ブログ - 五十嵐工業株式会社 - Page 14
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特別じゃない日々が、いちばん愛しい | 2025.10.31
「愛すべき凡庸な日常」を読んで
守田 樹 著
私は人間観察が好きだ。特に目的があるわけではない。ただ、人が何気なく過ごす時間や、ちょっとした言葉のやり取りに、妙に心を惹かれてしまう。誰かが笑う瞬間や、ふと黙り込む間(ま)に、その人の物語が見えるような気がする。
人って、ほんとうに不思議で、そして面白い。守田樹さんの『愛すべき凡庸な日常』を読むと、その「人間っていいな」という気持ちがじんわりと蘇ってくる。どんなに平凡に見える一日も、少し引いて見れば、そこには小さな笑いや、言葉にならない感情のうねりがある。著者はそれを、ユーモアとやさしさを持ってすくい上げていく。ときに少し皮肉を交えながらも、最後には必ず笑って終わる。その軽妙なリズムに、思わずこちらも笑みがこぼれた。
タイトルにある“凡庸”という言葉は、一般的には退屈の代名詞のように扱われる。けれど、この本では逆だ。凡庸とは、誰もが持つ「普通に生きる力」なのだ。特別なことがなくても、ちゃんと呼吸して、食べて、笑って、時に落ち込みながらもまた立ち上がる。日々の繰り返しこそが、人生の根っこを支えている。著者はそのことを、淡々とした筆致で、しかし確かな温度をもって描いている。
読んでいて何度も笑ってしまった。守田さんの文章には、“大げさに語らない”強さがある。深刻なテーマを扱っていても、どこか肩の力が抜けている。その自然体が心地よく、まるで日向ぼっこをしているような読後感が残る。人の弱さや不器用さを笑いながら受け止めてくれるようで、「それでいいんだよ」とやさしく背中を押される。
特に印象的だったのは、日常の中に潜む小さな奇跡へのまなざしだ。たとえば、朝の光がカーテン越しに差し込む瞬間、コーヒーの香りがふっと立ち上る時間、沈黙の中に漂う安心感。そんな何でもない場面の中に、確かに“生きている”という手触りを見つけている。著者はそれを理屈で語らない。ただ、笑いながら「ほら、ここにあるでしょ?」と示してくれる。その感覚が心地よく、どこまでも自然だ。
読み終えてスマートフォンの画面を閉じたとき、日常の風景が少し柔らかく見えた。朝の空気の透明さや、何気ない会話のぬくもりが、心に静かに残る。守田さんが描く世界は、派手さはないが、どこか懐かしく、今を生きる私たちの心をやさしく整えてくれる。
人間って、ほんとうに愛おしいくらい楽しい生きものだ。
『愛すべき凡庸な日常』は、そのことを静かに、けれど確かに思い出させてくれる一冊だった。
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「心の目で飛べ」――今こそ読みたい『かもめのジョナサン』 | 2025.10.30
「かもめのジョナサン」が今、私に語りかけてくる理由
書店で何気なく手に取った一冊。
それが、リチャード・バック著・五木寛之訳の『かもめのジョナサン』だった。
かつて名を知らぬ者のないベストセラー。
しかし当時の私は、そのタイトルに漂う「自己啓発的な何か」に距離を感じ、読むことなく過ごしていた。けれど今になってこの本と出会い、私は思う。
なぜもっと早く読まなかったのだろうと同時に、いや、今だからこそ深く響くのだとも。
自分だけの「飛ぶ理由」を求めて
ジョナサンは、ただのかもめではない。
彼は“飛ぶ”ことそのものに美しさと意味を見出した、孤高の存在だ。ほとんどのかもめが「食べるために飛ぶ」のに対し、
ジョナサンは「飛ぶために飛ぶ」。
食欲や社会の常識から自由になり、空を極めようとする。その姿は、まるで人生における「意味」を追い求める求道者のようだ。
そして、他者とわかり合えず、理解されず、やがて群れを追われる。
けれどそれでもなお、自分の内なる声に従い続ける。このストイックな生き様が、まるで哲学者そのものに見えてくる。
目に見える世界の限界と、「心の目」の存在
物語の中で最も心に残ったのは、
ジョナサンが若いかもめに向けて語る次の言葉だった。“きみの目が教えてくれることを信じてはいかんぞ。目に見えるものには、みんな限りがある。きみの心の目で見るんだ。すでに自分が知っているものを探すのだ”(バック, p. 139)この一節は、現代を生きる私たちに対する明確なメッセージに思える。
