。
子どもの頃は、友達は多いほうがよいと教えられる。大人になってからも、せっかくできた縁だからと、無理につながりを保とうとすることがある。
しかし、人は成長し、立場や価値観も変わっていく。
つながる人が変わるのは、自然なことなのだ。
無理に合わせたり、その場に留まり続けたりするのではなく、自分らしくいられる関係を大切にする。
人と比べない。
人の目だけを基準にしない。その一点を意識するだけでも、生き方だけでなく、暮らしや仕事のセンスも磨かれていくのだと思う。
「なるほど、そう来ましたか」
本書には、ピンチに直面したときの面白い言葉も紹介されていた。
「なるほど、そう来ましたか」
まず大きく呼吸し、少し他人事のようにつぶやいてみる。
困難の真っただ中では、なかなか笑うことなどできない。しかし、少しだけ距離を置いて眺めることができれば、目の前のことに集中できる。
まるでコメディー映画の一場面のように、困難さえも面白がる。
そこまでできれば、ピンチに振り回されるのではなく、自分の側に主導権を取り戻せるのかもしれない。
何でもないことに「ありがとう」と言う。
当たり前の中にある尊さに気づく。
失敗を恐れず、ワクワクすることをやってみる。そうした心の持ち方も、センスの一つなのだ。
迷ったときは、人として美しいほうを選ぶ
センスは、苦しみや無理強いの中から生まれるものではないと著者は言う。
もっと素敵でありたい。
もっと人に喜んでもらいたい。
もっと人生を楽しみたい。そんな前向きな気持ちから、その人らしいセンスが生まれてくる。
誰もが自分だけのセンスを持っているはずなのに、それが隠れているとすれば、他人との比較や、人の目によって、心の自由を奪われているからかもしれない。
センスを磨くとは、見た目を整えることだけではない。
自分の心を健やかに保ち、自分の可能性を信じ、好きなものを大切にしながら生きていくことなのだ。
そして迷ったときには、
人として美しいほうを選ぶ。
「好き」を貫くことは、わがままになることではない。
自分の心に正直になり、自分も周囲の人も心地よくなる生き方を選ぶことだ。
その積み重ねが、その人だけの生き方のセンスになっていくのだと思う。
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