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ブログ - 五十嵐工業株式会社 - Page 7

  • 過去の読書は、未来の自分を待っているのかもしれない | 2026.03.09

    本は不思議なものだと思う。
    読んだその時にはうまく言葉にならなかったことが、何年も経ってから、まったく別の出来事をきっかけによみがえることがある。今回の私にとって、それが加藤陽子さんの『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』だった。

    この本を私は7年前に読んでいた。ブクログには2017年12月15日読了の記録が残っていた。けれど感想は書いていなかった。本も捨ててはいないはずなのに、本棚のどこにあるのか思い出せない。読んだという事実だけが残り、その時の自分が何を思ったのかは空白のままだった。

    そんな一冊が、最近読んだ二つの記事によって、ふいに私の中で動き出した。
    ひとつは、高校生がこの本を読んで書いた読書感想文。
    もうひとつは、慰安婦問題の実態にあらためて向き合った新聞記事だった。

    高校生の感想文に、私は教えられた

    まず驚いたのは、高校生の感想文の深さだった。
    文章がうまい、というだけではない。歴史を「昔の出来事」として遠くへ置かず、自分の足元につながる問題として引き寄せて考えている。その姿勢に、私は本当に驚かされた。

    過去の人々を、ただ「間違った判断をした人たち」と切り捨てるのではなく、自分もその時代にいたら同じ空気に流されたかもしれない、と見つめている。その想像力と思慮深さに、私は脱帽した。

    正直に言えば、高校生の頃の私が同じ本を読んでも、ここまでの感想文はとても書けなかったと思う。環境も情報量も違うのだろう。けれど、それを差し引いても、若い世代の中にある感受性や思考の深さを軽く見てはいけないと痛感した。
    「今時の若い子は」などという言葉は、こういう文章を読んだ後では、とても口にできない。

    7年前の読書が、今になって戻ってきた

    私は20代の頃から本を読み続けてきた。気がつけば4000冊ほどになる。ジャンルも決めず、興味が湧けばすぐ読む。新聞も雑誌も好きだし、映画も芸術も好きだ。自然の中に身を置いて感じることも、私にとっては大切な学びの一つだ。

    だから一冊の本も、その本だけで終わることは少ない。別の本とつながり、社会の出来事と重なり、時間が経ってから思わぬ形で意味を持ち始めることがある。今回の出来事は、まさにそれだった。

    7年前の私は、この本を読んで何かを感じていたはずだ。けれど、それを言葉に残していなかった。今なら少し違う形で向き合える気がする。社会情勢も変わり、自分も年齢を重ね、さまざまな本や現実に触れてきたからこそ、あの時には受け止めきれなかったものが、今ようやく輪郭を持ち始めている。

    読書は、その場で感想を書いて終わるものではない。
    時間の中で熟し、別の経験と結びつき、ある日突然、自分の中で開き直されることがある。
    過去の読書は、案外、未来の自分を待っているのかもしれない。私は今回、そんなことを強く感じた。

    負の歴史から目を背けないために

    もうひとつの記事を読んで、私はその問題を今あえて記事にした新聞社にも敬意を抱いた。
    どの国でも、自分たちにとって不都合な過去には目を背けたくなるものだと思う。忘れたい、軽く済ませたい、都合の良い解釈で包みたい。そういう気持ちは、国にも社会にも、人間にもある。

    しかし、だからこそ、そこから目をそらし続けることの危険性を私たちは学ばなければならないのだと思う。負の歴史を見ないままでいることは、同じ過ちを別の形で繰り返すことにつながる。
    歴史に学ぶとは、誇らしい出来事だけを並べて安心することではない。目を背けたくなるような出来事も含めて、人はなぜそうしたのか、なぜ止められなかったのか、なぜ沈黙したのかを考え続けることなのだと思う。