目に見える情報、数値、肩書き、評価…。
それらが真実を語っているようでいて、実はとても限定的で脆いものだということ。私たちが本当に向き合うべきものは、外側にではなく内なる感覚の中にある。
それを「心の目」と呼ぶなら、現代人はどれほどその目を閉じてしまっているだろうか。
神になるという“誤解”と、その行く末
物語の終盤、ジョナサンは伝説となり、彼の言葉は信仰の対象となっていく。
かつて教えを拒んだかもめたちが、今や彼を“神”として崇めるようになってしまう。ここで私は、五木寛之によるゾーンからのメッセージの中で引かれた、法然や親鸞の比喩に思いを巡らせた。
悟りを開いた者の本来の言葉が、やがて形式や儀式に変質していく――。
思想が信仰に、そして信仰が制度になり、やがて“本質”が失われていくプロセス。この皮肉な構図は、宗教だけでなく、あらゆる“権威化”の流れに通じている。
私たちは、かもめたちと同じように、自分の心で考えることを放棄し、
「偉人の言葉」や「すでに定められた意味」にすがろうとしてしまう。
飛ぶ理由は、他人には決められない
ジョナサンの旅は、誰かに理解されるためではなかった。
ましてや、神として崇められるためでもない。
彼が求めていたのは、ただ「自分にとっての飛ぶ意味」を極めることだった。社会に受け入れられずとも、家族にたしなめられても、
自らの魂が向かう方向へと飛び続ける。その姿は、自由の象徴であると同時に、孤独と向き合う覚悟そのものだ。
「あなたは何のために飛びますか?」
この本は、読むたびに違う顔を見せるのかもしれない。
若いころに読んでいたら、きっと「自由でかっこいい生き方だな」で終わっていただろう。
だが今読むと、その裏にある哲学的な問いが、静かに心に刺さる。この世界には、無限に情報があるようで、実はとても狭い枠で回っている。
だからこそ、目に見えるものを超え、「自分の心の目」で世界を見つめる力が問われている。そして私は今、自分に問いかけている。
私は、何のために飛んでいるのだろう?

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知らなかった、じゃ済まされない。ナショナリズムってなんだ? | 2025.10.29
知らなかったことが多すぎて、ちょっとショックだった
中国や韓国との関係にずっと興味はあったけど、ちゃんと調べたり考えたりしたことってなかったかも……。そんな気持ちで手に取ったのが、『日中韓を振り回すナショナリズムの正体』という本。対談形式でとても読みやすいのに、読後はずしんと重い感覚が残った。
まず、冒頭で著者が言っていたこの一言に、ドキッとさせられた。
「何をすべきかじゃなく、何をすべきでないかを言い続けるべきだと思ってる」
今の世の中、正しさや主張が目立ちやすいけれど、そうじゃない軸もあるんだなと思った。
「美しい日本」に潜む落とし穴?
ナショナリズムって聞くと難しく感じるけど、この本では「上部構造」と「下部構造」に分けて説明されていて、それがすごく分かりやすかった。
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上部ナショナリズム:国家が主語(国益・国威・強い国)
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下部ナショナリズム:私たち市民が感じるもの(文化・自然・生活の知恵)
たとえば「日本って美しい国だよね」っていう気持ち。これ自体は悪くないけど、それを国家が都合よく利用しちゃうと、危ない方向に転がることもある。
「いいナショナリズム」が「危ないナショナリズム」に利用される瞬間って、実はすぐそこにあるのかもしれない。
「戦争はイヤだ」だけじゃ足りないってこと
戦争の話って、どうしても「つらかった」「もうイヤだ」で終わってしまいがち。でも、それだけじゃ後の世代にはちゃんと伝わらない。
たとえばこんな例えが本の中に出てきた。
「沸騰したお湯に手を突っ込むと火傷するよ」ってだけじゃ伝わらない。
100度のお湯がどうして危ないのか、皮膚がどうなるのか、そこまで知らないと行動にはつながらない。「戦争はダメ」って気持ちをどう伝えるか、考えさせられた。
自分の考え、本当に自分で考えたもの?
