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ブログ - 五十嵐工業株式会社 - Page 9

  • 政治が変わる入口は、案外テクノロジーかもしれない | 2026.02.09

    未来は「1%」から動く——『1%の革命』を読んで

    安野貴博さんの『1%の革命』を読んで、久しぶりに「未来の話って、こんなに現実的で面白いんだ」と思わされました。今の世の中は、どこか息苦しい。政治も社会も、変えたい気持ちはあっても、結局は大きな声や対立の構図に引っ張られて、前に進まない——そんな閉塞感を多くの人が感じている気がします。

    安野さんが示すのは、根性論ではなく、テクノロジーを使って“仕組み”を作り替える発想です。都知事選で15万票超を得た背景にも、AIを使って市民の声を拾い、双方向で政策を磨く姿勢があったと知り、「新しい政治家が出てきたな」と素直に感じました。

    本書で特に刺さったのは、「ホワイトボックスな政治」という考え方です。何を根拠に、どんな議論を経て、なぜその結論に至ったのか。意思決定のプロセスが見えるだけで、人の納得感は変わる。これは政治に限らず、会社でも同じです。現場での判断ほど、説明があるだけでチームの動きが揃う。逆に“よく分からない決定”が続くと、人は離れていく。透明性は、信頼の土台なんだと再確認しました。

    教育・医療・行政の話も、夢物語ではなく「今ある技術で、ここまでできる」という距離感で書かれているのが良かったです。学びの場は一つでなくていい。医療はオンラインやAI問診でアクセスを広げられる。行政も、申請主義の手間を減らし、必要な人に必要な支援が届く形へ寄せられる。テクノロジーは冷たい道具じゃなく、“取りこぼし”を減らすために使える——この視点は、読後に残りました。

    そして、本書の芯は「デジタル民主主義」です。SNSなどの膨大な声をAIで要約・可視化し、誹謗中傷は抑え、建設的な議論を増やし、そのプロセス自体も公開していく。多数決だけでは拾いきれない少数意見に光が当たる社会は、たしかに今より“住みやすい”方向に近づく気がします。いきなり100%の直接民主主義ではなく、まずは「1%だけ混ぜる」。この小さな導入が革命になる、という発想がうまい。

    私は年齢的には若い世代ではありません。でも、だからこそ思うのです。変化の時代に必要なのは、「分からないから距離を置く」ではなく、「分からないから、まず触れてみる」姿勢だと。AIもデジタルも、使い方次第で人を近づけもすれば、遠ざけもする。ならば、近づける側に賭けたい。

    結局、『1%の革命』は「あなたも1%の挑戦者になれる」と背中を押す本でした。大きな正しさを振り回すより、小さな改善を積み重ねる。未来を語ることを、もう一度“ワクワクするもの”として取り戻す。私も、自分の仕事や暮らしの中で、今日できる1%を増やしていきたいと思います。

  • 50年目の答え合わせ――「写真以外のことを学べ」という教えと、リベラルアーツの正体 | 2026.02.06

    「写真が上手くなりたければ、写真以外のことを多く学びなさい」

    50年前、私が写真の師から受け取ったこの言葉を、私は今日まで愚直に守ってきました。写真の技術だけを磨くのではなく、世界そのものに触れ続けること。そう思って、本を読み、音楽に浸り、映画を観て、スポーツに熱くなり、宗教や歴史にも手を伸ばしてきました。一見、写真とは無関係に見えるものほど、実は私の“目”を広げてくれる――そんな確信があったからです。

    最近、その師が旅立ちました。大きな喪失感がありながら、不思議と、言葉は以前よりも近くに感じます。あの教えが、いまになって静かに胸の奥で鳴り続けている。師匠はもう目の前にはいないけれど、その視点は私の中で生き続け、これからの一枚一枚に息を吹き込んでくれる気がしています。

    点が、線になりはじめた

    最近、少し不思議な感覚の中にいます。これまでバラバラだった興味や知識が、自分の中で一つの大きな「流れ」になって、つながり始めたのです。言語化しきれないもどかしさは残るのに、確かな手応えがある。撮る前から、すでに心が反応しているような感覚です。