    私は今回、日本人として考えた、というだけでは足りないとも感じた。
    これは日本という国の問題である前に、人間そのものの問題でもある。
    人はなぜ、都合の悪いことから目をそらすのか。
    なぜ、空気に流されるのか。
    なぜ、正しさよりも安心を選んでしまうのか。
    そこを見つめない限り、本当の意味での進化はないのではないか。そんな思いが、今回いっそう強くなった。

    私の中に流れていた思考の軸

    今回の二つの記事を読んで、自分の中の思考軸が少し固まった気がした。
    それは、「人間の愚かさを理解しないと、人間としての進化はないのではないか」ということだ。

    進化というと、技術の進歩や知識の蓄積を思い浮かべる。けれど、どれだけ便利な時代になっても、人間の弱さそのものが消えるわけではない。むしろ便利さや情報の多さが、新しい同調圧力や分断を生むことすらある。だからこそ、過去の歴史をただ知識として知るだけでは足りない。その中にある弱さ、恐れ、保身、沈黙、そして愚かさを、自分の問題として感じ取ることが大切なのだと思う。

    高校生の感想文には、歴史を自分事として引き受ける若さならではの鋭さがあった。
    一方で今の私には、長年の読書や新聞、映画や芸術、そして自然に触れながら積み重ねてきた時間の中で、人間とは何かを問い続けてきた感覚がある。若い感性には若い感性の力があり、年齢を重ねた視点にはまた別の重みがある。今回私は、その両方の価値を感じた。

    高校生の感想文に教えられ、新聞記事に背中を押され、7年前に読んだ一冊が、今の自分の中で静かによみがえった。
    それは単なる懐かしさではなかった。
    過去の読書が、今の自分の問いとつながった瞬間だった。

    本は、読むたびに同じではない。
    読む自分が変われば、本もまた違う顔を見せる。
    そして時には、一度読み終えたはずの本が、何年も経ってからもう一度、自分の生き方や考え方を照らしてくれることがある。

    今回よみがえったのは、本の内容だけではなかった。
    自分がこれからも大切にしたいと思う、ひとつの軸だった。
    負の歴史から目を背けないこと。
    人間の愚かさを忘れないこと。
    そして、それを「昔の誰かの話」で終わらせず、自分の中にも同じ危うさがあると認め続けること。

    その姿勢だけは、これからも失いたくないと思っている。

  • うまく言えない気持ちが、言葉になる喜び | 2026.03.06

    自分の変化を言葉で見つめ直す時間

    心野そらさんの『noteで始めるAIジャーナリング』を読んで、私はとても強く共感しました。
    というのも、私はこの2年ほどnoteに文章を書き続けてきて、その中で自分の心の動きや考え方の変化を、少しずつ残してきたからです。

    書いたその時には気づかなくても、あとから読み返してみると、「あの頃はこんなことを考えていたんだな」「この時期を越えて今の自分があるんだな」と、自分の歩いてきた道が見えてきます。noteはただ文章を投稿する場所ではなく、自分の物語を少しずつ紡いでいく場所なのだと、改めて感じました。

    特に印象に残ったのは、自分の文章を通して、自分の変化を振り返ることができるという点です。人は毎日少しずつ変わっていくのに、その変化は意外と自分では見えにくいものです。でも、言葉にして残しておくことで、その時々の迷いや喜びや気づきが、あとから確かな形になって立ち上がってきます。私はそれが、noteの大きな魅力だと思っています。

    「スキ」は評価ではなく、受け取ったよという優しいサイン

    この本を読んで、もうひとつ深くうなずいたのが、noteの「スキ」という機能についての考え方でした。
    初めて「スキ」をもらった時のことを、私もよく覚えています。誰かが読んでくれた、自分の書いたものが誰かに届いた。その実感が胸の中にじんわり広がって、とても嬉しかったのです。

    これは単純な承認欲求という言葉だけでは片づけられないものだと思います。もちろん、見てもらえることは嬉しい。でもそれ以上に、「あなたの気持ちを受け取ったよ」と静かに返してもらえたような感覚があるのです。著者が書いていたように、「スキ」は評価というより、読んだよという優しいサインなのだと思いました。