正直、ネットやテレビでよく見る「日本スゴイ系」の話って、気持ちよくて好きだった。でもこの本を読んで、「それ、本当に自分で調べて考えたこと?」と問われた気がした。
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ネットの情報も、見たいものだけ見てるだけじゃ危ない
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他国のことを知らないのに、自分の意見を語ってた
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「強い国」「美しい国」って言葉、気をつけて使わないと危うい
読んでいるうちに、知らないことの多さと、自分の想像力の足りなさにちょっと恥ずかしくなった。
知ろうとすることが、まず一歩
中国や韓国と、どう関わっていけばいいのか?
答えは一つじゃないし、すぐにわかるものでもない。だけど「知らないまま」「わかった気になる」のが一番危ないと、この本は教えてくれた。たとえば著者たちは、「ナショナリズムには3つの層がある」と言ってる。
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A層:政府と政府の関係(国益)
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B層:民間人同士の交流や理解
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C層:感情だけで相手を嫌う人たち
私はせめてB層でいたいし、できれば周りにもそうあってほしい。
国と国の話をするのって難しいけど、ちゃんと知ろうとすること、それが最初の一歩なんだと思う。
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私たちは“正しく毒を食べる”ことができるか?──『食欲人』が教えてくれた食のリアル | 2025.10.27
『食欲人』というちょっと風変わりなタイトルのこの本。読み進めるうちに「食欲って、こんなにも科学的に語れるのか」と驚かされっぱなしでした。冒頭から「1キロカロリーは、水1リットルの温度を1℃上げるのに必要な熱量」と説明され、「そんな単位で食事を考えてるのか」と笑ってしまったのを覚えています。
この本の面白いところは、食べ物の話がいきなり“バッタ”から始まるところ。炭水化物だけ与えたバッタが太ったとか、ゴキブリが段ボールから栄養を摂るとか、「えっ、そこから人間の食欲を考えるの?」と、いい意味で裏切られました。でも読み進めていくと、どの生き物にも“食欲”という本能的な力があり、それがいかに環境や進化と結びついているかが次々に語られていきます。
とくに興味深かったのが「人間の食欲には五つの欲(タンパク質・炭水化物・脂肪・ナトリウム・カルシウム)がある」という話。それらのバランスが取れて初めて脳に“満腹信号”が届くけれど、そのタイムラグのせいでつい食べすぎてしまう。つまり、僕らが「食べすぎちゃった…」と思うのも、ある意味で身体の構造によるものだとわかって、ちょっと救われた気もしました。
そして中盤からの“超加工食品”の話には、正直ぞっとしました。僕たちが普段口にしているチョコレートやアイスクリーム、シリアル、スナック菓子…そういったものの多くに、実はペンキやシャンプー、プラスチックと同じ原油由来の成分が使われているという事実。さらにそれらは、保存やコスト削減のために意図的に加工され、しかも“また食べたくなるように”タンパク質を減らして設計されている、と。
怖いのは、それらの食品が「身体に良い」と誤解させるようなラベルや広告で売られていること。緑色のパッケージ、果物のイラスト、フルーツグミ、果糖入り飲料…どれも「自然でヘルシー」と錯覚しがち。でも、これは全部“食欲を刺激するための演出”なんだと知って、僕たちは本当に巧みに“食べさせられている”のだと実感しました。
中でも印象的だったのは、「世界の食品市場はたった9社の多国籍企業が牛耳っている」という事実。その企業が巨額の広告費を使って、特に“子どもの味覚”にマーケティングをかけている。子どもが好む味は一生引きずる。つまり、子どものうちに“加工食品好き”にしておけば、一生その企業の顧客になる。そう考えると、自分の子どもや孫にまで影響する話で、笑えないなと思いました。
読み終えたあと、僕はふとこう思いました。
