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ブログ - 五十嵐工業株式会社 - Page 12

  • 遺伝で決まる?…だからこそ、環境を動かす | 2026.03.04

    1)遺伝の話なのに、なぜか前向きになった

    安藤寿康さんの『日本人の9割が知らない遺伝の真実』を読んだ。
    タイトルだけ見ると、「遺伝で決まるんだよ」と突き放される本に見える。でも読み進めるほど、私の受け取り方は逆になっていった。遺伝を知ることは、諦めるためじゃなくて、無駄に自分を責めないためなんだ、と。

    本の中では、人の能力や性格は「遺伝」と「非共有環境(同じ家族でもそれぞれ違う経験)」の影響が大きい、と語られる。
    一方で、親の育て方や家庭の雰囲気といった「共有環境(家族を似せる環境)」の影響は、思うほど決定打にはならないらしい。

    ここは最初、正直ざわついた。
    「じゃあ、頑張ってきたことは何だったんだ」とか、「努力ってどこへ行くんだ」とか。
    でも読み終わる頃には、焦りの正体が少し見えた気がした。できない自分を根性でねじ伏せるより、伸びる場所を探した方がいい。自分に合う環境や役割を探すことは、逃げじゃなくて戦略なんだと思えた。

    しかもこの本は、遺伝を“固定”として扱わない。
    年齢を重ね、いろんな環境に出会うほど、遺伝的な素質は引き出されていく。だから、遺伝子の力を引き出すには環境を変えることが重要だ、と。
    「どんな遺伝子を持って生まれるか」「どんな環境に出会うか」は運。でも、出会いに行く方向は変えられる。私には、ここが一番の救いだった。


    2)学校は「頑張れ」で済ませすぎている気がした

    本の中に「かけっこ王国」の比喩が出てくる。短距離走だけで人の価値が決まる国。速い人は称賛され、遅い人は劣等感を抱え続ける。
    これは笑い話ではなく、今の教育や社会の構造を説明するための話として刺さった。

    現代は、抽象的な思考や知識処理みたいな“頭の使い方”が、ほとんど全員に求められる時代になっている。産業革命、コンピュータ、ネット。便利になったぶん、知的な処理が前提の世界になった。
    教育が広がった結果、能力差が見えやすくなる。見えやすくなると、何が起こるか。努力不足で片づけられる人が増える。

    時間もお金も才能も、誰もが無限に持ってるわけじゃない。限りがある。
    なのに学校は、同じカリキュラムを同じテンポで走らせて、ついて来れない人に「落ちこぼれ」の烙印を押してしまう。
    結果、学ぶべき大事な知識より先に、不要な劣等感だけが残って卒業してしまう。私はこの部分を読んで、「本人の問題」というより「設計の問題」だと感じた。


    3)私が一番持ち帰ったのは「比較優位」と「旅」だった

    本の流れの中で、堀江貴文さんの「修行は無意味」的な発言が議論になった話にも触れていた。寿司だって、数ヶ月で基礎は学べる、と。
    確かに、それも一理ある。けれど著者はそこで話を終わらせない。そこは仕事の“入り口”にすぎない、という。

    寿司を握る技術だけではなく、客との会話、店の空気づくり、店全体のプロデュース、複数の職人のマネジメント。
    仕事とは、ひとつの技ではなく、いくつもの要素の塊でできている。
    だからこそ著者は、突出した才能がない人が「人と比べて強い」と言える水準まで技能を高めるには、数年単位の時間が必要だと述べる。私はこの考え方に賛同した。現場の仕事ほど、技術の外側で差がつくのを何度も見てきたからだ。

    じゃあ、得意がはっきりしない人はどうすればいいのか。
    ここで腑に落ちたのが、比較優位という考え方だった。絶対的に得意がなくてもいい。これまでの経験の中で、「好きだ」と感じた方向に時間を置いていく。それが比較優位になる。
    そして比較優位は、環境や集団を変えれば「ローカルな絶対優位」になり得る。自分を責める前に、場を動かす。私はこの視点を、人生の現実的な手段として持ち帰った。

