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ブログ - 五十嵐工業株式会社 - Page 10

  • 大雪だけど、雪国がもっと好きになった | 2026.02.02

    今年の雪国は、久しぶりの大雪だ。玄関前と車庫前の除雪が、毎日の「朝晩の用事」になった。雪の降らない土地の人から見れば、きっと驚く日課だろう。でも雪国に住む私たちは、それを当たり前として暮らしている。不思議なものだ。

    若い頃は、雪が積もるたびに「またか…」と気が重くなった。スコップを握る手にも、どこか反発が混じっていた気がする。ところがこの頃は、少し感覚が変わってきた。歳を重ねたからこそ、雪の重さだけでなく、自分の体の調子や呼吸の荒さにも敏感になる。だから無理はしない。だけど、ほどよく汗をかくことが「運動しよう」と頑張らなくてもできていると思うと、妙な達成感が生まれる瞬間がある。

    ここをこう抜けば道が通る、ここをもう少し落とせば見た目が整う――そんな小さな完成が、体に覚えこませていく。気づけば、雪と向き合うコツも、道具の使い方も、自然に体が思い出す。しんどいのに、少し気持ちいい。終わったあとに、道がスッと通っているのを見るだけで、「よし」と思える。

    誰かが踏み固めた雪道、誰かが整えてくれた通り道。そこを通ると、私たちは自然に得をするし、感謝も湧く。だから「雪国の人はみんな優しくて、ボランティア精神がある」と言われることもある。でも実際は、もっと静かな動機があるのかもしれない。やっている側は「いいことをしている」と意識しているばかりではない。気づけば体が勝手に動き、「ここをきれいにしたい」と思ってしまう。利他でも自己満足でもなく、ただ自然とそうしている――そんな状態こそ、私は“上徳”に近いのではないかと感じる。

    もちろん、文明の助けも大きい。長岡の融雪道路のように、水が出て雪が消えていく景色を見ると、「生活は確かに良くなっている」と実感する。昔は「雪を退ける」しかなかったのに、今は「雪が消えていく」場面がある。進歩だ。ただ、それでも自然は、こちらの都合通りにはいかない。朝に必死で雪を退けても、昼には同じくらい積もっていることがある。まるで賽の河原だ。

    効率や成果だけで見れば、無駄に思える人もいるだろう。でも、リセットされ、また同じことをする――そこにこそ、何か大切な意味が潜んでいる気がする。結果が残らないからこそ、「今日を丁寧にやる」しかない。そう考えると、雪かきは修行というより、心の整え方のひとつにも見えてくる。

    そして、ここが私の中で最近いちばん大きい。効率や成果を求められる仕事の感覚で見れば、除雪はかなり非効率で、成果もあまり期待できない。だって、きれいにしても、また同じ状態に戻るのだから。どこか家事にも似ている。洗ってもまた汚れる、片づけてもまた散らかる。それでも人はやる。やらないと暮らしが回らないから、という理由もあるけれど、私はそれだけじゃない気がしている。繰り返しの中で、自分の心の置きどころを探したり、今日の自分を確かめたりできる。だからこの作業は、忙しさの中で置き去りになりがちな「哲学する心」の糧になっているのだと思う。

    雪は一年の彩りをいったん消し去り、世界を真っ白なキャンバスにする。青空がのぞく晴天の日、その白と青の対比は言い知れない。雪国の贅沢とは、もしかしたら「リセットされる感覚」そのものなのかもしれない。苦労は確かにある。けれど、あと二ヶ月もすれば、この大雪も消えてしまう。消えると知っているから、今の苦労も、どこか季節の一部として抱えられる。

    私はこの雪国が好きだ。雪に包まれた室内で、時間を長いスパンで眺め直し、自分の考えをまとめ、振り返る。除雪の一心不乱さは、小さな瞑想にも似ている。作業に集中しているうちに、余計な雑念が薄れ、体力だけでなく気持ちまでスッと軽くなる気がする。