    私は写真をInstagramにも投稿していますが、写真に「いいね」がついたり、コメントをいただいたりすると、「ああ、届いたんだな」と感じます。それは大げさな評価ではなく、ほんの少し誰かの心に触れられたという喜びです。文章も同じで、noteの「スキ」は、小さなハートマークでありながら、書く人の心を支えてくれる小さな光なのだと思います。

    だからこそ、また書こうという気持ちになれる。発信を続ける力になる。そういう循環が、noteの中にはあるのだと感じました。

    ChatGPTは思考を整理してくれるパートナーだった

    この本を読んで特に「その通りだ」と思ったのは、ChatGPTの存在についてです。
    私自身、noteを書く時にChatGPTをよく使っていますが、まさに思考を整理するパートナーのような存在になっています。

    自分ひとりで文章を書こうとすると、「これでいいのかな」「もっと別の言い方があるのではないか」と手が止まってしまうことがあります。気持ちはあるのに、うまく言葉にならない。途中で自分の文章に自信が持てなくなってしまうこともあります。そんな時にChatGPTが整えた文章を返してくれると、「ああ、自分が言いたかったのはこういうことだったんだ」と、安心しながら受け取ることができます。

    本の中にあった、ぐちゃぐちゃだった部屋を誰かに片づけてもらったような感覚、という表現もとてもよく分かりました。頭の中や心の中では確かに感じていたことが、整理された文章になることで、初めて自分でも素直に理解できる。これはとても大きな助けです。

    しかも、ChatGPTが返してくれる文章には、自分では気づかなかった視点が入っていることがあります。自分の中にあったのに、まだ言葉になっていなかったものを、そっと拾い上げてくれるような感覚です。だから私は、noteとChatGPTはとても相性がいいと思います。

    この本を読んで、「AIジャーナリング」という言葉に出会えたことも嬉しかったです。自分が続けてきたことに、ちゃんと名前があった。そして同じような思いでnoteを使っている人がいる。そのことが、とても心強く感じられました。

    今の時代は、インプットだけで終わらず、受け取ったものを整理し、自分の言葉で外に出していくことがますます大切になっていくと思います。noteはそのための場所であり、ChatGPTはそのための心強い道具です。
    この本を読んで、自分のやってきたことは間違っていなかったのだと感じることができました。これからも、自分の気持ちや変化を言葉にしながら、noteという場所で自分の物語を紡いでいきたいと思います。

  • 20年越しに刺さった一冊『ダッセン』 | 2026.03.05

    出会いは曖昧、でも“縁”ははっきり残った

    長岡秀貴さんの『ダッセン』は、正直「どこで出会ったのか」をよく覚えていません。
    それでも手元に残っていたのは、私の中にどこか「教育」というテーマへの引っかかりがあったからだと思います。

    読み始めたのに、途中で一度なくしました。探しても見つからず、「ああ、この本とは縁がなかったのかもしれない」と、いったん区切りをつけました。
    ところが、ある日ふっと棚の上から出てきて、何事もなかったように手元に戻ってきた。そこで私は、「本って、こういうことがある」と妙に納得したんです。

    本との縁は、こちらが握りしめるものではなく、向こうから“戻ってくる”ことがある。そんな感覚から、この読書は始まりました。


    映画が先、本が後…でも、理解は深まった

    私は今年、映画『サムライフ』をAmazonプライムで先に観ました。
    だから最初は「映画の後追いで本を読む」つもりだったのですが、実際は逆で、映画はこの本の“その後”を描いた作品でした。

    順番があべこべになったぶん、読み終えたときに「ああ、そういうことだったのか」と全体がつながりました。
    映画で見た場面が、本を読んだことで“背景が増える”感じです。理解が後から追いつくのが、むしろ気持ちよかった。