    最後に出てくる「人は死ぬまで旅をし続ける」という言葉も、強く残った。
    子どもだけじゃない、大人も同じ。遺伝で未来を止めない。年を取るほど、素質を引き出す行動を“楽しく”積む。
    環境を変える。本を読む。素敵な人に会いに行く。芸術に触れる。
    この本は、遺伝の本なのに、結局は「自分の人生を動かす本」だった。

  • 「捨てるために働く」から抜け出したい | 2026.03.03

    「労働が罪」という挑発に、まず“現実”が追いついてきた

    『労働なき世界:労働だけが罪であり、余暇だけが世界を救う』――タイトルからして衝撃的だった。労働が罪? さすがに言い過ぎだろう、と思いながら読み始めたのに、読み進めるほど「笑えない」と感じた。
    なぜなら、私たちは“必要だから作る”のではなく、“売るために作りすぎて、捨てる”社会に深く入り込んでいるからだ。食料も、服も、日用品も、広告も。捨てられる前提の生産のために、労働も資源も化石燃料も積み上がっていく。気候変動の話になると「それっぽい処方箋」が並ぶのに、肝心の“作りすぎ”には触れないまま、という違和感も残る。

    労働は「富を生む」より「富を移す」ゲームになっていないか

    著者の主張で刺さったのは、「無意味な労働の多くは、富を生むのではなく、都合よく富を移すためにある」という見立てだ。営業や社内政治、手続き、評価制度――もちろん全部が悪だとは言えない。けれど現代は、「良いものをつくる」より「大したことのないものを、良さそうに見せる」方向にエネルギーが吸い取られていないか。
    さらに著者は、実力主義が“金=道徳”の顔をして人を裁く構造も暴く。金がないと、まるで努力も価値もないかのように見られる。でも、現実には家事やケアのように高度で社会に不可欠な仕事が、十分に金に換算されていない。エッセンシャルな仕事ほど「活躍していない」と扱われる倒錯。ここは、強い言葉の本だけれど、見ないふりをしにくい痛点だと思った。

    余暇は“生産性のため”じゃない。まず「無意味」を削るためにある

    著者はニートを称賛するような調子で、「稼ぐことは後ろめたいくらいでいい」とも言う。ここは正直、私は全面賛同できない。社会や会社は、明日の支払いも現場の責任もある。
    ただ一方で、私が賛同したのは「過剰な労働は、人類や社会を良くしない」という一点だ。人は“にんじん”がなくても、意味のある貢献をしたくなる。誰かと食卓を囲む喜び、招く側の満足、助け合いの手触り。そういうものは、稼ぐための競争からは生まれにくい。
    だから私の結論はこうなる。「労働ゼロ」を夢見るより、まず“捨てるための生産”と“意味のない手続き”を減らすこと。余暇は生産性を上げる道具ではなく、人間の感性とやさしさを正しく循環させるための土台だ。
    この本は常識外れに見える。でも、常識の側がすでに無理をしている時代に入っているのだと思う。読後、私は「働き方を変える」より先に、「何のための仕事か」をもう一度問い直したくなった

  • 正解の言葉が増えるほど、自分の声が遠くなる | 2026.03.03

    1)言語化ブームの正体は「察して」が通じにくくなったこと

    日経新聞の「何でも『言語化』する社会」という記事を読んで、私は少しだけ胸の奥がざわついた。安心と焦りが同居していたからだ。
    安心は、言葉にできず飲み込んできた気持ちや考えが、「言葉にしていいもの」として社会に受け止められ始めていること。焦りは、その流れが「うまく言える人が強い」という新しい競争を生み、言葉が“武器”になりやすい時代を加速させていることだった。
    SNSが当たり前になり、短い文章で素早く誤解なく伝える力が求められる。以前なら「あうん」で通じた場面が、今は通じにくい。だから人は、関係を壊さないために、呼吸のように言葉を探している。記事が示す「言語化本」の増加は、その渇きの裏返しに見えた。