    危険なことを避けながら、雪と楽しく付き合う。雪の厳しさに学び、雪の美しさに感動し、雪を愛でる――大雪の冬は、私に「自然と一緒に生きるって、悪くない」と思わせてくれる季節だ。

  • 入院してわかった、治す前に見直すべき「暮らし」の土台 | 2026.01.30

    今回、入院と手術を経験したことで、私は『病気にならない暮らし辞典』本間真二郎さんの本を手に取りました。著者は医学者としてウイルス研究の道を歩みながら、いまは農業や自然に寄り添う暮らしを実践し、「人が治る力とは何か」を体験と観察から掘り下げている人です。机上の理屈だけではなく、実際に試し、確かめ、感じたことが言葉になっているので、とても読みやすく、胸に刺さる部分が多い本でした。

    とくに衝撃だったのは、「医療が発達しているのに病気は減っていない」という事実です。高血圧、糖尿病、脂質異常症、メタボ、そしてアレルギーやアトピー、喘息など、いわゆる慢性病・生活習慣病が増え続けている。さらに子どもの世界でも、発達障害と呼ばれる診断が増えている現状がある。診断基準の変化などを差し引いても、患者数の増加は無視できない——この指摘は重く感じました。

    著者が一貫して言うのは、「病気の根っこは“不自然な暮らし”にある」ということ。医学の高度化は対症療法としては強いけれど、そもそも病気になりにくい暮らしを取り戻さなければ、流れは止まらない、という視点です。風邪でさえ、ただ敵として消すのではなく、体が整おうとする意味がある。症状を闇雲に止めるより、短期・長期の影響まで考えて受け止め、寄り添うことが大切だという話は、子育ての章にもつながっていました。「お母さんは家庭のお医者さん」という言葉は、優しいのに厳しく、自分にも向けられている気がしました。

    そしてこの本は、健康の話でありながら、読み終えるとどこか啓示のようなものが残ります。生きていくということは、結局、あらゆるものと関わっていくこと。食べ物も、土も、微生物も、空気も、水も、家族も、仕事も、社会も、全部がつながっている。その関係の中で私は何度も、自分に問い直しました。私は自然法則に従って生きているのか。便利さや効率を優先して、自然の摂理から外れた暮らしを当たり前にしていないか。これは他人に向けた言葉ではなく、自分自身への自戒です。

    植物の苗を小さなポットのまま育てる実験の話も象徴的でした。土が根に置き換わり、限界が来ると成長が止まり枯れてしまう。そこから「植物は地球が変化したもの」「地球を傷つけることは巡って自分を傷つけること」という感覚に至る流れは、ただの健康論を超えて、暮らしそのものの姿勢を問う話に広がっていきます。自然を“支配している側”だと勘違いしがちだけれど、本当は自然の一部として生かされている。その視点が戻るだけで、暮らしの選択が変わっていく気がしました。

    腸内細菌、心と自律神経、意識と無意識(集合無意識)など、体と心を分けずに見る視点もこの本の魅力でした。結局、病気にならない心とは、自然や他者の役割を認め、感謝できる心なのだ——このまとめ方は、とても腑に落ちました。逆に言えば、「全部排除して安全にする」「全部消毒してゼロにする」といった考え方そのものが、不自然さを増やしてしまう。科学が進んでも、進化しても、すべてを無くしたり、完全に排除したりすることが“本来の姿”ではない。医療は大切だけれど万能ではなく、基本は対症療法でもある。だからこそ、医療だけに寄りかからず、暮らしの土台を整える方向へ戻ることが必要なのだと思いました。

    実践としては、腹八分目、よく噛む、地産地消、腸内環境を整える食事、睡眠と休息、ストレスを溜めない工夫、完璧を求めない、笑う、入浴は湯船に浸かる、など、派手ではないけれど本質的な提案が並びます。私自身、胆嚢の手術は終えて回復しましたが、手術で“体質”まで変わったわけではありません。だからこれからは、この本を“暮らしの辞典”として手元に置き、できるところから自然に沿った生活へ戻していきたい。病気になる前に読んでおけばよかった、という悔しさも含めて、今の自分には必要な一冊でした。