    この感覚の正体を確かめたくて、私は「リベラルアーツ(自由教養)」という言葉を、AIと一緒にほどいてみました。すると腑に落ちました。リベラルアーツとは、雑学の寄せ集めではない。既存の枠組みに縛られず、一人の人間として自立して生きるための“自由のための知恵”なのだ、と。

    「自由」になるための教え

    師の「写真以外を学べ」という教えは、私を「写真の技術」という狭い檻から解き放ち、世界を多角的に見るための自由な視点を授ける道標だったのでしょう。学びの幅を広げるほど、被写体の見え方が変わる。撮る行為が、世界との対話になっていく。私は半世紀かけて、その意味を体で理解してきたのだと思います。

    そして今は、その教えを受け取った側として思います。これは私の中だけで終わらせてはいけない。師が残してくれた火種は、私の中で燃え続けている。だから今度は私が、誰かに手渡していきたい。写真を通じてだけではなく、「世界の見方」を伝えるように。

    見えないものを写す、ということ

    50年前の私は、綺麗なものや驚くべき記録を追い求めていました。けれど今の私は、そこにある「空気感」や「音」、そして「名もなき情報」を写したい。スポーツ観戦で感じた一瞬の緊張、音楽が描く目に見えない旋律、本が教えてくれた深い洞察……。それら“写真以外”の学びが、私の感性のフィルターを幾層にも重ねてくれました。

    たとえば雨の夕暮れ、誰も足を止めない路地で、私はふと本で読んだ一節を思い出し、音楽の残響のように濡れた光を感じたことがあります。シャッターを切ったのは景色そのものではなく、その場に漂う“気配”でした。こういうとき写真は、目だけでなく、耳や記憶や価値観まで総動員して撮っているのだと分かります。
    遠回りに見える学びが、結局いちばんの近道でした。写真はレンズの前だけで完結しない。生き方そのものが、静かに写り込む。

    リベラルアーツがくれる自由は、何でも知っている状態ではなく、「何を大切に見るか」を自分で選べる状態だと思います。だから私は、撮る前に急がない。まず感じ、確かめ、迷い、最後に一枚を選ぶ。その迷いこそが、私の表現の根になります。

    知的自由の旅は続く

    言葉にできないものがあふれるこの世界で、その豊かさを少しでも残し、誰かと共感したい。そしてもう一つ、師の思いを、かたちを変えて受け継いでいきたい。私が写真を続け、学び続ける限り、師は私の中で生き続けます。だから今日の一枚は、過去への追悼であり、未来への手渡しでもあります。

    学びには終わりがありません。機材の進化、他者の表現、そしてまだ見ぬ世界の気配。無限に広がるこの「知の宇宙」を、これからも衝動のままに歩き続けていこうと思います。

  • コーヒーは嗜好品じゃなく「話がはずむきっかけ」だった | 2026.02.06

    落ち着いた時間を楽しみたいと思うようになって、最近はコーヒーをドリップで淹れる時間が小さな楽しみになっている。湯気と一緒に立ち上がる香りの中で、部屋の静けさが少し深くなる。
    以前からインスタントは毎日2杯くらい飲んでいたのに、なぜか今になって急に「コーヒーに愛着」が湧いてきた。そんなタイミングで手に取ったのが、**『世界のビジネスエリートは知っている。教養としてのコーヒー』(井崎英典 著)**だ。

    本書でまず驚いたのは、コーヒーが“世界規模の存在”だということ。著者は、コーヒーの貿易取引総額が石油に次ぐ規模であること、さらに世界で1日に飲まれる量も桁違いであることを紹介している。私にとっては身近な飲み物だったものが、一気に「世界を動かす液体」に見えてきた。

    そして何より面白かったのは、コーヒーが“議論とコミュニティの飲み物”として歴史を作ってきた点だ。コーヒーハウスは、酔いが回って話が流れてしまう酒場と違い、しらふで頭が冴えたまま言葉を交わせる場所だった。保険の仕組みや情報交換の文化が、こうした場から育ったという話は妙に腑に落ちた。