    2)言語化は“うまさ”ではなく「温度」を運ぶ工夫

    記事は同時に、言語化のハウツー化への警鐘も鳴らしていた。言語化は魔法ではなく、試行錯誤の積み重ねでしか身につかない。私はこの点に強くうなずいた。
    写真を撮るときも、仕事で提案するときも、「見せたいもの」より先に「伝わる形」を探してきた。構図を決めるのも、言葉を選ぶのも、結局は相手の視点を借りる作業だ。だから言語化とは、頭の中の整理だけでなく、気持ちの温度を落とさずに相手へ届ける工夫だと思う。
    ただ、整った言葉は安全な反面、温度が薄まる危うさもある。正解の言い方が増えるほど、自分の言い方が失われる。だから私は、結論を急がず「いま何を感じたか」を一行添えたい。うまさより誠実さ、速さより温度。たった一行の本音が、文章を“情報”から“体験”に変えてくれる。

    3)読書とAIで、言葉を「自分の声」に戻す

    読書家として見ると、このブームは「アウトプットへの渇き」にも見えた。読んだだけでは心は満ちても形が残らない。書くことで初めて、曖昧な感情が輪郭を持つ。けれど輪郭を急ぐと、言葉が結論に寄り過ぎてしまう。私が好きな物語は、結論より途中の揺れを大事にしていた。言語化とは、揺れを切り捨てる作業ではなく、揺れを抱えたまま相手に渡せるサイズに整える作業なのだろう。
    AIは、その整えを手伝ってくれる頼もしいパートナーだ。散らばった思いを並べ替えると、筋道が立ち上がる。でも最後の一文、最後の息遣いだけは自分の手で置きたい。言語化は、誰かを説得するためだけでなく、自分が次の一歩を踏み出すための道しるべでもあるからだ。ブームはいつか去るかもしれない。それでも私は、言葉を磨くことを、明日の仕事と作品づくりの礎として続けたい。言葉は、私の暮らしと仕事の両方を照らす灯りなのだから。

  • 映画『花まんま』の余韻から、もう一度“物語”へ | 2026.02.19

    映画の余韻が、読書の扉を開いた

    去年、映画『花まんま』を観た。エンドロールが流れているのに、すぐには立ち上がれなかった。胸の奥に残ったのは、涙というより、じんわりとした温度だった。最近は実用書やノンフィクションを手に取ることが多く、小説からは少し距離ができていたのに、その夜はなぜか「原作を読んでみたい」と思った。理由をうまく言葉にできないまま、けれど確かに、余韻が静かに背中を押していた。

    朱川湊人さんの『花のたましい』は、4つの短編からなるオムニバス。扱っているのは、友情、家族、死、そして魂や言霊――決して軽くない題材だ。けれど不思議と、読み終えると心の血が少し温まっている。悲しみを増やすのではなく、抱え方をそっと整えてくれる本だった。短編だからこそ、一つ一つの“余韻”が濃く、読んでいる最中よりも、読み終えたあとにじわじわ効いてくる。


    4つの短編がくれた「温かさ」の形

    一編目の「花のたましい」は、少女ふたりの関わりが軸になる。置かれた環境の違い、言葉にしきれない不安、それでも相手を思う健気さ。読み進めるほど、これは小説というより“ドラマ”だと感じた。偶然が重なり、誰かの優しさが別の誰かへ手渡されていく。世の中は冷たいだけじゃない、と静かに思い出させてくれる。派手な奇跡ではなく、「たまたま、そこに居合わせた」だけの出来事が、人を救ってしまうのがいい。

    二編目の「百舌鳥宮十六夜詣」は、神話めいた設定が面白い。現実ではありえないことが起きるのに、心のどこかが「わかる」と頷いてしまう。百舌鳥(モズ)という鳥が、人の姿に重なったり、戦争の影が差したりする中で、私は“言霊”という言葉に引っ張られた。目に見えないのに、人の心の奥をそっと動かすもの。もう一つの世界があるというより、私たちの内側に、現実と同じくらい強い“もう一層”があるのかもしれない。そんな感覚が、読みながら静かに残った。