    なお題名については、映画化のタイミングの表紙に「(脱・先生)」と書かれていることを、読みながら思い出しました。
    それに加えて私は、カタカナの『ダッセン』という響きから、**「決まった道や型から一度離れてみる」**というニュアンスも重ねて受け取りました。ここは本に書かれている説明ではなく、読んでいる私の側に生まれた感覚です。


    読後に残ったのは、静かな前向きさだった

    物語の中心にあるのは、「人と同じようにできない」「枠に収まれない」子ども時代の苦しさでした。
    けれど暗さだけではなく、本人が自分をどこか冷静に見ているところが印象に残りました。自分の行動も、学校の理不尽さも、「これでいいのか」と考える目が消えていない。だからこそ、先生との出会いが“叱って直す”ではなく、“人生の向きが変わる出会い”になっていくのだと思いました。

    私は、長岡さんのようなやんちゃな子ども時代ではありません。
    それでも読み進めるうちに、「自分も似た空気を見たことがある」「こういう大人がそばにいたら違ったかもしれない」と思う場面が何度もありました。

    そして、子どもや孫が身近になってから、教育の話が「社会の話」ではなく「未来の話」に変わった――この感覚とも重なりました。
    昔のやり方のままでは苦しくなる子がいる。だからこそ、寄り添える場所や大人が必要になる。読みながら、そういう当たり前のことを、改めて現実として受け取った気がします。

    20年前の本なのに、今の自分にちゃんと届いた。
    本は、読む人の“今”に合わせて意味が変わって見えることがある。今回はそれを体験しました。

    そして最後に、こう思います。生き辛さの殆どは人間関係だと言われています。言葉を持ったことで、私たちは進化した部分もある。けれど同時に、言葉のせいで、他の生物より劣っているように感じる瞬間もあります。自分の信念を相手に伝えることのむつかしさも、年々強く感じます。だからこそ本は、言葉に振り回されがちな私たちを、もう一度言葉で助けてくれるものとして存在している――そのことを改めて感じました。

  • 遺伝で決まる?…だからこそ、環境を動かす | 2026.03.04

    1)遺伝の話なのに、なぜか前向きになった

    安藤寿康さんの『日本人の9割が知らない遺伝の真実』を読んだ。
    タイトルだけ見ると、「遺伝で決まるんだよ」と突き放される本に見える。でも読み進めるほど、私の受け取り方は逆になっていった。遺伝を知ることは、諦めるためじゃなくて、無駄に自分を責めないためなんだ、と。

    本の中では、人の能力や性格は「遺伝」と「非共有環境(同じ家族でもそれぞれ違う経験)」の影響が大きい、と語られる。
    一方で、親の育て方や家庭の雰囲気といった「共有環境(家族を似せる環境)」の影響は、思うほど決定打にはならないらしい。

    ここは最初、正直ざわついた。
    「じゃあ、頑張ってきたことは何だったんだ」とか、「努力ってどこへ行くんだ」とか。
    でも読み終わる頃には、焦りの正体が少し見えた気がした。できない自分を根性でねじ伏せるより、伸びる場所を探した方がいい。自分に合う環境や役割を探すことは、逃げじゃなくて戦略なんだと思えた。

    しかもこの本は、遺伝を“固定”として扱わない。
    年齢を重ね、いろんな環境に出会うほど、遺伝的な素質は引き出されていく。だから、遺伝子の力を引き出すには環境を変えることが重要だ、と。
    「どんな遺伝子を持って生まれるか」「どんな環境に出会うか」は運。でも、出会いに行く方向は変えられる。私には、ここが一番の救いだった。


    2)学校は「頑張れ」で済ませすぎている気がした

    本の中に「かけっこ王国」の比喩が出てくる。短距離走だけで人の価値が決まる国。速い人は称賛され、遅い人は劣等感を抱え続ける。
    これは笑い話ではなく、今の教育や社会の構造を説明するための話として刺さった。