  • わかりやすさの裏側で、思考が痩せていく | 2026.01.23

    私たちは言葉を“使っている”つもりでいます。けれど『いつもの言葉を哲学する』(古田徹也)を読み終えたとき、むしろ言葉のほうが、私たちの世界の見え方を“決めている”のだと感じました。言葉は自分の意思を伝えるための手段であり、効率よく情報を処理するためのツール——私はどこかでそう捉えていました。ところが本書は、言葉とはそんな外部的なものではなく、私たちの「世界の見え方」そのものをつくってしまう存在なのだと、静かに、しかし鋭く突きつけてきます。

    著者は、私たちの日常に転がっているありふれた言葉を一つずつ丁寧に拾い上げ、手のひらで裏返しながら、その手触りを確認するように考え抜いていきます。そのあまりにも誠実な姿勢は、読み進めるこちらの呼吸まで変えてしまうような、心地よい緊張感に満ちていました。

    ※以下、本書の議論に沿って「健常者/障害者」という言葉を用います。

    たとえば、冒頭で語られるオノマトペの話は非常に象徴的です。「サラサラ」「ズシン」「じわっ」といった言葉は、単に意味を伝えるだけではありません。それらは音や触感、あるいはその場の気配といった、いわば「言語の外側」にあるものと密接に結びついています。説明というプロセスを飛び越えて、直接体に届くこれらの言葉は、私たちの感覚そのものの通路になっているのです。日本語が持つこの豊かな感覚の回路を知ることは、自分の体が世界をどう受け止めているかを再発見するような、新鮮な驚きがありました。

    また、本書を読んでいて思わず深く頷いたのが、「健常者/障害者」という区分の捉え直しです。私たちは無意識のうちに、健常者は自立しており、障害者は誰かに頼って生きているという「常識」を抱きがちです。けれど著者は、その構図を鮮やかに逆転させて見せます。健常者はただ、依存先が社会の中に無数に分散されているからこそ、一つひとつの依存が目立たず、結果として「何にも依存していない」と錯覚できているに過ぎない。一方で障害者は、依存先が特定の場所に限られているために、その依存だけが浮き彫りになってしまう。ここには、言葉が勝手に作り上げてしまう「虚像」の怖さがあります。ラベルを貼ることは説明の一助にはなりますが、いつの間にかそれが相手の輪郭を固定し、生身の人間としての広がりを奪ってしまうのです。

    この「言葉による単純化」への危惧は、現代のコミュニケーション、特にSNSの在り方にも通じています。語彙を「わかりやすく」整えることは、一見すると親切なようですが、そこには大きな落とし穴があります。言葉が単純になれば表現が痩せ、表現が痩せれば、私たちの思考そのものも痩せていってしまう。全体主義が常に「わかりやすい言葉」を好んできたという指摘は、短く強い言い切りが称賛される現代のネット空間への、重い警告のように響きます。

    「論破」や「〇〇界隈」といった便利な型に思考を委ねた瞬間、世界が持っていた多様な色彩は、一気に単色のラベリングに回収されてしまいます。わかった気になればなるほど、実は世界を狭くしているのではないか。そんな不安が、著者の言葉を通して形になっていきます。

    それは「流暢さ」への信仰についても同じです。瞬時に言葉を返し、淀みなく議論を整理する技術は、現代社会では「賢さ」の象徴とされます。ただ、そのスピード感は、本来対話に必要な「聞く余白」を奪ってしまうものでもあります。相手の言葉が自分の中で育つ前に、効率という刃で刈り取ってしまう。話し手と聞き手が「一緒に言葉を持つ」ためには、うまく言い切れない時間や、重苦しい沈黙、何度も繰り返される言い直しこそが必要なのだと、著者は教えてくれます。