「これはもう、“正しく毒を食べる”という姿勢が必要なんじゃないか」と。
これは著者の言葉ではありません。でも、食べ物の裏側にある仕組みや戦略を知った今、怖がるだけではなく、うまく付き合っていく視点が必要だと感じたのです。僕もポテトチップスもコーラも好きだし、これからも食べるでしょう。でも、テレビCMやSNSの食レポに流されるのではなく、「何を食べるか」を自分で判断する意識を持ちたい。そんな風に思えたことが、自分にとっての一番の収穫だったかもしれません。
本の終盤では「自分で料理をすること」の大切さにも触れられていて、普段、妻がすべて作ってくれている僕はドキッとしました。感謝しながらも、食材を自分で選んでみたり、たまには何か一品つくってみたり。そういう“小さな参加”が、自分自身の食欲や嗜好と向き合うきっかけになるのかもしれません。
そして読後、さらにもう一つの思いが浮かびました。
「こう思う自分こそ、すでに“毒”にマインドコントロールされているのかもしれない」と。
だって、美味しいものの魅力からは、やっぱりどうしても逃れられないから。
それでも、知って選ぶ。正しく恐れて、ほどよく楽しむ。
それが僕にとっての、“食”とのこれからの付き合い方になりそうです。
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「空海とアインシュタイン」――宗教と科学が交差するとき、世界はどう見えるのか? | 2025.10.23
空海とアインシュタインが交差する場所で
――宗教と科学の“干渉パターン”をたどる読書体験
「宗教」と「科学」って、まったく別の世界にあると思っていました。
でも、最近いろんな本を読んでいる中で、実はそれらが意外なところでつながっていたり、干渉しあっているという感覚が、少しずつ“腹落ち”してきたんです。そんな中で出会ったのが、広瀬立成さんの『空海とアインシュタイン』。
タイトルを見たとき、「えっ?空海とアインシュタイン?」って思わず二度見してしまいました。千年以上も時代が違うふたりが、どう交わるのか。そのギャップに惹かれて手に取りました。
東寺の曼荼羅に衝撃を受けたアインシュタイン
本の中で特に印象に残ったのは、アインシュタインが日本に滞在していたとき、東寺の立体曼荼羅を見て大きな衝撃を受けた、というエピソード。
彼が理論物理の世界から見ていた“宇宙”と、空海が曼荼羅に託した“世界”とが、どこかで重なった瞬間だったのかもしれません。アインシュタインは「物理法則は絶対的なものではない」とし、ニュートン力学の常識を覆す相対性理論を打ち立てました。
光の普遍性、重力による光の曲がり……目に見えないものを想像する力と、それを証明しようとする探究心は、ある種の“信仰”にも似ている気がします。
左脳と右脳、理性と感性の共鳴
本書では、空海とアインシュタインを「左脳と右脳のバランスに優れた人物」として捉えています。
アインシュタインは数式に強い“理系の頭”を持ちながらも、バイオリンを愛し、直感やイメージからアイデアを得ていたそう。空海もまた、仏教哲学だけでなく詩や書、絵など芸術的な感性に富んでいた人物でした。宗教と科学、感性と理性をそれぞれの「対立するもの」として見るのではなく、互いに交差して生まれる“干渉パターン”にこそ、真理があるのではないか――著者はそんな視点を私たちに示してくれます。
「縁起」と「因果律」――未来をつくる思考
空海の教えの中にある「縁起」という言葉。
すべてのものは、それ単体で存在するのではなく、必ず何らかの関係性(=縁)によって生じているという仏教の考え方です。一方、科学の世界では「因果関係」として、原因があって結果があるという仕組みを説明します。
このふたつは表現の仕方は違えど、どちらも“今の行為が未来に影響する”という点で本質的に通じている。
アインシュタインも、この「縁起」という思想にふれて、深く感銘を受けたそうです。
精神性をどう活かしていくか
アインシュタインは、日本滞在中にこんな言葉を残しました。
「西洋の知的業績を賞賛しつつも、日本人にはそれ以上の価値観を持ち続けてほしい」
それはきっと、日本人がもともと持っている精神性や宗教観の深さを指していたのだと思います。
合理主義が進む現代においても、目に見えないものを大切にする姿勢は、地球環境や社会の在り方を見直す上で、これからますます大切になっていく気がしています。
自然との戦争をやめるために
この本を読みながら、「人間は自然に対してずっと戦争を仕掛けてきたのではないか」とも思いました。