    現代は、抽象的な思考や知識処理みたいな“頭の使い方”が、ほとんど全員に求められる時代になっている。産業革命、コンピュータ、ネット。便利になったぶん、知的な処理が前提の世界になった。
    教育が広がった結果、能力差が見えやすくなる。見えやすくなると、何が起こるか。努力不足で片づけられる人が増える。

    時間もお金も才能も、誰もが無限に持ってるわけじゃない。限りがある。
    なのに学校は、同じカリキュラムを同じテンポで走らせて、ついて来れない人に「落ちこぼれ」の烙印を押してしまう。
    結果、学ぶべき大事な知識より先に、不要な劣等感だけが残って卒業してしまう。私はこの部分を読んで、「本人の問題」というより「設計の問題」だと感じた。


    3)私が一番持ち帰ったのは「比較優位」と「旅」だった

    本の流れの中で、堀江貴文さんの「修行は無意味」的な発言が議論になった話にも触れていた。寿司だって、数ヶ月で基礎は学べる、と。
    確かに、それも一理ある。けれど著者はそこで話を終わらせない。そこは仕事の“入り口”にすぎない、という。

    寿司を握る技術だけではなく、客との会話、店の空気づくり、店全体のプロデュース、複数の職人のマネジメント。
    仕事とは、ひとつの技ではなく、いくつもの要素の塊でできている。
    だからこそ著者は、突出した才能がない人が「人と比べて強い」と言える水準まで技能を高めるには、数年単位の時間が必要だと述べる。私はこの考え方に賛同した。現場の仕事ほど、技術の外側で差がつくのを何度も見てきたからだ。

    じゃあ、得意がはっきりしない人はどうすればいいのか。
    ここで腑に落ちたのが、比較優位という考え方だった。絶対的に得意がなくてもいい。これまでの経験の中で、「好きだ」と感じた方向に時間を置いていく。それが比較優位になる。
    そして比較優位は、環境や集団を変えれば「ローカルな絶対優位」になり得る。自分を責める前に、場を動かす。私はこの視点を、人生の現実的な手段として持ち帰った。

    最後に出てくる「人は死ぬまで旅をし続ける」という言葉も、強く残った。
    子どもだけじゃない、大人も同じ。遺伝で未来を止めない。年を取るほど、素質を引き出す行動を“楽しく”積む。
    環境を変える。本を読む。素敵な人に会いに行く。芸術に触れる。
    この本は、遺伝の本なのに、結局は「自分の人生を動かす本」だった。

  • 「捨てるために働く」から抜け出したい | 2026.03.03

    「労働が罪」という挑発に、まず“現実”が追いついてきた

    『労働なき世界:労働だけが罪であり、余暇だけが世界を救う』――タイトルからして衝撃的だった。労働が罪? さすがに言い過ぎだろう、と思いながら読み始めたのに、読み進めるほど「笑えない」と感じた。
    なぜなら、私たちは“必要だから作る”のではなく、“売るために作りすぎて、捨てる”社会に深く入り込んでいるからだ。食料も、服も、日用品も、広告も。捨てられる前提の生産のために、労働も資源も化石燃料も積み上がっていく。気候変動の話になると「それっぽい処方箋」が並ぶのに、肝心の“作りすぎ”には触れないまま、という違和感も残る。

    労働は「富を生む」より「富を移す」ゲームになっていないか

    著者の主張で刺さったのは、「無意味な労働の多くは、富を生むのではなく、都合よく富を移すためにある」という見立てだ。営業や社内政治、手続き、評価制度――もちろん全部が悪だとは言えない。けれど現代は、「良いものをつくる」より「大したことのないものを、良さそうに見せる」方向にエネルギーが吸い取られていないか。
    さらに著者は、実力主義が“金=道徳”の顔をして人を裁く構造も暴く。金がないと、まるで努力も価値もないかのように見られる。でも、現実には家事やケアのように高度で社会に不可欠な仕事が、十分に金に換算されていない。エッセンシャルな仕事ほど「活躍していない」と扱われる倒錯。ここは、強い言葉の本だけれど、見ないふりをしにくい痛点だと思った。