    本書の終盤で語られる、新潟の「コロナ」という会社のエピソードも忘れられません。病名や地名の呼び方は、単なる情報伝達の記号ではありません。それは誰かの生活や誇りに直結し、時には深く突き刺さる刃にもなります。水俣病のように、地名を含めることが歴史の風化を防ぐために不可欠な場合であっても、その言葉が運んでしまう痛みに無自覚であってはならない。言葉には正確さだけでなく、その「届き方」まで含めた重い責任が伴うのです。

    コロナ禍で見られた「自粛要請」や「自粛の解禁」という表現のねじれについても、改めて考えさせられました。本来、自らの意思で行うはずの「自粛」が、公権力によって「解禁」されるものとして扱われる。そこでは言葉が公共空間の空気を固定し、現実を動かすスイッチとして機能していました。言葉はもはや説明ではなく、私たちの行動を規定する「装置」と化していたのです。

    結局のところ、この本が私たちに手渡してくれるのは、「正しい言葉を選べ」という単純な道徳ではありません。むしろ、言葉に急かされ、言葉に流されやすい時代だからこそ、一度立ち止まって考え続けるための「作法」なのだと思います。

    一度放たれた言葉は二度と戻りません。特に文字として残るSNSでは、前後の文脈が剥がれ落ち、意図しない形で誰かを傷つけることも日常茶飯事です。だからこそ私は、投稿ボタンを押す前の一呼吸を大切にしたい。わかりやすさに安易に寄りかからず、ラベルで人を型にはめず、沈黙の中に宿る意味を置き去りにしない。そんな、当たり前だけれど忘れがちな誠実さを、もう一度自分の手元に取り戻す——そのための静かな指針を、この一冊から受け取りました。

  • 体を壊して気づいた。「足るを知る」って、こういうことだった | 2026.01.22

    「知足たる人生・執着を手放して、賢く、シンプルに生きる」谷崎玄明 著を読んで、まず胸に刺さったのは冒頭の禅語「本来無一物」でした。世界にあるものは本来すべて“借りもの”で、だから「自分のもの」と言い張ってしがみつく対象は、本当は一つもない。頭では分かっているつもりでも、日々の暮らしの中では、つい執着を増やしてしまう。その癖を、静かに正してくれる出だしでした。

    特に強く共感したのは「健康は最高の利得」という話です。私自身、昨年末に胆嚢摘出手術を経験して、体調が崩れると“本来楽しめたはずの幸せ”まで取り逃がすことを痛感しました。仕事も趣味も、結局は健康という土台があって初めて味わえる。何のためであれ健康を犠牲にするのは、本末転倒どころか、人生の楽しみそのものを削ってしまう行為なのだと、改めて腑に落ちました。

    そして健康の次に来るのが「満足」。本書が丁寧に切り分けていたのは、満足(知足)と我慢の違いです。私は「我慢=えらいこと」みたいに思い込みがちでしたが、ここで語られる我慢はむしろ“強がり”に近い。足りないのに「足りてる」と言い聞かせるのは、心に嘘をついている状態で、知足とは別物だという指摘が鋭い。満足と我慢を分けるのは欲望で、欲望が満たされると満足になり、満たされないと我慢になる。だから、ただ耐えるのではなく、欲望との距離感を整えることが要なのだと理解しました。

    では欲望はどこから来るのか。答えは「比較」。他人がいるからこそ、焦りも不安も増える。もし世界に自分しかいなければ、多くの悩みは消えてしまうだろう、という言葉には思わず笑ってしまうほど納得しました。さらに、人間は“失うこと”に強く反応する(損失回避)。だからこそ、すでに持っているものを当たり前にしてしまう。健康もまさにそれで、具合が悪い時には切実に願うのに、戻った瞬間に忘れてしまう。だから一度、風邪をひいた時のつらさを思い出せ、という提案が現実的で効きました。