便利さや支配を追求するあまり、自然の摂理を無視し、気候変動や災害という“反撃”を受けるようになっているのではと。科学がどれだけ発展しても、私たちは自然の一部であることを忘れてはいけない。
宗教が伝えてきた「謙虚であること」や「つながりを感じること」が、これからの時代により必要とされているのかもしれません。
最後に:未来は、今ここからつくられる
この本の最後にあった一文が、強く印象に残りました。
「未来世代は現世代の責任を追及できない」
これは、つまり“今”を生きる私たちの責任がいかに大きいか、ということ。
未来は突然やってくるものではなく、私たちの現在の選択が積み重なってできていく。
宗教と科学という異なるアプローチを通して、そうした視点を持つことの大切さを改めて感じました。
この本は、探求心を刺激されたい人、価値観を広げたい人にこそおすすめです。
「自分の信じている世界だけがすべてじゃない」と気づいたとき、きっと新しい視界が開けてくるはずです。
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「怖れる前に、知る。ヒグマという“神秘”と共に生きる」 | 2025.10.17
「怖い」だけじゃない。ヒグマという存在から見えてきたこと
──『ヒトとヒグマ』(増田隆一)を読んで
最近、熊出没のニュースをよく耳にします。
特に山の近くに住んでいると、「またか…」とちょっと他人事ではいられない。
秋は紅葉を撮りに山に入りたいし、滝の写真も撮りに行きたい。でも、熊に遭遇するかも…そう思うとちょっと怖い。そんな気持ちで手に取ったのが『ヒトとヒグマ』(増田隆一 著)です。
「熊は怖い」だけで終わらせたくない。そもそもどんな動物なのか?どう人と関わってきたのか?その背景を知ることで、見方が変わるかもしれない。そんな思いで読みました。
ヒグマのリアルな生態に驚きの連続
読み進めるうちに、ヒグマという存在がどんどん立体的に感じられてきました。
まず驚いたのが、200kmを移動することもあるという広大な行動範囲。
そして、雑食性であること。植物も食べるし、エゾシカの幼獣を食べることもある。人が自然環境を変えてしまったことで、熊の食性も変化してしまっているというのです。特に印象に残ったのは「冬眠」の話。
詳しい説明は本に譲りますが、体の水分を循環させながら何ヶ月も活動を止めるなんて、人間には到底マネできない神秘的なシステムです。
自然界の奇跡というか、思わず「すごい…」とつぶやいてしまいました。
「共存」がテーマになってくる理由
一方で、ヒグマの個体数は増えているとのこと。
北海道などでは、広大な農地に家畜用のデントコーン(トウモロコシ)が栽培されており、ヒグマにとっては手軽に食べ物が手に入る“餌場”になってしまっているそうです。
結果として、森の中よりも人里近くで過ごす「都市型ヒグマ」が生まれてきた。でも、ただ「危ないから駆除しよう」という話にはしたくない。
本書では、アイヌ民族に伝わるクマ送り儀礼の話も紹介されています。
冬眠から目覚めたヒグマは、カムイ(神)界から地上に降りてくる存在。
その熊を敬い、豊かな肉や毛皮をもたらしてくれることに感謝する文化がある。
それが「クマ送り」です。
感受性と寛容性のバランス
この本でとても共感したのが、「感受性と寛容性」に関する考察。
子どもは好奇心が旺盛で、感受性も高い。でも寛容性はまだ低い。
一方で、大人になると文化的な経験を重ねて寛容性は高まるけれど、感受性は鈍っていく。この“交差点”のような時期に、ヒグマのような存在と出会い、考え、体験することの大切さ。
なんだか今の社会にもつながる話だなと感じました。
熊を知って、備えるという姿勢
今回この本を読んで、「熊が怖い」という感情の裏にある、“知らないことへの恐れ”に気づきました。
ちゃんと知れば、どう備えるべきかも見えてくる。
そして、ヒグマという存在はただの野生動物ではなく、人間の文化や精神にも深く関わってきた、特別な生き物だということも分かりました。自然との関わり、異文化との接点、生物多様性の意義。
ヒグマ文化には、そういったさまざまなテーマが凝縮されています。筆者は「ヒグマ文化は、集団の結束を促し、他文化との絆を強める力がある」と語っていましたが、まさに同感です。
人と自然、人と人との距離感を考え直すヒントがここにはある。これから紅葉狩りや写真撮影で山に入るときは、熊鈴だけでなく、こうした知識や敬意も一緒に携えていたいと思いました。

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