    余暇は“生産性のため”じゃない。まず「無意味」を削るためにある

    著者はニートを称賛するような調子で、「稼ぐことは後ろめたいくらいでいい」とも言う。ここは正直、私は全面賛同できない。社会や会社は、明日の支払いも現場の責任もある。
    ただ一方で、私が賛同したのは「過剰な労働は、人類や社会を良くしない」という一点だ。人は“にんじん”がなくても、意味のある貢献をしたくなる。誰かと食卓を囲む喜び、招く側の満足、助け合いの手触り。そういうものは、稼ぐための競争からは生まれにくい。
    だから私の結論はこうなる。「労働ゼロ」を夢見るより、まず“捨てるための生産”と“意味のない手続き”を減らすこと。余暇は生産性を上げる道具ではなく、人間の感性とやさしさを正しく循環させるための土台だ。
    この本は常識外れに見える。でも、常識の側がすでに無理をしている時代に入っているのだと思う。読後、私は「働き方を変える」より先に、「何のための仕事か」をもう一度問い直したくなった

  • 正解の言葉が増えるほど、自分の声が遠くなる | 2026.03.03

    1)言語化ブームの正体は「察して」が通じにくくなったこと

    日経新聞の「何でも『言語化』する社会」という記事を読んで、私は少しだけ胸の奥がざわついた。安心と焦りが同居していたからだ。
    安心は、言葉にできず飲み込んできた気持ちや考えが、「言葉にしていいもの」として社会に受け止められ始めていること。焦りは、その流れが「うまく言える人が強い」という新しい競争を生み、言葉が“武器”になりやすい時代を加速させていることだった。
    SNSが当たり前になり、短い文章で素早く誤解なく伝える力が求められる。以前なら「あうん」で通じた場面が、今は通じにくい。だから人は、関係を壊さないために、呼吸のように言葉を探している。記事が示す「言語化本」の増加は、その渇きの裏返しに見えた。

    2)言語化は“うまさ”ではなく「温度」を運ぶ工夫

    記事は同時に、言語化のハウツー化への警鐘も鳴らしていた。言語化は魔法ではなく、試行錯誤の積み重ねでしか身につかない。私はこの点に強くうなずいた。
    写真を撮るときも、仕事で提案するときも、「見せたいもの」より先に「伝わる形」を探してきた。構図を決めるのも、言葉を選ぶのも、結局は相手の視点を借りる作業だ。だから言語化とは、頭の中の整理だけでなく、気持ちの温度を落とさずに相手へ届ける工夫だと思う。
    ただ、整った言葉は安全な反面、温度が薄まる危うさもある。正解の言い方が増えるほど、自分の言い方が失われる。だから私は、結論を急がず「いま何を感じたか」を一行添えたい。うまさより誠実さ、速さより温度。たった一行の本音が、文章を“情報”から“体験”に変えてくれる。

    3)読書とAIで、言葉を「自分の声」に戻す

    読書家として見ると、このブームは「アウトプットへの渇き」にも見えた。読んだだけでは心は満ちても形が残らない。書くことで初めて、曖昧な感情が輪郭を持つ。けれど輪郭を急ぐと、言葉が結論に寄り過ぎてしまう。私が好きな物語は、結論より途中の揺れを大事にしていた。言語化とは、揺れを切り捨てる作業ではなく、揺れを抱えたまま相手に渡せるサイズに整える作業なのだろう。
    AIは、その整えを手伝ってくれる頼もしいパートナーだ。散らばった思いを並べ替えると、筋道が立ち上がる。でも最後の一文、最後の息遣いだけは自分の手で置きたい。言語化は、誰かを説得するためだけでなく、自分が次の一歩を踏み出すための道しるべでもあるからだ。ブームはいつか去るかもしれない。それでも私は、言葉を磨くことを、明日の仕事と作品づくりの礎として続けたい。言葉は、私の暮らしと仕事の両方を照らす灯りなのだから。

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