    本書の「掃除」の話も印象深いです。目の前の清掃に集中することは、余計な思考や雑音から離れて、今ここに戻る訓練になる。大きな学び以前に、まず掃除から――という姿勢が、知足を“きれいごと”で終わらせない力を持っていました。情報についても同様で、無益な言葉より、心が静まる一言を選べ、と。多弁は伝えたいことを薄める。写真一枚の方が伝わることもある。情報の海に溺れるより、自分の器に合う“湖”を持て、という感覚は、今の時代にこそ必要だと思います。

    さらに、人間関係も「数ではなく質」。価値観の合わない関係を増やすほど、心は削られる。打算で結ばれた関係より、自然な信頼でつながる関係を大切にする。ここまで読んで、知足とは“諦め”ではなく、“自由になる技術”なのだと感じました。

    最後に残ったのは「なりたい」より「ありたい」。遠くに答えを探しに行くより、足元を掘ると泉がある、という言葉が静かに背中を押してくれます。欲望そのものをゼロにするのではなく、欲望に振り回されず、健康を整え、満足を知り、余計な情報と比較を減らしていく。そうやって心の乾きを鎮めることが、結果として仕事も人生も“楽しく続く”形にしてくれる。知足を実践するとは、人生を小さくすることではなく、人生の芯を太くすることなのだと、この本から受け取りました。

  • レンズが連れていった場所で、縁に出会った! | 2026.01.21

    写真を撮りたい――それだけのはずだった。
    けれど気づけば、平日にもかかわらず少林山達磨寺へ向かっていた。
    だるまの炎と洞窟の静寂の中で、「足るを知る」という言葉が、あとから静かに腑に落ちていく。
    レンズに導かれ、縁に出会った一日の記録。

    炎と静寂が導いた「足るを知る」心の旅
    正直に言うと、始まりは単純で、「撮りたい」だった。
    群馬県高崎市・少林山達磨寺のお焚き上げ。赤いだるまと炎の迫力は、写真を撮る者にとって抗いがたいものがある。

    気づけば、平日にもかかわらず、私はそこへ向かっていた。(妻と共に)
    けれど後から思うと、撮影以上の何かがあった。
    なにか不思議な力に背中を押されたような、あるいは呼吸をするのと同じくらい自然な流れで、そこへ向かっていた――そんな感覚が今も残っている。

    火に包まれるだるま供養と心の静けさ
    寺院の一角には所狭しと大小様々な達磨が積み上げられ、その前に僧侶たちが静かに立っていた。集まった人々の表情には、新年に古い達磨を手放し感謝を捧げる厳かな緊張感と、祭りを見るような高揚感とが入り交じっている。私も最前列の隅に陣取り、ファインダー越しにその光景を見守った。やがて読経の声が響き始め、境内の空気が一層張りつめていくのを感じる。


    読経が始まり、やがて火が入る。 炎が立ち上がり、煙が空へと流れていく。
    音、匂い、熱、そのすべてが「今ここ」に意識を引き戻す。
    燃えさかる炎を前に、不思議と心が静まっていくのを感じた。最初はその迫力に興奮していたはずの胸の高鳴りが、炎が天に昇るにつれて穏やかさへと変わってゆく。ごうごうと燃える火は、古い達磨と共に人々の一年分の願いや想いも浄化しているかのようだった。私もまた、昨年の心残りや焦りが煙と一緒に空へ溶けていくような開放感を覚える。


    達磨供養の炎が激しく燃え上がる。煙にあたれば無病息災ともいわれ、多くの参拝客が手を合わせていた。私もまた、ただ黙って、その場に立っていた。
    立ちのぼる火柱を見上げながら、「これで十分ではないか」という声が心の奥から湧き上がった。欲や不安が洗い流され、今あるものだけで満ち足りている……そんな感覚がそっと芽生えていたのである。後に知ったことだが、禅宗には**「足るを知る者は富む」**(足りていることを知る人は本当に豊かだ)という教えがあるという。まさにこのとき私の心に宿り始めたのは、その「足るを知る(知足)」という境地だったのかもしれない。