    三編目の「アネキ台風」は、姉妹の絆が胸に迫る。私にも姉がいる。姉という存在は、母親とどこか似た温度で、絶対的に守ってくれる場所のように感じることがある。作られた細胞が同じ両親から生まれたという事実だけで、説明できない安心が生まれるのだろうか。この物語には白血病が出てくる。去年、兄を白血病で亡くした私には、どうしても重なるところがあった。細胞の不具合が命の輪郭を変えてしまう現実。それでも、残された側の中で「意識」や「思い」は生き続け、次へ渡っていく。読みながら押し寄せた感情は、悲しみだけではなく、“つながり”への確信に近かった。人は消えても、関係は消えない。そう言われた気がした。

    そして四編目の「初恋忌」。映画『花まんま』の核になる短い物語だ。初恋の人とどこかでつながっている――その不思議さが、怖さではなく、救いとして手元に残る。人の記憶は、花の香りみたいに突然よみがえって、今の自分をそっと支えてくれるのだと思った。


    読後に残ったもの:本は心を温める

    読み終えて思ったのは、本は「答え」をくれるのではなく、私たちの中の温度を整えてくれる道具だということだ。重いテーマに触れながら、読後が温かいのは、物語の中に“人のやさしさ”が最後まで消えずに残っているからだろう。花が散っても、香りが残るように。人が去っても、思いは残るように。久しぶりに小説に触れて、私はまた、本というものに助けられた。血液を温めてくれるような一冊だった。

    もし、忙しさや日々の情報で心が乾いている人がいたら、この短編集はちょうどいい。1話ずつでも読めるのに、読み終えるたびに「人って捨てたもんじゃないな」と思える。魂という言葉を、特別なものではなく、日々の小さなやさしさの中に見つけ直せる本だった。私は読み終えて、「また小説も読もう」と思った。理屈で整理できない悲しみや祈りは、物語の形を借りた方が、むしろ素直に受け取れる時がある。ページを閉じたあと、部屋の空気が少しだけ柔らかくなる――そんな読書体験だった。

  • 「伝わらない」の正体は、脳が見せる世界の違いだった | 2026.02.18

    「なんでこんなに丁寧に話しているのに、伝わらないんだろう。」
    西剛志さんの『なぜ、あなたの思っていることはなかなか相手に伝わらないのか?』は、このモヤモヤを“話し方の上手い下手”ではなく、もっと根っこの構造から説明してくれる本でした。結論はシンプルで強烈です。自分の脳と相手の脳が、そもそも「見せている世界」が違う。だから、すれ違いは起きて当たり前。ここから出発できる人が、コミュニケーションがうまい人なのだと本書は語ります。

    本書では、人の情報処理には「視覚」「聴覚」「身体感覚」の優位があると紹介されます。たとえば視覚優位の人は、頭の中の映像をそのまま言葉にしようとして早口になりやすい。身体感覚優位の人は、感じたことを確かめながら話すのでテンポがゆっくりになりやすい。もし会話の速度が合わないなら、性格ではなく“入り口の違い”かもしれない。さらに、伝え方のコツも示されます。図や全体像が効く人、丁寧な言葉が効く人、体験させるのが一番早い人。ただし著者は、タイプで決めつけること自体が新たなバイアスになる、と注意も促します。人は状況によって使い分けるからです。

    また、脳の違いはタイプだけでは終わりません。性別、利き手、文化の違いでも、見ているポイントや記憶の残り方が変わる。自分が「見えた」「分かった」と思った瞬間に、相手も同じように見えていると信じてしまうのが危険だと気づかされます。夫婦や身近な相手ほど「分かってくれているはず」が強くなり、すれ違いが深くなる――この指摘は、胸に刺さりました。

    さらに本書の面白さは、認知バイアスを具体例で見せてくれるところです。脳は効率のため、関心のある情報だけを拾い、都合よく世界を編集してしまう。いわゆる「一度気にし始めると急に目につく」現象や、「現状を変えたくない」気持ち、そして記憶のあやふやさ。私たちは“事実”を見ているつもりで、実は“脳が加工した世界”を見て話している。だから「1を見て10を決める」ほど、話は噛み合わなくなっていきます。