    ここでふと思う。商談や打ち合わせで、自然にコーヒーが出てくるのはなぜなんだろう、と。たぶん理由は単純で、コーヒーは場を整える。人の気持ちをほどき、頭を起こし、言葉を前に進める。つまりコーヒーは、嗜好品というより**「対話の装置」**だったのかもしれない。

    一方で、本書はコーヒーの明るい面だけで終わらない。ヨーロッパでは“コーヒーを飲む権利”が人権に近い感覚で語られることがある一方、その裏で人権を無視された労働や植民地主義の歴史があったという指摘も重い。好きになったものほど、都合のいい部分だけ見たくなる。でも、背景も知って飲む一杯のほうが、たぶん味わいが深い。

    日本の話も印象的だった。日本は消費国として存在感が大きく、喫茶店文化も独特に育ったという。ファーストウェーブ/セカンドウェーブ/サードウェーブという“流行の波”の整理もされていて、いま当たり前に美味しいコーヒーが飲める時代が、実は長い積み重ねの上にあることがわかる。

    個人的な記憶も呼び起こされた。昔、長崎で飲んだ水出しコーヒーのこと。飲み物は味だけじゃなく、時間や場所の記憶まで連れてくる。そういう意味でも、コーヒーは「人と場」を運ぶ飲み物なんだと思う。

    結局、この本が何度も言っているのは、コーヒーの本質的な価値は“精神の解放”にある、ということだ。淹れようと思った瞬間から、湯を沸かし、香りが立ち、抽出が終わって口に運ぶまで——その一連が、すでに体験になっている。私はただ落ち着きたくて飲んでいたのに、いつの間にか「世界史と哲学」を飲んでいたのかもしれない。

    さらに怖い話として、本書では「2050年問題」にも触れている。気候変動で栽培適地が減り、いま当たり前に飲んでいるコーヒーが当たり前ではなくなるかもしれない。そう思うと、目の前の一杯を雑に扱えなくなる。

    一杯のコーヒーの背後には、神話のようなはじまりの物語から、宗教、政治、植民地、ビジネス、そして未来の環境問題まで、途方もない話が折り重なっている。これからは、なんとなく飲む一杯に、少しだけ“彩り”を足して味わっていきたい。

  • 読書は脳をつくる行為だった —『読書する脳』で知る、紙の本の力 | 2026.02.05

    読書は脳をつくる行為だった

    —『読書する脳』(毛内 拡 著)で知る、紙の本の力—

    ■ なぜ「読む」と脳が喜ぶのか?

    著者・毛内拡さんのYouTubeをきっかけに本書を手に取りました。
    読書好きな私にとって、「読むことが脳にどう作用しているのか」はずっと気になっていたテーマ。本書を通して、紙の本で読むことの“意味”が、脳科学という視点から次々と明らかにされていきます。

    読書は、ただの情報収集ではない。
    あなたの脳を、作る行為である。

    この言葉が、読後にずっしりと響いています。


    ■ 紙の本がもたらす「触れる読書体験」

    今の時代、スマホやタブレットで文章を読む時間は長くなりました。でも、本書ではあえて**“紙の本”を読むことが脳に与える刺激の違い**を強調しています。

    • 本を「めくる」動作は、視覚・触覚・運動感覚を同時に刺激する

    • ページの厚みや位置で、「どこに何が書いてあったか」を空間的に記憶できる

    • 読んだ情報を脳内に地図のように残せるのは、紙だからこそ

    まさに、空間ナビゲーションとして読む感覚。デジタルではスワイプで飛ばしてしまう情報も、紙なら自然に“戻る・探す・考える”行為ができるのだと実感しました。


    ■ 情報過多の時代に、読むという“静かな革命”

    SNSや動画、ニュース…私たちは常に情報の波にさらされています。
    脳はエネルギー消費が激しい臓器で、つい“省エネ”で簡単な情報に飛びついてしまう。そこに、ドーパミンが関係していると本書は語ります。