    洞窟観音で出会う静寂と縁
    炎の儀式が終わる頃、心は不思議な静けさに包まれていた。達磨供養の現場を後にしつつも、その余韻で足取りは軽い。燃え尽きて灰になった達磨の山を横目に、「ありがとう」と小さく手を合わせて別れを告げた。カメラのメモリーカードには炎の写真が収まっているが、ファインダー越しでは捉えきれない大切な何かが胸に刻まれた気がした。

    予定でもう一カ所せっかくここまで来たのでと言う思いで、近くにあると聞いていた「洞窟観音」を訪ねてみることにした。導かれるように、薄暗い洞窟の入口へと入っていく。洞窟内はひんやりと静まり返り、外の喧騒が嘘のようだ。灯籠の淡い光に浮かび上がる無数の観音像が、岩肌に沿ってずらりと並んでいる。私たちの小さな会話の音だけが響く長い石の回廊を進むうち、心の奥底までシンと澄み渡っていくのを感じた。


    全長400mを超える人工の洞窟の中に、観音像が39体。静かな暗がりに、ひとつひとつが守るように立っている
    薄明かりの中、観音様の前で手を合わせていた。そこで知ったのだが、この洞窟観音は明治の時代に呉服商として成功した 山田徳蔵(1885–1964) が私財を投じ、人々のためにと長年かけて手掘りで造り上げたものだという。
    大正8年に着工し、約50年もの歳月をかけて“ほぼ人の手”でつくり上げた。さらに驚いたのは、その山田徳蔵氏が 新潟県柏崎市の出身 だと知ったこと。
    遠くへ撮影に来たつもりが、気づけば「自分のルーツ」に触れていた。
    こういう偶然って、あとから思い返すほど、じわじわ効いてくる。

    洞窟の中でシャッターを切りながら、私はたぶん「撮っている」だけじゃなかった。
    暗い空間に刻まれた祈りを、黙って受け取っていた気がする。静かな洞窟に身を置いていると、不思議な縁(えん)で故郷と結ばれたような気持ちになった。考えてみれば、この洞窟観音を作った人々や長年参拝してきた人々の想いと、自分という存在が時空を超えてつながったとも言えるだろう。偶然に導かれた出会いが、実は必然の連なりの中にあったことをしみじみと実感する。燃え盛る炎の後に訪れた静寂の時間は、私の心に過去から未来へと通じる一本の糸を通してくれたようだった。

    あの日の経験から『知足たる人生』へ
    こうして写真撮影のつもりが始まりだった不思議な旅は、家路につく頃には心に小さな変化をもたらしていた。あの日以来、「足るを知る」という言葉が折に触れて思い浮かぶようになったのだ。実際、後日になって偶然手に取った一冊の本がある。谷崎玄明氏の著書『知足たる人生』である。タイトルに引き寄せられるように読み始めたその本には、知足とは「すでに満たされているということを理解する」ことだと書かれていた。ページをめくるごとに、達磨の炎の前で感じたあの静かな満足感や洞窟で味わった心の連なりが、鮮やかに脳裏によみがえる。文字を追いながら、「そうだ、あの日私は確かに『足りている』ことを知ったのだ」と静かに頷いている自分がいた。

    写真に収めた光景と、綴られた言葉が響き合い、私の中でひとつの物語を完成させたように思う。
    カメラが導いてくれた偶然の出来事たちが、実は必要な必然だったのだと今では感じている。燃える達磨の炎と洞窟の静寂が教えてくれた「足るを知る」という感覚——それはこれからの人生を支える大切な羅針盤になりそうだ。これからも静かな心で日々の十分さに目を向け、『知足たる人生』を深めていきたい。あの日の小さな旅が与えてくれた気づきを胸に、私はゆっくりと前に進んでいくつもりだ。