    そして極めつけは、環境と身体感覚の話でした。温かい飲み物、天気、緑、場所――そんな一見些細なものが気分や行動に影響し、結果として相手への印象まで変えてしまう。つまり、行き詰まったら「言い方」を変える前に、場を変えることが効く場合がある。環境を変えることは、脳に新しい刺激を入れて、世界の見え方を更新する行為なのだと本書は教えてくれます。

    読み終えて、私の中に残った実践メモはこれです。
    ・まず「相手の世界は違う」を前提にする
    ・「どこが気になります?」と相手の見ている焦点を聞く
    ・要点を相手の言葉で言い直して確認する
    ・詰まったら環境を変える(場所・時間・光・空気)

    伝わらないのは、能力不足ではなく“違い”の問題。だからこそ、責めるより先に、相手の世界を見にいく。読書そのものが自分の内側の環境を変える力を持つ――そんな余韻とともに、私は「伝わらない」を嘆く前に、まず一歩“翻訳”してみようと思いました。

  • 宗教は「世界を見るためのレンズ」だった | 2026.02.17

    出口治明さんの『世界は宗教で読み解ける』を読んで、あらためて思った。私は史実を語りたいわけじゃない。宗教を“俯瞰の道具”として手に持ち、世界の出来事や人の行動が、なぜそう動くのかを少しでも腑に落としたい。もっと言えば、以前から感じていた「宗教も、哲学も、自然法則も、現代科学も、物理学も、医学までも、どこかでつながっている」という感覚を、自分の中で確かめたかったのだ。

    本書が面白いのは、宗教を「信じる・信じない」で切らずに、世界を読むための共通言語として扱っているところだ。人は昔から、「世界はどこから来たのか」「死んだらどうなるのか」という問いを抱える。科学がまだ答えられない時代、あるいは今でも完全には答えきれない領域に、宗教は“物語”と“意味”を与えてきた。人が不安を抱えたとき、共同体が揺れたとき、秩序を作るために「神」や「教え」が必要になった、という説明は妙に納得感があった。

    ゾロアスター教やユダヤ教のような初期の流れから、一神教が形を取り、やがてキリスト教がローマという巨大な仕組みと結びついていく。そこで宗教は、祈りの世界だけでなく、政治や情報、権力とも強く絡み合っていった。十字軍や宗教改革の話は、その象徴のように見える。そして近代以降、教会が過去を振り返り、謝罪という形で態度を変えていったことも、本書の視点だと「組織が生き延びるための変化」として読めてくる。

    イスラム教についても、私は勝手なイメージで見ていた部分があったと反省した。本来の教えが持つ「慈愛」や「生活と信仰の一体感」は、日々の習慣として根づく強さがある。一方で、若年人口が急増する社会状況のような現実が、原理主義の温床になることもある。教えそのものというより、解釈と社会条件が組み合わさって、宗教が“利用される”局面が生まれる。この構造は、宗教に限らず、どんな思想にも起こり得ることだろう。

    仏教やヒンドゥー教の話に触れると、輪廻転生や「空」の感覚が、心の扱い方や世界観の土台として生きているのがわかる。日本の神仏習合の歴史も含めて、宗教は「対立の火種」だけではなく、人が自然や死を受け止め、共同体を保つための知恵としても働いてきたのだと思う。

    結局、私がこの本から受け取ったのは、「宗教を学ぶことは、世界の解像度を上げること」だった。ニュースの裏にある価値観、国家や集団の動き、人の正義感や恐れ――それらが宗教というレンズを通すと、少し輪郭を持ちはじめる。そして不思議なことに、その先で哲学や科学ともつながってくる。人間はどこまで分かるのか。分からなさとどう付き合うのか。そこに宗教と科学の共通点があるように感じた。

    疑問や興味を、とことん学べる時代に生きている。昔なら、調べるだけで一生かかったかもしれない。だからこそ、感謝と感動を鈍らせずに、学びを続けたい。宗教は、答えを押しつけるためではなく、世界を広く見るための道具になり得る。私はそんなふうに、この一冊を受け止めた。

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