    面白そう、という予測が当たることで、脳は快感を得る。
    だから“浅く・速く”情報を追いがち。

    けれど、読書は逆です。「じっくり読むこと」が脳に深い満足を与える。外からの刺激ではなく、内的な報酬を生む行為だからこそ、読後の余韻や感動が深く記憶に残るのです。


    ■ 読書がくれる、精神的自由

    本書の中で初めて知った言葉があります。

    精神的自由 — 自分の価値観で物事を解釈し、生き方を選ぶ力

    これは、ただの知識では得られないもの。物語に感情移入し、他者の心に触れる読書体験を通して、私たちは知らず知らずのうちに「共感力」や「創造力」を育てているのだと感じました。

    そして、自分の内なる声を聞き、言葉にする。私は今、noteで読書の感想を綴ることが、**読書という旅の“最後の1ピース”**のように思えます。


    ■ おわりに

    読書は、ただ読むだけでは終わらない。
    その時感じたことを言葉にし、誰かに伝えることで、脳の中にしっかりと刻まれていく

    読書とは、脳で感じる旅。
    その旅の記録が、私のnoteです。

    忙しい時代だからこそ、「あえて読む」という選択をしていきたい。
    この本に出会って、そう強く思えた1冊でした。

  • やる気に頼らない習慣のつくり方 | 2026.02.04

    『習慣超大全』BJ・フォッグ著(須川綾子訳)を読んだ。
    習慣にしたいことは本当にたくさんある。でも、なかなか習慣にできないことの方が多い。たぶん人間みんなそうなんだろうけど、それでも何かヒントが欲しくてこの本を手に取った。気づけば2ヶ月。じっくり読んだのに、読んだだけで“できる人”にはなれない。けれど、「できない理由」が見えてきた分、これは良い読書だったと思う。

    冒頭で特に印象に残ったのは、継続的な変化を起こす方法は3つしかない、という話だ。
    正確な情報を提供すれば、人は考えを改め、結果的に行動も変わる――私たちはつい、そう信じがちだ。でも実際は、情報だけでは足りない。行動を確実に変えるには、次の3つのどれかが必要になる。

    天啓を得る(腑に落ちる瞬間)

    環境を変える

    小さなことから始める

    ここが、最初は少し難しく感じた。でも読み進めるほどに、「ああ、だから続かなかったのか」と納得する場面が増えた。特に“やる気”や“意志力”に頼る発想は、脳の性質的に危うい。モチベーションは移ろいやすく、当てにすると崩れる。だからこの本は、やる気を使わなくてもできる形にすることを勧めてくる。

    人の行動は、モチベーション・能力・きっかけの3つで決まる。
    そして多くの場合、最後まで到達できる人は1割もいない。これを知っているだけで、落ち込み方が変わる。「自分がダメだから」ではなく、「設計が合っていないだけ」かもしれない、と考えられる。

    私にとって実用的だったのは、「その行動は本当に習慣になりやすい形か?」を見抜くための質問だった。

    その行動を実行するだけの時間はあるか

    お金はかかるか

    身体的に無理はないか

    頭を使いすぎる内容ではないか

    日課に組み込めるか(調整が必要か)

    ストレスを伴う行動は習慣になりにくい。無理をすれば短期的には頑張れても、長くは続かない。運動が続かないのも、ここに理由がある気がした。さらに厄介なのは、続かないと罪悪感が出ることだ。罪悪感が出ると、ますます遠ざかる。だから完璧を目指さない。目指すのは「継続」。この割り切りは、きれいごとじゃなくて、現実的な優しさだと思った。

    そして本の中心にあるのが、**きっかけ(アンカー)**の使い方だ。
    自分の意志で「やろう」とすると失敗しやすい。だから、すでに毎日やっている行動の“後ろ”に、小さな新習慣をくっつける。特に朝は日課が多く、予測もしやすい。つまり、

    「〇〇した後に、△△をする」

    これが作れた瞬間、習慣は“気合い”から“仕組み”に変わる。必要なスキルは、最適なアンカーを見つけて、適切な小さな行動と組み合わせること。自分をコントロールするために、相手をコントロールしようとしない。この視点も、妙に腑に落ちた。

    もう一つ、意外に深かったのが**「祝福(セレブレーション)」**だ。
    行動のあとに気分が良くなると、脳はそれを覚える。ポジティブな感情は行動を強化し、次につながりやすくする。逆に、不快感が強いと、脳は避ける回路を強めてしまう。だから、うまくできたら大げさに祝っていい。むしろ祝うことが、習慣の燃料になる。ユーモアや小さな達成感も、馬鹿にできない。