  • 「やりたいこと」は、感情の小さな扉から始まる | 2026.01.20

    『「やりたいこと」の見つけ方』西 剛志 著を読んだ。冒頭に出てくるトム・ソーヤの言葉が、いきなり深い。
    「人生で一番大切な日は2日ある。生まれた日と、なぜ生まれたのか分かった日」。
    正直、“なぜ生まれたのか分かった日”なんて本当に来るのかな…と思った。でも読み進めるうちに、「答えが突然ドンと降ってくる」というより、「日々の感情から、じわじわ分かってくる」ものかもしれないと思えてきた。

    この本がまず言ってくれて助かったのは、「やりたいことが見つからないのは、あなたのせいじゃない」ということ。今は情報も選択肢も多すぎる。選べるはずなのに、逆に頭が止まってしまう。まさにそれだと思った。だから“やりたいこと”を探すときに、いきなり職業名を決めようとしなくていい。先に見るべきは「自分の感情」だ、と。

    やりたいことがある人は、理屈より感覚で決めていることが多いとも書かれていた。条件が少ないときは考えたほうが当たりやすい。でも条件が増えてごちゃごちゃしてくると、考えすぎるほど迷ってズレる。そんなとき直感のほうが役に立つ、という話は納得だった。もちろん直感も“経験”が育てる部分は大きいと思うけど、頭だけで全部決めようとするよりは、体の反応も信じたほうがいいのかもしれない。

    怖いのは「自分はこういう人間だ」という思い込みだ。挑戦する前から「どうせ無理」と決めてしまう。そうやって本音にフタをする癖がつくと、だんだん「自分が本当は何を望んでるのか」が分からなくなる。これは身に覚えがある。
    それに、私たちは“達成”よりも、“成長してる感じ”のほうが嬉しかったりする。結果より「前に進んでる感覚」が力になる。だから大きな目標を一発で当てるより、少しずつ前に進める形を作るのが大事なんだと思った。

    本の中には「外に向かうタイプ」「内に向かうタイプ」という整理も出てくる。人との関わりや場づくりで熱くなる人もいれば、自分の中を掘ることでワクワクする人もいる。どっちが上とかじゃない。ただ比率が違うだけ。
    ただ、周りの気持ちばかり優先して、自分の気持ちが置き去りになると、やりたいことは見つかりにくい。逆に自分だけでもダメ。人の意見を聞ける柔らかさと、流されない強さのバランスが大事だ、という話が良かった。

    あと印象に残ったのは、コンフォートゾーン(安心な場所)とストレッチゾーン(ちょい不安な場所)の話。やりたいことのヒントは、安心の外側に転がっていることが多い。でも、一歩出てみると、最初は不安でも慣れて「普通」になる。だから、ちょっと面倒なことも、あえてやってみる価値がある。

    そして「運がいい人は出会いが多い」という話。ここで言う出会いは、人だけじゃなく、機会や場所も含む。オンラインの時代だからこそ、直接会って得られる空気感とか、言葉にできない学びの価値は上がっている気がする。やりたいことをやっている人と会うと、こちらの考え方まで影響を受ける。だから「会いに行く」って、ただの気合いじゃなく、ちゃんと意味があるんだろう。

    さらに面白いのが、「やりたいことが見つかる人ほど寄り道が多い」というところ。最短で行こうとすると視野が狭くなる。でも寄り道は、思いがけない自分を見つけやすい。旅行先でふと気づく、とか、たまたまの会話でスイッチが入る、とか。私も、計画してない動きの中で世界が広がった経験があるから、この話は励みになった。

    結局この本は、「やりたいことは“答え”じゃなくて、“育てるもの”」だと背中を押してくれた気がする。自分の心が動くものをよく見て、少しだけ安心の外に出て、出会いと寄り道を増やす。そうやって小さな扉を開けていくうちに、いつか「自分は何のために生きてるんだろう」にも、自分なりの手触りが出てくるのかもしれない。

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