    さらに、モチベーションを下げる要因として「社会的プレッシャー」が挙げられていたのも納得だった。比較、評価、人の目。これが入ると、行動のハードルが一気に上がる。長期的な変化をデザインするなら、下げる要因を軽くする、あるいは遠ざける工夫が必要になる。

    終盤の比喩で印象に残ったのは、**絡み合ったロープ(結び目)**の話だ。
    習慣というのは、いろんな結び目が絡んでできている。全部を一気にほどこうとすると、余計に固くなる。だから、いちばんほどきやすい結び目から解く。小さく、確実に。そうして少しずつ全体がほどけていく。これは、習慣づくりに限らず、人生の立て直し方にも似ている気がした。

    「このレシピで一生が変わる」と言われても、現実はそんなに単純じゃない。自分を変えるのは難しい。そこは正直にそう思う。
    でも同時に、「変われないのは自分のせい」と思い込まなくていいとも思えた。仕組みの作り方を知らなかっただけかもしれない。私はきっとまた読み直す。自分の行動を点検するために。そして次は、“ほどける結び目”を一つだけ解いてみようと思う。

  • 人生が主役。仕事はその手段 | 2026.02.03

    25年前、北欧で唯一訪れた国がデンマークだった。デンマークデザインの視察研修旅行として記録も残したが、あの旅で受けたカルチャーショックは、いまも鮮明に思い出せる。今振り返ると、あの衝撃こそが、私の仕事観や経営の根っこをつくったのかもしれない。

    今回『デンマーク人の休む哲学』を読み、その記憶が、現在の言葉で“再点火”された感覚がある。驚くのは、25年前の時点で、彼らはすでに「休み」を人生の中心に据えた働き方をしていたことだ。日本ではようやく働き方が見直され始めたが、デンマークでは「休むこと」に罪悪感がない。外から見ると、のんびりしているように見えるのに、決して怠けてはいない。むしろ彼らは、休みの価値を最大化する“休みの達人”なのだと思わされた。

    休みの時間は、ただ寝て回復するだけではない。森を歩き、スポーツをし、焚き火を囲み、家族や親しい人と食事をし、DIYや家庭菜園、読書を楽しむ。そこにはリラックスだけでなく、社交と創造が自然に含まれている。象徴的なのが「ヒュッゲ」。気心の知れた人と、心地よい空間で、肩の力を抜いて過ごす時間。豪華さやサービスではなく、体験を共有することが“贅沢”になる。最高に心地よい場面を思い浮かべたとき、誰といて、どこにいて、何をしているか——それが自分にとっての「帰る場所」だ、という視点は刺さった。

    また、休みを守るために、働き方の設計も違う。メールの即レスを前提にせず、勤務時間外に仕事が侵入しないようにする。重要な連絡は実は少ない、という見立ても示唆的だった。さらに休暇は「取れたら取る」ではなく「取るのが当たり前」。長期休暇も、細かく詰め込まず、余白を残して味わう。日本の旅行が“タスク化”しやすいのに対し、彼らは「満喫する」ために予定をゆるく持つ。仕事は幸福な人生の手段であり、主役は人生のほう——この前提が揺るぎない。

    読み終えて強く残ったのは、「休むことは甘えではなく技術であり、文化であり、未来への投資だ」という感覚だ。日本人が休めないのは、忙しさだけでなく、休み方・居場所・人間関係の設計が痩せているからかもしれない。スマホでダラダラ気晴らしをしても回復しないのは、受け身の情報で思考の余白が埋まるから。むしろ、読書や自然の中の散歩のように、主体的に心を整える時間が要る。私自身、自然や写真の時間に救われる感覚があるからこそ、この本の言葉は実感として腑に落ちた。

    人口約600万人の小国でも、世界の中で存在感を持てる理由の一端は、ここにあるのだろう。休みを人生の味方にし、限られた時間で集中して働き、体験と関係性に幸福の軸を置く。25年前に受けた衝撃が、今の日本でこそ“鍵”になる——そう確信できた一冊だった。

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